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  • 執筆者の写真管理人 chayamichi


永遠の生命、とこしえの命を得る方法がある。死ななくてもよい方法があると言うと、

百人中百人までが、あなたは気違いだと言うでしょう。

日本の歴史が始まって以来、そんなことを考えた人はいないし、公言した人もいない

からです。おそらく、現在の世界でも、抽象概念的、宗教観念的に、それらしきことを

言う人はいるかもしれませんが、永遠の生命の実物を、具体的に提示できる人はいない

でしょう。

人間のもっとも強い願いは、死にたくないという気持ちです。たとえば、今あなたが、

医者から、ガンの末期症状だと宣告されたら、どう思うでしょうか。そのショックで、

目の前が真暗になるでしょう。

そして、気持ちが落ちついたときに、 一日でも長く生きたい、 一時間でも、あるいは、

一分でも長く生きたいと思うに違いないでしょう。

なぜ人間は、それほど強烈に、死にたくないと思うのでしょうか。結論的に言えば、

人の心の奥底に、死ななくてもよい方法が隠されているからです。

私たちはまったく不可能なことを考えません。鳥のように空を飛んでみたいと考えた

ことが、飛行機になって実現しました。魚のように海を泳ぎたいという気持ちが、船や

潜水艦になり、月へ行ってみたいという願望も、アメリカのアポロ宇宙船が実現しまし

た。

だから、死にたくないという強烈な人間の願いも、絶対に実現する可能性をもってい

るのです。

この書は、その人間の願いを、般若心経と聖書によって探求したものです。なぜ、般

若心経と聖書を用いたかということは後程述べていきますが、この二つの書が、死なな

い命を発見する唯一の手掛りだと言えるからです。

以前から、講演をさせていただくチャンスがよくありますが、講師が一方的に話をす

るというのではなくて、後に質疑応答の時間を多くして、懇談会形式をとってきました。

その内容を加筆訂正して、懇談会風にまとめてみました。できるだけわかりやすく書

いたつもりです。

一体、永遠の生命、とこしえの命、死なない命とはなんでしょうか。本当にそれはあ

るのでしょうか。

私たちが現在見ている地球は、 一体何なのか。なぜ地球があるのでしょうか。

現在の地球を、冷静に、客観的に見ると、そこに、二つの地球があることがわかりま

す。 一つは、目に見える現象としての地球であり、もう一つは、五官が捉らえている美

の世界、味の世界、景色の世界、つまり地球ができる前の永遠の生命の世界です。

前者は死ぬ世界であり、後者は死なない世界です。

人間存在についても同じことが言えます。毎日老化している肉体と、理性と良心を中

心にした、いわゆる魂と言われる心理機能とがあります。やはり、前者は死ぬべきもの

であり、後者は死なないものです。

現在の人間、地球を見て言えることは、多くの不完全さということです。肉体人間に

は、釈尊が見たように、苦しみが多く、病気になり、老いて、死んでいかなければなら

ない。

地球にも、洪水、早魃、竜巻、地震、台風、異常気象、疫病など、災害が満ちている。

これは、どちらも本物ではない証拠です。

不完全な肉体人間も、地球も、仮のものであって、やがて未来に、本当の死なない体、

栄光の地球が現れることを示している。未来に現れる、朽ちない本当のものをつかむた

めに、仮の世界があるのです。

朽ちない世界をつかむことが、この世に生まれてきた目的であり、あらゆる人間に果

せられた、絶対的なノルマです。

実は、人間歴史の中で、この責任を完全に果たした人がいます。イエスという大工の

青年です。

イエスの生き方が正しかった証明として、彼は復活したのです。

日曜日は、イエスが十字架にかかって、死んで、復活した日、つまり死を破った記念

日です。否定しようが、反論しようが、私たちは、 一週間ごとにこの日にかかわってい

る。 一年で約五十日も、イエスの復活に関与していることになります。

一体、これをどう説明したらいいのでしょうか。日曜日を徹底的に解明すれば、そこ

に、死ななくてもよいという事実が発見できるのです。

毎日、世界中で、何十万人もの人が死んでいる。死ななくてもいいのに、死んでいか

なければならない。私の心からの願いは、ストップ・ザ・デス、人類から死を追い出し

てしまうことです。

この書が、人類から死を追い出すための導火線になれば、誠に幸いです。


                            一九九二年五月

                              梶原和義


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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今世界中に、数えきれないほどの本があり、毎年、洪水のように出版されています。 

これらの本を全部読むということは、不可能なことでしょう。その中から、 一体どうし

て永遠の生命についての書を、見つけたらいいのでしょうか。

それは、洪水のような本の流れの、総括、源流ということを考えると、問題解決の手

推りになります。

世界の歴史の流れは、大きく分けて二つになります。ひとつは東洋の歴史であり、も

うひとつは西洋の歴史です。

東洋思想の中心は、仏教です。仏教は釈尊の教えから出ているものであり、その思想

は「無」「空」に要約されます。そして、釈尊の説いた、無と空の思想が端的に現され

たのが、般若心経です。したがって、東洋思想の源流として、まず般若心経をとりあげ

てみたいのです。人間のあらゆる思想を、大上段に否定しているやり方は、般若心経の

右に出るものはありません。文明を、これほど痛烈に批判しているものはありません。

この意味では、般若心経は世界歴史全体の、ある面で、頂点に立っていると言えるでしょ

う。

西洋思想はヘブライズムとヘレニズムの二つによって構成されていますが、その中心

思想は聖書です。聖書が歴史、宗教、芸術に与えた影響は大きく、特にアブラハムの子

孫であるユダヤ民族は、連綿と続いており、現在も世界の中心にあって、歴史を左右す

る影響を与えている事実は否定できません。

永遠の生命を、堂々と指摘しているのは、聖書の他にないのです。

永遠の生命を具体的に生きた人の実例として、イエスの生き方を、実証しているので

す。

イエスが、B ・C、A ・Dという暦年算定の基準になっているということは、この人

物が、歴史の中心になっていることを示しています。

だから、般若心経と聖書を勉強する以外に、永遠の生命を得る道はないといわなけれ

ばならないでしょう。

ところで、般若心経と聖書の関係について少し述べてみます。

聖書は、永遠の生命を具体的に示しているのですが、人間は、自分という妄念をもっ

ているために、それを受けとることができません。

新約聖書ローマ人への手紙十二章二節で、「心を新たにすることによって、造りかえ

られる」と言っています。心を新たにするとは、精神のあり方をすっかりやりかえると

いうことです。

また、エペソ人への手紙四章二十二、二十三節で、「すなわち、あなたがたは、以前

の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされる」

と言っている。二十二節を英訳でみると、「堕落した虚偽の欲望でかためられた古き人 

を取り除く」となります。二十三節は「精神の表象を新しくする」という意味です。

現在の人間の考えは、虚偽の考えでいっぱいです。無いものを有ると考え、本当のも

のをまったく無視している。目に見える現象世界、自分というものはないのに、それを

あると信じこんでいます。嘘を本物と思いこんでいる。これに気がつきなさいと言って

いるのです。

イエスは、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架

を負うて、わたしに従ってきなさい」(マタイによる福音書16・24)といっている。

自分を捨てるというのは、自分の過った考えを捨てよというのです。

過った自分の考え方の原因、捨て方が、般若心経に出ている。これが、「五蘊皆空」

「色即是空」「究寛涅槃」です。

まず、過った考えを捨てる。そうすると、本当の命を受けとれる心理状態になる。こ

こで始めて、聖書の永遠の生命を学ぶ姿勢ができるのです。

それからもうひとつ、重要なことをお話ししておかなければなりません。それは、新

約聖書マタイによる福音書第二章の、キリストの誕生の記事についてです。

マタイ伝によれば、キリストの誕生を逸速く知ったのは、東からきた博士たちでした。

彼らは、「ユダヤ人の王としてお生まれになったかたは、どこにおられますか。わたし

たちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」ときいているのです。

(マタイ伝2 .2)

もし博士たちが、キリストの誕生のことを聞かなければ、ヘロデ王はまったく気づか

なかったであろうと思われるのです。博士たちに聞かれて、あわてて、「祭司長たちと

民の律法学者たちとを全部集めて、キリストはどこに生まれるのかと、彼らに問いただ

した」のでした。(同2 ・4)その結果、ユダヤの地、ベツレヘムだとわかったのです。

したがって、もし東からの博士たちがこなければ、キリストの誕生はわからなかった

でしょうし、新約聖書そのものが、成立しなかったことになるのです。新約聖書の成立

のカギを、東からの博士たちが握っていたのです。

東からきた博士とは、東洋のインドからきた人であることは、定説になっていますが、

インドの博士たちがどうしてそれを知っていたかということです。

それは、釈尊の言い伝えによるものでした。釈尊の中心思想は、「無」、「空」ですが、

彼がそれを看破できたのは、明けの明星を見たからです。それはやがて来るべき地球の

完成、人間の完成、歴史の完成の予報であって、彼が、来るべき完全世界としての明け

の明星を見たために、現在の人間社会、人間文明が、まったく無価値のものである、 つ

まり空だと悟ったのです。

釈尊は、弟子たちに、「明星」というかたちで、やがて本当のものがくると話してい

たらしく、それが言い伝えられて、博士たちにまで達していたのです。

ところが、驚くべきことに、新約聖書の黙示録で、復活したイエスが、「わたしは輝く明けの明星である」とはっきり言っているのです(ヨハネの黙示録22・16)。

釈尊が見た明けの明星の実体が、新約聖書に現れているのです。つまり、釈尊は、復活したイエスを見たのです。

この点で、東洋思想を代表する釈尊と、西洋思想の根本であるイエスは、実は表裏一

体の関係になってくるのです。東洋と西洋とが完全に一致するポイントがあるのです。

イエスの誕生の発見に、東からの博士の到来が必要であったということは、イエス・

キリストという永遠の命の実物に出会うためには、まず釈尊の空という思想を体得しな

ければならないという、絶対的な理由になるのです。これが、私が、般若心経と聖書の

二つを学ぶことを提唱している理由なのです。

般若心経の空観をとおって、イエスの永遠の命に到るというコースは、本当の命を知

るための、たった一つのコースになるのです。

文明と宗教は、この二つをばらばらにして、似ても似つかぬものにしてしまった。そ

の結果、命に到る道をわからないようにしてしまったのです。これは何ものにもかえ難

い害悪です。

文明思想、宗教思想から離れて、人が生かされている純粋客観的な立場から、般若心

経と聖書を学んでいかなければならない理由は、ここにあるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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先日、友人と話していたときに、故アーノルド・トインビーのことが出てきました。 

ご存じのとおり、アーノルド・トインビーはイギリスの有名な歴史哲学者でしたが、日

本にも数回まいりました。非常に高い視野に立って、世界の歴史、政治を考えた人です

が、この人が、こういうことを言っています。

「アジアの人々、特に東南アジアの人々の考え方の中には、自然と人間が常に一体で

あるということがあります。ところがヨーロッパの人々は、そうではありません」

確かに私たち日本人は、子供の頃から、自然と人間とがひとつであるという風土の中

で生活しています。

コーロッパ人は、キツネ、タヌキ、猫や犬という動物の命と、人間の命とは、まった

く別のものと考えているようです。獣は人間に飼われるものである。飼われる命と、飼

う人間の命とは、位が違うというように、ヨーロッパ人は考えているのです。ですから、

ヨーロッパにはキツネつきがありません。

このように比較しますと、私たちが現在日本に生きているということは、ある意味で

非常に有難い、喜ばなければならないことだと思います。

アーノルド・トインビーでさえも、アジアの、自然と一体になっている人間が、うら

やましいと思っているのです。ところが、私たちは、案外そういうことがわからないよ

うです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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