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「神の国に入る(2)」


 イエスは神の国へ入れと言っています。誰でもその気になれば神の国に入れるのです。神の国へ入る方がよほど得をするのです。何も死ぬことはない。死ぬ必要はありません。現世に生きているままで神の国へ入れるのです。現世の生活は必ず神が引き受けてくれるのです。

 どうしてもしなければならないことは、自分の生活の店じまいです。自分で生きることをやめるのです。自分で生きていると、有形無形の色々なものを溜め込むのです。しっかりと溜め込むのです。

 この世に生きている自分がいると思っている。この世に生きている自分は必ず死にます。絶対に死にます。死ぬに決まっているのです。

 記憶が霊魂を裁くのです。死んだら分厘までも償わなければ地獄から出られないのです。聖書が分かったと思っているその記憶が、地獄の焚火になるのです。聖書が分かって何になるのでしょうか。「自分を捨て、自分の十字架を負いて私に従って来なさい」というイエスの言葉を実行する以外にないのです。自分が聖書の勉強をするよりも、自分を捨ててしまえばいいのです。それで終わりです。

 なぜ自分が捨てられないのでしょうか。なぜ自分を捨てる気にならないのでしょうか。

 ヨハネは言っています。

 「すべての人を照らす誠の光があって、世に来た。彼は世にいた。そして世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分の所に来たのに、自分の民は彼を受け入れなかった。しかし、彼を受け入れた者、即ちその名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」(ヨハネによる福音書1・9~12)。

 これをじっくり読んでいきますと分かります。聖書の言葉は信じるか信じないかで、勝負が決まるのです。もし信じられないポイントがあるなら、どんどん神に聞いたらいいのです。結局信じるか信じないかのどちらかになるのです。

 神の言葉に命がある。言葉と命は同じものです。言葉が現在の世界を造っているのです。命には働きがあります。これを現代的に言いますと電気になります。すべての生き物には電気があるのです。電気があるものは生きているのです。どんな植物でも、どんな小さな虫でも電気があるのです。

 命には電気という働きがあります。これが言葉です。電気は言葉のことです。電気の律動が味になったり、音になったり、色になったり、形になったりしているのです。私たちが見ているのは、すべて電気現象ばかりです。電気でないものは何もありません。

 言葉に命があると言っています。命に言葉があると言ってもいいのです。これは電気のことなのです。

 電気は神から出るものであって、これが光になるのです。光になるというのは命の灯になるということです。

 自分が生まれてきたという運命が死です。この運命に勝つことが命を求めることです。そのために誠の光があって、世に来たのです。世に来たというのは肉体的に現われたということです。

 「彼は世にいた。そして世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた」とあります。世を私として読み替えてみますと、彼は私にいた。そして私は彼によってできたのであるが、私は彼を知らずにいたとなるのです。これが洗礼を受けるまでの状態です。

 父と子の聖霊の名によって、バプテスマを施せとイエスが命令しています。これはイエスがキリストとされてからのことです。復活してからのイエスが、このように命令したのです。これは宇宙的な命令であって、霊なる非現象の世界、肉である現象の世界を貫いて、霊にも肉にも通用するような、絶対的な原則が解明されたのです。

 父と子の聖霊の名によってバプテスマを受けますと、今まで感じなかった良心が働き出すのです。それまでの良心は、自分自身の利害得失で考えた良心です。自分自身の利害得失でなく、神の名によって自分自身の霊魂を見なければならないような気持ちが、上から降りてくるのです。これは洗礼を受けた人が誰でも経験していることです。

 どんな教会で、どんな牧師の洗礼を受けた人でも、父と子の聖霊の名によって、汝にバプテスマを施すと言われると、三位一体の神の名が働くのです。どこの教会で洗礼を受けた人でも、こういう経験をしているはずです。

 洗礼を受けた人はその時の経験をもう一度思い浮かべてみてください。その時の気持ちになって、私の言うことをお聞きになったら全部分かるのです。その後、良き良心を崇めようとしないで、自分の肉欲に従って生きているために、いつか知らない間に水のバプテスマの意味が消えてしまったのです。もう一度それを取り返すのです。

 良き良心に従って見るというのは、自分は肉の人間ではない、霊魂であるという立場に立つのです。水によって造られた世界で、水を被るということは肉体的存在が消えてしまったということです。神の言葉に従った魂になるのです。人間の肉の思いから出てしまって、神の御心に従った魂に変化してしまう。これが良き良心が与えられる原理です。こういう形で、皆様は良き良心に従って見ることができるのです。

 洗礼を受けると皆様の魂が目を覚ますのです。人間には初めからすばらしい機能が与えられていますけれど、三位一体の神の名によって洗礼を施されるまでは、その機能が眠っているのです。これが目を覚ますのです。この状態が良き良心です。

 十節にありますように、彼は命の光です。本当の命、言葉である命、魂の本性です。彼は私にいた。魂の本性である彼の言葉は私にいたのです。初めからいたのです。これが洗礼によって目を覚ますと、神に対して命を確認することになるのです。

 世は自分自身のことです。彼は自分にいた。自分は彼によってできたのであるが、自分は彼を知らなかったとあります。皆様が生きている命が、そのまま神の言葉の命です。神が命となって皆様は生きています。

 同じ箇所の十四節に、言葉が肉体となったとありますが、これは皆様自身のことです。肉体となったという日本語訳は間違っていて、肉となったと訳すのが正しいのです。

 言葉が肉となった。これが今皆様が生きている状態です。人間の五官の働きは神の言葉です。これが理性です。目で見ていることが理性の働きです。耳で聞いていることが理性の働きです。

 十二節に、彼を受け入れた者、即ちその名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのであるとあります。

 イエス・キリストを受け入れるとはどういうことか。どのように受け入れるのか。生きているという本質が魂の実体です。五官の働きの本性、目で見ている、耳で聞いていることの本性が、普通の人間では分からないのです。良き良心でないと分からないのです。

 洗礼を受けた人でも、良き良心を基礎として生活しようという真面目さがない人には、分からないのです。洗礼はどんな受け方であっても、一応誠実な気持ちで受けたら、良き良心を与えられるのです。しかし良き良心によって生活するか、しないかは本人の自由です。

 自分の五官の本源が、非常に微妙なものであるという気持ちが分かってくるまで、良き良心を用いるようにするのです。良き良心をどのように用いるかと言いますと、例えば月を見ているような気持ちです。お風呂に入って、ああいい湯だなと思っているような気持ちが、良き良心によく似ているのです。月を見ているのが一番分かりやすいでしょう。雪景色もその一つであるかもしれませんが、いわゆる雪月花です。これをじっと見ている時の気持ちには、おのずから良き良心が働いています。

 特に洗礼を受けた気持ちで見ている人には、普通の人間には感じられないような透明な感覚が、心の底から湧いてくるのを感じるでしょう。芸術的な良心のようなものです。歌を詠むような心です。これは良き良心とは言えませんが、芸術的なセンスはこれに近いのです。

 こういうことを西田哲学では純粋経験と言っています。できるだけそういう気持ちで見るようにしてください。詩や俳句に耳を傾けるような、絵を見るような感覚を持っていると、インマヌエルが分かってくるのです。自分の魂が神によって生かされていること、神が共にいますことが分かってくるのです。

 即ち、「その名を信じた人々」と書いているのがそれです(同1・12)。イエスを受け入れると、イエスの人柄が移ってくるのです。本当にイエスを受け入れれば、イエスの人柄がその人の気持ちに染み込んでくるのです。理論的に少し加えれば、その名を信じるということになるのです。

 神にかたどりてという言葉がありますが(創世記1・26)、自ら命を持っているのが神です。神は誰からも命をもらっているのではありません。

 宇宙の命には色々な働きがあるのです。命の働きが電気です。電気は多事多端に働くのです。千変万化して働くのです。人間の五官で受け取られるものは、全部電気です。五官はまるで電気のレシーバーのようなものです。これは不思議なものです。

 地球は電気に包まれているのです。電離層、バンアレン帯は電気の層です。これが地球を包んでいるのです。地球が生きているのは電気があるためです。生きているのは電気を感じているのです。色も味も、栄養も形も、香りも電気現象です。電気と神とは不即不離の関係になっているのです。

 ヨハネの黙示録に、「御座から稲妻と諸々の声と雷鳴が発している」とあります(4・5)。絶対者の御座から稲妻が出ていて、それが色々な形や音、色、味、栄養になっているのです。これを皆様の五官が受け止めているのです。

 人間の五官は、神の命を女性的に受け止めるのです。魂は初めから性に対する受け止め手になっているのです。神の性が大自然になって現われている。これが神の愛の表現です。神は愛に決まっています。だから皆様の目や耳は、大自然に現われた神の愛を、そのままストレートに受け取っているのです。

 五官は神の愛を受け止めている。これが本当のセックスです。こういうセックスを経験するのです。これは極上のセックスです。人間が考える肉のセックスは性欲ですが、神のセックスは愛です。

 愛と欲とは全然違うのです。夫婦関係もここまでいかなければ、本当の救いの面白さ、有り難さが分かりません。聖書を勉強する楽しさ、面白さ、有り難さが分かると、「絶えず祈れ、常に喜べ、すべてのことに感謝せよ」ということが実現できるのです。五官で神の愛を実感するのです。イエスはこういうことを経験していたのです。これがキリストの花嫁になる条件です。そうすると麻の細布を着ることを許されるのです。

 今までの自分の命にこだわらないで、もっと上等の命に目をつけるのです。この世にせっかく生まれたのですから、命の本当の味を味わってください。

 五官は命の味を知っているのです。「あなたの目が正しければ、全身も明るいであろう」と言っています(マタイによる福音書6・22)。目の働きが正しければ、生まれる前のことから死んだ後のことまで全部明るくなるのです。全部分かるのです。

 皆様は人間として生きています。肉体人間として生きています。この意識は闇です。これが精神的に死んでいることになるのです。その証拠に、悩み、苦しみ、悲しみ、不平不満が渦巻いているのです。この状態が闇です。これが死です。暗いのです。「光は闇の中に輝いている。闇はこれに勝たなかった」とあります(同1・5)。

 皆様は生きています。命が与えられている。命がそのまま光です。神に命を与えられていながら命が分からない。生きていながら命が分からない。これが暗きです。光は暗きに照っていながら、それを悟ることができない。そういう人は地獄へ行かなければならないのです。生きていて、悩み、苦しみ、悲しみ、不平不満がある人は死んでいるのです。そういう命を自分の命だと思っている人は、自分の中に悩み、苦しみ、悲しみ不平不満がどんどん積もっていくのです。その人の記憶の中に積もっていって、地獄の火になるのです。自分の人生で、その人が造った記憶がその人を裁くのですから、逃げ走りは絶対にできないのです。

 大体、人間は自分で生まれたいと思って生まれたのではありません。皆様の人生は初めから借り物です。皆様の命はどこにもありません。それを自分の命だと思っていることが、暗きです。

 皆様がこの世に生まれたこと、自分の家庭で育ったこと、学校へ行ったこと、世間で色々学んだことも全部肉体的に生きているという気持ちでしてきました。これは生きていたのではなくて、死んでいたことになるのです。肉体的な命では生きていましたが、魂としては死んでいたのです。

 その証拠に、皆様は固有名詞だけで生きてきました。固有名詞を自分だと思っていたのです。それはこの世の命です。この世の命というのは、この世に属する人間の命ですが、神の子の命ではありません。

 この世に属する命で何十年も生きてきたのは、神の子として生きてこなかったことを意味するのです。ですから、神の子としては死んでいたことになるのです。「すべての人を照らす誠の光があって、世に来た」(同1・9)。これは言葉としての光です。固有名詞の人間で生きているのは、暗きです。暗きは死んでいくに決まっている人間のことです。

 弁証法的に言いますと、人間はテーゼです。イエスはアンチテーゼです。人間という存在に対して、イエスはアンチテーゼになっているのです。弁証法的に言いますと、そういうことになるのです。

 イエスはすべての人間を否定するのです。すべての人間はイエスを否定するのです。お互いに否定しあっているのです。

 アンチテーゼは光です。普通の人間はテーゼであって、闇です。テーゼである人間に対して、否定する者がやって来た。これがすべての人を照らす光です。それによって否定された者は救われるのです。光によって否定されると闇がなくなってしまう。そして光になるのです。これが救いです。

 闇が光に変わってしまうのです。光は闇の中に輝いている。すべての人間が闇であって、その真ん中に光が飛び込んできた。そこで光は闇の中に輝いたのです。

 イエスは人間的な固有名詞を持っていなかったのです。親の子ではなかった。神の子でした。皆様は親の子だと思っているでしょう。そういう気持ちで何十年も生きてきたのです。これが間違っているのです。すべての人間は全部神の子であって、親の子は一人もいないはずです。

 イエスには自分の母親はいなかったのです。父親もないと言っているのです。母親と思っていたら、とてもマリアに向かって「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか」と言えなかったでしょう(ヨハネによる福音書2・4)。皆様もそう考えられるでしょうか。そう考えられなかったらだめです。

 イエスは言っています。

 「地上の誰をも父と呼んではならない。あなた方の父はただ一人、即ち天にいます父である」(マタイによる福音書23・9)。

 天にいますというのは、命の配給をしている見えない所という意味です。命の配給の本元が父であって、人間にとっての本当の父はこの世にいないのです。もちろん母もいません。肉体から生まれたというのは、単なる細胞分裂の現象です。これは生まれたことにはならないのです。

 生まれるというのは無から有を生じることです。人間が子供を産むのは細胞が分裂しているだけで、当たり前のことです。これは産むとは言わないのです。細胞分裂によって産まれたのは肉の人間であって、魂ではないのです。神の子ではないのです。

 私たちがこの世に生まれたのは、この世的な言い方であって、神から見ますと、霊なる魂が肉なる世界へ放り出されたことなのです。これは捨てられたことです。罪の下に売られたのです。

 パウロは「私は肉につける者であって、罪の下に売られているのである」と言っています(ローマ人への手紙7・14)。これは捨てられたのです。肉の世界へ魂が捨てられたのです。

 人間は罪の真ん中へ捨てられたのであって、別の言い方をすると殺されたのです。死なしめられたのです。例えば、父なる神と一緒にいたイエスが、この世に捨てられたように皆様も捨てられたのです。

 イエスがこの世に放り出されたように、皆様も放り出されたのです。そこで、神を憎いと思ったらだめです。神を敵に回しているからです。なぜ神がそんなことをしたのか。皆様のようなかわいい子を、なぜ肉の世界へ捨てたのか。なぜ捨て子としたかです。

 肉の思いは死です。肉の世界は死の世界です。神は死の世界へ魂を放り込んだのです。この世に生まれたことは死んだことになるのです。誕生日どころか、命日なのです。誕生日は命日です。

 この世に生まれるまでは生きていましたが、この世に生まれたのは肉の世界へ放り込まれたのですから、死んだことになるのです。誕生日と命日を間違えるほど人間は慌て者で、愚かです。人間は死んだ状態でこの世に現われました。何のためか。なぜこのような処置を受けることになったのか。それは死を味わった者でなければ、本当の命の経験ができないからです。死を経験した者でなければ、誠の命の経験ができないからです。

 皆様が天にいたままの状態では、神の元にいる状態のままでは、命の経験ができなかったのです。

 イエスのような人でも、神の御座において神と一緒に生きていました。その時、誠の命ではなかったのです。イエスが神から離れてこの世に放り込まれて、初めて父の内にいることが本当の命であることが分かったのです。父と共にいることがどれほどすばらしい命であるかを、イエスは経験したのです。

 イエスは「天の父が私を遣わした」と言っています。遣わされたことによって、命の経験ができたのです。だからイエスは、「私は甦りであり、命である」と言っています。「私は道なり、誠なり、命である。私は命のパンである」と言っています。自分が命を経験したから、そのように言えたのです。死なしめられるような状態でこの世に生まれなかったら、イエスでも経験することはできなかったのです。

 本当の命とは何か。生と死を一つにして命になるのです。命の中に生という面と死という面と二つあるのです。生だけでは命と言いません。一枚の紙に裏表があるように、命には生と死と両面があるのです。両方を経験しなければ命とは言えないのです。

 人間は鼻で息をしていながら、生と死の両面を経験しているとは思っていない。吸う息が生で、吐く息が死であることが分からない。そういう人間には肉の思いを十分に知らせる必要があるのです。苦しみや悲しみ、悩みを十分に教えなければならない責任が、神にあるのです。

 鼻から息を出し入れしていることが、生理的な意味での生死にはなりますけれど、心理的な死を味わったことにはならないのです。そこで人間の生活は、様々な苦しみ、悩み、悲しみ、不平不満、トラブル、乱轢、不和、反目、矛盾、争いが無限に起きてくるのです。

 固有名詞の人間が肉体的に生きていると、必ず苦しみ、悩み、矛盾があるのです。これが死を味わっていることです。人間生活には、人間関係、健康問題、経済問題、家庭問題で年中トラブルがあるのです。肉体的に生きていますと、必ず乱轢や悩み、矛盾が起きるのです。これが死です。

 これを死と考えないで、ただ悩みだと考えて神に反抗する気持ちで生きていますと、不平不満になるのです。呪い、怒り、呟きになるのです。これが地獄の刑罰の材料になるのです。

 現世において、精神的な苦しみを味わっていることが、死を味わっていることだ、自分の肉に対して神が死を味あわせているのだということが分かると、今度は恵みが分かってくるのです。イエスはそういう生き方をしていたのです。これを十分に弁えなければいけないのです。神は愛なるお方であるから、人間を肉の中に放り込んだのです。まず死を経験させているのです。

 ですから、これから死んだら困ると思う必要はありません。死んだら困るどころか、今現在、死んでいるのです。これ以上死なないのです。だから死んだら困ると思わなくてもいい。命を捜そうと考えたらいいのです。

 すべての人間は死んでいるから、死から脱出することを考えてもだめです。脱出できないほど死んでいるのです。

 皆様の五官の機能の働きをイエスの実体というのです。神の機能が人と共にあるのです。神が共にいるのです。それが救いになるのです。目で見ていることが救いになるのです。現実に神の救いを舌で味わうのです。神の救いは舌で味わえるのです。

 とこしえの命は目で見えるのです。イエスは見ていたのです。イエスは「私は父にいる。私を見た者は父を見たのである。私と父は一つである」と言っています。生きているうちにこの経験をするのです。

 ヨハネは言っています。

 「彼を受け入れた者、即ちその名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」(ヨハネによる福音書1・12)。

 「すべてイエスのキリストであることを信じる者は、神から生まれた者である。すべて産んでくださった方を愛する者は、その方から生まれた者を愛するのである」(ヨハネの第一の手紙5・1)。

 皆様の五官の働きの神髄はイエスです。イエスはアラミ語でイエー・ズー・スーと言います。ヘブル語ではエー・シュー・アーです。これはエホバはわが救いという意味です。

 皆様の五官の働きの実体は、イエー・ズー・スー、イエスです。なぜかと言いますと、神の愛が分かるのです。神の色が分かるのです。このケーキがおいしい、あの人が好きだと思うのは神が分かっているのです。おいしい味というのは、神の味であって、これを皆様の五官は味わい分けることができるのです。

 この饅頭は昨日食べたものよりおいしいとか、ちょっと辛さが足りないとか、ちょっと甘さが足りないとか微妙な味の違いを味わい分けるのです。これは神の愛を味わい分ける能力が、皆様にあることを意味するのです。これは神が共にいますからできるのです。ああおいしいと思っている時は、口を通して神の救いを経験しているのです。

 ちょうど良い温度の風呂に入った時には、何とも体中がのんびりします。その時、人を呪うという思いは出てこないでしょう。いくら根性が曲がった人でも、いい温泉に入っている時には、人を憎む気持ちにはならないでしょう。

 五官は神と一つになっているのです。一切の邪念、妄想には関係ないのです。のどが渇いた時に、清涼なる水を飲んでください。邪念妄念がすっかり消えているのです。肉欲の思いに関係がないのです。

 素朴な感覚になって一切の理屈を抜きにして、目や耳、舌が何を経験しているのかをよく考えてください。いつでも神の愛を経験しているのです。毎日見たり聞いたり、食べたりしていながら、まだ神の愛が分からないかと言いたいのです。

 神は五官の働きを通して非常に詳しく、非常に深く、現実的に愛を教えているのです。これは神と共にいることなのです。イエスは父と共にいますと言っています。皆様もまた父と共にいるのです。

 ジャガイモはジャガイモの味がする。ジャガイモがサツマイモの味にならないのです。これを神の聖別と言います。いつまでもジャガイモはジャガイモです。サツマイモはサツマイモです。これを神の祝福と聖別というのです。

 神はそのように万物に祝福を与え、聖別して自ら安息しています。これを皆様がどのように味わうのか、どのように神の愛を理解してくれるかを、じっと見ているのです。今、神の救いが成就しているのです。これをイエスは経験していたのです。五官の働きがそのままイエスの働きをしているのです。これが分かれば皆様は新しく生まれるのです。イエスがキリストであることを信じる者は、神から生まれたのです。五官が救いであることが分かったことが、イエスがキリストであることが分かったことになるのです。

 皆様は毎日毎日、衣食住を通してこれを経験しているのです。これを意識的に確認して神を崇めたらいいのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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