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「月の光で月を見る」


月の光で月を見る

いろは歌に、有為の奥山という言葉がありますが、この意味は二つあるようです。有為というのは、物がある、見たとおりの物があるという考え方、いわゆる唯物論的な、または、即物論的な考えです。即物というのはものがあることを前提にして考えるのです。唯物論というのは、物だけがあると考えるのです。唯物論又は即物論というのが、近代文明の中心思想になっています。これに基づいて、学問というアイデアがつくられているのです。

近代文明、現代文明の中心が、即物、唯物なのです。現在の日本でも、この考えが中心になっています。この考えが有為です。有為というのは、目で見ているというものがあるという考え方です。

無為というのは、無が働くということです。有為というのは、有が働くことです。無が働くと物が生まれるのです。有が働きますと、物がなくなってしまうのです。死滅してしまうのです。滅亡してしまうのです。皆様が肉体があるとお考えになりますと、皆様の命が死ぬ方向へ向かって動いていくことになるのです。

例えば、お金をためようとか、家を建てようとか、不動産を買おうというのは、有為になるのです。衣食住の原則は人間の営みに必要ですが、衣食住の原則に欲望がからまってきますと、皆有為になってしまうのです。

ただ単に衣食住というだけなら、営みでありまして、欲望的な考えではないのです。生きているだけの考え方なのです。これは無為に近い考えになるのです。純粋の無為ではありませんが、無為に近いのです。

ところが欲望がからまってきますと、単なる営みではなくなって、有為に変化してしまうのです。そうすると皆様の生活の行き先は、滅亡の谷に転がり込んでしまうのです。そうなるに決まっているのです。これが自然の理です。公義とはそのような論理を意味するのです。

「かくなればかくなることと知りながら、やむにやまれぬ大和魂」という歌がありますが、これは悪く考えると、欲望魂という方向へ言ってしまうのです。これが人間の弱点です。

飲んでは悪いと思っている酒でも、飲みだすと、止められなくなるのです。人間は欲望的に非常に弱い面を持っていますので、有為の奥山という意味が良く分からなければならない。そして有為を超えてしまわなければ、皆様のお気持ちには平安がないのです。

有為の奥山今日越えてとあります。今日越えるというのは、毎日越えていることなのです。今日越えたら、明日越えなくてもいいのとは違います。

こういう感覚が皆様にはどうしても必要になるのです。なぜなら、人間は現世に生きることが目的ではなく、人間完成が目的なのです。自分の魂の本質を完成することが目的なのです。

魂の本質を完成することが、現代文明では全然考えられなくなってくる。これは困ったことなのです。現代文明では、人間完成ということが分からなくなってしまっている。考えなくてもいいように思い込まされているのです。これが現代文明の非常に悪いところです。

月の光で月をみるという自然の考え方が、まったくできなくなっているのです。第一に社会全体の風潮が悪い、第二に教育全体の概念によって、人間の思想に枠をはめてしまっているのです。人間の思想を型にはめているのです。いわゆる学問主義、教育主義という観念で、人間を縛り上げているのです。

教育が悪いというのではありません。やり方が悪いのです。こういう方法を発明したのがユダヤ人です。ユダヤ人が悪いのではなくて、ユダヤ人の世界観が悪いのです。ユダヤ人の世界観が悪いために、現代文明は完全に反魂的になっているのです。

現代文明の中心をなしているものは、白人の物の考え方です。白人の世界観が中心になって、日本人は好むと好まざるとにかかわらず、白人主義の流れについていかなければならないように仕向けられているのです。

白人主義の文明を形成してきたのが、ユダヤ人の世界観です。白人文明とはユダヤ文明のことです。そのように私たちは、知らない間に知らない方向へひっぱって行かれているのです。

日本がようやく世界に顔を出すことができた時には、白人のお膳立てが完全にでき

てしまっていたのです。日本が一番後から、お膳の尻のほうに座っていたのです。サミットの末席を汚しているだけのことです。

こういう状態はどうしても逆転しなければならないのです。日本は文明国の中でも、比較的に、月の光で月を見ることができるという建前を持っている国です。これは建前であって、本音はどうか分かりませんが、とにかく茶道とか花道を、格好だけでも言うのです。

月の光で月を見るという素直な気持ちがなければ、命の光で命を見るということはできません。皆様が生きていらっしやる命の実体を見つめるという形で、命を見るのです。このことをイエスは、自分の部屋に入って戸を閉じて、隠れたところにいる父なる神に祈れといっています。父とは大自然の真髄のことを言うのです。人間は大自然の中で生きています。これを父の内にいるというのです。月の光で月を見るということが、微かではありますが日本ではまだ通用するのです。アメリカやヨーロッパでは、全然通用しないのです。文明思想一辺倒です。科学的合理主義一辺倒で考えているのです。

こんなことでは、到底、有為の奥山を越えることはできません。奥山とは何かといいますと、二つの意味があるのです。人間が生活しているのを有為の奥山と仮定しますと、目で見ているとおりのものがあると考えること、そして、肉体的存在の自分がいると考えること、内と外の両面があるのです。外はいわゆる社会生活とか、対人関係になります。基本的人権とか、自分の自尊心が外向きの有為の奥山です。健康とか世間的な体裁も外向きになるのです。

内とは自分の命に関することになるのです。自分が生きていると思うことの実体についての考え方です。命とはどういうものか、死とはどういうものか、その中で最も大切な問題は、セックスについての問題です。外向きにいえないことは、内向きの問題になるのです。

肉体人間がいるに決まっているという考えは、社会性の問題と、内面的、精神的な問題と二通りあるのです。この両方を超えてしまうことが必要です。超えなければ、皆様の魂の本当の平安はないのです。

現代は不信の時代です。人間は有為の奥山でうろうろしているので、皆、不信になってしまうのです。肉体が存在するという気持ちを持ったままで生きていますと、社会的にも家庭的にも、平安がないのです。

一体人間は、何を信用して生きているのでしょうか。現代の社会では、信用するものがないのです。魂は文明を信用できないのです。文明は人間の魂に関係がない所から出発しているのです。

魂の本源は、無為からきているのです。無の働き、見えないものを信じるのが、魂の本態性なのです。月の光で月を見るように、自然に見るのが、人間本来の姿なのです。唯物史観という考え方は、マルクスというユダヤ人がつくり出した世界観であって、それが良いか悪いというより、その考えになぜ従わなければならないかです。訳が分からないままに鵜呑みにさせられている。唯物主義を無理やりに押し付けられているのです。

現代文明は黒雲です。月の光を見えなくしているのです。人間の命とは何かを、考えさせなくしているのです。人間は文明によって束縛されています。例えば、民主主義はいかにも人間を解放するように見えますが、これがいんちきなのです。

民主主義は肉体人間という意識に、人間を定着させてしまうのです。自由、平等、博愛という言い方で、肉体人間という意識に閉じ込めてしまうのです。唯物的、即物的という世界観が、正しいものだと思わせてしまう魔力を持っているのです。

人類は、好むと好まざるとにかかわらず、肉体的に存在する自分を自分だと思いこまされている。これは、本来の月の光を隠してしまう黒雲の働きをしているのです。命の風を引き止めているのです。

大自然が皆様の霊魂の父です。大自然が皆様の霊魂を完成する役割をしていますが、それをまったく無視してしまっている。肉体人間という考えに縛り付けられて、人間の権利という空疎な考えにごまかされているからです。

国家の主体は国民である。国民に主権があるといわれると、聞こえがいいのです。人間を甘やかし、肉体人間を甘やかす方法で、魂のことを考えさせないようにしているのが、ユダヤ主義の奥の手です。これが有為の奥山です。

肉体的な人間が本当だと思ってしまいますと、人間はかえって信じるものがなくなるのです。正しい意味での神や仏という言葉を使っても、本当の意味が亡滅されてしまうのです。いわゆる換骨奪胎になってしまうのです。

誤ったユダヤ主義の世界観から、ぜひ脱出して頂きたい。死ぬべき文明思想からでなければいけないのです。有為の奥山を越えてしまわなければ、皆様の魂に本当の平安はないからです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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