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  • 執筆者の写真管理人 chayamichi

命と人生


「物はない」と理解する、そして思いが変えられたとします。そうすると、般若の知

恵、つまり「無限界乃至無意識界」が本当にわかり、その人は「彼岸へ渡った」という

ことになります。

彼岸とは、死んだ人が行くのではなく、生きている私たちが行かなければならないの

です。

お彼岸の日が年に二回ありますから、年に二回渡るチャンスがあるということになり

ますが、本当は、毎日彼岸へ渡っていなければいけないのです。

「般若波羅密多」の「ハラム」というのは、彼岸という意味で、「イタ」というのは、

到るということです。「ハラミタ」とは「彼岸へ渡る」ということですが、これが今申

し上げた「物がなく、思いがないという境地」になる、これが彼岸に渡るということな

のです。

空がわかり、無がわかればどうなるか、「無眼耳鼻舌身意」の境地になります。これ

は、日もなければ、耳もない。鼻もなければ、舌もない。体もないし、思いもないとな

るのです。五官と意識、この六つのものがないのだといっています。

ところが、ないといいますが、やはり私たちには、日の前の灰皿が見えます、人の顔

が見えます。ないということは、悟りとしてはよくわかりますが、なぜ物が見えるので

しょうか。体がないといいますが、さわれば固く感じますし、柔らかいものは柔らかく

感じます。この矛盾をどうするかということになります。

これは残念ながら、般若心経にはどこにも書いてありません。これが、実は般若心経

の最大の難しい問題点になるわけですが、ただ一カ所だけ、おもしろい言葉があります。

「色即是空」のあとで、「空即是色」といっています。「色」というのは、現象世界、

物の世界のことです。物の世界がないのだ、空なのだということが「色即是空」ですが、

次にその言葉をひっくりかえして「空即是色」、ないということが、「色」となって現

れているというのです。

あるお経の中に出てくる話ですが、釈尊の弟子が、人生の目的は何か、宇宙が存在す 

る理由は何か、命があるかないかを教えてくださいと釈尊にききますと、釈尊は、そう

いうことを答えるのはやめておくと言ったのです。

なぜかといいますと、命とは永遠のもの、宇宙とは何か、これも永遠のものなのです。

永遠の問題を、限りある人間、有限の人間が考えることを、やめなさいと言っているの

です。ちょうど、大や猫が、人間社会の勉強をするみたいなものなのです。レベルが最

初から違うというのです。そういうことにエネルギーをつかうことを、やめておきなさ

いというのです。しかしこれは由々しい問題です。釈尊はそういう感覚で人間を見てお

られたようです。

そうしますと、無ということを言ってみたものの、今ここにあるのは一体何かという

ことが説明できない。人間は空なのだといいましても、やはり私は生きています。生き

ているということは、 一体どうなのか、これを仏法では充分説いていないのです。

「一切皆空」という言葉が心経に出ていますが、すべてが空であるという感覚で釈尊

がおられたとすれば、悟りというものはいるのでしょうか。悟りも空であるはずです。

釈尊の言葉の中にも、「人間の悟りも空であれば、悟らないということも空なのだ」

という言葉があります。そうしますと、 一体どうしたらよいかということになります。

あまり心経を読んでいない方がお読みになりますと、あれも空だ、これも空だ、なん

でも空だとなってしまうのです。物を持つことも空だ。持たないことも空である。物が

見えることも空、見えないことも空であると、こうなるのです。

そうしますと、何かのれんにもたれたようで、頼りなく感じます。

つまり人間というものは困ったもので、空、空といっていますと、空という化け物に

とりつかれるのです。人間というものは本当に困ったもので、悪いことをやめますと、

こんどは正しいということを必死になって握りこむ、正しいことができなければ、悪い

ことを握りこむ。何かを握っているのです。何かにつかまって人生をおくっているので

す。

弘法大師の言葉に、こういうことがあります。

「個我を捨てるのは容易なれど、公我を捨てるは至難なり」

公我というのは、悟ったという自分です。悟ったという自分が生きているのです。

悟ったといえば、すぐそれを握りこむ。悟らないといえば、すぐそれを握りこむ。ど

ちらにしても、人間は困ったものだという嘆きを、釈尊は言われたのです。有限の人間

は、無限がわからないから、やめておきなさいと言っているのです。

釈尊の考え方、仏法の考え方には、絶対性ということがありません。永遠性というこ

とがありません。哲学的には主体性ということですが、宇宙の中心は何かということに

釈尊は答えていません。答えるのを避けている傾向さえあります。

ここに問題があるのです。

釈尊の考えた人間は、生まれてから死ぬまでだけの人間を、人間というように考えた

ようです。ここに仏法の限界があるのです。ですから、釈尊は次のように考えました。

人間はどうして生まれるのだろうか。なぜ年をとるのだろうか。なぜ病気になるのだろ

うか。なぜ死ぬのだろうか。いわゆる生老病死、どうしたら人間は四苦から逃れられる

だろうかと考えたのです。オギャーと生まれて、息をひきとっていく人間、これが中心

テーマになっています。当然、絶対性、主体性、宇宙の真理というものは入りません。

人間は命について大変まちがった考えを持っています。命と人生は別です。命は生ま

れる前からありますし、生きている間もあります。死んでからもあります。だから命と

いうのです。人生は肉体がある間だけです。体がある間だけです。釈尊は、肉体的な人

生だけが人間であると考えていたようです。

命が生まれる前からあったというのはおかしい。生まれてから命があるのではないか

とお考えになるかもしれません。それでしたら、 一番簡単な日本語を思い出してくださ

い。生まれてきたといいます。きたというのは、どこからか来たことを意味します。生

きているというのは、今いることです。これははっきりしています。

死んでいくといいます。いくとはどこかへ行くということです。日本語は非常に良く

できています。難しい宗教書を読むより、日本語の辞典を読んだ方がよくわかるとさえ

もいえるのです。

人生とは何か。来たものであり、やがて行くものである。ですから、わずか七十年や

八十年の人生を、日にかどを立てて、儲けた、損をしたとあまり言わない方がいいので

す。

なぜかと言いますと、現世にいる間は短いのです。生まれる前と、死んだ後の方がずっ

と長いのです。現世にいる間は、ちょっと旅行に出たようなものです。死んだ後は永遠

なのです。だから恐ろしいのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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