般若心経は、般若を説くお経です。般若といいますのは、真理を体得した人が持つこ
とができる知恵のことです。
仏教では、般若の下に知と書いて、「般若知」といいます。般若知に対して、「分別知」
があります。これは物を分別する知恵のことです。
たとえば、ここがどういう町であるとか、今自分が座ちているのか、立っているのか、
そういうことを見分ける、考え分ける、分別する力、これがいわゆる常識の知識になる
わけです。これを分別知といいます。
ところが、仏法では、分別知では本当の人間にはなれないと言っているのです。
ではどういう知恵を持てば本当の人間と言えるのか、それは般若知ということになり
ます。では般若知とはどういう内容を持っているのか。また、般若知を持った人はどう
いう気持ちになるのでしょうか。般若知の種類と、般若知を持った人の境地を説いたの
が、般若心経です。
知恵を説くのが般若心経ですが、宗教というのは、ただ信じて拝んだら私の体が救わ
れるのだ、死んだら極楽へ行くのだという、そういう救いの教えとして、受けとられや
すいのです。
しかし般若心経は救いの教えではなく、知恵の教えなのです。では、本当の知恵を持
つためには、どうすればいいでしょうか。まず、分別知を捨てなければなりません。
家庭でも、社会でも、すべて分別がなければ一人前ではないですから、私たちの回り
には、分別ばかりで生きている人が多勢います。
般若心経は、この分別を見事に切りすてているのです。般若心経の「無色書香味鯛法」
のあとに「無限界乃至無意識界」とあります。無限界とは、見える世界がないというこ
と、無意識界とは、意識している世界はないというのです。(巻末の般若心経の‐74頁を
参照ください)
机があったり、いすがあったり、たとえば自分の顔が鏡に映ったりしますが、そうい
う見える世界は全部無い。つまり「見えるということを中心にして考えていたら、それ
は分別知にすぎない」というのです。
意識の世界、物を考える世界もないというのです。
そうしますと、物の世界と思いの世界、この二つはないのだ。ないということがわか
らなければ、般若にはならないのだというのです。
さて、そうなりますと、いっしょうけんめいに名号をあげなさい、南無阿弥陀仏をあ
げなさい、南無妙法蓮華経をあげなさいという教えがありますが、南無妙法蓮華経、あ
るいは南無阿弥陀仏ととなえているときに、何かの思いにとらわれてとなえてはだめな
のです。
何かにとらわれてお経をあげるということは、意識界に入ってしまいますからだめな
のです。そんなものは、何回お経をあげても、極楽へはいけないということになってき
ます。
また、いっしょうけんめいにお寺へ寄進をしまして、立派な仏像をつくり、お寺を建
てたところで、それは単に物をつくるだけですから、そんなことはいくらしても無意味
だというのです。本当の仏法というのは、実に厳しいのです。
前もってことわっておきますが、お釈迦さんが本当に説かれた教えというものは、現
代仏教では残っておりません。現代の仏教は何を説いているかといいますと、「仏教」
を説いているのです。本当の「仏法」は説いていません。
これは、若い人もお年寄りの方も、ほとんどの人が現在の仏教に失望しているという
事実を見てもわかります。なんとなくお寺へ行かなければと、惰性で行っているのです。
これは、仏教だけではありません。キリスト教もそうです。 一部の新興宗教などは、
病気が治るとか、お金が儲かるとか、いわゆる人間が生きている間だけに満足すること
を目的に、教えを組み立てています。ですから新興宗教は大いに繁盛しています。
これは正しい意味での宗教とはいえません。体ぐらいなら医者でも治します。お金を
儲けさせてくれるのは、だいたい通産省、大蔵省の仕事です。ですから、宗教家が大蔵省のお手伝いをしたり、お医者さんのまねごとをして、教えを説いたと思うのは、大変な間違いです。もちろん病気が治ってもよろしいし、お金を儲けることもよろしいでしょうが、それが宗教の目的ではないはずです。
仏教の基本である釈尊の思想によれば、体が治ったところで、単なる物の世界のこと
ではないかというのです。単なる現象のことで、現象の体が治ったところで魂が完成し
たことと無関係のことだというのです。もし体を治すことが魂を救うことであれば、世
の中のお医者さんは全部宗教家になるわけです。
般若心経には、観自在菩薩、いわゆる観音さんの名前がでてきますが、この観音さん
が悟りを開いたあとで、自分が般若というものをどのように見ているかという、信仰告
白を言われたと思っていただければいいと思います。
もちろん、この観音様は、釈尊の化身で観自在という仕事をする菩薩です。菩薩とは
仏ではなくて、仏になりつつある人という意味です。
如来と菩薩は仏教でははっきり分けていますが、如来とは完全に悟った人のことです。
ところが、菩薩というのは、現在悟ってはいないが、悟りのために道を求めている人、
いわゆる求道者をいうのです。
如来になりますと、これは完全に悟りを開いたものですから、仏になったということ
になります。これは仏像を見たらわかりますが、だいたい如来は裸です。一番いい例が、
奈良の大仏さんを思い出していただければよいのですが、簡単にカーテンみたいなもの
を巻きまして、手を組んでいるだけです。何も体につけておりません。ですから、薬師
如来、釈迦如来、阿弥陀如来は、ほとんど区別がつかないのです。
ただし、大日如来だけは別です。大日如来は飾りをつけまして、冠をかむっています。
如来になりますと、人間の状態から脱してしまっているのです。菩薩はどうかといい
ますと、非常に多くの飾りをつけています。観音さんを思い出していただければいいの
ですが、念の入ったものは十一面観音、顔が顔の上に十個ついているのです。もっと欲
ばったものは千手観音。その他にいろんな形の観音さんがありますが、いずれも非常に
複雑な形をしています。同時に飾りをつけています。中には袴をはいたものもあります
し、極端な場合には鎧を着ているものもあるのです。
このように考えますと、菩薩というのは、実は普通の人、道を求めている人間なので
す。なぜ冠をかむり、飾りをつけているかといいますと、悟りを開くためには、普通の
生活をしていなければ開けないということです。冠をかむっているということは、ある
位置に座っているということです。王様は王様の冠をかむっています。自動車の運転手
は運転手の冠をかむっています。芸術家はベレー帽をかむっています。
ということは、冠でその人の社会的地位であるとか、職業がわかるわけです。ですか
ら、観音さんはいろんな冠をかむっているのです。また、飾りをつけているのです。
たとえば自分の家族であるとか、家とか、職業であるとか、持物であるとか、そうい
うものがなければ、普通の社会人としては生活できないのです。
普通の社会人として生活しつつ、真理を体得していく。これが菩薩ということになり
ます。道を求める人は、すべて菩薩です。
さて、それでは、知恵の教えを説いている般若心経の中心は何かといいますと、「空」
という言葉になります。
「空」または「無」ということです。般若心経はわずか二百七十六文字の非常に短い
お経ですが、この二百七十六文字のお経の中に、なんと、「空」と「無」という字を合
わせて三十五字もあるのです。
般若心経はつまるところ「空」と「無」の大切さを説きたいのです。
ところが、「空」と「無」という言葉が、非常に間違って受けとられています。たと
えば、あわてんぼうの人はこう考えます。空とはからっぽのことであると思うのです。
空の下に間という字をつければ、からっぽということになります。ですから、空とはか
らっぽの何もないことだと思うのです。ところが、何もないことが空だとしますと、空
を悟ることは、何もないことを悟るということになってしまいます。
何もないからっぽを悟ることができるでしょうか。
ところが、「空を悟る」というのです。
松原泰道さんがお書きになりました「般若心経入門」という本がきっかけになり、般若心経ブームになりました。薬師寺の高田好胤さんが「色即是空」という本を書かれたりして、般若心経に関する本が、何十冊も出ています。
しかしそういうものを読んでも、空とは何か、無とは何かということが、どうもわか
りやすく書けていないのです。もちろん著者の皆さんは、それぞれの形でわかっておら
れると思います。しかし、第二者の客観的な目で見ますと、 一人よがりのところがあり
ますし、時には、それにわざとふれないで書いたのかと思うほどのものがあるのです。
「空」、「無」を説明しなかったら、これは般若心経を説明したことにはなりません。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)