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  • 執筆者の写真管理人 chayamichi

永遠の生命を得るために


今世界中に、数えきれないほどの本があり、毎年、洪水のように出版されています。 

これらの本を全部読むということは、不可能なことでしょう。その中から、 一体どうし

て永遠の生命についての書を、見つけたらいいのでしょうか。

それは、洪水のような本の流れの、総括、源流ということを考えると、問題解決の手

推りになります。

世界の歴史の流れは、大きく分けて二つになります。ひとつは東洋の歴史であり、も

うひとつは西洋の歴史です。

東洋思想の中心は、仏教です。仏教は釈尊の教えから出ているものであり、その思想

は「無」「空」に要約されます。そして、釈尊の説いた、無と空の思想が端的に現され

たのが、般若心経です。したがって、東洋思想の源流として、まず般若心経をとりあげ

てみたいのです。人間のあらゆる思想を、大上段に否定しているやり方は、般若心経の

右に出るものはありません。文明を、これほど痛烈に批判しているものはありません。

この意味では、般若心経は世界歴史全体の、ある面で、頂点に立っていると言えるでしょ

う。

西洋思想はヘブライズムとヘレニズムの二つによって構成されていますが、その中心

思想は聖書です。聖書が歴史、宗教、芸術に与えた影響は大きく、特にアブラハムの子

孫であるユダヤ民族は、連綿と続いており、現在も世界の中心にあって、歴史を左右す

る影響を与えている事実は否定できません。

永遠の生命を、堂々と指摘しているのは、聖書の他にないのです。

永遠の生命を具体的に生きた人の実例として、イエスの生き方を、実証しているので

す。

イエスが、B ・C、A ・Dという暦年算定の基準になっているということは、この人

物が、歴史の中心になっていることを示しています。

だから、般若心経と聖書を勉強する以外に、永遠の生命を得る道はないといわなけれ

ばならないでしょう。

ところで、般若心経と聖書の関係について少し述べてみます。

聖書は、永遠の生命を具体的に示しているのですが、人間は、自分という妄念をもっ

ているために、それを受けとることができません。

新約聖書ローマ人への手紙十二章二節で、「心を新たにすることによって、造りかえ

られる」と言っています。心を新たにするとは、精神のあり方をすっかりやりかえると

いうことです。

また、エペソ人への手紙四章二十二、二十三節で、「すなわち、あなたがたは、以前

の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされる」

と言っている。二十二節を英訳でみると、「堕落した虚偽の欲望でかためられた古き人 

を取り除く」となります。二十三節は「精神の表象を新しくする」という意味です。

現在の人間の考えは、虚偽の考えでいっぱいです。無いものを有ると考え、本当のも

のをまったく無視している。目に見える現象世界、自分というものはないのに、それを

あると信じこんでいます。嘘を本物と思いこんでいる。これに気がつきなさいと言って

いるのです。

イエスは、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架

を負うて、わたしに従ってきなさい」(マタイによる福音書16・24)といっている。

自分を捨てるというのは、自分の過った考えを捨てよというのです。

過った自分の考え方の原因、捨て方が、般若心経に出ている。これが、「五蘊皆空」

「色即是空」「究寛涅槃」です。

まず、過った考えを捨てる。そうすると、本当の命を受けとれる心理状態になる。こ

こで始めて、聖書の永遠の生命を学ぶ姿勢ができるのです。

それからもうひとつ、重要なことをお話ししておかなければなりません。それは、新

約聖書マタイによる福音書第二章の、キリストの誕生の記事についてです。

マタイ伝によれば、キリストの誕生を逸速く知ったのは、東からきた博士たちでした。

彼らは、「ユダヤ人の王としてお生まれになったかたは、どこにおられますか。わたし

たちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」ときいているのです。

(マタイ伝2 .2)

もし博士たちが、キリストの誕生のことを聞かなければ、ヘロデ王はまったく気づか

なかったであろうと思われるのです。博士たちに聞かれて、あわてて、「祭司長たちと

民の律法学者たちとを全部集めて、キリストはどこに生まれるのかと、彼らに問いただ

した」のでした。(同2 ・4)その結果、ユダヤの地、ベツレヘムだとわかったのです。

したがって、もし東からの博士たちがこなければ、キリストの誕生はわからなかった

でしょうし、新約聖書そのものが、成立しなかったことになるのです。新約聖書の成立

のカギを、東からの博士たちが握っていたのです。

東からきた博士とは、東洋のインドからきた人であることは、定説になっていますが、

インドの博士たちがどうしてそれを知っていたかということです。

それは、釈尊の言い伝えによるものでした。釈尊の中心思想は、「無」、「空」ですが、

彼がそれを看破できたのは、明けの明星を見たからです。それはやがて来るべき地球の

完成、人間の完成、歴史の完成の予報であって、彼が、来るべき完全世界としての明け

の明星を見たために、現在の人間社会、人間文明が、まったく無価値のものである、 つ

まり空だと悟ったのです。

釈尊は、弟子たちに、「明星」というかたちで、やがて本当のものがくると話してい

たらしく、それが言い伝えられて、博士たちにまで達していたのです。

ところが、驚くべきことに、新約聖書の黙示録で、復活したイエスが、「わたしは輝く明けの明星である」とはっきり言っているのです(ヨハネの黙示録22・16)。

釈尊が見た明けの明星の実体が、新約聖書に現れているのです。つまり、釈尊は、復活したイエスを見たのです。

この点で、東洋思想を代表する釈尊と、西洋思想の根本であるイエスは、実は表裏一

体の関係になってくるのです。東洋と西洋とが完全に一致するポイントがあるのです。

イエスの誕生の発見に、東からの博士の到来が必要であったということは、イエス・

キリストという永遠の命の実物に出会うためには、まず釈尊の空という思想を体得しな

ければならないという、絶対的な理由になるのです。これが、私が、般若心経と聖書の

二つを学ぶことを提唱している理由なのです。

般若心経の空観をとおって、イエスの永遠の命に到るというコースは、本当の命を知

るための、たった一つのコースになるのです。

文明と宗教は、この二つをばらばらにして、似ても似つかぬものにしてしまった。そ

の結果、命に到る道をわからないようにしてしまったのです。これは何ものにもかえ難

い害悪です。

文明思想、宗教思想から離れて、人が生かされている純粋客観的な立場から、般若心

経と聖書を学んでいかなければならない理由は、ここにあるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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