般若心経の冒頭に、観自在菩薩という言葉があります。観音さんが自在を見たということですが、これは何を見たのかということです。
自在は自由自在の自在とも言えます。自というのは初めから在ったものという意味です。自とはからという意味です。原点、根本があるとします。根本から始まったという意味のからです。観とは見ること、感じること、見極めることです。見極めて自分のものにすることです。これが観です。
観自在というのは初めからあったことを見たのです。観自在菩薩が大変な秘密を見極めたのではないのです。当たり前のことに気がついただけのことです。
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多とありますが、観自在として生きている状態が、勝手に般若波羅蜜多になったのです。または般若波羅蜜多を行じていることに、気がついたという意味なのです。
観音さんは自分が生きていることの実体にふっと気がついたのです。これが観自在です。本当の悟りというのは気がつくことです。気がつくことが本当の悟りです。
皆様が生きていらっしゃることの中には、般若波羅蜜多があるから生きているのです。般若波羅蜜多がないものには絶対に生きることができないのです。
皆様は命があるから生きているのです。命とは何なのか。これが初めからあったものです。命が初めからなかったら、皆様が今生きているという事実があるはずがないのです。
地球が自転公転しているのは、いのちによるのです。いのちは初めからあったのです。地球ができる前からいのちがあったのです。
初めからあったいのちが地球という格好で現われた。それだけのことです。
皆様が生まれる前にいのちがあったのです。皆様の取り分だけのいのちがあったのです。これがこの世に皆様という格好で現われたのです。これに気がつけば死ななくなるのです。私は簡単に述べていますが、大変なことを述べているのです。
自分が生まれる前にいのちがあった。このいのちに気がつけば死なないのです。大体いのちは死なないものです。死ぬものはいのちとは言いません。生きている状態は死にますが、本当の命は死なないのです。
生というのが本当のいのちです。命というのは人間が現世に生きている状態を指すのです。皆様が現在肉体的に生きているという状態が命です。運命とか天命、寿命という場合には命という字を使います。
命は人間が現象的に生きているという文字であって、命の本質を意味するものではありません。
人間が生きていることの中にある本物を掴まえることができたら死なないのです。自分は死ぬと思っている人、また死ななければならないと思っている人は、自分の業(ごう)によって束縛されてしまっているのです。
四苦というのは人間の業です。人間には生、老、病、死という四つの苦しみがありますが、これが業です。人間が肉体的にこの世に生きていることが業です。
人間が生きていることが業です。現世に生きていることにこだわっている状態では、本当のことは分かりません。自分に家族があるとか、商売をしているとか、年令が何才であるとか、こういうことにこだわっている状態では、自在を観じることができないのです。
自在とは初めからある命のことです。これを観音さんが見たのです。観音さんは見たのですが、世界歴史の実体に当てはめて話をすることができなかったのです。
観音さんは大乗仏教が造った抽象人格です。龍樹が造った抽象人格です。人間の悟りを人格化する状態で言いますと、観自在、観世音という言い方になるのです。
これは悟りの状態を人格化したのです。般若波羅蜜多の一つの状態を人格的に呼んだのです。これが観自在です。
観自在という人間がいたのではないのです。人間が悟った気持ちの状態を抽象人格として見ているのです。これが観自在です。
初めからある命は死なない命です。皆様がこの世に生まれてきたから死ぬことになったのです。そこでこの世に生まれてきたということを空じるのです。この世に生まれてきたという気持ちを捨ててしまうのです。そうすると初めからのいのちが分かるのです。これが本当の命を悟ることになるのです。そうすると死なないのです。
死ななくなると聞いて、そんなことがあるはずがないと思われるでしょう。それは生老病死に捉われているからです。この世に生きていることにこだわらないという気持ちを持って頂きたい。そうしたら分かるのです。
初めにいのちがあったから、人間は生まれてきたのです。ところが生まれてきたことにこだわっていますと、やがて死ななければならないことになるのです。
生まれる前のいのちを見つけて下さい。そうすると死なないいのちが分かるのです。現在の物理次元の地球は将来必ず壊れてなくなります。人間が住めなくなる時が来るでしょう。地球が解体してしまうからです。
生あるものは必ず死ぬのです。形があるものは必ず壊れるのです。地球という形があるものは、必ず滅してしまうのです。必ずそうなるのです。
人間が分かったとか、学理学説と言っていますが、結局地球がある間だけのことです。こんな地球を当てにするのではなく、地球ができる前の地球を見つけて頂きたいのです。
本当のいのちが地球として現われているのです。地球そのものが生物です。地球は生きているのです。だから台風があったり、地震があったりするのです。地球が息をしているのです。
今の地球ができる前の地球があったはずです。これを見つけたら壊れない、潰れない地球が分かるはずです。このことを新約聖書では神の国と言っています。
イエスは「神の国と神の義を求めよ」と言っています。イエスはこれが分かったのです。分かったから、十字架によって殺されたが復活したのです。死を破ったのです。
死を破ることはできるのです。日曜日はイエスが死を破った記念日です。イエスが死を破ったのは歴史的事実です。だから難しいと言わないで、般若心経を毛嫌いしないで、聖書を敬遠しないで頂きたいのです。
観音さんに分かったことが、皆様に分からないはずがありません。観音さんは皆様と同じ人格です。だから観音さんに分かったことは、皆様にも当然分かるのです。
現世に生きている人間は、例外なく生老病死に捉われています。生というのは今人間が生きていることです。老は現世に生きていて年をとるという感覚です。病気になり死んでいくと考えています。
現世に生きていることを基準にして考えている。これが人間の業(ごう)です。人間は業に押さえ込まれているのです。
魂というのは五官が働いている状態を指しているのです。従ってこれは肉体的に働いているのです。
生はいのちの本質が働いている状態です。生まれる前のいのちが今魂として働いているのです。
人間はこの世に生きるために生まれてきたのではないのです。この世で生活するために生まれてきたのではありません。生まれる前のいのちを見つけるために生まれてきたのです。
生まれる前のいのちを悟るか悟らないかということのためにだけ生まれてきたのです。いのちの本物、本質を掴まえることができるかできないかが、人生全体の目的です。生活することが人生の目的ではありません。いのちを見極めることが目的です。
ですから、難しいとか、時間がないとか言っておれないのです。生活していてもしかたがない。ただ死ぬに決まっているだけです。現世でどんな大きな仕事をしても、どんなに成功しても、どんなに地位や財産を得ても死ぬに決まっているだけです。
人間は生老病死という業に押さえ込まれているのですから、現世にただ生きていてもしかたがないのです。死ぬに決まっているからです。
そこで死ぬに決まっている人生に見切りをつけて、般若波羅蜜多の気持ちにならないかと言っているのです。
日本人は率直に言いますと、運が良くない民族です。これは日本人だけでなくて、アメリカ人でもイギリス人でも同じです。ユダヤ人以外の民族は皆運が良くないのです。地球が何のために造られたのかということを、先祖代々知らなかったのです。本当のいのちを弁えている祖先がいなかったのです。
だから日本人の考えはすべて現世に属する考えです。従って日本人的な物の考え方から、解脱する勇気が必要です。
まず知って頂きたいことは、皆様の魂は皆様自身のものではないということです。現世に五官によって生きているという事実は、皆様自身の所有物ではないということです。天のものです。
天に命があって、その命が今私たちに現われているのです。魂を自分自身の所有物のように考えて、どのように生きようと自分の勝手だというわがままな考えを持っていると、死んでから大変なことになるのです。
いのちは自分のものではありません。これを自分のものとして勝手に使っていたのですから、これに対して刑罰を受けるのは当然のことなのです。
皆様の衣食住をご覧下さい。服の着方、食事の仕方、家の住み方、仕事の仕方は神が肉体を持った生き方なのです。もし神が肉体を持ったら、皆様と同じような生き方をするに決まっているのです。
皆様は神と同じような生き方を許されているのです。そういうことを今皆様は経験していらっしゃるのです。
例えばマグロの刺身を食べるとおいしい味がします。マグロの刺身の味とは何でしょうか。これは生まれる前の命の味です。
四月になると桜の花が爛漫と咲きます。安原貞室が「これは これはとばかり 花の吉野山」と詠んでいます。爛漫とした桜の花は何が咲いているのかと言いますと、皆様が生まれる前のいのちがそのまま咲いているのです。地球ができる前のいのちが、花という格好で現われているのです。
皆様が桜の花を見てきれいだとお考えになることが、皆様の五官の本質が永遠の生命を看破するだけの力があるということです。
皆様の魂には、観自在菩薩になるだけの力が十分にあるのです。ところが、日本人は現世に生きるだけに一生懸命になっている。生老病死という人間の業に掴まえられているのです。そこで自由に物が考えられなくなっているのです。
自分の常識、自分の経験、自分の記憶から抜け出すことができなくなっているのです。皆様は現世に執着を持っている。現世に執着を持ちすぎているのです。
皆様の魂のあり方が、大自然のあり方に従っていれば、勝手にご飯が食べられるに決まっているのです。最澄が「道心に餌食あり」と言っています。道を究める心さえあれば、勝手にご飯が食べられると言っているのです。これは本当のことです。
鳥が生きている状態、魚が生きている状態が本当のいのちを示しているのです。人間には現世に生きる義務みたいなものがありますけれど、現世で働くために生まれてきたのではありません。
いのちの本質を見極めるために生まれてきたのです。観自在というのは人間の本当の仕事です。商売をしたり、学校の先生をしたり、弁護士になったりしていますが、これは本当の仕事ではありません。
真面目に働く気持ちがあれば仕事はあるのです。仕事よりもっと大事なことは命を見極めるということです。
いのちを掴まえるか掴まえないかによって、人生の成功、失敗かが決まるのです。皆様は花の美しさが分かるのです。刺身の味が分かるのです。刺身の味が分かる人は、生まれる前のいのちが分かるに決まっているのです。その気になれば必ず分かるのです。
皆様は天のいのちを味わっている。神のいのちを味わっている。いのちの本質は神です。いのちを人格的に表現したら神になるのです。神を機能的に表現すると、いのちになるのです。いのちと神は同じものなのです。
皆様は宇宙でただ一つの神のいのちを預けられているのです。いのちは神からの預かりものです。これを自分のものと考えたら、背任横領になるのです。他人のものを自分のもののように勝手に考えるからです。
人間は自由にいのちを使うことができますが、自由に使う権利が与えられているからできるのです。自由に使う権利が与えられているということは、それに対する責任を当然与えられているのです。
基本的人権には当然基本的責任がついて回るのです。この責任を果たすことが、観自在という境地に帰ることです。
イエスが死を破ったという事実があるのです。イエスが死を破ったのなら、皆様も破れるに決まっています。このことをよくご承知頂きたいのです。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)