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「地球はなぜ造られたのでしょうか」


人間は誰でも、固有名詞の自分がいると信じています。国家、社会があるために、役所へ届け出をしています。役所に届け出をしているという意味では、肉体を持っている人間を認めなければなりません。その意味では、固有名詞の自分はいるといえるでしょう。  ところが、宇宙全体から見ると、そういう人間はいないのです。いるはずがないのです。生まれた直後の赤ん坊には固有名詞がありませんし、原始社会には固有名詞はなかったのです。  たまたま、日本のある両親から生まれたので、山田太郎という名前をつけられたのです。もし、アメリカやヨーロッパに生まれていれば、全然違った名前をつけられたでしょう。固有名詞はあくまで便宜上のものですが、それを絶対の名前と信じこんでしまうのです。山田太郎という固有名詞が、自分自身であるかのような錯覚に陥ってしまうのです。  人間の本体は、理性、良心、五官を中心にした魂です。人間は理性、良心、五官がなければ、絶対に生きていけません。ところが魂を全く無視して、固有名詞が生きているような錯覚をしてしまうのです。  機能的には魂で生きていながら、意識的には固有名詞という偽人格で生きている。そこで、いつでも矛盾、撞着が起きるのです。人間が不自由になっている原因は、ここにあるのです。パウロは、「神は死人に生活を与えている」といっています(ローマ人への手紙4・け)。英訳ではgives life to the deadとなっています。ライフというのは、生活という意味もあり、命という意味もありますが、現世で人間が生きている状態をいうのです。  神は死人に生活を与え、命を与えている。死んでいる者は放っておけばいいのに、命を与えている。なぜにこんなことをしているかということです。  有史以来、七百億人以上の人が地球上に生まれたと推定されていますが、その中のごく少数の人が、リビング (生きていることの実体) に気がつくかもしれないからです。  固有名詞で生きているのではない。リビングに基づいて生かされている。リビングが命であり、神であるということに気がつくかもしれない。これを神がねらっているのです。  なぜ現象世界ができたのか。なぜ地球が造られたのか。これほどんな宗教書にも書いていません。ただ旧約聖書だけに、その理由が書いてあるのです。  人間は現世に生まれてくる前に、罪を犯して死んでしまった。(これについては非常に多くの説明をしなければなりませんが、今は結論だけを述べておきます。詳しくは拙著『永遠の生命を得るために』第一巻~第四巻・近代文藝社刊、をお読み下さい)。死んだ人を直接地獄へ放りこむ前に、現世という収容所をつくり、人間を一時的に放りこんだのです。そこで自分の間違いに気がつく人がいるかもしれないからです。  神は罪を犯した人間をエデンの東へ追放した。現世はエデンの東です。エデンの東とは罪人のいる所という意味です。  一体、人間は、前世でどういう罪を犯したのか。神に生かされているのではなく、自分が生きていると考えたのです。これが神に対して罪を犯していることになるのです。  神は人祖アダムに、「善悪の木の実を食べてはいけない」と厳しく忠告しましたが、その忠告を破って食べてしまった。  善悪の木の実を食べるとは、善悪を自分の立場から判断することなのです。本当に善悪を判断するためには、宇宙全体を、永遠という角度から見なければならない。これは神という宇宙の絶対者しかできないのです。ところが人間は、自分という極めて狭い立場、限定された人生から、善悪を判断しはじめた。これでは独断的な判断になるにきまっています。  神しかできないことを人間がしはじめた。これは人間が誠の神を押しのけて、自ら神になったことを意味するのです。「見よ、彼は我々の一人になった」とあります(創世記3・空。そこでエデンを追放されたのです。  全世界の人間は、誰もが自分がいると確信していますが、本当に自分はいるのでしょうか。これは、少し冷静に考えれば分かることですが、自分で生まれたいと思って生まれてきた人は、一人もいません。生まれた年代も、国も、両親も、性別も、身長も、肌の色も、顔の形も、名前も、一切自分で決めてはいないのです。心理機能も生理機能も、五官も自分でつくったのではありません。ですから、徹頭徹尾、百%自分ではありません。従って自分は、いるはずがない。ですから、自分がいるという考えは百%妄念なのです。  現世には、罪を犯した人、いわゆる犯罪者ばかりが収容されています。ですから、様々なトラブル、矛盾、乱轢、争いが絶えないのです。家庭内トラブル、学校内のトラブル、社会のトラブル、倒産、殺人、戦争、地震、台風、洪水、噴火、冷害、飢饉、疫病と苦しみがたえないのです。  聖書は、すべての人を、「罪の下にとじこめた」(ローマ人への手紙7・14)といっていますが、これは死の下にとじこめたという意味です。ですから、地球にいる人間は、全部死ぬ運命にあるのです。  六十四億の人間は、遅かれ早かれ、絶対に死ななければならない。ということは全員、無期懲役刑に課せられているのです。そして、死にたくないのに死んでいかなければならない。これは殺されることなのです。つまり、死刑を執行されるのです。  人間はなぜ地球で生かされているのか。現世で何十年かの間矛盾、撞着を味わっている間に、「自分が生きている」という思いの間違いに気がつくかもしれないからです。自分が生きているのではなくて、大自然によって生かされている。心理機能、生理機能、五官によって生かされていることに、気がつくかもしれない。そして、大自然と、心理機能、生理機能、五官が、神の働きだということに、気がつくかもしれないからです。それに気がついた人は、死から解放されるのです。  パウロは、「自由を得させるために、キリストは、私たちを解放して下さったのである。だから堅く立って、二度と、奴隷のくびきにつながれてはならない」といっています(ガラテヤ人への手紙5・1)。  死(罪) の奴隷になっていた人間を、完全に解放した。これがイエス・キリストの十字架という、驚くべき処置なのです。  イエス・キリストの十字架によって、自分が生きているという人間の妄念、あらゆる人間の間違った考えを、完全に否定してしまった。そしてすべての人を死から解放したのです。その結果、人間は本当の意味で、自由自在になり、あらゆる苦しみ、悲しみ、悩みから解放されたのです。何物にもかえがたい、本当の自由が与えられたのです。  これは、今から二千年以上も前に実現したのです。日本の国ができる前に成就したという本当に古い出来ことですが、人類はいまだに様々な苦しみ、悩み、悲しみにおびやかされている。死の奴隷になり続けているのはなぜでしょうか。それは、人類を指導しているユダヤ人が、イエス・キリストの十字架を拒み続け、「人間は死ぬのがあたりまえ」という思想を人類に押しつけているからです。そのために、二千年もの間、人類は苦しみ、死に続けているのです。  私の心からの願いは、ユダヤ人がイエス・キリストの十字架と復活を受け入れることです。そうすれば、人類は死から解放され、本当の自由を経験することができるでしょう。地球上に驚くべき完全平和、絶対平和が訪れるでしょう。  数千年の間、人類が心の底から願っていた、犯罪のない世界、病気のない世界、あらゆる災害のない世界が実現するのです。地球上から、病院と刑務所がなくなるのです。その時人々は、心から「本当の自由」を味わうことができるでしょう。  これは聖書に預言されていることで、必ず実現します。私は一日も早く、こういう世界が実現することを切望してやまないのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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