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  • 執筆者の写真管理人 chayamichi


 物事の真実は、一番近いところにあるのです。それを一番遠い所にあるもののように、思いこんでいるのです。一番親しむべきものを、一番敬遠しているのです。

 神は一番頼りになるものです。一番心やすくて、一番皆様のことをよく知っています。愛そのものです。ところが分からないのです。

 マグロの味は、神が造ったものですが、神が造ったということは、天然自然が造ったということです。天然の働きが、神の霊です。天然自然と言っても、神の霊と言っても同じことなのです。

 神は絶対であって完全です。完全とは、人間の本性から考えて、全く合理性を持つものです。これは皆様が毎日経験しておいでになることです。

 神は最も平凡なものですが、また、最も偉大なものです。神は最もあたりまえのことです。人間はこれを全く知らずに生活しています。無知なのです。

 時間が未来から来ています。何が来ているのでしょうか。妙なものがやってくるのです。未来がやってくるのです。

 未来とは何でしょうか。皆様は未来があることが分からないでしょう。未来があるのは地球だけです。例えばアンドロメダ星雲には未来はありません。同じ銀河系でも、太陽系以外の島宇宙には、未来はないのです。ある必要がないからです。

 地球には未来が厳然としてあるのです。地球があることをよく見ると、神が分かるのです。神ほどありふれたものはありません。ところが、これが一番分かりにくくなっているのです。

 人間はいつも、神を踏んずけているのです。神に小便をかけて歩いているのです。神が分かっていないからです。神ほどありふれた平凡なものはありません。ありふれた平凡なものが、最も偉大なものなのです。これが皆様の命です。

 命を知りたければ、神が分かればいいのです。

 皆様は未来が分からないのに、未来を黙ってお受け取りになっています。例えば、魚屋さんで魚をご覧になると、それを買ってどう料理をしたらいいかが、頭の中にめぐってくるのです。これは未来を考えているのです。

 皆様は未来という時間を、黙ってお受け取りになっています。大胆不敵です。非常に大胆不敵です。自分の命が分からないのに、死んだら非常に危険な状態であるのに、いつ死ぬかもしれない命を、平気で生きておいでになります。これを大胆と言わずに何と言ったらいいのでしょうか。

 そういう状態を女性と言うのです。女性は男性から愛していると言われると、それを黙って受け取るのです。この気持ちが、未来を黙って受け取るのと同じなのです。

 人間は神からみれば女性です。人間は空気、水、太陽光線、土からできる成りいでるものによらなければ、生きていけません。これが人間が女性であることを示しているのです。

 神はこの女性がかわいくてたまらないのです。そこでマグロの味を造るのです。上等のマグロのトロや中トロをお食べになると、これはうまい、これはいけるとお感じになるでしょう。風呂から上がった時のビールの味も格別です。

 うまいと感じる時に、味覚神経と魂の関係はどうなるかです。愛しているとか、愛されているという関係、いわゆる恋を語っている時の人間の脳細胞は、神を信じることに大関係があるのです。

 恋したり、愛されたりしていることが、魂に大きな関係があるのです。皆様が生きていることは、命が働いていることです。命が働いているということは、神と交わっているということなのです。

 生きている間中、神との愛の関係が続いているのです。

 喉が乾いた時に水を飲むと、とてもうれしい気持ちがします。お茶を飲めば、上等のお茶か、そうでないかがすぐ分かります。それくらい皆様の味覚神経は鋭敏です。神の色々なあり方を、色々に感じわけ、見分けることができるのです。

 セックスは人間が考えている性欲、欲望ではありません。性欲は後からついてくるのです。性欲を先にするからいけないのです。愛が本当に分かって、おのずから燃えれば、性欲とは違うのです。

 セックスを欲望にしたのはユダヤ人です。ユダヤ人に誤魔化されているのです。何でもかんでもユダヤ人のせいにしますが、セックスで世界中をかき回すのは、ユダヤ人の奥の手です。ユダヤ人にひっかき回されないようにして頂きたいのです。

 初物を食べれば、七十五日寿命が伸びると言います。これには原理があるのです。おいしいものを食べると、脳細胞に大きな変化が生じるのです。味は人の魂に密接な関係があるのです。

 未来とは何か。絶対的なものです。これが神です。皆様は未来を飲み込んでおいでになるのですが、これが色気の本体です。男性はなぜ女性に色気を感じるのか。女性に誠意をもって接すれば、その誠意を黙って受け取ってくれるような気がするからです。自分の心を受け取ってくれる所に、女性の色気があるのです。

 神が人を見ると、神の言うことを聞いてくれそうな気がするのです。そこで神は人においしいものを食べさせるのです。神が人に牛肉を食べさせたり、鯛を食べさせたり、メロンや桃を食べさせるのです。陽を照らして人を愛しているのです。

 未来という絶対的な人格が人を覆っている。これが神の愛の本体です。それを皆様が意識して受け取ると、神の愛がもっと大きくなるのです。

 皆様の命は未来から来るのです。過去からは来ません。前の方からくる瞬間瞬間の新しい時間をつかまえるのです。新しい時間を経験していることが生きていることです。手の切れるような新しい時間が流れてくるのです。これが神の愛です。愛を受け取る状態が女性です。

 女性の色気をよくごらんになると、自分の本体が分かるのです。神との付き合い方が分かります。神とは永遠の男性ですから、色気でつきあったらいいのです。

 女性が男性とつき合う時には、色気でつき合います。これはセックスの色気とは違います。セックスではない色気です。魂の色気です。皆様も魂の色気で神とつきあうのです。

 イエスはこれをしたのです。だから、我父にあり、父我にいますと言ったのです。父なる神とイエスは、いつも恋愛関係にあったのです。これが本当の恋愛です。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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 聖書に次のように書いています。

 「聖なる者、まことなる者、ダビデのかぎを持つ者、開けば誰にも閉じられることがなく、閉じれば誰にも開かれることのない者が、次のように言われる。私は、あなたのわざを知っている。見よ、私はあなたの前に、誰も閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、私の言葉を守り、私の名を否めなかったからである。見よ、サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称してはいるが、その実、ユダヤ人でなくて偽る者たちにこうしよう。見よ、彼らがあなたの足もとにきて平伏するようにし、そして、私があなたを愛していることを彼らに知らせよう。

 忍耐についての私の言葉をあなたが守ったから、私も地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試練の時に、あなたを防ぎ守ろう。

 私は、すぐに来る。あなたの冠が誰にも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい。勝利を得る者を、私の神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、私の神の御名と、私の神の都、すなわち、天と私の神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、私の新しい名とを、書きつけよう。耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」(ヨハネの黙示録3・7〜13)。

 この箇所は実に意味深長な所でありまして、この箇所を信じる異邦人があるとしますと、異邦人にしては珍しく、ほんの少しの力を持っているのです。神に従っていかねばならないこと、神に従うことが、人間存在の建て前であることが、分かっているのです。

 私たちは困ったことに、この世に生まれてきました。この世に生きていて、現在まだこの世に生きていると思っている。この気持ちで神を信じることが、根本的に間違っているのです。

 だいたい、人間に神が分かるはずがないのです。神を信じるというのは、私たちが神が分かっていないことを信じるのです。人間が分かったと思うことは、皆間違っているのです。

 神を信じるというのは、自分を全く信じないことですが、これができないのです。聖書の言葉はあまりはっきり言い過ぎて分からないのです。

 現世の政治、経済の流れは、はっきりサタンの会堂です。サタンの会堂ということが、サタンの教義、教条を意味するのです。サタンの教義は、現代文明の中枢を握っている。これが空中の権です。サタンの会堂が空中の権を意味しているのです。

 アメリカの大統領は、ユダヤ人の背景がないとなれないのです。世界の政治、経済、軍事の中心は、ユダヤ人によって押さえられているのです。

 聖書の勉強をして、救われたいという気持ちが間違っています。自分が勉強して、イスラエルに伝道をする。これが間違っているのです。これを全部解脱してしまわなかったらだめです。

 自分がいるという考え方が、偽りの情欲に惑わされている考えです。自分のために生きているのではない。自分が仕事をするのではない。これをはっきりさせることです。

 十字架以後の現世は、全くひどいものです。地の塩が味を失って、人に踏まれている状態です。肥料にもならない。ただ人に踏まれているだけです(マタイによる福音書5・13)。

 神の言葉であるイエスが十字架につけられたことによって、神の言葉で造られているものが、全部無になった。肉なるものが全部無意味になったのです。これが色即是空の本体です。これだけでも信じられる人はほとんどいないのです。

 般若心経の色即是空という言葉は、十字架のニュアンスを良く現わしているのです。言葉が肉となった。この肉が十字架につけられたのです。十字架を信じるとは、これを信じることです。

 言葉が肉となった。これが十字架につけられると、どうなるか。人間存在の実体はどうなるか。森羅万象の実体はどうなるかです。

 森羅万象は小羊のものになっている。サタンのものとは違います。千々万々の御使いは、小羊を賛美しているのです(ヨハネの黙示録5・11〜13)。これをよく理解して頂きたいのです。食物の味、花の美しさは肉(現世のこと)ではない。魂が感動を覚えるのです。

 イスラエルに神の約束を与えられた。彼らはこれを、現象的な角度からだけしか見れないのです。神が契約を与えると言っていますが、これを現世のこととしてしか考えていない、現世のこととしてしか考えていないということが、サタンの会堂の基本になっているのです。サタンの会堂は全く空なるものです。これを金銀玉桜、大廈高桜のように考えているのです。

 国家は政党が権力を握って、右手に経済、左手に法律の剣をかざして、行政組織を造っているのです。これは全くの虚仮おどしです。国を国家にしている。これは全くの御伽噺です。

 国と国家は違います。国は実存していますが、国家は空存している。虚存しているのです。政党が変わると、国家も変わってしまいます。もし共産党が日本の政治権力を握ると、自民党の政治と全く違うものになるでしょう。国家そのものが、見事に変わってしまうのです。しかし、国は変わらないでしょう。公明党が権力を握れば、富士山麓に巨大な戒壇を造るでしょう。それも国家であって、国自体ではないのです。

 考えなければいけない。考えるとは、まだ分からないこと、知ってほしいこと、未知の世界へどんどん踏み込んでいくことです。百四十億の脳細胞の中で、まだ用いていない部分を用いることを、考えるというのです。

 五官が正しく働いていれば、百四十億の脳細胞の中の、半分位は使えるはずです。百四十億全体を、フルに使うくらいのスケールを持っていないとだめです。

 キリストには、神の知恵と知識が満ちていますから、キリストが分からなければいけないのです。サタンの会堂に属するものを、おまえたちに預けると書いているのです。神の信頼度合いを考えてみるのです。

 六十三億の人類を牛耳っているのが第二の天です。現在の政治活動、経済活動、思想活動、学理学説の全体が、サタンの会堂です。これを預けるというのです。

 大胆さと神経の細やかさがいります。神経質な人はあることに目をつけると、徹底的にそれをしないと気がすまない所があるのです。これを神的に用いるといいのです。神にだけ神経を使うのです。そうすると自分が苦労しなくてもいいのです。神がその人の神経質な面を、うまくコントロールしてくれるのです。そうすると、大きく伸びるのです。

 パウロは古き人を脱ぎ捨てて、新しき人を着よと言っています。これをすべての人がしなければいけないのです。古き人を脱ぎ捨てなければ、絶対に救われない。人々を救うどころか、自分さえも救われないのです。

 サタンの会堂は第二の天であって、現代文明をリードしているもの、リーダーシップを取っているものです。これが空中の権を取っている。空中の権を私たちに与えると、神は言っているのです。これはキリストの空中再臨の前触れです。地上にいる教会が、サタンの会堂の権を与えられる。これがきっかけになって、空中にキリストが再臨するのです。

 自分のことには無関心になってもらいたい。現世のことにはどうでもいいという考えを、いつでも頭においてもらいたいのです。現世で何かを知らなければならないという考えを、捨ててしまうのです。

 キリストは復活して、昇天してしまった。イエスは、義とは私が父の天にいくことではなくて、おまえたちが私を見なくなることだと言っているのです。人間がいなくなることが義です。義とは神から見た正当性ということです。

 イエスは本当の人間です。本当の人間がこの世にいなくなることが、義です。

 この地上で、目に見える人間を信じている人は、義が分かっていないのです。人がこの世にいるのは、第三天のキリストを証するためです。固有名詞の人間はいないのです。新約時代は全く奇想天外の時です。神がイスラエルを捨てて、異邦人に福音を与えたことによって、世界が変わってしまった。物理的に心理的に、旧約時代と全く変わってしまったのです。

 世界の人々に言わなければならないことは、文明の退廃、文明が間違っていること、文明は命について全く無力だということです。

 宗教が間違っている。キリスト教が間違っているのです。教会が歌っている讃美歌が皆間違っているのです。教会の間違いがはっきり分からなければ、あなたがた自身の間違いは分からないでしょう。自分自身の間違いがはっきり分からなければ、ユダヤ人の間違いが分からないのです。

 讃美歌は皆間違っています。神でないものを、神として讃美しているからです。今の人間が讃美すると、自分が造った神を讃美するしかないのです。

 人間は、肉体的に存在する自分を、有意識的、または無意識的に認めなければ、神を信じることはできないのです。したがって、今の人間が神を讃美すると、肉体的な自分を認めていることになるのです。この原理が間違っている。これがユダヤ人の間違いです。

 人間が神を讃美すれば、人間が造った神を讃美するしかないのです。キリスト教の人々が讃美すると、人間が造った神を讃美しているのです。これが皆間違っているのです。

 人間が造った学問を信じ、人間が造った政治を信じる。人間が造った国家を信じているのです。

 国と国家は違います。人間が生活を営んでいるのは国です。政治経済機構を造っているのは国家です。国民は戦争を放棄したいのですが、国家は放棄したくないのです。「国亡びて山河あり」という言葉がありますが、正確には、国家亡びて山河ありと言うべきなのです。

 人間が讃美しているのは、人間が造った神です。讃美している人間と、誠の神とは何の関係もないのです。

 人間は神を讃美する資格は、初めからありません。なぜかというと、人間は全部死んでいるからです。神は人間を認めていません。人間の思いが死んでいるからです。神が認めているのは、イエスの御名である人間なのです。生かされていること、インマヌエルという事実しか、認めていないのです。人間が考えている人間を、神は一人も認めていないのです。これがユダヤ人の律法に対する神の考えです。キリスト教の間違いを、はっきり知らなければ、ユダヤ人の間違いが分からないのです。

 人間には、固有名詞の人間がいるという考えが、こびりついています。神の約束がそのまま自分であるということが、分かっていないのです。

 家庭がある。仕事があると思っている。それはあってもいいのですが、神がその人に一つのコースを与えて、霊を自覚させようとするための方便なのです。

 家庭も商売も、ただのコースです。霊を自覚するための、ただのコースなのに、それを自分だと思ってしまっています。事情境遇が自分だと思っているのです。名刺の名前が自分だと思っているのです。

 ユダヤ人は掟を行おうとしている。これほどばかばかしい考えはありません。キリスト教が聖書を信じようとしているのと、同じことなのです。

 自分が聖書を信じようとしているのは、神に挑戦していることです。神を嘲っているのです。聖書ぐらいは自分でも分かると考えている。これは大変な冒涜です。まず聖書にかなう人間になるべきであって、絶対に聖書を勉強してはいけないのです。

 ユダヤ人は人間が造った掟を拝んでいます。イエスは言っています。おまえたちは神の言葉を守らずに、人間の言い伝えを守っている。人間の言い伝えがタルムードになり、ミシュナになっているのです。

 パウロから見れば、トーラーでさえも間違っています。トーラーの文句は間違ってませんが、読み方が間違っているから、受けとめ方が間違っているのです。人間のトーラーになっているのです。

 自分の気持ちに基づいて聖書を読まずに、聖書に基づいて自分を読むのです。そして、聖書の一字一句が自分の命であると考えるのです。

 神は私たちに、完譬を求めているのではありません。原則を受け止めること、原則に従おうとしたはっきりした意識を持てばいいのです。

 神は私たちに一〇〇%を求めているのではない。実行しようという意志、実行しつつあるという気持ちを持っていればいいのです。自ら備えをしようという気持ちを持つ者に、助けが与えられるのです。

 ことに異邦人の教会には莫大な助けが与えられるのです。神は寛大な姿勢で見ておられますから、神を嘲ってはいけないけれど、神の大まかさを慎んで信じるという態度を取るなら、叱られないでしょう。

 神に対しては、どこまでもアバ父という子なる霊を持たなければならないのです。恐れおののくという気持ちではいけないのです。

 幼児は恐れおののくという態度をとれません。これがいいのです。大人の意識で神を甘く見ては絶対にいけないのです。幼児の意識でいけば、神の愛が分かります。これはできないことではない。私たちがまず大人であることをやめることが基本条件です。自分の意識、自分の立場、自分の感情を問題にしなければいいのです。

 結局、自分自身をどう見ればいいかです。幼児になれとか、素直になれという言い方は、抽象的です。神は霊であるから、拝するものも、霊と誠をもって拝するでいいのです。霊をもって拝するとはどうすることか、誠をもって拝することはどうすることか。これがはっきり分からなければいけないのです。

 開けば誰も閉じられないもの、閉じれば誰も開くことができないものがあります。ここで、ダビデのかぎを持つという重大な発言をしています。キリスト教では、ダビデのかぎとは何のことか全然分からないのです。これはダビデの幕屋のかぎのことです。やがて来たるべき千年王国の、真ん中に建てられるものです。これが建てられると、世界平和が本当に実現するのです。

 誰も閉じることのない門を開いておいたと言っています。これはすばらしいことです。この門は、キリストが神の右に座することが分からなければ、分からないのです。

 一度死んで甦ったものでなければ、ダビデのかぎは持てないのです。この門は、神の国の門です。

 イエスは山上の垂訓で、狭い門と言っています(マタイによる福音書7・13)。これが私たちに開かれている。私たちの場合、狭き門が広き門になっているのです。広き門が狭き門になっている。反対になっているのです。

 私たちにとって、この世の門が非常に狭い門になっているので、帰ろうとしても帰れないのです。無理に入ろうとしたら入れないこともないが、入る必要もないのです。滅びに到る門は狭く、救いに到る門が大きくなっているのです。これは本当に有難いことです。

 彼の上に、イエスの名と、新しき都エルサレムの名を書きつけようとあるのです。フィラデルフィアの教会は十四万四千の救われる人々の基礎になる教会です。天のエルサレムの基礎です。私たちは、天のエルサレム建設のためのベースキャンプにならなければいけないのです。

 鼻から命の息を入れたということが、聖書六十六巻の絶対的な命のあり方の基礎になっているのです(創世記2・7)。命の息とはっきり言っています。鼻から命を出し入れしているのです。

 神は地のちりに形を与えて、人を造ったのです。地のちりが人間としての形を取るには、長い長い年月があったのです。瞬間的に形を与えられたのとは違います。時間空間を通じて、自然に形を与えられたのです。これに鼻から命の息をふき入れられた。

 最初に原人みたいなものがいたが、まだ彼らは生命意識を持っていなかったのです。しかし、原人がはっと気がついた。「ああ、自分は鼻から息を出し入れしている」。これが生きているという意識につながっていったのです。

 まず、生命意識が人間の魂に植えられた。これが第一時期です。次に、生命を意識している自分がいると意識したのです。これは自我ではない自分です。人称人格です。生きている自分がいるという意識、自我とは何の関係もない意識です。客観的に自分を意識し始めたのです。

 これが神から与えられた第一意識で、これがそのまま信仰の原点になるのです。どうしても見逃すことができない意識で、これをリビング(living)と言います。リビングとは人間が生きていることの事実、実体です。これは人間のあり方のあらゆる意識に優先するのです。

 リビングなしに信じることは絶対にできません。これが信仰の原点です。「ああ!生きている」ということが信仰の原点です。

 第一意識とは、第一信仰のことです。現代人は、第一意識を見つめるという意識が非常に鈍いのです。これは誰にでも言えることです。年をとっても若くても、生きていると思っている。これが信仰です。見えないことを誠としているのです。

 生きていることは見えないことです。見えないけれど信じられるのです。パウロは「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」(ヘブル人への手紙11・1)と言っていますが、まだ見ていないことを確信するとは、信仰のあり方を言っているのです。

 魂とは何かと言いますと、信じるという意識の第一になるものです。信じることなしに、魂は発生しません。成立しないのです。信じることが魂です。

 太陽が東から出ることを信じる。これが魂です。こういう原点的な観点をしっかりつかまえて、神をつかまえてしまうのです。これをすれば、びくともしないのです。

 魂であることが信じる機能であることを意味します。魂以外に信仰の正体はありません。リビング・ゴッド(living God)と、リビング・ソール(living soul)、受動性の神と、能動性の神とがあるのです。受動性の神を神の子と言います。能動性の神を父なる神と言います。可能的演繹性と、可能根拠があるのです。父なる神と子なる神があるのです。これが人間存在の原点、聖書の原点です。絶対に否定することができないのです。

 人が生きていると思っていることが、そのままインマヌエルです。これは六千年の間、人間が分からなかったことです。イエスがそれを証明したのです。

 言葉は神である。この言葉に命がある。命は人の光である。命とはリビングです。リビングが人の光です。誠の光が人間になって現われた。リビングが人間になって現われたと言っているのです。

 誠の光があって、この世に現われた。彼は世にいた。世は彼によってできた。生きているということがなければ、この世はないのです。命という事実がこの世に来た。しかもこの世は命によって成り立っているが、この世は命をまじめに受け取らなかったのです。このことをはっきり自覚するのが、正当なリビング・ソール(生きている魂)と言える資格があるのです。これをはっきり自覚しないものは、リビング・ソールではないのです。

 リビング・ソールとは、リビングの本体です。アダムは客観的にリビング・ソールになったのですが、自分自身がリビング・ソールという自覚を持っていなかった。神は何とかして、アダムにリビング・ソールの自覚を与えようとして、あの手この手をうったのですが、分からなかった。アダムはついにリビング・ソールという自覚を持つことができなかったのです。アダムは客観的にはリビング・ソールになったのですが、アダムはそれに適合する自覚を持つことができなかった。これが悲劇の始まりです。

 リビングがそのまま神です。ザ・シール・オブ・ザ・リビング・ゴッド(the seal of the living God)とあります。リビング・ゴッドのシールとは何かと言いますと、リビングそのものです。リビングがシールそのものです。

 アダムは、「あっ!生きている」と思ったけれど、その生命意識が何であるかが、理解できなかったのです。

 マグロの刺身を食べて「旨い」と思っても、旨いとは何かが理解できなかったら、マグロの刺身を食べたことにならないのです。味を理解すると同時に、味の本質を理解するのでなかったら、本当にマグロを食べたことにはならないのです。

 地球上には、六十三億のイエスがいるのに、そのことを一人も知りません。だから神が大声疾呼しなければならないことになるのです。おまえたちはバカだと神は言っているのです。死にたくないのに、死んでいかなければならないからです。

 六十三億の人間は、リビングという事実によって生かされているのです。カインもそれが分からなかったのです。死ぬかもしれない。殺されるかもしれないと恐れていたのです。

 神は「おまえが生かされていることが、私がいることだ」と言ったのです。カインに与えたしるしは、リビングのしるし(印)です。神がしるしを与えれば、リビングに決まっています。これ以外のしるしはないのです。

 リビングということが、ザ・シールです。リビング・ゴッドのシールは、リビングに決まっています。リビングがシールだということに気がついた人が、パウロ以後、世界中で一人もいなかったのです。私たちはこのシールを携えて、イスラエルにのぞむのです。極めて平易で、明々白々なことが、神の実体です。愚かだけど迷うことはないとモーセが言ったのは、この事実です。

 信仰とは何か、人が生きていることです。救いとは何か、人が生かされていることです。皆様はすでに生かされているのです。

 現在、鼻から息を出し入れしていながら、それが何か分からないので、皆死んでしまうのです。それを黙って放っておいてもいいのかと言いたいのです。世界中の人間は、もったいないことをして死んでいくのです。

 鼻から息を出し入れしていることがイエスです。これが命であり、救いです。これが分からないのです。一番簡単なことで、一番分かりやすいのです。明白なリビングのシールを与えられていながら、生きていることが何をしているのか分からないのです。

 生ける神の印は、絶対的なことです。リビングというシールが、私たちのシールです。生きていることは、絶対に否定できません。これには、反対も抵抗もできません。けんかができないのです。生きていること以外に、救いがあるはずがないのです。

 現在、六十三億の人間が生かされていることが、救われていることです。これは明々白々な事実です。だからパウロは、今は恵みの日、救いの時であると言っています。この恵みと救いは誰にでも開かれています。天国の門が大きく開かれているからです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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 仏というのは、ほどけてしまうことです。胸の中にあるもやもやが、ほどけてしまうことです。自分は神の子であるという自覚を持つことが仏です。自分の命がない、自分自身がいないということを自覚することが、仏になったことです。自分はいないけれど、生かされているものがあります。これが神の子です。神の子である自覚を持ったことが、仏になったことです。仏になると、人生のもやもやがすべて消えてしまうのです。

 聖書に不思議なことが書いてあります。

 「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手拭いをとって腰に巻き、それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手拭いで拭き始められた。こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、『主よ、あなたが私の足をお洗いになるのですか』と言った。イエスは彼に答えて言われた、『私のしていることは今あなたには分からないが、あとで分かるようになるだろう』。ペテロはイエスに言った、『私の足を決して洗わないで下さい』。イエスは彼に答えられた、『もし私があなたの足を洗わないなら、あなたは私となんの係わりもなくなる』。シモン・ペテロはイエスに言った、『主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も』。イエスは彼に言われた、『すでに体を洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなたがたはきれいなのだ。しかし、みんながそうなのではない』」(ヨハネによる福音書13・4〜10)。

 イエスが弟子たちの足を洗ったのですが、これはどういう意味かです。人間は誰でも、自分という人間がいると思っていますが、聖書を勉強していきますと、自分がいない、自我的な人間が全くいないということが実感的に分かってくるのです。そして自分の実体が魂であって、生かされている魂の状態が、遣わされた状態であることがはっきり分かることが、イエスに足を洗ってもらったことになるのです。死ぬべき現世から、死なない神の国へ移されたことが、イエスに足を洗われたことになるのです。

 イエスは「もし私があなたの足を洗わないなら、あなたは私と何の係わりもなくなる」と言っています。現世に生きていて、この世の人間であるという意識をやめることです。そのためには、イエスに足を洗って頂く以外に方法がないのです。

 そして、自分の本質がイエスであるという自覚を持つことです。イエスであるという自覚を持つというと宗教観念になりやすいのですが、実は誰でも、その実体は生ける魂(living soul)なのです。自分はリビング・ソールであるということを自覚すれば、自ずからイエスになるのです。リビング・ソールという自覚を持たないままでイエスであるという自覚を持とうとすると、宗教観念になりやすいのです。

 生きている間は、人間には歩みがあります。一度イエスに洗ってもらったらいいというのではありません。足はなかなか洗いにくいものです。生活の歩みですから、お互いに洗いあう必要があるのです。

 自分自身の歩みは、自分ではよく分からない部分があるのです。だから、お互いに洗いあいなさいと言っているのです。自分の一人合点にならないように、お互いに足を洗うのです。自分の歩みが清くなればなるほど、神に栄光を帰せられることになりますから、イエス・キリストのために、お互いに足を洗いあうのです。

 初めての人であるアダムは生ける魂となったとあります。これは人間が、海のものとも山のものとも分からない状態で、この世へ出されたことをいうのです。これはまだ生まれていないことを意味するのです。

 アダムは鼻の穴から命を吹き込まれて、生ける魂となったとあります(創世記2・7)。生ける魂となったけれど、神の子になったのではありません。悪魔の子になったのでもない。つまり生きているのでもないし、死んでいるのでもない。まだ生まれていないのです。

 この世に出てきたのはあくまで人間ではなくて、魂なのです。ところが自分は人間だと思う。固有名詞の自分だと思っている。魂は人間ではありません。これをはっきり否定する必要があるのです。

 イエスは自分は人ではなくて虫だと言っています。現世で肉体的に生きている自分を虫だと思っていると、とても楽です。自分が人間であると思うと、自尊心とか自分の立場、自分の感情がすぐに問題になります。ところが虫であると考えると楽です。自分も気楽になるし、人のこともあれこれ言う必要がないのです。人が良く思おうが悪く思おうが、自分は虫なのです。

 人の実体は魂です。魂とは何かと言いますと、言が肉となったということです。肉というのは実在していないものをいうのです。形はあるが実体がないものです。

 神の言(ロゴス)が、形はあるけれども実在していない状態で現われた。目に見える形はあります。加藤さんとか伊藤さんという形はありますけれど、実在はしていないのです。しばらく現われてやがて消えていく霧のような存在なのです。霧は形はありますが、固体的に存在していないのです。やがて消えてしまうのです。実は山も海も、地球全体がそうなのです。すべて言が肉となったのです。

 それを見分けることができるかどうかによって、その人の命運が決まるのです。命運というのは命の運勢です。運命とは違います。運命というのは、この世における人間の定めです。命運というのは、とこしえにおける魂の運勢のことです。肉についての考え方によって、永遠の運命が決まるのです。これが分かると、人間が生きていることが全く霧であることが、はっきり分かるのです。

 人間は言が肉となったことが分からないのです。イエスを信じるとはどうすることか分からないのです。そこで山上の垂訓を勉強する必要があるのです。イエスは言っています。

 「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思い煩い、何を着ようかと自分の体のことで思い煩うな。命は食物にまさり、体は着物にまさるではないか」(マタイによる福音書6・25、26)。

 魂のために何を食べようか、何を飲もうかと思い煩うなと言っているのです。命のためとは言っていないのです。原語では魂のためとなっていますが、命のためと訳しても間違いではないのです。なぜ間違いではないかと言いますと、魂というのは本来、生理機能と心理機能が一つになった状態をいうのです。肉体はありませんが、肉はあります。現在、鼻から息を出し入れしています。目が見えます。これは肉体的な働きです。肉体とは違うのです。

 五官を働かせる必要があるために、神は人間に肉体を与えていますが、これは正確には肉体ではなくて肉です。肉を与えているのです。肉は働きの土台になるものです。肉がなければ鼻も目も働きません。だから鼻の働き、目の働き、手の働き、足の働きを経験するためには、どうしても肉がいるのです。これは肉体ではなくて肉なのです。言が肉体となったという口語訳は、間違っているのです。言は肉となったというのが正しいのです。

 キリスト教を信じている人々は、肉体があると思い込んでいるのです。これが間違っているのです。

 言が肉となった。肉とは場のことであって、実体ではないのです。五官が働く土台が肉です。土台というとしっかりした足場のように思いますがそうではなくて、働きの基礎を意味します。これが肉です。これを人間が持たないことには暑さ寒さが分からないのです。スイカを食べても、香も色も味もなければ、スイカに秘められている神の愛が全然認識できません。味がない桃を食べても全然おいしくありません。天地万物には万物の味わいがありますが、万物を通して神の愛が魂に響いてくるように造られているのです。

 仏教で天下の万法とありますのは物理的法則のことですが、天地はダルマ、ダルマ、ダルマと法だらけです。動物、植物、鉱物、森羅万象というダルマがあるのです。ダルマが何億、何兆に分かれて、万物になって現われているのです。これが神の知恵、知識です。

 万法が万物になっている。法が万になって現われている。法を見たものは如来となる。如来となったものは法に生きるという言葉がありますが、人間は如来になるためにこの世にきたのです。法を見るためには肉になった魂が、この世に生きていなければならないのです。そのために言が肉となってこの世へ来たのです。

 言が肉となったのがイエスです。理性、良心は言です。これが肉になってこの世に生きているのです。理性、良心は神の言ですから、自分で勝手に用いてはいけない。信仰によって用いなければならないのです。喜ぶにしても悲しむにしても、信仰によってしなければいけないのです。それをするために、肉となってこの世に来たのです。

 「見よ、あなたは私の日をつかのまとされました。私の一生はあなたの前では無に等しいのです。まことに、すべての人はその盛んな時でも息にすぎません。まことに人は影のように、さまよいます。まことに彼らは、空しいことのために騒ぎまわるのです」(詩篇39・5、6)。

 この世に生きているというのは影、幻です。人が盛んな時というのは、二十代の時でしょう。その時でさえも、息にすぎないのです。だから現われて消える霧にすぎないのです。

 人は影のようにさまようのです。文語訳では、人の世にあるは影に異ならずと言っています。これははっきりしています。人間がこの世に生きているのは影だと言い切っているのです。これをはっきり実感することが、イエスに足を洗ってもらったことになるのです。言が肉となった方に、足を洗ってもらいますと、その人も言が肉となるのです。イエスと同じになるのです。イエスに足を洗ってもらいますと、イエスと同じ気持ちで生きられるようになるのです。

 現世における人間、言が肉となっていることが、幻です。ナザレのイエスという人でさえも幻だったのです。イエス様ではなくて、幻様だった。この人に足を洗ってもらいますと、幻になるのです。この世から足を洗うのです。ヤクザがヤクザの世界から足を洗うように、私たちも足を洗うのです。肉の思いから足を洗うのです。

 幻の状態、これは死にません。自分が幻であることに気づいた人は、神の国を見つけたのです。神の命、とこしえの命を見つけたのです。

 イエスが幻でした。従って、地球が幻だったのです。ですから、この世で神の信仰によって生活するということだけがあって、損とか得はないのです。

 リビング(living)はこの世に生きているということだけです。リビングが魂です。生きていることがそのまま魂です。魂はこの世で経験しているだけです。いいことも悪いこともない、すべて経験しているだけです。

 つらい経験をした、悲しい経験をしたとしても、それは経験であって実体ではない。心から悔やんだり泣いたりする必要はないのです。現世で、肉体人間の喜び方、悲しみ方をしていますと、イエスに足を洗ってもらったことにはならないのです。イエスと関係のない人間になってしまうのです。

 イエスに足を洗ってもらった人間なら、言が肉体となっただけで、幻の人間です。これを本当に信じるには勇気がいります。旧約聖書にいさましくという言葉がよく出てきますが、神の勇気は悪魔の一切の反逆をものとしない、必ず勝つと確信していることです。勇気がなければ、神の信仰は分かりません。悪魔に勝つには勇気だけです。

 魂は現世で命を経験するために遣わしているのです。魂をこの世に遣わした神は、その人が一生食べる食物を背中に背負わしているのです。

 命は糧に勝る。魂は糧より大事です。魂をこの世へ遣わした神は、一生の糧をつけてこの世に送った。だから何を食べようか何を飲もうかと思い煩う必要はないのです。

 伝教大師が言っている言葉ですが、「衣食に道心なし。道心に衣食あり」。何を着ようか、何を食べようかと思い煩っている者は、魂についての配慮がない。魂のことを心配している者は、衣食を心配する必要はないというのです。

 人間は自分が働いて食べているのではない。空の鳥を見よ、野のユリを見よ、誰が養っているのか、おまえたちはそれよりもましではないかと言っているのです。

 明日のことを思い煩うな。明日の中に、明日の飲み物も食べ物も、一切入っている。だから明日のことを思い煩う必要はない。一日の苦労は一日で足れりなのです。

 人間は毎日何をしているのか。暑い夏はありがたいとは思えないかもしれませんが、暑い夏がなければ、涼しい風のありがたみが分からないのです。風のありがたみを知るためには、どうしても暑い夏が必要です。

 太陽の暖かさを知るためには、冬の寒さがどうしても必要です。人間は現世で神を経験しているのです。梅干しが酸っぱいのも神です。おやじがうるさいのも神です。奥さんが言うことを聞かないことも、人が自分を認めてくれないことも神です。気にいることも気にいらないことも、私たちが現世で経験することはすべて神です。

 人間である自分が経験したことは、皆間違っています。魂が経験したことは神の恵みになるのです。人間はいない。魂が生きている。これに気がついた人は、海の世界から新しく生まれるのです。海は宇宙の子宮です。人は血潮がただよう海の中にいるのです。地球は子宮です。これから生まれるのです。人の世にあるは影に異ならず。これが分かった人は、初めて生まれる資格が与えられたのです。イエスの言葉を正しく学んでいくと、新しく生まれて神の国に入ることができるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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