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「神とは何か」


日本では今日まで、般若心経と聖書を、一つにまとめて勉強することができなかったのです。その理由は、宗教という角度から見ていたからです。  般若心経は、悟りを説いています。究竟涅槃は、悟りなのです。  涅槃とはどういうことかと言いますと、サンスクリットで、ニルバーナーと訳しています。ニルとは冷えることです。バーとは消えることです。ナーとはなくなることです。つまり、冷えて、消えて、なくなることが、涅槃なのです。人間で言えば、死んでしまうことなのです。  もう少し常識的に言いますと、ろうそくの火が、風によって、ふっと消えてしまうことです。人間の生活意識は、ろうそくの火のようなものです。自分が生きていると考えていることが、ろうそくの火のようなものなのです。  生きているのは、現世にいる人間の概念であって、これは、必ず消えてしまうものです。消えてしまうまでに、目の黒いうちに、消えない灯を見つけることが、必要なのです。  人生の目的は何かといいますと、魂の灯をともすことです。魂の灯をともすというのは、現在、この世に生きている間に、死なない命を見つけるということです。  今までの世界観ではない、新しい世界観を持つのです。世界観というと難しく聞こえますが、物の見方ということです。  人間は、現象世界があると考えています。だから、死ぬのです。現象世界はあります。現在の人間の生活意識によれば、現象世界は、現存しているのです。しかし、人間の生活意識は、変化するものです。固定したものではありません。これは、一つの思想なのです。一つの考えであって、目に見えてはいるけれど、実は存在していないという考え方も、充分にありうるのです。  教育主義的な現代思想が、人間に、見えているものがあるという意識を、植えつけてしまったのです。  昔の日本人は、そうではなかった。例えば、千利久は、一期一会をお茶の原理にしています。これは、見ている通りのものがあるという考え方と、違います。今という瞬間しかない。瞬間だけしか生きていないことを、はっきり認識する時に、本当に茶をたてる喜びがわいてくるというのです。  五十年生きてきた。六十年生きてきたという考え方と違います。瞬間だけ、人間は生きているのです。こういうまじめな考え方が、かつての日本にはあったのです。徳川家康は、戦国時代の武将でした。この武将の軍旗が、厭離積土欣求浄土だったのです。厭離横土というのは、この世は汚れているから、(私は)いやだということです。欣求浄土は、浄土を求めるというのです。家康はこういう旗を立てて戦っていたのです。これが日本の武将でした。これが、日本民族のもつ特性です。  徳川幕府三百年の間に、日本人の世界観が、がらっとぬりかえられたのです。ユダヤ人が、人類の世界観をぬりかえたように、家康及び、十五代の将軍が、士農工商と四つにわけて、封建社会を確立したために、日本人の常識が、根本から変ってしまった、日本の伝統的な良さが、全くなくなってしまったのです。  明治以降の日本では、文明開化という名のもとに、ユダヤ主義が流人してきたのです。この感覚が日本に氾濫したために、日本が、文化的にぬりかえられてしまった。本当の人間歴史が消えて、文明という感覚が、表面に浮かびあがったのです。  文明と歴史は、まったく別物です。その区別が、今の学者には分からないのです。ただ世間に認めてもらいたいと考えているのです。日本の学者は、皆、ノーベル賞を欲しがっています。ノーベル賞をもらえば、世界的な学者になるからです。ノーベルは、ユダヤ人です。ユダヤ人に褒めてもらわなければ、世界的な学者になれないと思っているのです。文明が、そのようにしているのです。  現在、アメリカにあるのは、キリスト教の聖書であって、本当の聖書ではないのです。キリスト教の神信心はあります。これは、全部、西洋の宗教です。キリスト教が説いているキリストは、キリスト教のキリストです。これを、日本人に押しっけているのです。  聖書は宗教ではありません。神の言葉です。神の言葉という意味が、キリスト教の人々には、分からないのです。キリスト教の人でも、聖書は神の言葉だといいます。しかし、神の言葉と、宗教と、、どう違うか分からないのです。  聖書が、キリスト教のテキストになっているが、これが間違っているのです。聖書は、キリストを信じるためにあるのではないかと、キリスト教の人々が言われますが、キリストという言葉の使い方が、間違っているのです。キリストというのは、神が地球を造ったこと、そして人間を完成し、地球を完成するための神の地球計画のことなのです。  実は、現在の地球は、未完成なのです。人間も、未完成です。まだ一人前の人間ではないのです。だから、命が分らないのです。目で見ているものが、どういうことなのか、分からないのです。  神とは、簡単明瞭に言いますと、心臓が動いていることです。目が見えること、耳が聞こえることが、神なのです。五官の働きが、命のあり方を、正確に表現しているのです。  神についてパウロは次のように述べています。  「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らに弁解の余地がない。なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである」 (ローマ人への手紙1・20、21)。  「すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます。すべてのものの父なる神は一つである」 (エペソ人への手紙4・6)。  神は被造物(森羅万象) において知られていて、明らかである。弁解の余地はないといっていますし、すべてのものを貫いて、すべてのものの内にあると言っている。これは何を意味するかということです。  私たちの目、耳、鼻の内に神がいるのです。目が見えるのは、目という機能があって、目にエネルギーが働いて見えるのです。耳が聞こえるのは、耳という機能があり、そこにエネルギーが働いて聞こえるのです。思考をするのは、脳という機能があって、そこに相当のエネルギーが働いて思考が成立するのです。機能が神であり、エネルギーも神なのです。  目の前にコップ、皿、スプーンがあるとします。コップ、皿、スプーンを貫いて、その内に神がいるのです。どういう形で神がいるかです。  コップは理論物理学で言いますと、原子の集合体です。原子の構造を説明しますと、原子核の周りを電子が猛列萎スピードで回転しています。一秒間に一億四千五百万回と、全く想像を絶する早さで回転しています。  原子の集合体がコップになって見えますが、実体は原子の運動です。運動がコップとして見えるのです。電子が核の周りを回っていることが神です。神とはエネルギーそのものです。皿、スプーンも同様です。原子の運動があらゆる物質になって見えるのです。電子の運動が神なのです。エネルギーが神の実体です。  私たちは毎日、朝から晩まで、神を見たり、聞いたり、味ったり、触れたりしているのです。人間は一生の間、七十年も八十年も、これを経験し続けているのです。だから神が分らなかったということは絶対に通用しないのです。  人は、五官によって、命を経験しています。命を経験しているが、生活意識が間違っているために、命が分からないのです。  だから、今の考えを持ったままで、聖書をいくら読んでも、分からないのです。『心の貧しい人たちは幸いである』(マタイによる福音書5・3)ということが、何のことか分からないのです。マタイ伝の山上の垂訓の第一句が、全然分からないのです。神の御霊によらないと、分からないのです。  聖書は、神の言葉ですから、神に教えてもらわないと、分かりません。人に教えてもらってもだめです。キリスト教の牧師、カトリックの神父は、みな、人間です。だから、世間並の商売をしているのです。キリスト教の看板をかけて、商売をしているのです。  聖書は、命の言葉です。般若心経が悟りそのものであるように、聖書は、命そのものなのです。  そこで、キリストを信じるということは、普通の人間の常識を持ったままでは、できないのです。できるつもりでも、皆、間違ってしまうのです。パウロは、このことを、心を更えて新たにせよといっているのです。精神の深みまで、新たにせよといっているのです(エペソ人への手紙4・23)。  イエスは、悔い改めて福音を信ぜよ(マルコによる福音書1・15)といっているのです。悔い改めるとはどうすることか。これが、キリスト教では、全然分かっていない。人間の意識構造を、全く変えてしまうこと、マインド (精神) を、全然変えてしまうことなのです。  心を更えて新たにせよという所を、英語で見てみますと、マインドのあり方、マインドの働きを、もう一回、新しくやり直して、出なおせといっているのです(ローマ人への手紙12・2)。  マインドの働きをやり直すとは、究竟涅槃しかありません。イエスをまともに信じるためには、涅槃をまず、実行しなければだめなのです。  命が自分のものだと考えている状態で、いくら聖書を信じても、だめです。命は、自分のものではないのです。天から預けられたものなのです。これが分からないと、キリストが信じられないのです。信じたつもりでも、キリストの概念を信じているだけであって、キリストを信じたことにはならないのです。水と霊とから新しく生まれて、神の国へ入れ (ヨハネによる福音書3・5)と、イエスは言っているのです。これが、キリスト教では、実行できないのです。水から生まれるとは、どうすればいいか、霊から生まれることが、何のことか分からないのです。  宗教は、いくら信じても、死んでから神の前へ行く方法がありせん。神の前に通用することを考えようとしますと、誠心誠意、霊魂の本当の状態を、つかまえていなければだめです。  神の前は、厳粛な事実です。厳然たる事実です。神の前に立つには、何をどうすればいいかを、聖書によって勉強すればいいのです。  聖書によって、神と人との対話を学ぶのです。祈ることは、神と人とのコミュニケーションであって、神と人との対話なのです。神と対話をするためには、神の心境が分からなければ、できないのです。  心臓が動いていることが神なのですから、これをつかまえるのです。そうすると、神と対話ができるのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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