聖書はキリスト教の教典と考えられていますが、聖書はキリスト教の教典ではありま
せん。イエスという、今から約二千年前に、現在のイスラエルの国にいた一人の男が体
得した人生観、世界観、宇宙観について書かれたものです。このイエスという人は、釈
尊のように、肉体がある間だけを人間とは考えなかったようです。
イエスが生まれる二千年前に、アブラハムというユダヤ人の先祖がいたのですが、そ
の人のことをユダヤ人たちが自慢して、イエスにけんかをうったのです。そうしたら、
イエスはこう答えました。「私はアブラハムよりも前にいる」と。なんと、二千年前に
いた人よりも先に生まれたと言ったのです。これにはユダヤ人もあっけにとられ、つい
にイエスはュダャ人に殺されたのです。宗教家の神経を逆なでにしたからです。
アブラハムは二千年前にいた人ですが、イエスは永遠の昔からいるという感覚なので
す。イエスにけんかをうった人々は、イエスが三十三歳ですから、三十三年というのが
その人の人生だと思ったのです。三十三歳の人間が、二千年よりも年をとっているとは
どういうことかと思ったのです。
このように、当時のユダヤの宗教家と、イエスの考え方に、大きなずれがあったので
す。イエスは、そういう長い人生を人間と見ていたのです。肉体的な生命だけが命だと
思っていると、永遠の生命がわからないのです。
肉体はやがて滅びてしまいます。これはわかりきったことです。物理的な現象なのです。
私たちが、自分で見ている自分というものは、鏡で見ている自分であって、これは肉
体の私です。これは、息が止まったら終わりです。あとは、火葬場へ行くしか用がない
のです。
ところが、私たちが本当に考えなければならないことは、永遠に生きている人間なの
です。つまり、命である私です。これに気づかなければならないのです。
そのためには、釈尊が言われた「一切が空」であること、特に、自分の思いが空であ
る、見える世界が空である、無であるというその実感をまずつかまえなければなりません。
それを般若心経では彼岸へいたると書いているのです。聖書では、永遠の命といって
います。般若心経は入口であり、聖書は奥座敷を示しているのです。
一切が空であるといっても、私がいるではないか。空だといっても音が聞こえ、物が
見える。これは命があるからです。ですから、物が聞こえたときに、自分の肉体として
の耳が聞いたと思ったらまちがうのです。そういう見方をすると、釈尊にしかられます。
自分の耳が聞いたのではなく、命が聞いているのです。
ですから、生きている間に、命が物を持った実感、命が物を食べた実感、命が物を見
た実感をずっと深めておきますと、肉体がなくなったあとも、命に生きた実感はずっと
残っています。肉体がある間に、命の価値を実感しておかなかったら、しまったと思う
ことになります。この心境をあえて言うなら、これが地獄なのです。こういう意味での
地獄ならありますが、八大地獄などというものはありません。
今の人間の物の見方は粗雑でほとんどの場合、経験で見ています。それは人間の欲望
から出てきたもので、人間は欲望で物を見たり、考えたりします。
私が結論的に申し上げたいことは、人間の思い、常識知識がまちがっている。これを
はっきり捨てて、大きく、宇宙という場に立って見なければならない。これは宇宙感覚
を持つという言い方ができると思います。
本当の命を体得するためには、般若心経の空と、聖書の十字架、復活を受け入れなけ
ればならないのです。大変不充分な話をいたしましたが、おゎかりにくいところはご質
問いただき、共に勉強したいと思います。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)