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神の国(4)


 人間が生きているということは霊なることです。人間は生きているがその実体が分からない。部分的なことなら分かります。例えば学校へ行っているとか、商売をしているとか、家事をしているとか、仕事をしているということは部分的なことです。これは生きているということの全体的なことではありません。

 生きているとは何をしているのか分からないのです。ご飯を食べているとして、ご飯を食べるとは何をしているのか。また仕事をしているとして、それが何をしているか分からないのです。

 人間は生きているのではなくて生かされているのです。生かされていることの中へ入っていたら、心配するとか、腹を立てるとか、人を恨むとか、行き詰まりを感じることは一切ないはずです。

 生かされていることの中へ入ってしまえば、病気になっても生命の危険を感じることはないはずです。貯金がなくなって生活の不安を感じるとか、人に誤解されて腹立たしい気持ちになるということがないはずです。

 誤解されても、誤解されているということが生かされていることなのです。病気になったということが、生かされているということの現われなのです。生かされているということが、病気という現象になって現われているのです。それだけのことです。

 人間は生かされているのですから、死のうと生きようと皆様の責任ではないのです。人から損害を与えられても、誤解されても一切異議を申し立てる資格はありません。

 例えば、自分が一生懸命に働いて会社に儲けさせてあげたとしますと、給料を上げてくれないかと文句が出る。そして腹が立つのです。どうして腹を立てるのでしょうか。永遠の生命を学ぶために差し障りがある以外には、決して故障を申し立ててはいけないのです。

 ところが人間は、こんな状態でいたら永遠の命が掴まえられないという状態で生きていながら、それについて一切文句を言わないのです。そういう危険な状態にあっても、それについて絶対に文句を言わないのです。

 他のことばかりに文句を言っているのです。月給が上がらないとか、ボーナスが少ないとか、損をしたとか、暑い寒いと文句を言うのです。神に対して文句を言うのです。

 人間が働いているのはこの世のためではなくて、神に奉仕するためです。神に奉仕することが人間としての唯一の生き方なのです。神のために生きることが、人間が生きるための唯一無二の正しい生き方になるのです。

 自分のために働くとか、自分の会社のために働くというのは初めから間違っているのです。仮に神のために働かないで、自分のために働いたとしても、それが何になるかです。

 神は人間に空気や水を無限に供給しているのです。皆様は空気の代金を払ったのでしょうか。水の代金を払ったのでしょうか。もし払っていれば自分の待遇が悪いと文句が言えるのです。

 人間は勝手に食べたり飲んだりしています。そうして神に文句を言っているのです。そういう人は死ぬために生きているのです。自分のために生きているというのは、死ぬために生きているのです。

 自分がいくらお金を儲けても結局人間は死ぬだけです。自分のために働くということは、死ぬために働いている結果になるのです。人間は皆これをしていますから、皆地獄へ行くのです。

 永遠の命を勉強したいのにできないという場合に限って、人間は神に向かって文句を言うことができるのです。

 人間の権利とか資格、立場は本来存在しないのです。例えば犬を飼っているとします。犬自身の立場を認めているでしょうか。人間の立場から犬を飼っているだけのことです。食べさせようと食べさせまいと飼い主の勝手です。犬はそれに対して腹が立ったら家を出て行くしかしょうがないのです。

 家畜はすべて飼い主の意志によって飼っているのであって、自分の意志で生きているのは野獣です。皆様は野獣になりたいのか、それとも、家畜になりたいのでしょうか。

 同じ動物でも野獣と家畜とでは全然違います。生きているという事がらの次元が違うのです。野獣は行きたい所へ行けます。したいことができるのです。その代わりに食べる物がなければ絶対に食べられないのです。野獣の命は保障されないのですから、死のうと生きようと野獣の勝手です。保障は一切受けられないのです。

 人間は飼い主を知らないのです。イスラエルは飼い主を知らないのです。しかし人間は家畜です。人間は聖書を学んでいなくても家畜です。ましてや聖書を学んでいると、立派な家畜になるのです。人間並に扱われている犬みたいなものです。ところがそういう待遇を与えられていても、まだ生きているということが分からないのです。生かされているということが分からないのです。

 聖書の勉強は命の勉強です。命の勉強は理屈の勉強とは違います。

 生きていること自体がそのまま永遠の命になっているような生き方ができるのでなかったら、信仰とは言わないのです。

 実は生きていること自体がそのまま永遠の救いになっているのです。救いとは何かと言いますと、無限の自由と無限の幸福です。

 本当の幸せが分かっているなら、生きていると言えるのです。部分的な幸せではいけないのです。ボーナスを前回よりもたくさんもらった。だから幸せだというのではいけないのです。

 そうでなくて無限の幸せが経験できていなければ、その人は命が分かっていないのです。命が分かっていないということは死んでいるということです。

 生きているという現象はあります。現象の意味を理解していないとすれば、生きていても実体的には生きていないのです。「肉の思いは死である」というのはこのことなのです(ローマ人への手紙8・6)。肉の思いで生きているから分からないのです。なぜ肉の思いを捨てないのでしょうか。

 生かされているということは霊なることです。ご飯を食べるとはどういうことか。仕事をしているとはどういうことか。ご飯を食べていることが霊なることなのです。肉なることと違うのです。霊なることというのは分かりやすく言いますと、生まれる前に神と共にいた時のことを経験しているという意味です。肉なることというのは現世に生まれてきて、現世の常識に従って、現世の経験をしているという意味です。

 仕事をしていることが霊なることです。現在霊なることを経験していながら、肉の思いでご飯を食べている。ご飯を食べるという霊なることを経験しながら、肉なる思いで生きているから、ご飯を食べている事がらが説明できないのです。

 命はどこまでも霊なることです。霊の思いで見れば、命はすぐに分かるのです。「霊の思いは命と平安とである」とあります(同)。霊の思いで見れば何をしているかがすぐに分かるのです。

 食事をしていても、人と話をしていても、テレビを見ていても、人間がしていることはすべて霊なることです。喧嘩をしても霊なることです。喧嘩をしている本人の気持ちは肉ですが、その事がらは霊です。

 人間がしていることは何もかも本質的には霊なることです。例えば、人間が死んでいくとします。死んで黄泉に落ちていくことが霊なることです。本人は肉の思いで生きていたから死んでしまったのですが、死んでしまったということが霊なることです。肉なることは一つもないのです。

 それほど人間は霊でいっぱいの世界に生きているのですが、霊の思いで生きていない。肉の思いばかりで生きているのです。だから食事をしていること、仕事をしていることが何をしていることなのかさっぱり分からないのです。そういう部分的なことさえも分からないから、全体的なことが全然分からないのです。

 生かされているということが誠です。命の他に誠はないのです。人間は誠の真ん中で生きていながら、嘘でそれを受け止めているのです。誠の真ん中にいながら、嘘でそれを経験しているのです。生態と思いでは天地の違いがあるのです。

 知識というのは概念です。また観念であって、悪い意味における空、からっぽです。いくら明確に認識しても知識はどこまでも知識であって、実体にはならないのです。知識を意識にするのです。そうすると生活の内容が変わってしまうのです。

 なぜ知識を意識に切り替えないのでしょうか。もし切り替えられないようなら、その原因があるでしょう。理性的に言えば知識、感能的に言えば感覚は、同じ次元のものです。

 人間の生活は感覚と意識によって成り立っているのです。知識によっては成立していないのです。

 かつて日本で一番最初にノーベル賞をもらった湯川秀樹さんが言っていました。学校では物質は存在しないということを物理的に講義している。物理は存在するが、物体は存在しないということを学生に教えている。ところが家に帰ると物質が存在するという意識で生活している。学校で講義している知識と、家庭における生活の意識とは違っている。学者として恥ずかしいと言っていました。

 なぜそうなるかということを彼自身説明できていない。しかし学者として恥ずかしいと言うだけましです。学者として恥ずかしいと言う人はほとんどいないからです。

 彼は学者としてはノーベル賞の値打ちはありませんが、学者として恥ずかしいというその言葉にノーベル賞の値打ちがあるのです。

 皆様は命の真実の真ん中、誠の真実の真ん中にいるのですから、それが分かって当たり前です。

 世間の人は皆この世に生まれてきて、本当の命を掴まえないままで死んでいくのです。仕事をしていても、家庭にいても人間は皆肉の思いで生きているのです。そうして自分は生きていると思っているのです。

 命の真ん中にいながら、命を認識していないのです。認識していないのですから、もちろん意識していないのです。こんな状態ですから皆死んでしまうのです。死んでしまう人間ばかりが、2013年現在で、全世界に70億人もひしめいているのです。

 日本の場合で言えば、1億2千万人の人が死んでいくのです。皆様はちょっと芽が出かかっている状態ですから、もう少し命に生きるという意識を持って頂きたい。本当の命を経験するような感覚を持って頂きたい。

 人間の生活は意識と感覚によって構成されているのです。精神的な意識と肉体的な感覚が人間生活の実体です。この二つを命という事実に組み合わせれば、死ななくなるのです。死ななくなるだけではなくて、世間の人に命を与えることができるようになるのです。

 まず命を掴まえて、それを他人にも教えてあげるのです。一切空と人に教えているのなら、自分もそのような生活ができなければいけないのです。パウロほどのレベルに達しなくても、生きているという範囲内で、空を生活できなければいけないのです。行き詰まるということがあるとしたら、意識が間違っているのですから、すぐに改めたらいいのです。

 般若心経が宗教ではないという以上は、般若心経に書いてある五蘊皆空を自分で経験していなければ、人にいうだけの資格はありません。

 不生不滅、不垢不浄、不増不減とあります。人間は生まれたものでもないし、死んでいくものでもない。現在人間が生きているという感覚は空であると言っているのです。ところが空だけではいけないのです。現在生きているという事実がありますから、それが何であるかという説明ができなければいけないのです。

 まず現在自分が生きているということが空であるということをはっきり意識できなければいけないのです。これができないようでは、般若心経の講義をする資格はないのです。

 ところが空という理屈をまともに説明できる人がいないのです。ほとんどいないでしょう。仏教的な理論でごまかしてはいるけれど、はっきり説明していないのです。ごまかすのではなくて、まず説明できなければいけない。と同時に、それが生活の意識になっていなければいけないのです。

 聖書に次のようにあります。

 「そして一度だけ死ぬことと、死んだ後、裁きを受けることが人間に定まっているように、キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身を捧げられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに、二度目に現われて救いを与えられるのである」(ヘブル人への手紙9・27、28)。

 二十七節で一度だけ死ぬことと、死んで裁きを受けることが人間に定まっていると言っているのです。今の人間は必ず死ぬのです。必ず死ぬのはなぜかと言いますと、命を与えられていながら命を認識していないからです。霊なる命を経験していながら肉の思いで生きている。だから死ぬのです。

 霊なる生かされ方をしていながら、肉の思いで生きている。生かされているという客観状態と、生きているという主観的な意識とがずれてしまっているのです。そのために人生には色々な矛盾があります。理屈は分かっています。理屈で分かっていながら、それを生活で生きていないからいけないのです。

 皆様はこの世に生まれた時に死なされたのです。生まれた時に殺されたのです。生まれてくるまでの皆様の魂は生きていたのです。これが分かっていないのです。

 現在の文明は中世までの素朴さを失っているのです。近世文明はすべて理論的、また実験的に理屈で割り切ろうとして、肉の思いを満足させることに一生懸命になっている。学校教育という非常に悪い方法によって、生まれながらの人間が教育されるのです。

 教育は人間が人間を教えるのです。教える人間が原罪動物です。罪人です。原罪動物の人間が、人間を育てるために、教育されたすべての人間が、意識を洗い変えられてしまうのです。原罪的に洗い変えられてしまうのです。これは最も悪いことです。

 日教組や高教組のやり方が悪いために、校内暴力、家庭内暴力が発生しているのです。警察が中学生を検挙しなければならないのです。バットで親を殺すという事件も起きているのです。

 教育と洗脳は同じことです。共産主義で人間を洗脳するのと同じことです。

 人間の肉の意識感覚を洗い変えてしまうのです。人間の胎児の状態はおのずからの状態で生きているのです。天然自然の状態で生きている。これが本来の自性です。仏教的にいうと本具の自性です。魂の本性に従って生きているのです。

 この世に生まれて一日か二日の間は、生まれる前の状態で生きているのです。赤ちゃんは生まれたその日に、にこにこ笑っているのです。現世で何の経験もないのに笑っているというのは、生まれる前の経験が継続しているからです。このことが人間が死んでからの状態を説明しているのです。

 生まれる前の状態が、生まれた後にも続いている。従って皆様が現世で肉の思いで生きていると、肉の思いがそのまま霊界に行くのです。肉の思いのままで霊界に行くとどうなるのか。

 死んだ後の世界は霊界です。八十年、九十年の間、肉の思いで固まっていた。そして現世で脳波が止まってしまうと死んでしまい、霊界に行くのです。霊界に肉の思いで行かねばならないことになるのです。これが恐いのです。

 人間はこの世に生まれた時に、罪の下に売られたのです。この世に生まれたというのは、言(ことば)が肉となったことです。言が肉となったというのは、罪の中へ放り込まれたということです。「私は肉につける者であって、罪の下に売られている」とパウロが言っているとおりです(ローマ人への手紙7・14)。

 人間は罪の下に売られたのです。この世に生まれた時に死んだのです。皆様は死んだのです。死なしめられたのです。殺されたのです。この世に生まれた時に殺されたのです。

 ところが人間は皆考え違いをしているのです。この世に生まれた時に、おめでとうと言って、出産祝いとか誕生祝いをするのです。何をしているのかと言いたいのです。

 誕生祝いをしたければ、自分の霊を完全に神に渡して神の国へ入った時、新に生まれたという祝いをしてください。大いにしてください。水からと霊からと新に生まれて神の国へ入ったなら、お祝いをする値打ちがあるのです。

 皆様はこの世に生まれた時に死んだのです。これは明白な事実です。皆様は今死んでいるのです。現象的に生きている。肉体的に生きていると思っていることが、死んでいることです。

 だいたい皆様の本性は魂であって、肉体を持っていないはずです。肉体的でないものが魂です。それが肉体を持ったので死んでいるのです。

 皆様は現在自分が信仰的に行き詰まっている状態でありながら、どこが行き詰まっているか分からないでしょう。それは自分の魂に責任を持っていないからです。

 自分で自分の魂の欠点が分からなければいけないのです。どのように欠点を補強すればいいのか。自分の状態をいつでもまな板の上に乗せてみるのです。そうすると自分の欠点を補強することができるのです。

 自分の魂の責任を持つのです。誰かに教えてもらうとか、誰かが教えてくれるだろうという他力本願的な見方がいけないのです。

 自分の魂を自分で始末する訓練をするのです。毎日の生活に対して一つでも反省するのです。異邦人は自分の魂に責任を持たないことが一番悪いのです。それが宗教観念を造っていくのです。

 現象世界はどのようになっているのか。ノアの洪水の直後に、神は現象世界と人間を滅ぼしたのです。実は、今の地球は人間の住み処のために造ったのです。

 神が地球を人間の住み処としたのは、悪魔の反逆という宇宙的な大事件があったので、その善後策を講じるために神は天地を造ったのです。

 「神の霊が水のおもてを覆っていた」(創世記1・2)という言葉の中には、非常に意味深長な神の大計画があるのです。

 物理運動の根源については、神の霊がそれを押さえているのです。プラスのエネルギーの根源が神の御霊であると言っているのです。

 神はすべてのもの、天地を治めさせるために人間を造ったのです。悪魔を廃嫡(はいちゃく)して、悪魔の代わりに人を天使長の位に置こうとしたのです。これが天地を造り始めた基本的な目的でした。堕落した天使長に変わるべき新たな天使長として、キリストとその一党を神が期待しているのです。

 悪魔に代わって天地を支配するために、この世界が造られた。この地球が造られたのは人間完成のためです。人間完成のためでなかったら、この地球が造られた意味がないのです。

 神の創造はそれを認識するところに価値が発生するのです。もし神が創造しても誰も認識しなければ、創造の値打ち、神の創造の栄光を一体誰が認めるかです。人間が神に栄光を帰することによって、初めて万物が造られたことの目的論的なものが発生するのです。

 人間が一番最後に造られたということは、地球のあらゆる物理的、動物、植物的な意味でのすべての遺伝子が、全部含まれているのです。一万人の人間の肉体の中には、一カラットのダイヤモンドが含まれているかもしれないのです。

 この地球上に存在するあらゆる物質の要素が、全部人間の肉体の中にあるのです。一万人の人間の肉体の中に、純金が一グラム位含まれているかもしれないのです。

 とにかく多少に係わらず、地球上に存在するあらゆる物理的原理は、全部人間の中にあるのです。物質的にあるいは精神的に、あらゆる植物、あらゆる動物が人間の中に住んでいるのです。

 皆様の中には、なめくじみたいな根性があります。あらゆる有機的な遺伝子が全部皆様の中にあるのです。物理的な要素と心理的な要素が全部人間の中に集約されているのです。だから人間はすべてのものを治めるだけの有機的機能があるのです。これを神の言葉と言います。

 神の言葉はあらゆる遺伝子の原理です。あらゆる物理的存在の原理です。

 神の言葉が人間の五官になっている。人間自身の根幹としての五官となっているのです。神はルシファーを天使にして失敗をしたことをお考えになって今度は失敗しないように、天使長の候補者として皆様を立てているのです。そのために今訓練しているのです。

 ノアの洪水の時に、神は人間を滅ぼした。人間を滅ぼしたので万物があってもしょうがないのです。人間の中にすべての万物が存在しているからです。有形的にも無形的にも、天地万物は人間の中に全部含まれているのです。だから皆様は大天使になる資格は十分にあるのです。

 この人間を神は思いきって滅ぼしてしまったのです。このことは地球そのものを無に帰してしまったのと同じ意味になるのです。神は人間を滅ぼした時に、万物を幻にしてしまった。そして人間と生き物のすべてに虹の契約を与えたのです。

 虹は見えるけれども実体はないのです。ノアの洪水の時に、万物は全部虹になった。人間も虹になったのです。その後に神はアブラハムを見出した。神はアブラハムに約束を与えたのです。

 約束は天地創造の原理、原則です。これが約束という形でアブラハムに与えられたのです。その時にアブラハムとその子孫がもう一度甦らされて、人間としての待遇を受けることになった。それ以外の人間は動物と同じ扱いになったのです。

 イスラエルは哺乳動物としての待遇から、もう一度人間としての待遇を与えられたのです。ユダヤ人は異邦人を獣だと言っています。ゴイという言い方は獣という意味ですがそのとおりです。

 イスラエルはどうにか人間扱いをさせられています。そのためにモーセを与え、歴代の預言者を与え、ダビデを与えて何とかして人間としての自覚を与えようとされたのです。しかしイスラエル以外の異邦人は全部幻の存在であって、やはり動物でした。

 ところがナザレのイエスが生まれたのです。この時に地球は虹ではなくなった。物理的に存在するものとして、神が公に承認したのです。虹ではなくなったのです。海は海となり、陸は陸になった。創世記第一章の状態に帰ったのです。

 その証拠が何であるかと言いますと、本当に万物を治める人間が一人現われたからです。ルシファーに対抗するだけの人、ルシファーを圧倒する人間が一人立派に現われたのです。そうして神の国が始まったのです。

 本当の人間の肉体はどういうものか。変貌山におけるイエスが、本当の人間の肉体をそのまま現わしているのです。(マルコによる福音書9・1~8)。

 神の栄光がイエスの顔に現われたのです。森羅万象は神の顔です。イエスの顔が輝いたということは、森羅万象に神の栄光が現われたということです。

 変貌山の秘密が分かる時に、人の心に明星が現われるのです。ペテロは次のように言っています。

 「あなたがたも夜が明け、明星が昇って、あなたがたの心の暗闇に輝くともしびとして、それに目を止めているがよい」(ペテロの第二の手紙1・19)。

 人の心に明星が現われるまで考えなさいと言っているのです。皆様の心にはまだ明星が出ていません。これをよく考えて頂きたいのです。

 イエスが現われた時に、初めて明星が現われたのです。これをイエスは、ザ・ブライト、ザ・モーニングスター(the bright, the morning star)と言っています(ヨハネの黙示録22・16)。私は輝きである。明けの明星であると言っています。まず皆様に輝きが出てこなければいけないのです。

 イエスが復活した後に、また地球が変わってしまったのです。イエスが現われた時に、約束の一端が確立して、地球が物理的に優遇された。これがイエスの奇跡に現われているのです。地球が物理的に優遇されなければ、イエスの奇跡は現われなかったでしょう。イエスの奇跡は神が地球を承認したことになるのです。

 ところがイエスの復活によって、地球が神の国になってしまった。今の地球は神の国です。

 聖書に「すべての肉に我が霊から注ぎ出す」とあります(使徒行伝2・17)。地球に聖霊が降臨したのです。聖霊が降臨したということは、地球が神の国になっているのです。

 現在神の国になっているのでこういう話ができますし、また皆様が神の子だから聞けるのです。神のメッセージを神の子たちが聞いているのです。こういう厳粛な事実を皆様は経験しているのです。

 新約時代に地球が神の国になったという理由は、聖霊が降臨したという事実があるのですが、もう一つの理由をイエスは証明したのです。

 イエスが復活した後に、四十日間しばしば弟子たちに現われて、神の国の事実を示したのです。神の国について語ったとありますが、イエスは神の国の実体を示したのです。

 イエスが復活した時に、イエスの肉体は現在の物理ではない体に変化していたのです。新天新地という未来次元になっていたのです。

 現在の地球がなくなった後に新しい天地ができるのですが、イエスはその時の物理次元を持って現われたのです。そのためにイエスは固く鍵がかかった部屋に自由に入って来ましたし、魚を食べてみせたのです。ラゲ訳の聖書ではぶどう酒を飲んだと書いています。食べたり飲んだりしたのです。

 新天新地の新しい次元がイエスに現われたのです。現在の地球の物理次元は、新天新地の物理次元によって呑まれてしまったのです。新天新地の新しい物理次元によって呑まれたということは、やがて完全無欠の永遠の地球が現われる予告編になっているのです。新約聖書によって私たちはこういうことを学んでいますし、これをユダヤ人に証しなければならない責任を与えられているのです。

 肉の思いというのは肉の意識です。肉の生活感覚、生活意識が肉の思いです。霊で意識するのです。霊で感覚することが霊の思いです。

 私たちが見る所は見える所ではない。見えない所を見るのです。「見える所のものは一時的であり、見えない所のものはとこしえである」とパウロが言っています(コリント人への第二の手紙4・18)。見えない所のもの、見ることができないものが空です。空を意識するのです。

 野菜や果物に味があります。魚や牛肉に味があります。味という世界がありますが、これが空です。存在の世界です。これが神の御名(実体)です。ここへ入って行くのです。これが神の国です。神の国とは空の世界です。

 パウロは「ああ、麗しいかな、良き訪れを告げる者の足は」と言っています(ローマ人への手紙10・15)。

 花に良き訪れを告げる者の足があるのです。ここに福音があるのです。花が咲いている。花が咲いているという世界があるのです。

 足とは神の歩みです。神の言葉の歩みです。キリストの言葉が歩んでいるのです。花は歩いているのです。咲いたりすぼんだりしているのは歩いているのです。森羅万象も肉体も歩いているのです。このように麗しい良き訪れを告げる者の足が、皆様方と一緒にいつでもあるのです。

 神の御言葉の歩みがあるのです。ですからこの世界へ入ったらいいのです。そうすると救われるのです。自分の肉の思いを捨てて、さっさと入って行ったらいいのです。どうして入ったらいいのか分からなかったら、聖書の言葉と御霊に聞いたらいいのです。神に食い下がる者が勝つのです。

 神の国はどこにでもあるのです。述べ伝える者がなければどうして聞くのかと言っていますが、述べ伝える者で満たされているのです。空が青いし、海も青い。木々の緑、花の美しさ、色々な動物も、森羅万象がすべて福音です。

 人間は神の国の真ん中で生きているのです。神の国に生きていて、聖書を学んでいて、まだ霊の眼が開かれないというのは、何ということか。見ることも、聞くことも、キリストの言葉がいっぱいあるのになぜ分からないのか。要するに精神次元が間違っているのです。

 「一度だけ死ぬことと、死んだ後に裁きを受けることが人間に定まっている」とありますが(ヘブル人への手紙9・27)、この状態から絶対に出なければいけないのです。

 どうしたらいいのか。生きているうちに死んでしまうのです。肉の思いに死んでしまうのです。肉の思いに死んでしまえば裁かれる自分は消えてしまうのです。裁かれる自分が消えてしまえばいいのです。

 死にたくないのに死んでいくというのなら、神に殺されるのを待たないでこちらから死んだらいいのです。イエスは「私は死ぬ権あり、命を捨てる権あり、またこれを得る権あり」と言っています。皆様も命を捨てる権があるのです。イエスが主であると思えるなら、命を捨てる権ありと思って頂きたいのです。

 自分から進んで死んでしまうのです。自分から進んで死の中へ入って行くのです。死ぬということに背を向けている間は、死が恐ろしいのです。死に対して背を向けないで死に向き直るのです。はっと開き直るのです。殺せるものなら殺してみよと、死に開き直るのです。

 開き直るというのは、なりふりかまわずにするのです。そういう気持ちで聖書を読むのです。そうすると聖書の言葉がどんどん開かれていくのです。要するに皆様はやる気がないのです。自分の魂に責任を持っていないからいけないのです。

 存在というと物があると考える。ところが物があるのは存在を意味しないのです。存在というのはあるという事がらになるのです。物質を指しているのではないのです。こういう考え方に習熟していない人は、こういう考え方に習熟するように訓練して頂きたい。

 日々訓練をするのです。これが哲学することです。聖書を勉強するというのは、神に従って哲学するのです。

 神に従ってというのは霊に従ってという意味です。霊というのは事がらです。または状態です。花が咲いているというのは咲いているという事がらです。状態です。コンディションです。コンディションとか事がらが霊です。

 皆様が生きているというのは事がらです。従って人間が生きていることを人生と言います。人生というのは人間の霊です。霊を神に渡すのです。自分が生きないでこれを神に渡すのです。

 なぜなら人間が生きているという事がらは、神の霊の現われです。神の霊が人間の霊として現われているから、霊を神に渡すのは当たり前です。霊を自分で握り込んでいるからいけないのです。

 皆様は生きているのではなくて、生かされているのです。皆様は自分で見ているのではない。自分で聞いているのではない。自然法、宇宙物理が人間の生理になっているのです。

 生理機能によって見ているのです。生理機能は自分で造ったものではありません。これが神です。

 生理機能とか地球物理という言葉は神の御霊の働きを意味するのです。そのように霊は神の霊から来たものです。

 人間が生きているというのは事がらであって、霊です。肉体とは違います。生きているという事がらがあるから肉体が動いているのです。生きているということがなければ、肉体はすぐに物体になって、火葬場へ持って行かれるのです。

 死んでしまえば人間の命はなくなるのです。生きているという事がらがなくなるのです。生きている事がらがなくなれば、すぐに火葬場へ連れて行かれるのです。そのように自分がいるのではなくて、生かされているという事がらがあるのです。

 生かされているという事がらに基づいて自分自身を見るのです。そうすると肉体としての自分ではなくて、神の子として生かされている自分としての感覚で見ることができるのです。そうすると、霊に従いて歩むということはできるのです。

 花が咲いている世界へ入って行くのです。花が咲いているのも、人間が生かされているのも同じ世界です。同じ世界にいるのですから、生かされている自分が、花が咲いている世界へずっと入って行くのです。

 花が咲いている世界というのは神の国です。神の国へ入ったらいいのです。難しいと勝手に思っているからいけないのです。

 自分で自分の思いを制限しているのです。自分で自分の思いを束縛しているのです。自縄自縛しているのです。こんなばかなことをしないで自分の思いを捨てるのです。

 花が咲いているという事実、空が青い、太陽が輝いているという事実、手が動くという事実があるのです。ここに神の国があるのです。

 人間が存在しているのは肉体人間が存在しているのではない。消化機能、呼吸機能、排泄機能、思考機能というたくさんの機能の集合体が、人間の肉体現象になって現われているのです。

 消化吸収機能がなかったら、食べたものが消化吸収されないのです。もし心臓が止まったらどうなるのか。死んでしまうのです。

 生理機能が動いているから生きているのです。機能というのは目に見えないものであって空なるものです。これが神の国です。

 花が咲いている。花は見えますが、咲いているという事がらは見えないのです。咲いているという事がらは霊です。これが神の国で、この中へ入って行くのです。空なる世界へ入って行く。それが死なない世界です。ここにとこしえの命があるのです。

 花は散りますが、花が咲いているという常の世界は永久に死なないのです。ここに入ってしまえばいいのです。

 人間は霊の世界に生きていながら、思いだけが肉の世界です。そこで死んでしまうのです。肉の世界にうろうろしているから、一度死んで裁きを受けることになるのです。

 死んでいく自分をなぜ自分だと思うのでしょうか。死んでいく自分を自分だと思うことをやめて頂きたい。皆様は毎日食物を通して神の命を食べているのです。神に生きているのです。神の命を生きていながら、なぜ自分の命に生きていると思うのでしょうか。神に生かされているのですから、神の自由になるべきです。

 とにかく自分が生きているのではありません。呼吸機能、消化機能が人間の肉体になって現われているのです。目に見えないものが目に見える形になって現われている。これを経験していながら、なぜ信じないのでしょうか。

 信じたら意識になります。経験していることを信じたらすぐ意識になるのです。やる気になれば意識の切り替えくらいはできるのです。精神を新しくする。自分のマインドの霊を新しくすることは何でもないのです。悔い改めて福音を信じないからいけないのです。

 ノアの洪水直後の現象世界は、全く幻でした。肉というのは、形はあるが実体がないことをいうのです。これを虹として神が人間に示したのです。

 人間と生物とに約束を与えたのです。この時、神が見ていた人間は哺乳動物です。人間を生物として見たのです。創世記の九章に出ている人間は、牛や豚の肉を食べることを許されている人間であって、これは哺乳動物に対する神の宣言です。神が最初に造った人間はなくなってしまったのです。

 神は人間を造ったことを悔いて、それを滅ぼすと決心したのです(創世記6・5)。霊なる人間はすべて滅ぼされて、肉なる人間だけが残ったのです。

 人間は形はあるが実体は存在していない。これが虹の契約です。ところがノアの洪水の後にアブラハムが出たのです。神が造った人間は消えたが、約束によってもう一度人間が復元した。これがアブラハムの子孫であるユダヤ人です。ユダヤ人だけを人間とみなすと神が決めたのです。ユダヤ人以外は皆動物です。イエスもそう見ていたのです。

 ところが、私たちは幸いにも御霊を与えられたのです。御霊とは約束です。約束は御霊です。御霊を受けたことは、約束の民として扱われるのです。これは全く破天荒な神の恵みです。それはユダヤ人がイエスを受け取りそこなったために、神の恵みが回ってきたのです。

 御霊を受けた者は神の子です。生ける神が生ける神の子として見ているのです。皆様をイエスと同じように見ているのです。これに対して感動しなければならないのです。

 私たちに御霊を与えられたのは、ユダヤ人に福音を伝えるためです。そのためにまず日本人に伝道するのです。現代文明は間違っている。今の人間は死んでいるということを言って、言って、言いまくるのです。死なない命がある。とこしえの命があるということを、力を尽くし、心を尽くして言うのです。そうしたら評判になるでしょう。それに対して必ずユダヤ人が注目するはずです。

 ユダヤ人は日本には何かがある。日本で何かが起きると見ているのです。現世のユダヤ人の指導者が、世界情勢に往生しているのです。行き詰まった文明をどうしていいか分からなくなっているのです。

 政治、経済のトリックで何とか世界中の人をごまかそうとしていますが、やがてどうにもならなくなるに決まっています。そうしたら私たちの言うことに注目せざるを得ないのです。少しは真面目なユダヤ人もいるはずです。

 現代文明は死の文明です。近世文明は人間から素直さを奪ってしまったのです。今の人間は素朴に見ることができなくなっているのです。

 シェークスピアの劇には人間の素直さがたくさん出ています。今の人から見ると古くさいように見えますが、古くさくないのです。これが本当の人間の片鱗を示しているのです。

 今の人間は全部死んでいるのです。くだらない文明意識、人権意識によって死んでいるのです。これは煮ても焼いてもどうにもならないものですから、放下するしかないのです。

 そうしてイエスに目をつける。イエスを受け取るしかないのです。これをユダヤ人に述べ伝えること、そして神の国を伝えることが、私たちの使命であり、責任です。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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