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  • 執筆者の写真管理人 chayamichi

般若心経と聖書を一緒に考えるのはなぜでしょうか


般若心経は、端的に言うと、「五蘊皆空」と「究寛涅槃」の二つのことを言っていま

す。涅槃というのは、梵語でニルバーナー、冷えて消えてなくなってしまうことです。

「空」をせんじつめると、窮極のところ、「究寛涅槃」になります。涅槃をつきとめる

結果になるのです。

そうしますと、人間が消えてしまいます。人間だけではなくて、万物も全部消えてし

まうというのが、般若心経の結論なのです。これが、いわゆる彼岸です。文字どおり解

釈すると、そうなるのです。

ところで、聖書は端的に言いますと、イエス・キリストを信じること、これをさらに

結論的に申しますと、イエス・キリストの復活を信じることになるでしょう。復活にお

いて初めて、キリストであることが証明されたのですから、イエス・キリストの復活を

知らなければ、イエス・キリストをいくら信じても、なにもならないのです。

イエス.キリストの復活ということは、非常に深奥な問題です。スケールが非常に大

きい。しかも非常に奥行きが深いのです。

イエスは、復活の朝に、弟子たちが集まっている部屋に入ってきました。これは、し

めきった部屋、マルコの二階座敷なのです。イエスが殺されたのですから、自分たちも

つかまるのではないかと心配だったのです。ガリラヤ党の一派を、かたっぱしから捕え

て、殺してしまえという流言飛語がとんでいたので、弟子たちはふるえおののいて、二

階座敷にとじこもり、カギをかけていました。

そこヘイエスが入ってきたのです。弟子たちは幽霊だと思って、うろたえ騒いだと書

いています。聖書は非常に正直な書き方をしています。弟子たちは怪しんだのですが、

イエスは、「おまえたち、騒ぐではない、私だ、安心せい」と言いました。

イエスが、何か食べるものがないかと言ったので、ペテロが焼いた魚を出したら、そ

れを食べました。復活は、こういう具体的な事実です。

イエスを信じるとは、彼の復活を信じるのでなかったら意味がない。それを本当に信

じようと思いますと、まず「五蘊皆空」を承知しなければなりません。

キリスト教の信仰は、イエスを宗教観念的にみている。自分の罪が許されて、死んで

から天国へ行くという信じ方は、聖書本来の信仰ではありません。

イエスの復活の命をそのまま自分の命として受けとること。これでなかったらなんの

意味もないのです。「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、た

とえ死んでも生きる」とイエスははっきり言っています。(新約聖書ヨハネによる福音

書11 ・25)

この「わたしを信じる人は死なない」という言い方を、文字どおり受けとるためには、

普通の常識を持ったままではだめなのです。ですから、五蘊皆空、色即是空という関門

をどうしても通らなければならないのです。

ユダヤ人の場合は、たとえば、ペテロとかヨハネとか、パウロという人々の場合には、

五蘊皆空はなかったのですが、イエスを信じられたのです。なぜかといいますと、彼ら

はイエスを信じる前に、モーセの掟で、人間の肉の思いが空であること、肉の思いがむ

なしいことを徹底的に究明させられているわけなのです。

イエスを、肉の人間(自我意識を持ったままの人)が信じると、「宗教」になってし

まいます。

イエスを本当に信じるためには、人間の常識、知識を一度空じてしまう必要があるの

です。「五蘊皆空」の思想をはっきリマスターすること。そうでなければイエスを信じ

るという土台ができないという意味であって、肉の思いを空じることによって、霊の思

い(神の思想)に到達することができるという意味なのです。

そこで、般若心経はいわば前編みたいなもので、聖書は後編みたいなもの。こういう

言い方もできるのではないかと思うのです。

そういう意味で、聖書の前に般若心経をおきたい。般若心経の後に聖書をおきたい。

こういう形で、般若心経と聖書は、両方あいまって初めて、宇宙意識をはっきり私たち

に示してくれるのです。宇宙感覚において、自分自身の命を見ることができるようにな

るということを言いたいのであって、これが般若心経と聖書を一緒に学ぶ意味なのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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