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「自分を解脱する」


私たちが原則的に知っておかなければならないことは、自分が生まれてきたとか、自分が生きているという考えが、根本から間違っているということです。自分が生きていると考えると、自分が救われて、天国へ行きたくなるのです。自分が生きているというのは、人間の妄念です。  生きているということが、神なのです。神が自分のかっこうで現れているのです。自分が生きているのではありません。自分の自尊心、自分の感激などと、自分を基準にして考えている間は、宗教から離れることはできません。自分から離れてしまいますと、死なない命が見えてくるのです。  自分から解脱することについて、新約聖書には明瞭な指示がないのです。新約聖書は、本来、ユダヤ人に対して書かれたものなのです。ユダヤ人ばかりではありませんが、ユダヤ人を中心にして神の約束は成り立っているのです。  ユダヤ人の場合は、旧約聖書があり、モーセの提を千五百年の間、実行してきていたのです。その結果、イエスに出会ったのです。千五百年の間、掟によってずいぶん訓練されていたのです。日本人の場合は、何の訓練も受けていません。いきなりイエス・キリストに出会っているようなものです。これでは、本当のことが分かるはずがないのです。  自分の心を、自分で入れ替えようといくら努力しても、だめです。自分の心を自分で入れ替えようとすることが、自分の思いなのであって、これを注意することが必要なのです。自分で感激したとか、うれしい気持ちになったとかいうことを、何回経験しても、何にもなりません。それは自分の経験であって、自分という人間と、魂とは、人格が違うのです。  自分はこの世に生きている人間です。魂は、神に基づいて生かされている機能です。魂には、世間とか、国、社会、親、子もないのです。自分という人間には、親もあり、子も、国家も社会もあります。  どうしたらいいかといいますと、やはり、般若心経に基づいて、五蘊皆空を体得していくことです。五蘊皆空の中心になるものは、色蘊です。色というのは、目に見える物質状態、または、現象世界です。色蘊というのは、目で見ているような世界が、あると思っていることです。これがまちがっているのです。人間のあらゆる常識、知識、行動、記憶は、全部色蘊が基礎になっているのです。目で見ている世界があると思っていることが、迷いの根本です。これをなくしてしまわないと、神の国を見ることはできません。  神の国というのは、人の魂の本質、生きていることの実体なのです。例えば花を見ますと、花が花として見える、これが神の国です。  自分の心を、直そうと考えてもだめです。その時、その時、直ったような気がしますけれど、直っていないのです。実は、生きていることの原則が、自分ではないものなのです。自分ではないものになってしまわなければいけないのです。  自分の過ちを、謝る必要がないのです。自分が生きているという考えが、まちがっているのです。これに気づいていただきたいのです。損とか待とかいう問題ではありません。自分が救われるというおろかなことはないのです。  今ここに、生きているという命の実体が、キリストなのです。イエスなのです。これを知るためには、天地万物があるのは、どうしてなのか、目に見える世界があるのはどういうことかを、勉強する必要があります。  山がある、川があるというのは、地球現象なのです。ここが難しい所ですが、旧約聖書の創世記をよくよく見ていきますと、山がある、川があると書いていないのです。言葉があるのです。言葉が、山、川になって現れているのです。  人間の常識で見ると、山はなくならないように思えます。何万年も前から、何万年も後まで、あるように思えるのです。思えるというのが、くせものなのです。  人間の思いは、イマジネーションであって、ハートから出る思いが、心象を追っているのです。これが困ったもので、人間の精神は、一つの世界を造るのです。例えば誰かを愛する気持ちが起きますと、愛の世界を造るのです。自分の心で自分の世界を造るのです。これが心象です。  イマジネーションがあるために、人間は自分の心で、自分が騙されてしまうのです。悪いことをした、良いことをしたということも、自分がそう思うだけなのであって本当に良いか悪いかは、自分では分からないのです。  そこで、一番確かな方法は、色即是空です。五蘊皆空です。自分を解脱するのです。自分がいないことを、認識するのです。これがキリスト教では、絶対にできません。  ユダヤ人はできるでしょう。なぜかといいますと、ユダヤ人は長い間、モーセの掟で、ぎゅうぎゅうしめあげられているからです。彼らは苦しんで、苦しんでいます。だから、自分がいないことが、やがて分かるでしょう。ところが、日本人の場合は、生まれながらの状態で生きている。七十年、八十年生きていても、自分が生きていると思っている人は、絶対に神のもとへは帰れません。  新約聖書には、イエスが主であるという言葉があります。人間が生きている事実は、客観的に言えば、ナザレのイエスなのです。  すべての人間が生きている命は、一つしかないのです。神は一つ、キリストは一つ、信仰は一つです。神が一つであるように、命も一つなのです。だから、人の命の本体は、イエスなのです。神が人間のかっこうで生きているのです。生きていることは神であって、神が人のかっこうで生きているのです。これが、生ける神の子なのです。冷静に考えると、百人が百人共、千人が千人共、全部生ける神の子なのです。  これが分かりますと、固有名詞の自分、例えば山田太郎とか、加藤清正という人間がいるのではないことが分かるのです。固有名詞としての自分は、自分がいると勝手に思っているだけなのです。命の実質から考えますと、イエス一人しかいないのです。神はイエスしか認めていないのです。イエスが自分の主であることを認めない者は、神の前に出ることは一切できません。キリスト教で救われたと何回言っても、何十年キリスト教で勉強していても、絶対にだめです。教会にはキリスト教のキリストがありますが、これはキリスト教が勝手に造った理屈なのです。  自分がいるという気持ちを、解脱するのです。これは、般若心経でないとできません。般若心経によって、自分は本来いないのだということに気がついて初めて、人の子としての自分を見ることができるのです。  イエスは、自分のことを、人の子と呼んでいます。人の子とは、名なしの権兵衛ということです。全世界六十四億の人間は、一人しかいないのです。砂糖をなめたら、全世界の人間が全部、甘いと思うでしょう。これは命は一つしかないということなのです。だから、自分の命があるという気持ちを捨てなければならないのです。  これは般若心経がはっきり言っているのです。般若心経という文化財は、現在の世界の文化の中で、最もすばらしい唯一の光です。  般若心経は、自分がいない原理を、説いているのです。この原理を自分のものにしなければなりません。究竟涅槃は、自分が消えてしまうことです。自分が、冷えて消えて、なくなってしまうのです。自分という人間がいると考えることが、原罪なのです。あらゆる業のはじまりです。これを捨ててしまうのです。そうすると、悪いとか、良いとかいうことから、迷いが消えてしまうのです。自分がいないのですから、自分が救われることもないのです。  ただあるのは、私たちが生きているという事実だけです。生きているというのは、自分とは違います。英語で言うリビングが、自分というかっこうで現れているだけなのです。リビングの実質は神です。神が、自分というかっこうで現れているのです。イエスは、これが分かったのです。これしか人間の正体をつかまえる方法はないのです。  般若心経は、現在、日本だけにしかないようです。昔は、インドやミャンマーにもあったのですが、今では熱心に読んでいるのは、日本だけです。日本人は、般若心経を、欧米社会へ教えてあげなければいけないのです。欧米社会では、般若心経の受け取り方が分からないのです。  空が分らないからです。空が分からないので、自分を捨ててイエス・キリストを信じることが、どうしても分からないのです。だからバブテスマの意味が、分からないのです。  キリスト教の宗教経験は、その人の人生経験ではありますが、裁きの神の前に出られるものとは違うのです。  本当の命を見つけようと思ったら、自分が生きていることをやめるのです。私たちは、生まれたいと思ったことはないでしょう。また、産んでほしいと思ったこともないでしょう。従って、この世に生まれてきた私たちは、自分ではないのです。  生まれたいと思ったこともない。産んでほしいと思ったこともない。そうすると、今いる私たちは、自分ではないのです。ただの人の子です。ただの人間の一人です。  固有名詞は、この世に生きている便宜上のもので、名前のような人間がいると思うのは、世間の常識なのです。常識は空です。まず自分を空じるのです。これが悔い改めることなのです。心の使い方を、全く変えてしまうのです。  自分個人がいるという気持ちを、捨ててしまうのです。イエスだけしかいないということを、はっきり受け取るのです。本当の生き方は、これしかないのです。真理は一つしかないのです。日本人がどう思うとか、キリスト教がどう思うとかいうことは、どうでもいいのです。  イエスは、私を信じなさいといっている。私に来なさいといっている。イエスの中へ人ってきなさいといっているのです。自分がいたのではだめです。そのためには、どうしても、釈尊が言った空という思想、一切空を体得しなければいけないのです。  人間は、毎日罪を犯しています。「お早うございます」といっても、それがもう嘘になるのです。悔い改めるとは、罪を告白することとは違うのです。自分はいないということを、神の前ではっきり言い表すことなのです。これが水のバブテスマの中心であって、これができないものは、聖霊のバプテスマを受けられるはずがないのです。  キリスト教と本当の聖書は、違います。キリスト教のキリストと、ナザレのイエスとは、違います。ナザレのイエスは、神が生んだ一人子です。これだけを、神は認めているのです。私たちの魂は、神が産んだ一人子なのです。神の命の息を吹き込まれたものです。  私たちは、鼻から息をしています。これは神がふきこんだ命の息なのです。我々の生理機能は、神の生理機能なのです。これを経験しているのです。これが分かれば、自分から完全に解脱することができるのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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