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神の国へ入る秘訣


 私たちが生きているということは、太陽系宇宙に現われている幄(あげばり)(現象世界)の実体を見ること、見ると同時にそれを通り抜けてしまうことが、一番大きいテーマになるのです。

 神は人間を罪の下に閉じ込めたのです。これはどういうことかと言いますと、現象世界に肉の思いを持たせて生かしているのです。

 現象世界で肉の思いを持って生きていれば、現象が実体であると思えるに決まっているのです。これを罪の下に閉じ込めたと言っているのです。

 閉じ込められた状態から脱出できるかどうか。脱出できない者は、神の御心を弁えることができないし、神の処置を悟って自分自身の命として用いることができなかった者です。

 人間は現象世界へ肉の思いを持たされて放り出された。罪の下へ閉じ込められた。最悪の条件を与えられていながら、実はこれはカルマであって、罪の下へ閉じ込められたという言葉の本当の意味を考えると、この世界から脱出することができるのです。

 現象世界、現世は仮の世界、妄想の世界、執念の世界であって、実存するものではないのです。

 肉の思いは実体的な思いではないのです。肉の思いを持たされたことによって、肉体的に存在することが、実体的に存在すると思い込まされることになるのですが、その肉の思いを捨てて、霊の思いを持つことができた者だけが、神の元に帰ることができるのです。

 肉の思いから出ることができなかった者は、ノアの洪水の後における神の契約を理解できなかった者です。神の契約の真意を理解することができなかった者は、新天新地へ入ることができないのです。

 虹の契約とは何か。聖書に次のようにあります。

 「主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思い図ることが、いつも悪いことばかりであるのを見られた。主は地の上に人を造ったのを悔いて心を痛め、『私が創造した人を地の表からぬぐい去ろう。人も獣も、這うもの、空の鳥までも私はこれらを造ったことを悔いる』と言われた」(創世記6・5~7)。

 神が創造した人間が全く肉になってしまって、神を呪い続ける存在になってしまった。そこで洪水を用いて、人間も地に這う生き物も、空の鳥も全部滅ぼしたのですが、ノアだけが神の御心に適う生き方をしたので、箱舟を造り、ノアの一家と箱舟に入った動物、空の鳥だけは絶滅を免れたのです(同7、8)。

 洪水が終わって箱舟から出たノアは次のようなことをしたのです。

 「ノアは主に祭壇を築いて、すべての清い獣とすべての清い鳥との内から取って、燔祭の祭壇の上に捧げた。主はその香ばしい香りをかいで、心に言われた、『私はもはや二度と人のゆえに地を呪わない。人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである。私はこのたびしたように、もう二度とすべての生きたものを滅ぼさない。地のある限り、種蒔きの時も、刈り入れの時も、暑さ寒さも、夏冬も、昼も夜もやむことはないであろう』。

 神はノア及び共にいる子らに言われた、『私はあなた方の後の子孫と契約を立てる。

 またあなた方と共にいるすべての生き物、あなた方と共にいる鳥、家畜、地のすべての獣、即ちすべての箱舟から出たものは、地のすべての獣に到るまで私はそれらと契約を立てよう。私があなたがたと立てるこの契約により、すべて肉なる者は、もはや洪水によって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は再び起こらないであろう』。

 さらに神は言われた、『これは私とあなたがた、及び、あなたがたと共にいるすべての生き物との間に、世々限りなく私が立てる契約の印である。

 即ち私は雲の中に虹を置く。これが私と地の間の契約の印となる。私が雲を地の上に起こす時、虹は雲の中に現われる。こうして私は、私とあなたがた、及び、すべての肉なるあらゆる生き物との間に立てた契約を思い起こすゆえ、水は再びすべての肉なる者を滅ぼす洪水とはならない。

 虹が雲の中に現われる時、私はこれを見て、神が地上にあるすべての肉なるあらゆる生き物との間に立てた永遠の契約を思い起こすであろう』。

 そして神はノアに言われた、『これが私と地にあるすべての肉なるものとの間に立てた契約の印である』」(同8・20~22、9・8~17)。

 神はノアとその家族、そしてあらゆる生き物一同に対して、二度と洪水によって滅ぼさないと言われた。それはノアの信仰のみを神が見ると決心されたからです。

 そして契約の印に雲の中に虹を置いたのです。これは何を意味するかと言いますと、洪水によってすべてが滅ぼされて幻になってしまった。地球が虹になってしまったことを意味しているのです。

 パウロは、「アブラハムは無から有を呼び出される神を信じた」と言っているのです(ローマ人への手紙4・17)。

 この箇所を英訳では、and calleth the things that are not , as though they wereと訳しています。これを日本語に直訳しますと、存在しないものをあたかもあったかのように、神が呼んでいるとなるのです。つまり、全く存在しないものですが、人間の目で見るとあったかのように思えるし、あるように見えるものが現象世界です。即ち現象世界は全く虹にすぎないと言っているのです。

 新天新地は神の永遠の契約を基礎にしてできるのであって、それに真っ向うから反対するのが肉の思いです。

 現実が存在する。現実の社会があるというのが肉の思いです。その思いを人間に与えておいて、その思いを空じることができるかどうか、肉の思いを解脱できるかどうかを神はじっと見ているのです。

 それでは森羅万象とは何か。パウロは次のように述べています。

 「聖書は、『すべて彼を信じる者は、失望に終わることがない』と言っている。ユダヤ人とギリシャ人との差別はない。同一の主が万人の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んでくださるからである。なぜなら、『主の御名を呼び求める者は、すべて救われる』とあるからである。

 しかし信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。開いたことのない者をどうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。『ああ、麗しいかな、良き訪れを告げる者の足は』と書いてある通りである。

 しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、『主よ、誰が私たちから聞いたことを信じましたか』と言っている。

 従って、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。しかし私は言う。彼らには聞こえなかったのであろうか。否、むしろ、

 『その声は全地にひびきわたり、

 その言葉は世界の果てにまで及んだ』」(ローマ人への手紙10・11~18)。

 現実の世界は、実存するのではなくてキリストの言葉のひびきが全地にあまねき、その言葉が地の果てにまで及んでいるのです。ひびきと言葉があるだけです。実体はないのです。

 キリストの言葉がひびきとして見られ、言葉として見ることができる者だけが、罪の束縛から解放されることになるのです。これが虹の契約の原理を弁えて、それに従って生きる人になるのです。

 虹の契約が、イエスが水から上がった時の彼の心境であって、虹の契約が理解できても、それを自分の生活の則として取り上げることができない人は、すべて神の子としてふさわしくない者であることを証明しているのです。だからその人は救われません。罪の下に閉じ込められて死んだ人は、罪の行く末にそのまま押し流されてしまうことになるのです。罪人の行く末というのは火の池です。

 ニューエルサレムと火の池が、将来の新しい地球の二つの要素です。ニューエルサレムに入れなかった者は、全部火の池に入ることになるのです。

 ニューエルサレムに入れる者は、現象世界において肉の思いを空じた(解脱した)人です。これは肉の人間から考えると、ほとんど喧嘩ごしとも戦争とも言えるような激烈な情熱がいるのです。

 イエスは言っています。

 「バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている」(マタイによる福音書11・12)。

 自分の命を捨てなければ、本当の命を得ることができない。これは自爆テロ、神風特攻隊のような行為になるのです。このような自分を捨てるという激烈な気持ちがなければ、永遠の生命を得ることができないのです。

 ですから、自分を愛する気持ちとか、自分の気持ちにこだわるとか、自分の感情を問題にしているようでは、とても肉の思いから脱出することはできないのです。

 これは仏教の禅でもやかましく言っています。禅では解脱、解脱と言いますが、解脱した後の自分自身がどうなるかということの説明ができないのです。仏教には解脱という思想はありますが、解脱という実体がないのです。

 釈尊は一切空であると考えた。なぜそう考えたのかと言いますと、彼はただそう考えただけではないのです。明けの明星を見たことによって、来るべき新しい世界を望むことができたのです。

 新しい世界を望むことができた感覚を、大円鏡智と言っています。これは形容詞であって、今の仏教にその実体はありません。

 大円鏡智、大きい鏡のような知恵というのは、神の経綸を見通して、来るべき新しい世界を心の鏡に写し取っている知恵をいうのです。形容詞としてはそういう言い方ができますが、本当は大円鏡智の実体は仏教にはないのです。

 形容詞は色々あります。例えば、観無量寿経には無量寿の当体は極楽である、ニューエルサレムであると言っています。極楽というニューエルサレムがあると言っていますが、どういう理由でそれがあるか。それができる原理と今生きている自分とがどういう係わりがあるかということを、論理的に説明できないのです。論理的に説明する原点がないのです。

 大円鏡智という言葉はあっても、自分の心が鏡になるような心構えを自分の中に置くことができないのです。

 釈尊自身は明けの明星を見たのです。見たことによって明けの明星の実体が分かったのです。これが釈尊の悟りの基礎になったのです。

 釈尊自身はこれでいいのですが、日本の仏教のお祖師さんは、これが分からなかった人ばかりです。明けの明星がさっぱり分からないのです。明けの明星が説明できる専門家は、日本にはいないのです。一人もいません。説明できる専門家がいませんから、分かる弟子もいないのです。

 神はこの日本で私たちに明けの明星の実体を教えてくださったのです。聖書の勉強をしながら、仏教の勉強もしたために、この秘密が解明されたのです。

 仏典の思想のだいたいの流れは、釈尊が悟った後の色々な言説、行動を記録してはいますけれど、釈尊自身の真意が分からないのです。

 釈尊が一切空と切言した理由はどこにあるのか。明けの明星の実体は何であるのか。明星を捉えた後の釈尊という人物の生活感覚はどこにあるのか。空じたというけれど、それは一体どういうことなのか。

 無量寿如来という言葉は、釈尊が造ったのではありませんけれど、現世を解脱してしまうと、無量寿如来が自分にあることが分かるのです。

 人間は肉の思いを解脱しても、自分が生きているという実体が消える訳ではありません。そうすると解脱した後の生きている実体は何なのか。

 肉の自分はいないと認識しても、心臓が止まる訳ではありません。その人が生きている気持ちはどういうものか。これを仏教では成仏と言います。成仏と言いますけれど、その内容は何を意味するのか。これがはっきり分からないのです。

 形容詞はたくさんあります。無量寿とか無量光とか、如来とか、解脱とか、成道、成仏と色々な言い方がありますけれど、現世の世界を踏まえてどうなるのか。現実に生きている自分の命を踏まえた状態で、生活するにはどうしたらいいのか分からないのです。

 無量寿如来と言いますけれど、無量寿如来を掴まえるには、自分のどこを掴まえたらいいのか分からないのです。

 帰名無量寿如来と言います。帰名というのは無量寿如来に対して自分の命が帰ってしまうのです。自分の思いを全部無量寿如来の中へ入れてしまえと言っているのです。

 そうしたいでしょう。そうしたいという気持ちはあるが、無量寿如来の当体が掴めないために、無量寿如来の中へ帰名することができないのです。これが正信偈という経文の根本的な間違いです。

 帰名無量寿如来、南無不可思議光、法蔵菩薩因位時とあります。法蔵比丘が悟った時の境地を自分のものにしたいと思うけれどできないのです。

 法蔵菩薩は釈尊のことです。法蔵菩薩は今はいないのです。釈尊は何を悟ったのか。どのように自分の命を見たのか。とにかく現世に生きている人間を解脱したことは確かです。それならどういう命を持つのか。これが分からないのです。

 成仏という言葉はあっても、実体は一つもありません。仏教の中に成仏がないのです。仏教を解脱して一万七千六百巻の経文を解脱して、聖書の中へ入って行かなければだめです。

 一切の虚構を解脱して、仏教を解脱しなければ、聖書の中へ入ることができないのです。

 聖書の中というものが、今の世界にありません。ユダヤ教にもないし、キリスト教にもありません。ただ私たちのグループにだけあるのです。これは全く奇怪なことです。本物の聖書、本物の命はそれほど高いものです。めったに買えないものです。

 現在の自分から出てしまわまければいけないのです。今の自分が生きている状態が、罪の下に閉じ込められている状態ですから、これから出るためには、真剣にならなければいけないのです。

 どうしたら真剣になれるかと言いますと、釈尊が見たように明けの明星を見ることです。明けの明星を見れば、ああ、これが本当の世界かということがはっきり分かるのです。今まで生きていた自分の世界が、全く嘘の世界であったことが分かるのです。

 そこで今まで生きていた自分、固有名詞の自分をはっきり捨ててしまうのです。

 そのひびきは全地にあまねく、その言葉は地の果てにまで到るのです。ひびきと言葉を掴まえるしかないのです。

 そのひびきと言葉は、現実の地球の中にありますが、肉の思いを持っている人には全く分かりません。

 花が咲いている美しさは、霊なることです。葉は肉ですが、美しさは霊です。私たちは花が咲いている命を見なければいけないのです。咲いているのは命が発露しているのです。命が発露しているのを見るのです。

 自分自身が現実に生きているのは、花が咲いているのと同じです。昨日生きていた自分の命が、今日もあるのとは違うのです。三年前、五年前、この世に生まれてから今日までの何十年かの命があると思ったら大間違いです。それは、葉がずっと葉のままであるのと同じことです。

 葉が花になるというのは、花になる瞬間を捉えることです。昨日生きていた自分、一昨日生きていた自分ではない自分が、今ここにいるのです。

 今ここにいると感じた時に、その人の魂に花が咲いているのです。これを掴まえるのです。今日咲いた花を明日も咲かす。明後日も咲かすのです。毎日咲かすのです。

 朝咲いた花を昼も咲かす。夜も咲かすのです。咲かし続けていくのです。これは難しいことかもしれませんが、神の助け手として、新天新地に生き残っていこうと思えば、難しいと思っていたらだめです。

 帰名無量寿如来、南無不可思議光を実行するのです。朝も昼も晩も実行するのです。自分に生きていたらだめです。正信偈の文句を毎日、毎日実行し続けるのです。念じ続けるのです。

 帰名無量寿如来を聖書で言い直しますと、イエスは主であるとなるのです。無量寿如来が自分の主になるのです。無量寿如来はイエス自身ですから、無量寿如来、即ちイエスは主であると言い続けるのです。

 これができるだけの根気が与えられた人は、救われるのです。できるだけの根気が与えられない人はだめです。根気は自分で造るものです。自分で造れば根気はできるのです。

 根気よくすれば根気は勝手にできるのです。信仰には根気が必要です。運、鈍、根と言いますが、根が一番必要です。

 鈍は誰でもありますが、根は帰名無量寿如来をし続けることです。その根気が必要です。これがあるかないかです。

 本当に新天新地に入ることができて、永遠の栄光、神の栄光を身につけて、神のヘルパーとして神の相談にあずかることができる人間は、めったにいません。それができない人は、火の池に行くしかないのです。火の池へ行った人は、永遠に悲しみ歯がみするしかないのです。

 とにかく生きているという瞬間、瞬間が、神の言葉であることを信じればいいのです。自分が生きているのではない。神の言葉が生きているのです。

 自分がテレビを見ているのではない。神の言葉である者がテレビを見ているのです。お茶を一杯飲んでも、神の言葉である者がお茶を飲んでいるのです。命の言葉がお茶を飲んでいる。自分が飲んでいるのではないのです。

 いつでも朝から晩までずっと機嫌が良く、気持ちを開いて、にこにこ笑って、ずっと神を生き続けるのです。これはなかなかできませんがやり続けるのです。やらないなら火の池行きになるだけです。

 人間は罪の下に閉じ込められているから、これくらいの気持ちがなかったら、閉じ込められているという神のやり方を抜け出すことはできないのです。

 肉体で生きているということが、カルマです。これから抜け出そうと思えば、それなりの努力が必要です。お茶を飲んだ時にお茶の味がする。これが永遠の命です。木の葉が美しいということが永遠の命です。これを受け取ることは難しいかもしれませんが、これをしなければ死んでしまいます。本当に新天新地に入るということは、めったにできないのです。私はめったにできないことを話しているのです。

 宗教信者は罪深い私を救ってくださいと熱心に祈っていますが、これは虫のいい信仰です。帰名無量寿如来を全然考えないのです。イエスが主であると考えないのです。救われたい、救われたいと祈ったままで、地獄へ行くとどうなるのでしょうか。

 実際現世に正直に生きている人でも、創世記の原理が開かれていなかったらだめです。この世が空であること、人間が生きていることが嘘であることが分からないとだめです。

 雲の中に虹が現われるのです。私たちの命を雲の中へ持って行かなければいけないのです。神は雲の中の虹を見て、これが永遠の契約だと言っている。だから、神の国、神の御心の中へ入ってしまわなければ、虹は見えません。

 神の御心の中へ入ってしまうためにはどうしたらいいかと言いますと、花が咲いていることが、良き訪れを告げる足です。キリストの言葉です。良き訪れを告げる者の足は麗しいとありますが、麗しいということがキリストの言葉です。

 花が咲いている麗しさ、夕陽の麗しさがキリストの言葉です。麗しいということを、そのまま自分の命の中心に放り込んでしまうのです。自分の思いを見ないで、花が咲いているという事実の中に、自分が入ってしまうのです。

 夕焼けの雲がすばらしい輝きをしている。その中へ入ってしまうのです。これしかないのです。

 これがキリストの言葉の中へ入ってしまうことになるのです。そうすると初めて神の御心が分かるのです。雲の中にある虹が見えてくるのです。

 雲は神の権威です。虹は神の御心です。神の権威が神の御心によって現象世界を造っているだけであって、現世はないのです。

 神の権威、神の栄光、神の契約が千々万々の万物になって現われている。花が咲いているのではない。神の御心が咲いているのです。これが分かったら、この中へ入れるのです。これしかないのです。

 自分が生きていること、目が見えること、鼻から息を出し入れしていることが、すべて御心です。

 キリストの言葉を聞いて、その言葉が信仰になるのです。信仰は聞くにより、聞くはキリストの言葉によるとあります。花が咲いているときれいだと思う、すばらしいと思います。これがキリストの言葉です。

 女性のボディーラインがすばらしいということが、キリストの言葉です。これが分かると初めて信仰が分かるのです。

 信仰は聞くにより、聞くはキリストの言葉によるとあります。キリストのすばらしさが分かったということが信仰です。

 花が咲いているのがきれいだと思ったことが信仰ですから、花が咲いている世界の中へ入ってしまうのです。女性がすばらしいという女性の色気の中へ入ってしまうのです。

 言葉でいうと、花が咲いている世界の中へ入るという言い方になりますけれど、これは人間の側からの言い方になります。

 神の方から言いますと、神がわざわざ花を咲かせているというのは、その中へ人の霊魂を入れたいから咲かせているのです。入りたいと思わなくても花が咲いているということ自体が、神が待っていてくれるのです。

 入りたいという人間の気持ちと、神が入るのを歓迎しているという気持ちが一致したらいいのです。

 良き訪れを伝えるために花が咲いているのですから、その花を見てここに良き訪れがあると考えて、その花の中へ入っていくのです。

 私たちが現在生きていることが、そのまま花が咲いていることなのです。新約時代というのは、全部花です。花が開いているのです。

 私たちが生かされていることの有り難さを考えて頂きたいのです。美しい景色が見られる。おいしいものが食べられる。刺身が食べられる。ステーキが食べられる。メロンが食べられるのです。美しい花が見えるのです。生かされていることは有り難いことです。

 生きていることは有り難いことです。私たちが生きていることがそのまま花が咲いている状態になっているのです。花が咲いているのを見て、自分が現実に生かされていることが花が咲いているとおりだと思って、自分を忘れて、無量寿如来に帰名すればいいのです。

 花が咲いている美しい世界が、そのまま自分が生かされている世界を示している。生まれる前の死なない世界にいるのです。これをそのまま素直に受け取ればいいのです。

 イエスが主であるという一点に入っていけばいいのです。自分が生きていると思うから、難しい難しいと言わなければならないのです。

 男は女を愛するという気持ちをはっきり持つ時に、自分自身が愛されている状態になるのです。男は愛する者、女は愛される者になるのです。愛を現世で経験するのです。愛する者としての男、愛される者としての女、愛という係わりをはっきり認識して、これがそのまま神の国であることを認識するのです。

 現世で愛し合っていてもだめです。神の国を認識して愛する、愛される状態を経験するのです。

 食べ物でも、景色を見る場合でも同じです。神の国を認識して食べたり見たりするのです。

 そのように現実の世界に存在することは、皆神の言葉であり、言葉のひびきです。神の言葉の声です。そういうものを見たり聞いたりしているのです。

 現実に生きているということは、キリストの言葉の中に置かれていることなのです。生きていることがキリストの言葉であることが分かれば、キリストが信じられるのです。

 ところが、生きていることがキリストの言葉であるということを悟ることを、悪魔が絶対に禁止しているのです。私たちが客観的に生きていることを、分からないように仕向けている。これが現代文明です。

 人間が生きている。基本的人権がある。人間は偉い者だと言っている。これが偽キリストの世界です。ノアの洪水の直前の状態になっているのです。

 ノアの洪水の後の虹の契約が分からないと、イエスがどういう人であったのか分からないのです。イエスが洗礼を受けて水から上がった時に、彼の肉体が見えなかったということが分からないのです。

 私たちもイエスが水から上がった時のように、自分自身の肉体が消えてしまって、見えないものとして生きるのです。自分の肉体が消えてしまって、見えないものと考えられる人はキリストの中に入っているのです。

 私は自分がいないということを実感しています。これを口でどんどん言うようにしています。そのように自分を幼子の状態に置くのです。幼子のようになったらいいのです。無邪気になったらいいのです。

 男は大人であるから悪いのです。今までの経験を全部忘れて、淡々として聖書の言葉を信じたらいいのです。イエスが主であると思うのです。

 聖書に、「そのひびきは全地にあまねく、その言葉は地の果てにまで到る」と書いています。現象世界は神の言葉、神のひびきで、いっぱい詰まっているのです。それを自分の命にしてしまうのです。そうすると信仰が与えられるのです。信仰が与えられたら、その信仰に基づいて生きたらいいのです。そうすると罪の下に閉じ込められた自分と何の関係もない者になるのです。

 大体、新約時代に生まれた人間は罪と関係がないのです。キリストが復活した後に生まれた人間ですから、この世に生まれた人間と関係がないのです。初めから神の国に生まれているのです。

 ところが日本人という愚かな民族は、現世に生まれてきて聖書を信じることを敬遠するのです。ばかな民族です。

 ことに文明社会は、徹底的に愚かになっているのです。人間は肉体的に生きていると思い込んでいるのです。そう考えている人は必ず死ぬのです。現代文明の思想に順応している人は、必ず死にます。死ぬしかないのです。

 キリストの言葉を聞いた状態で自分のハートを用いれば、そこに信仰が湧いてくるのです。

 今生きているのは自分ではありません。本当を言いますと、今生きているのはイエスです。イエス様は本当の私だと言い替えたらいいのです。イエスとは命の本物です。本物の命はイエスです。これが帰名無量寿如来です。復活した無量寿如来を信じればいいのです。

 自分が生きているという思いが一番悪いのです。子供のようになったらいいのです。

 神は天に幄(あげばり)を設けたのです。手で造らない、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋というのがそれです(ヘブル人への手紙9・11)。

 富士山の景色は富士の景色ではない。天の幕屋です。女の人がいるということが、天の幕屋です。

 現世に生きているという事実はありません。私たちが生きている所が天です。大阪にいても、東京にいてもそこが天です。

 神は太陽を中心にして、幕屋を設けたのです。これが太陽系宇宙です。幕屋というのはtabernacleであって、イスラエル民族が放浪中に聖堂として用いた神殿、仮屋です。本格的な建築物ではないのです。

 太陽系宇宙が幄です。幄が神の国です。今皆様が生きているのが神の国ですから、その中に入ったらいいのです。

 太陽系宇宙が神の幄です。この意味が本当に教えられているのは、私たちのグループだけです。

 神はまず太陽を中心にして地球を造ったのです。これを私たちに見せているのです。太陽が地球を愛し続けている。地球は太陽に愛されて続けていることによって、孕み続けているのです。米が穫れるのも、麦や野菜が穫れるのも、牛や豚が太るのも、皆地球が孕んでいるのです。

 地球は無限に産んでいるのです。太陽の愛を地球に伝達している機能があるからです。これが地のちりです。地のちりが太陽のエネルギーを中和しているのです。地球を愛するにちょうど都合の良い温度にしているのです。そこで地球は太陽によって愛されて無限に産んでいるのです。

 地球が命の集団になっている。生命の集団になっている。ここに人間が住んでいながら分からない。しかも地のちりは人間です。自分がそれをしているのです。こういうことが新約時代の本質です。こういうことを幼子のように素直に受け取ったらいいのです。

19.神の国に入る(1)

 イエスはまず神の国へ入れと言っています。これは普通の人、民衆に向かって言っているのです(マタイによる福音書6・33)。またパウロも、「尋ねて来る人を皆迎え入れ、神の国を証し、神の国を述べ伝えた」とあります(使徒行伝28・23、31)。誰でもその気になれば神の国に入れるのです。

 一体、神の国とは何か。イエス、ヨハネ、パウロ以降、地球上から神の国を述べ伝える人がようとして消えてしまったのです。二千年の間、世界に神の国を述べ伝える人がいませんでしたが、ようやく東の果ての日本において、それが再び輝き出したのです。

 命を見つけるのです。命を見つけてそちらへ鞍替えしてしまえば、死から脱出できるのです。現世にいる間に命を見つければ、完全に死から逃れることができるのです。良き良心に従って、霊(神の御心)によって歩めばこれができるのです。永遠の生命の実物を、この地上で感じることができるのです。そうして、生きていながらパラダイスに入ることができるのです。これをイエスは「水と霊とによって、新しく生まれて神の国に入れ」と言っています。

 現世に生きていながら神の国に入るのです。死んでから行くのではありません。キリストや仏教は、死んでから行ける、死んでから極楽へ行けると言っているのです。キリシタンバテレンを信じる信者が、死んだら天国に行けると言ったので、信長は「そんなに天国へ行きたいか。それなら今行かせてやる」と言って、その場で切り殺したという話があるのです。宗教はこういうばかな事を天下で堂々と言っているのです。

 神の国は、目の黒いうちに現世にいる間に入るのです。入れるのです。この世に生まれたらここまで行こうと決心するのです。これが現世に生まれてきた唯一の目的です。これはとても大きい喜びです。神を喜ぶ喜びです。皆様の本心、本願はこれを求めているのです。生きていながら、パラダイスに入ることを切に求めているのです。

 現在の文明には一切目的がありません。学問にも目的がないのです。科学にもありません。生活を便利にしようという目的はあります。生活を便利にしてどうするか分からないのです。

 人間の生活目的、存在目的がはっきりしないままの状態で、科学がいくら発展してみたところでしかたがないのです。科学の発展が原子爆弾を造るところまで突き進んでしまったのです。

 私は科学は無用だというのではありません。科学は科学としての意味があるのです。ところが、科学が何をしようとしているかということを、科学者は考えていないのです。これは科学だけではなくて、法律も、哲学も、政治、経済もそうです。

 文明に目的がありませんから、学問にも目的がないのです。アメリカの大統領も、ロシアの大統領も目的を持っていないのです。アメリカの大統領として政治をすることが、目的のように考えているだけです。これは人生の理想とは違うのです。

 皆様方も現在の目的はあるでしょう。どこかへ旅行をしたいとか、家を購入したいとか、子供を大学へ入れたいという近視眼的な目的はあるでしょう。

 そういう目的ではなくて、生きていること自体の目的です。全世界の人間が一人も本当の目的を持っていないのです。目的を持っていない人間ばかりが集まって、現在の文明ができているのです。だから文明も目的を持っていないのです。

 人間がこの地球上に生きていても何もならないのです。命という点、人間存在の真実という点から考えますと、何にもならないのです。

 人間は生きていますけれど、何のために生きているのか返事ができないのです。これが人間が生きていないことの最も簡明な証拠になるのです。

 目的を持っていないということが、宇宙が認めていないことになるのです。もし宇宙が現在の人間を認めているとすれば、人間に目的がないというばかなことはあり得ないのです。ところが現実の人間は目的がないのです。

 日本という国は、国家目的を持っていないのです。人間も社会も、世界全体が目的を持っていないということは、実はそういう人間は存在していないということなのです。

 人間は大変な間違いをしているのです。誰もが自分がいると思っているが、自分はいないのです。自分がいるのではなくて、生かされているという事がらがあるだけなのです。

 リビング(living)ということがあるのです。これはとてつもなく大きいものです。ところが人間はリビングに目を向けようとしていないのです。

 人間に目的がないということは、死んでいるということなのです。死んでいる人間が地球という住み処に巣くっているだけです。命を考えないで生物がいるだけなのです。

 ところが人間は精神構造という恐ろしいものを持っているのです。実は、人間という動物がいるのではないのです。人間はただの生物です。

 人間の中にある精神構造と人格構造という驚くべきものがあるのです。これが人間という格好で顔を出しているのです。これが分かれば驚くべき世界が分かってくるのです。

 人間が地球に生まれた目的は、生きることを見つけるためです。生きることを見つけるために生きているのです。

 こういうことを難しいと考えてはいけないのです。皆様が常識にこだわっているから難しいと思うのです。

 皆様の常識は死んだ人間の考え方なのです。または死ぬに決まっている人間の考え方なのです。学理学説は死んだ人間が残した理論ばかりです。死んだ人間ではない理論は、人間社会の中には一つもないのです。すべて死んだ人間の理屈が残っているのです。

 皆様はそれを勉強して学問をしたと思っているのです。死んだ人間の思想を飲み込んだだけなのです。

 科学も、哲学も、法律も、宗教も全部死んだ人間が残したことばかりです。ノーベル賞をもらった人も死んだのです。

 現代の人間社会が、目的を持っていないことをよく考えるべきです。これを考えないのは、皆様が自分の精神を知らないからです。皆様は自分の人格を知らないのです。

 皆様の理性と良心は永遠の理想を求めています。ところが人間としての皆様は永遠の理想を考えない。目の前の利害得失だけを考えている。

 皆様は自分の精神構造、人格構造を自分で裏切っているのです。要するに、皆様はシビアーに考えないからいけないのです。常識と妥協しているのです。生活と妥協しているのです。人間の伝統と妥協しているのです。そうして現世で得をしようと考えているのです。そういう妄念を捨てるのです。

 人間がいるのが間違っているのではありません。人間がいるという考えが間違っているのです。自分がいるのではなくて人格があるのです。精神構造があるのです。人間という彪大な精神構造があるのです。

 これが宇宙存在の将来に対して、宇宙を完成するための驚くべきエネルギーになるのです。

 地球はすばらしい状態で完成されなければならないのです。宇宙完成、地球完成という大きな目的のために、皆様が協力しようという誠意があるかどうかです。

 自分のことは考える必要がないのです。初めから自分はいないのです。地球の完成というすばらしい大事業に対して、皆様方に本当の誠意があるかどうかです。

 理想を考えようとしない人間、命を見つけようとしない人間は生きていてもしょうがないのです。

 永遠が人間の霊魂の理想です。精神構造の本当の理想は永遠であって、生活ではないのです。

 日本の国を良くしようということとは違うのです。日本という国はあってもなくてもどうでもいいのです。もし日本が地球のために役立つのなら、日本があることは大変いいのです。ところが、日本人は日本のことだけを考えているのです。

 とにかく理想は地球が完成することです。現在の地球は、地震があり、砂漠があります。人間がどんどん死んでいく地球です。こんな地球は間違っているのです。

 人間は、地球完成という目的のために地球に生まれてきたのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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