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文明が間違っている

 私たちの人格は二重構造になっているのです。常識、知識という面と、潜在意識として植えられている魂の本性と二重構造になっているのです。

 現代文明は常識、知識の面、生活している面しか取り上げていないのです。人間の半分だけしか見ていないのです。

 その結果、現在の人間の本性が半人前になっているのです。これは学問の根本的な間違いです。

 現在の学問はいわゆる専門学でありまして、これは人間の生活に関する知識だけなのです。教育についての基本概念とか、政治経済はもちろんですが、形而上学に関するものでも、人間の顕在意識しか取り上げていないのです。

 これは文明ではありません。半文明です。

 皆様は文明に協賛していて、文明に引きずられているのです。だから人間の命については何も分からないのです。生活だけしか考えていないのです。学問がそうなってしまっているからです。

 学問は生活のことしか教えないのです。学理学説としかつめらしいことを言いますが、人間が肉体的に生きているということしか言わないのです。人間の顕在意識という上っ面のことしか見ていないのです。これが白人主義の文明の根本的な間違いです。

 大人の皆様は特にこの傾向が強いのです。子供には生まれながらの潜在意識が、幾分か残っています。大人は理屈ばかり考えているのです。利害得失ばかりを考えているのです。

 文明と言いますけれど、ただ人間の肉体生活を豪華にしているだけです。もちろん人間の肉体生活は必要ですが、人間は肉体的に生きていることだけが人生ではないのです。人格的に生きていることが人生です。

 人間は顕在意識的な人格と、潜在意識的な人格と二重構造になっているのです。文明は顕在意識の面、人間の常識、知識の面しか考えないので、人間の半人前しか考えていないのです。半人前の人間が大きくなったのが大人です。

 ところが、大人になればなるほど人格が歪んでしまうのです。これは文明のせいです。皆様が悪いのではないのです。

 文明が悪いからと言って、文明は一切責任を負いません。皆様の命の責任を毛頭負わないのです。結局文明に引きずられている皆様が、ばかを見るのです。

 文明が間違っているために、世界中の人間は全部殺されてしまうことになるのです。これは恐ろしいことです。これは原子爆弾ぐらいの被害ではありません。

 広島に投下された原爆によって十四万人が死にました。その後多くの人が原爆の後遺症で死んでいきましたが、せいぜい数万人くらいです。文明の間違いは人類全体を皆殺しにしてしまっているのです。

 これを黙って見ていられないので、色々な本を書いて警告しているのです。現代文明は間違っている。白人文明は根本から間違っているということを言わなければならないのです。

 ところが、私の警告をまともに聞く人がほとんどいないのです。本当に、白人文明の間違いを考えられる人は、めったにいないのです。

 文明の悪さを明確に認識しなければ、死後において非常に大きい苦しみにあわなければならないのです。この世を去るだけなら、おいしいものがたべられなくなるとか、家族に会えなくなるとか、テレビが見られなくなるということだけですけれど、その後に魂の裁きが待っているのです。

 この世を去るだけなら眠るのと同じことですから、大したことはないのですが、その後に魂の審判が待っているのです。その結果、大変なことが待っているのです。

人格は二重性

 皆様の人格は二重性であって、一重性ではないのです。魂としての潜在的な能力と、人間としての顕在的な能力と二重性になっているのです。魂としての潜在能力が開かれていない人は、すべて処罰されるのです。その霊魂が徹底的に裁かれるのです。

 これについて般若心経は全く触れていないのです。だから、般若心経と共に、宗教ではない聖書を勉強しなければならないのです。

 般若心経は五蘊皆空と言っています。空というのはすばらしい言葉です。現在の世界の文明にとって一番必要なことは空です。ところが、人々に空観が全然分かっていないのです。

 般若心経は空観を説いています。これだけでも全世界の人々に推奨する値打ちがあるのです。

 ところが、般若心経にはもう一つ迫力がないのです。「観自在菩薩が深般若波羅蜜多を行ずる時に、五蘊は皆空であると照見して、一切の苦厄を度した。三世の諸仏も、般若波羅蜜多によるが故に、無上の悟りを得た」と言っているのです。

 無上の悟りを得たと言っていますが、空だけではだめです。人間の業が空になったとしても、人間の命が生きているという実があるのです。この実はどういうものか。この説明を誰もしていないのです。

 空を掴まえたことはいいのです。無上の悟りを得た人はいいとして、掴まえなかった人はどうなるのか。これについては般若心経は述べていないのです。これが般若心経の欠点です。

 日本の仏教は死んでから人間の命がどうなるかについて説明ができないのです。生きている人間についてごたごた言っているのです。

 死んだら人間はどうなるのか。人間の魂の運動について全く説明できないのです。親鸞も道元も一遍上人でさえも、死んだらどうなるかが全然分からなかったのです。

 現在生きていらっしゃる皆様には、死なねばならないという運命が厳然として待っているのです。避けることも、伸ばすことも、ごまかすこともできない、死なねばならないという運命が待っているのです。これをどうするかです。

 これには般若心経だけではだめです。日本の思想には人間人格の顕在性と潜在性の両面に係わる認識が全く存在していないのです。

 日本には般若心経があるのです。ところがアメリカやヨーロッパにはありません。彼らは生きている間のことしか考えていません。生きている間しか分からない人々が、文明の指導をしているのです。この文明に世界中の人が振り回されているのです。白人の学問を有り難く拝受する以外に方法がないのです。これが日本人の哀れさです。

 日本という国柄をよくよく考えれば、そんな貧弱な国ではないのです。ところが、明治以来の日本は顕在的に生きているという方法だけで、引きずり回されているのです。

 ユダヤ人という指導民族に鼻面を取って引きずり回されているのです。

 日本は全世界の文明を指導する力を持っていない。だからユダヤ人に引きずられるしかないのです。これは日本だけではない。ユダヤ人以外の国は皆そうなっているのです。

 人間がこの世に生まれてきたということがカルマです。業(ごう)です。これをクリアしなければ本当の幸福はないのです。ところが白人文明はこの世に生まれた人間をそのまま肯定しているのです。そのために人間のカルマをいよいよ太らせることになるのです。

 もう一度言いますと、人間がこの世に生まれたということが業です。この業を果たさなければ人間の魂は安心できないのです。

第一の死と第二の死

 業を果たさずに死んでしまった人は、必ず第二の死、つまり永遠の死に与るのです。第二の死は第一の死とは全然違います。第一の死は肉体的に生きている人間が現世を去ることです。第二の死は霊魂が徹底的に裁かれることです。分厘までも償わなければ決して許されない裁きです。

 宇宙の鉄則によって、人格の基本原理が裁かれることになるのです。これを日本人は全然知らないのです。

 この世に生まれてきた人間は罪人です。この世に人間が生まれてきたことが罪です。罪人として人間が生きているのです。罪人である人間をやたらに幸福にしようと考えて、文明を造っているのです。だから罪人である人間がいよいよ傲慢になるのです。

 「我は富みかつ豊かにして貧しいことはない」と言いたいのです。お金はありますし、物は豊富にあるのです。文明が盛んになればなるほど、人間の心がふやけてしまうのです。これが白人文明の大欠点です。

 この大欠点を指摘する人が全くいないのです。宗教も全く知らないのです。霊のことを色々言いますが、現世に生きている人間の都合の良いことばかりを言っているのです。

 現世に生きている人間の都合が良くなればなるほど、地獄の刑罰が大きくなるのです。第二の死を日本人は全く知らないのです。ばかなことです。キリスト教ではない本当の聖書があるのですが、それを知ろうとしていないのです。これは第一に日本の宗教家が悪いのです。

 宗教家は泥棒よりももっと悪いのです。キリストの名においてキリストに反抗しているからです。これは最も悪いことです。神に最も憎まれているのはキリスト教です。

 私はキリスト教ではない聖書を提唱しているのです。キリスト教ではない本当の聖書を受け取ろうと思えば、五蘊皆空は当たり前のこととして受け取れるような人になって頂きたいのです。

 皆様の人格は顕在的な人格と潜在的な人格の両方になっていますから、魂という潜在的な面を考えて頂きたいのです。

 性の問題は人生の根本的な問題です。しかし、この問題は根本的な問題であるに違いないと思っていながら、その問題の真相に触れることを、皆回避しようとしているのです。

 これは肉体人間の必然的な弱点であろうと思われるのですが、弱点であるからこそ、この問題を解明しなければならないのです。

 男の人は恋愛が分かっている人は非常に少ないのです。女の人は恋愛に関して、直感的に男性よりも深いものを持っているようです。深層意識的に確かなもの、次元が高いものを持っているようです。しかし、それを女の人は自覚していないのです。

 自分が何を求めているのか。何がセックスの理性なのかが、女の人に分からないのです。分からない状態で王子様を求めているのです。

セックスとは何か

 セックスとは何であるのか。男性はなぜセックスに心が惹かれるのかということです。これは人生勉強と並行的に行われるべき問題です。人生の中で一番大きい問題はセックスです。この問題が分からないままの状態で強引にセックスをしているのです。これは肉体的な喜びであって、本当の恋愛とは違うのです。

 日本人には本当の恋が分かる人はいないようです。人間とは何かということと、女性とは何かということと、原因は一つです。聖書を勉強しないと性という問題は分かりません。この聖書は宗教ではない聖書という意味です。

 仏教はいくら勉強してもだめです。仏典には性のことが書いてありません。書いてあっても理趣経程度のものです。理趣経は哲学的には非常に浅いものです。

 嬉しいこと、楽しいことは仏の恵みだというのは、嘘ではありませんが、仏の慈悲とはどういうことかということです。性がなぜそんなに嬉しいのか。感謝感激に感じるのはなぜかということです。これは人間存在の非常に深い問題であって、これを男性は勉強しなければならないのです。

 男性が女性に惚れるとしますが、惚れるとはどういうことなのか。その時女性に対する見方が非常にオーバーになっているのです。その女性が百点満点で、六十点か七十点であるとしても、男性はそれを二百点か三百点に見えるのです。なぜこんなにオーバーに見えるのかということです。そんなに美人であるのでもないし、魅力があると言えない女性でも、言わく言い難い、深い共鳴を感じるのです。深い傾倒を感じるのです。

 なぜ女性にそんなに魅力を感じるのかと言いますと、男女の関係を指すものではないのです。性というのは命の本性のようなものです。命の本性はさがと言うべきものです。さがというのは一つの命が新しい命を生み出すための重要なことです。

 命が新しい命を生み出すための最も重要な原点がさがです。これが人間には全然分かっていないのです。欧米人は偉そうに言いますけれど、命の問題が分かる人はめったにいないのです。哲学でも科学、医学でも性の問題を正しく解いている人はいないのです。

 旧約聖書を徹底的に読破するという勉強ができなければ、性の問題は分かりません。キリスト教ではない聖書の創世記が分からなければだめです。

 性というのは男と女の問題ではなくて、人と神との問題なのです。人生と神性が命のさがです。男女というのは人間の中にある二つの性であって、人間関係だけで考えると男と女の問題になるのですが、命の根本問題に溯って考えますと、人性と神性の問題になるのです。

 男性が惚れている女性を見ると、実際の女性の五倍くらいオーバーに見えるのです。完璧無類のすばらしい女性に見えるのです。その女性と結婚して普通の夫婦生活をしますと、必ずがっかりすることになるのです。こんなはずではなかったと思うでしょう。また女性の方も、男性に対してこんな人ではなかったはずだと思うでしょう。

 恋愛結婚は破綻する確立が高いと言われています。これは結婚する前に、相手を買い被りすぎるからです。男性は女性を買い被る。女性は男性を買い被るのです。この買い被るという言葉を日本語では、惚れるというのです。一万円くらいのものを、五十万円とか百万円に買い被るのです。

 なぜ買い被るのか。その理由は何か。買い被らなければならない原因があるのです。それは何かと言いますと、男性は女性のバックボーンに神を見ているのです。惚れたという女性がまた、男性の中に神がいるのを感じているのです。

 惚れるとか惚れられるとかいう問題は肉体人間の問題ではなくて、魂の問題になるのです。恋愛と魂の関係を、現在の日本人は全然勉強していないのです。恋愛が好きなくせに恋愛を全然勉強していないのです。

 初恋でなくても、初恋に近いような清純な感覚で恋愛感情を持つようになりますと、相手のバックに神が立っていることが分かるのです。女性の後ろに神が立っているのです。だから、実際の女性よりも何十倍もすばらしく見えるのです。男性が女性に惚れるというのは、男性が神を求めているという証明になるのです。

 恋ができないような人は、神を求める資格がないのです。だから恋をしたらいいのです。恋とは何かということを勉強してから恋をするのです。

 こいうことを今まで述べた人が日本人にいなかったのです。恋愛至上主義は実にレベルが低いのです。

 恋愛というのは霊魂の問題であることを、まず知って頂きたいのです。こういう問題を勉強している男性は、真実の命の勉強をしているということを、女性にいう必要があるのです。真実と命の勉強の一つとして、またその糸口として女性を好きになったと言うべきです。こういうことを女性にお話しになれば、女性もだいぶ変わってくるでしょう。

 男女の問題はとても大きい問題です。親鸞上人は性の問題で困ったのです。セックスが分かっていなかったのです。自分のセックスの熱情に困ったのです。性的な情熱を持て余して困った。当時の仏教者はセックスをしないのが当たり前だったのです。これが日本の仏教の不文律になっていたのです。親鸞はそれを破ったのです。

 このことを親鸞は悔やんだ、悔やんだと何回も言っているのです。歎異鈔の初めの方で、「自分は地獄一定の身であって、いかなる行も及び難き身である。どんな荒行をしても自分は極楽往生できそうにもない。だから地獄一定だ」と書いているのです。

 親鸞がなぜ地獄一定の身であると考えたのかと言いますと、セックスのためです。正直な人間であればあるほど、セックスに対する自分自身の情熱について業が深い人間だと思うのです。業が深ければ深い程、それを裏返すと非常に深いセンスを掴まえることができるのです。普通の人間の常識や知識では分からないことを教えられるのです。

 業の深さについては大乗仏教では全然説明していません。人間が造られたこと、人間創造の原理が仏教にはないのです。男と女はどういう関係で始まったのかということが分からないのです。

 旧約聖書に、「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」と書いているのです(創世記1・27)。天地万物を治めさせるために、神のかたちのように人を造ったとあるのです。

 神のかたちに創造し、男と女とに造ったとあるのですが、このことが世界中の宗教家に分からないのです。学問でも分からないのです。命を勉強していない人には分からないのです。男と女についてはこのくらい深い問題なのです。

 男と女が造られたことを、神のイメージのように造ったと書いているのです。男と女が存在すること自体が、神のイマジネーションなのです。これがすばらしいのです。だから、恋愛の真相は神が分からなければ分からないのです。だから、女の価値は何であるのかが、普通の考えでは分かるはずがないのです。

 欧米人はこのことがよく分からないために、日本の文学が分からないのです。近松門左衛門が、「曽根崎心中」「心中天網島」などの心中物を描いていますが、なぜ日本人は心中するのかが分からないのです。

 セックスは非常に難解なものですが、またすばらしい問題なのです。皆様はどうしてもこの難関を突破しなければならないのです。セックスの問題を本当にマスターしなければ、命のことは分からないのです。

 パウロはなるべくなら結婚しない方が良いと言っていますが、これはどういう意味かと言いますと、セックスの問題があるからです。セックスは禁じなければならない。しかし禁じてはいけないのです。なぜなら、セックスは人間の本能性、官能性だからです。

 官能という言葉はセックスに用いられる場合が多いのです。しかし、官というのは欲望なものかと言いますと、そうではないのです。官というのは司る、しめくくるという意味です。人の面倒を見るという意味です。人の世話役の中心になるという意味でありまして、人間の本能性、または性能性の世話をやくこと、本来あるべき状態の世話をやくというのが官能になるのです。

 皆様が現在生きておいでになりますが、この命の存在を官能性と言うのです。性というのは生まれる前の命の中心テーマになるのです。

 皆様は現在生きていらっしゃることだけではなくて、生まれる前の命があったのです。そうして現在の命があります。また、死んだ後の命が必ずあるべきだというのです。

 過去の命があったし、現在の命があるし、また将来の命があるべきです。過去と現在と未来にわたる全体的な形で人間の命が繋がっていますので、現在肉体を持っている人間だけの立場から考えますと、生命の本命に関する捉え方はできません。

 現在生きているということの中に、生まれる前の命があるのです。また死んでからどこへ行くのかということも、現在の命の中にあるのです。

 このように現在皆様が生きているということを中心にして、過去の命と現在の命、将来の命、未来の命を捉えるというお気持ちが必要です。これが魂の勉強のしかたです。

 官能とか本能の本当の持ち味は何かと言いますと、欲望性ではないのです。本能的欲望と考えるのです。本能を欲望のように考えてしまうからそうなるだけのことです。

 ところが、性の問題はただの欲望とは違うのです。欲望と純粋な本能とはどう違うのかという問題です。現在の日本社会では、これが冷静に判断されて説かれているということが全くないのです。

 性教育の本当のしかたを、今の日本の教育者は知らないのです。性の本質が分からないからそういうことになるのです。学校での性教育は生殖行為についての立場からだけしか説明しないのです。いわゆる雌蕊雄蕊の問題を説明しているのですが、セックスの問題は生殖行為のような、いわゆるメカニズムの問題ではありません。そんなうすっぺらな問題ではないのです。

 精神的な問題ですが、魂という問題であるために、性に対してこんなに強い気持ちを持つのです。いわゆる慕情という気持ちがあるのです。憧れの気持ちがあるのです。場合によっては自分の命も、仕事も家庭も棒に振ってもよいという気持ちになるのですが、どうしてこういう気持ちになるかということです。

 これは生殖行意という単純なことではないのです。日本人は人間に対する勉強ができていませんから、大学では性の問題は一切棚上げにして教えないことにしているのです。分からないからです。

ユダヤ主義

 分からないように仕向けているのがユダヤ主義です。ユダヤ主義というのは現象における人間の生活しか取り上げないのです。精神の問題、命の問題、魂の問題をユダヤ的な学問は取り上げようとしないのです。

 今の大学で教えているのはユダヤ主義の学問ばかりです。現世における人間の生活についての学問は教えているのですけれど、性に関する学問はありません。だから分からないのです。

 学問の中になくても、皆様の肉体を通してセックスの仕方をよく知っているのです。今の学問を信用しないで、自分自身が生きているという事実を通して、魂の問題、性の問題を勉強して頂きたいのです。

 皆様はまだまだ勉強が足りないのです。人間は学問で考えているような単純なものではないのです。永遠の問題なのですから、学問では分からないのです。

 パウロはなるべく結婚をしない方が良いと言っています。結婚が悪いと言えば結婚を妨害することになるのです。本能性を妨害すると言われるに決まっているのです。だからやむを得ず結婚は認めてもいいとなるのです。

 認めてもいいですけれど、相手が難しいのです。なぜかと言いますと、性の魅力は非常に強く深いのです。なぜそんなに強くて深いかと言いますと、性の背景に神がいるのです。そこで実物の三倍も五倍も相手を買い被ることになるのです。

 本当に好きな女性ができますと、その人に没入してしまうのです。そうすると、霊魂の問題をおろそかにしてしまうのです。この恐れがあるので、パウロは独身の方が良いと言っているのです。

 本当に好きな人ができますと、神よりも好きになるのです。特に女性の場合には本当に尊敬する男性を発見しますと、その人が神のように感じられるのです。その人は神を求めるのをやめて、男に走ってしまうのです。そういう危険性が十分にあるのです。

 魂の問題であるよりも、相手の方が大切であるように思い込んでしまうのです。永遠の命の問題を棚上げにして、今、目の前の性の喜びにひたってしまうという弱点が人間にはあるのです。このことを言っているのです。だから結婚はなるべくしない方が良いとパウロが言っているのです。

 もしどうしても結婚したいのなら、神の勉強を真剣にしている者同士がして頂きたいのです。

 また別の言い方もしています。例えば夫婦になってからどちらか片方の人が聖書の勉強を始めたら、今さら夫婦別れをする必要はない。その場合には、もし妻が夫の信仰に同意できない場合にはどうするか。また妻が勉強することを夫が同意できない場合にどうするかということも書いています。しかしこれは非常に難しい問題であると書いているのです(コリントへの手紙第七章)。

 こういうことについてキリスト教は詳しい説明は致しません。パウロの結婚観については説明します。信仰の妨害になるかもしれないから、十分注意しなさいというくらいのことは言っています。けれどセックスの深さとは何かについては説明できないのです。これが分からないからです。

 性の喜びの本質は何なのかということです。これは霊の喜びなのです。これが宗教では分からないのです。牧師もお坊さんもこの問題は鬼門金神であって触れようとしないのです。

 宗教では人間の命が具体的にマスターできていないから説明ができないのです。命が分からなければ性は分からないのです。

 昔から英雄は色を好むと言われていますし、聖人も君子も好むのです。親鸞は聖人と言われていますけれど、色を好んだのです。とにかく人間としての香りが高いほど、性的情熱性が高いのです。

 セックスについて肉欲的な情熱があればあるほど、魂の情熱性もあるのです。肉と霊は同質のものです。肉的に興奮できない人は霊的にも興奮できないのです。

 親鸞のような人、また道元のような人は霊的に興奮した人でしょう。だから肉的にも興奮の度合いが高かったと言えるでしょう。また、それだけに性という問題の取り扱いが難しいのです。

 性についての情熱が肉的な感度においてだけほとばしることになりますと、その人の一生を誤ることになるのです。といって、性の興奮を抑えることがなかなか難しいのです。

 性の経験がその人の霊魂の完成という大きい問題に結びついて、どのように働いているかということがはっきり分からなければいけないのです。

 セックスの問題は非常に危険な問題です。危険な問題であるだけに、この事がらの真髄に触れますと、命の根源をはっきり掴むことができるのです。神の実物を掴まえることができるのです。

 人間は自分が生きていると思っています。命は自分のものだと考えています。この問題と性の問題とは、重大な関係があるのです。自我意識とセックスの問題は重大な関係があるのです。根本で結びついているのです。

 自我意識がどうして人間に発生したのか。人間は分からないのです。人間は誰も自分が生まれたいと思って生まれたのではないのです。生まれたいと思って生まれたのなら、命は自分のものだと言えるかもしれないのです。しかし、この場合でも命が自分のものだと断言はできないのです。目や鼻、口、肺や心臓を自分で造ったのではないからです。

 皆様は生まれたいと自分で思ったことはないのです。自分でそう思ったことがないどころか、生まれたという時点をはっきり確認していたのではないのです。両親に、あんたが生まれた時は暑い日であったとか、冬の寒い日であったと言われて、ああそうなのかなあと思うだけです。聞き伝えの記憶があるだけです。本当は皆様が自分で生まれたということを経験していないでしょう。ところが皆様は自分が生きていると考えているのです。

 命は自分のものだと考えているのです。なぜそのように考えるのでしょうか。この命は自分のものだ。自分が生きているのだとはっきり思っているでしょう。この思いは根本から間違っているのです。これがセックスの問題と重大な関係があるのです。

 これについては宗教家も哲学者も全然分かっていないのです。旧約聖書の創世記が分からないと、説明ができないのです。

 皆様は命が自分のものだと考える理由はどこにもありません。ところが、皆様は自分が生きていると勝手に思っているのです。こういう独断、独りよがりの考えが、どうして皆様の心の中心にあるのでしょうか。

 自分が生きていると思っているという考えが、人間の迷いの中の最も大きいものです。自分が生きていると思っているから、自分が死ぬのです。もし自分が生きていると思わなかったら、自分が生きていないから、自分は死なないのです。

 自分が生きていると思っているから、自分が死ななければならないのです。もし自分が生きていると思わなかったとしたら、死ぬべき自分はいないのです。ここが般若心経の難しいところです。五蘊皆空、般若波羅蜜多とはこのことです。このことと性の問題、セックスの問題とは重大な関係があるのです。これは全く人間存在の秘密です。

 女性の性感は男性より鋭いし深いのです。女性の性感は男性の数百倍もあると言われているのです。これは人間が神のかたちのように造られたということ、男と女とに造られたということと、重大な関係があるのです。

 女性の感度というのが、本来的にどういう意味かということです。これは人間の魂の感度というものが、神に対してどういうものであるべきかということの典型です。男性の感度よりも女性の方が高いというのは、人間の魂の本性は神から見たら女性になるのです。

 例えば、皆様の肉体の生命は、皆様ご自身の力だけで保っていけるものではありません。皆様は空気を造った訳でもないし、水を造った覚えもないのです。ところが、皆様は大自然から毎日空気や水を補給されて生きているのです。

 従って、皆様の生存条件を考えましても、皆様の力によるものではないのです。これは明らかなことです。これは神が皆様の魂を愛している証拠になるのです。

 魂ということを簡単に申しますと、皆様の理性が肉体的に生きているということです。魂の本性は非常に強く神に憧れているのです。

叶わぬ時の神頼み

 例えば、「叶わぬ時の神頼み」という言葉があります。突然の災難でどうにもならない時には、思わず「神よ助けたまえ」と言うでしょう。例えばこの瞬間に大地震が起きたら、思わず神よ助けたまえと言うでしょう。これが人間の霊魂の潜在意識というものです。自分が神を知らなくても魂が神を知っているのです。

 人間がどうにもこうにもできない状態になったら、思わず「神よ」と叫ぶのです。これが人間の霊魂の本性です。人間の霊魂の本性は、神に対してどういうものであるのか。つまり人間の霊魂は神に対して女性なのです。

 人間の命の本質は神に対する女性なのです。これが人間の魂の本質であって、人間が学問を勉強するのも、学問を通して神を知りたいと思っているからです。お金を儲けるとか、健康を増進したいとか、色々な形で完全性を求めているのです。完全性の本体は何であるかというと、永遠の命です。永遠の命が神です。男性が女性を求めるというのも、完全性を求めるという一形態です。

 人間の恋愛感情というのは、人間の本質に非常に深い係わりを持っているのです。

 日本人は生活のことは非常に熱心ですけれど、生命の問題、命の本質に関する問題については考えないという習慣がついてしまっているのです。

 しかし、生活に非常に熱心であっても、それが果たして皆様の命の本質にどういう関係があるのでしょうか。生活に熱心であることは悪いことではありませんが、社会的に見て悪いことではないという意味です。人間の命の本質から考えますと、生活のことに熱中しすぎると、命のことが留守になるに決まっています。

 例えば、家庭の問題、結婚の問題、お金儲けの問題、名誉の問題に一生懸命になりすぎると、命のことがお留守になるのです。

 生活に熱心になることは結構ですが、命の本質に係わりがあるような熱心でないといけないのです。命の問題を棚上げしてしまいますと、生活のことばかりに熱中しすぎるということになるのです。これは現代日本の悪い風潮です。これが悪いのです。

 善とは何かと言いますと、命の本質に係わりがあるような方向で考えたらいいのです。例えば、健康であっても、お金儲けでも、学問を勉強することでも、生きていることの本質、命の本質本性に係わりがあるような方向で考えることが善です。

 人間はこの世だけがすべてではないのです。この世で生活するために人間は生まれてきたのではありません。この世で生活してみても結局は死ななければならないのです。

 かつて三十一才の俳優が自殺しました。その人の遺書に、「生きていることをもっと真面目に考えるべきであったが、私はとうとう命について真面目に考える生き方ができなかった。自分が生きていく目的を間違えたらしい。今さらそれをやり直すことができない。俳優としての生活をこれから続けていっても、自分の本当の生きるべき道に到達する見込みがないので、死んでしまうしかない」という意味のことを書いていたのです。

 この人は大した人だと思います。そのとおりです。いくら社会的に有名になっても、結局肉体的に生活しているということだけならつまらないものなのです。全くつまらないのです。目的も希望も理想もないからです。人間は必ず死ぬからです。

 俳優で売れている人でもいつか売れなくなるのです。やがて命がなくなるからです。必ず死んでしまうからです。現世に人間が生きているということは、ばかばかしいことなのです。

 生活だけしているということは本当にばかなことです。つまらないし、生きていることがとても寂しいのです。なぜこういうことになるのかと言いますと、自分の命があると思うからです。自分の命があると思い込んでいる間は、毎日毎日、知らず知らずのうちに罪を造っているからです。

 嘘を言ったり、人を憎んだり、恨んだり、人を騙したり、約束を破ったり、焼き餅をやいたり、妬んだりを毎日しなければならないのです。したくなくてもしなければ生きていけないのです。なぜこんなことをするのかと言いますと、自分が生きていると思っているからです。

菩薩

 自分が生きているから、自分が幸せになろうと思うのです。日本人的な人生観ならこうなるに決まっているのです。これが悪です。

 自分が生きているという事実はないのです。五蘊皆空と般若心経は言っているのです。般若心経は観自在菩薩の悟りであって、人間は五蘊皆空を本当に悟りますと、菩薩になってしまうのです。

 般若波羅蜜多というのは彼岸へ渡る知恵ということでありまして、彼岸へ渡る知恵を持つようになりますと、その人の固有名詞の人間が消えてしまうのです。観自在菩薩のような、観世音菩薩と言わねばならないような人柄になってしまうのです。

 これは何でもないことです。簡単なことです。自分が生きていないことが分かったら、誰でも観音さんになるのです。これは白隠禅師も言っているのです。煩悩を捨てたら皆仏なのです。煩悩を捨てたらいいのです。自分の過ちを捨てたら誰でも仏になれるのです。

 白隠禅師は仏になったということがどういうことなのかということの説明をしていないのです。これが仏教の不確実な点です。

 皆様は本当に死なない命を持っているのです。この世に生まれた赤ん坊は、死ぬべき命ではない天の命をそのまま受け継いで、この世に生まれたのです。

 ところが、物心がついたために、この世の思い、この世の習わしに従って生きたために、自分が生きていると考え込んでしまったのです。これはこの世の思想であって、現代文明の思想です。

 文明の人生観、世界観が間違っているのです。皆様の命が間違っているのではないのです。皆様は間違った人生観を呑み込んでしまったのです。これが間違っているのです。だから死なねばならないことになったのです。

 何が善で何が悪かをはっきり申し上げますと、魂のことを本当に考えることが善です。魂の勉強のために時間を使うことが善です。

 皆様は魂の勉強する以外は、生活のことが中心になっている場合が多いでしょう。魂のことを考えているとしても、これは刺身のわさびみたいなものであって、生活的に幸せになること、肉体的に幸せになることの方が大きいでしょう。これは大きい悪の上に善が乗っているという感じになるのです。

 こういうことをよくお考えになって、反対の状態にして頂きたいのです。大きい善の上に小さい悪が乗っかっているというのならいいのです。日本人の生活に対する観念を逆転して頂きたいのです。

 不安が現在の文明の基礎になっているのです。文明はこれを黙って呑み込んでいるのです。今の人間は不完全な存在です。今の地球が不完全であって、未完成です。地球は完成された物体ではないのです。

 現在の学問は地球を完成されたものとして見ているのです。現在の人間の知識が最高のものであるという仮定に基づいて考えますと、現在の地球はそれなりに完全であると言えるでしょう。

 しかし、地球が未完成であるということは、完成される可能性を示しているのです。人間が不完全であるということは、完成される見込みがあることを意味しているのです。

 なぜ人間は不安に脅かされて生活しているのかということです。地震や災害があっても驚かない人間になりさえすればいいのです。

 現在の日本社会の心理構造と宇宙構造の関係が変化するのです。人間の精神構造と宇宙構造とは重大な関係があるのです。人間の魂の意識する所が、神に直通するという大きいエネルギーを持っているのです。

 人間の精神のエネルギーというものは、計り知れない大きさがあるのです。例えば、イエスが水の上を歩いたということを、新約聖書が堂々と書いているのです。新約聖書は全世界への言語に翻訳されて、世界中どこでも認められているのです。

 新約聖書を否定している国は、現在一国もありません。日本は文明国の中で一番最後まで、新約聖書を否定していたのです。明治二十八年頃までは禁止していたのです。新約聖書を否定しないとはっきり宣言したのは、日本が一番最後でした。

 日本を最後にして全世界が新約聖書を認めたのです。それ以来、新約聖書は世界中で認められているのです。

 現在2014年であるというのはキリスト紀元でありまして、キリスト紀元というのは、イエスが地球上に誕生したことを記念してできたのです。

 イエスは死なない命を持って地球上へやって来たのです。イエスは十字架によって殺されたのですけれど、死を破って復活したのです。人間は死を破ることができるのです。

 人間が死を破ることができるということは、社会構造全体を覆すことができるし、同時に地球のあり方を変えることもできることを示しているのです。一人や二人ではできませんけれど、ある集団がそのような方向づけができるとしたら、地球の諸問題を解決することができるのです。

 もし皆様が神の実物が分かれば、命に対する考えが根本的に違ってくるのです。そうすると、天災の影響も変わってくるのです。

 生き方さえ変えてしまえば、その人の命の本質や事情境遇のあり方も変わってくるのです。神は天であり、人間は地です。天と地が一つになりますと、皆様の健康状態も精神状態も、生活状態も天と直通するようになるのです。

 これは御幣担ぎではありませんし、宗教観念でもありません。天網恢々疎にして漏らさずであって、皆様がはっきり本当の事を弁えてしまいますと、皆様は天の意志をそのまま生きることになるのです。そうしますと、災害は恐るに及ばないことになるのです。

 震度八であろうか、十であろうが驚かないのです。文明が現在のように転落してしまいますと、地震によって極端に右往左往することになるのです。

核廃絶どころか核拡散している

 核兵器の廃絶という簡単なことが、お互いの不安と疑心暗鬼のために実行できないのです。実行できないどころか、核拡散しているのです。

 今の文明は不安と不信に満ちあふれているので、核廃絶という当たり前のことがどうしても実行できないのです。アメリカもロシアも困っているのです。困っていながらどうすることもできないのです。結局、不信不安が人間文明を崩壊させることになるのです。

 こういうことがユダヤ文明のばかばかしいトリックです。

 現在の人間は地球上で生活することが人間の本分であるというばかな考え方をしているのです。こういう考えをユダヤ人が世界中に押しつけているのです。現代文明はユダヤ人の愚かな思想によって踊らされているのです。ばかなことです。

 人間の学問は絶対のものではありません。絶対的な価値を持っていないのです。

 絶対という言葉が使えるのは神だけでありまして、神だけしか言えません。神とは何かと言いますと、皆様の心臓が現在動いているということです。地球が自転公転しているということです。これが絶対です。

 これが学問では分からないのです。イエスの復活ということです。死を破ったという問題が学問で取り上げられるとしたら、世界の文明はひっくり返ってしまうのです。

 そのためにはまず世界のリーダーシップを取っている人たちが、文明の悪さをはっきり認識すべきです。世界のリーダーシップを取っている人たちが、現在の学問に惚れ込みすぎているのです。今の文明を過大に評価しすぎているのです。だから現代社会から地震を追い出すことができないのです。

 文明が悪いのですから、天災や人災が尽きないのが当たり前です。人間が悪いのです。人間の気持ちが本来あるべき状態に帰るとしたら、地震の発生もなくなるでしょう。

 私がいうことは誇大妄想に聞こえるかもしれません。お金が儲かるという話でもないし、学問的に合理性があるような話でもないのです。しかし、現代文明の欠陥をはっきり指摘する人が今の世界にいないのです。

 社会混乱の根本原因、世界政治、経済の根本原因は文明の善悪にあるのですが、これをはっきり指摘できる人がいないのです。学問という方法でユダヤ人の手玉に取られているのです。

 ノーベル賞をもらって喜んでいることが、今の文明の悪さを物語っているのです。

 人間の本性を改めるということができさえすればいいのです。私たちによって痛烈なユダヤ批判がなされているということが、天の憐れみがやがて日本に与えられるということになるのです。

 宇宙は本来、生命の本質によって成り立っているのです。生命の本質は人格でありまして、この人格の流れが天です。天をはっきり主張する集団には、天から恵みと憐れみが与えられるに違いないのです。また導きがあると思われるのです。

 問題はどうして不信や不安、矛盾が現代社会に渦巻いているかということです。文明そのものが根本的に間違っているからです。文明を組織している基本に、大きな誤りがあるのです。

 人間は現世に生きていたらいいという考え方が間違っているのです。人間が地球上に生活しているということだけが文明の目的になっていますが、これは人間の目的ではないのです。地球上に生活しているということを通して絶対真理とは何であるのか、本当の命を掴まえるために生きているのです。

 皆様の心臓が動いていることが本当の善です。心臓が動いているということの根底を人格的に捉えることができるのです。ザ・リビング(tth living)という問題がはっきり分かればできるのです。

 現在の文明は悪のるつぼのようなものです。だから一人や二人の力で文明を覆すことはできませんけれど、「愚公山を移す」という話がありますように、大きな山があっても、少しずつ取り除いていけば、やがて山を移すことができるのです。

 私たちの考えは愚公ですが、数人が努力を続けていけば、やがて大きな力になっていくと考えられるのです。

 まず私たち一人ひとりが社会悪から逃げ出すことが必要です。まず自分の世界観、価値観、人生観を変えることができるとしたら、私たちだけでも社会悪、文明悪から逃げ出すことができるのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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