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  • 執筆者の写真管理人 chayamichi


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 かつてエジプトを出たイスラエルの民が、四十年の間砂漠を彷徨っていました。有名な出エジプトの事件ですが、その時、男だけで五十万人はいたでしょう。又女性もその位はいたと想像されます。子供と老人を含めると、恐らく、百五十万人から二百万人はいたでしょう。

 エジプトを出た時には、数カ月間の食料は持参していたに違いありませんが、とても四十年間の食料は持参していなかったと思われます。

 持参した食料だけでは飢え死にするところだったのです。神がモーセに命令して、ユダヤ民族を引き出した上に飢え死にさせれば、イスラエルの神はバカな神になってしまうのです。そこで神は、四十年の間「マナ」という特別の食物を、天から降らしたのです。砂漠の岩から水を出したのです。

 これは歴史的事実です。神が四十年の間、二百万人の民を、全く食物がない砂漠で、本当に養ったという驚くべき事実があるのです。これは現在の文明の常識では全く考えられないことですが、その子孫が現在、全世界で活躍しているのです。この事実を、旧約聖書の出エジプト記に、堂々と書いているのです。神はこの他に、数多くの奇跡を行い、ユダヤ民族に、イスラエルの神がいることを示したのです。

 現在、世界で約二千万人のユダヤ人がいて、世界の政治、経済、軍事、科学、医学、音楽等の分野で、その実力をいかんなく発揮しています。世界の政治、経済の実権は、ユダヤ人によって握られているといっても過言ではありません。

 二千万人のユダヤ人が現在世界に実在していることは、その祖先がいたことを証明しています。その祖先に神がいて、その神が奇跡を行ったということも証明できるのです。即ち聖書にある神の実在は、ユダヤ民族がいることによって証明されているのです。

 これがユダヤ人と神との関係ですが、このユダヤ人がイエス・キリストを殺したのです。だから大問題になっているのです。

 永遠の生命は、アブラハムを通して、ユダヤ人に与えられたものです。ユダヤ人のために、ユダヤ人だけに与えられたものです。

 ところが、ユダヤ人たちはそれを拒否してしまった。ユダヤ人がイエス・キリストを殺したということは、永遠の生命をはっきり拒否したことになるのです。それために世界の文明が混乱しているのです。

 文明が混乱しているだけならいいのですが、全ての人間が、全部死んでしまう運命にさらされてしまった。

 今の人間は、ただ死ぬしかないのです。死ぬだけなのです。何をしても、必ず死んでしまう運命におかれているのです。

 一度死ぬことと、死んだ後に裁きを受けることが、人間の運命になったのです。現世の人間は、このために生きているのです。ユダヤ人が永遠の生命を拒否したために、人類は裁きを受けた後、地獄へ行くだけしかないというとても悲しい運命を与えられたのです。人間は本来死ぬべきものではない。この本来の状態に、人類を復元するようにと、私は色々な本を書いているのです。

 現在の人間は、自分が生きていると考えて生きています。これが土台から間違っているのです。

 命は大自然のものです。天然自然のものです。大宇宙には、命は一つしかありません。皆様はそれを、肉体的な形で経験しておいでになるのです。自分の命というものが、あるべき道理がないのです。

 命ということを、言い替えますと、エネルギーになるのです。命の本体はエネルギーです。エネルギーという言葉についての解釈は、現在では物理的な角度から受け取られていますが、これは捉え方が間違っているのです。エネルギーという言葉は物理的な面もありますが、むしろ法(ダルマ)という面が強いのです。法とは原理、又は原則を意味するのです。

 物理運動はエネルギーですが、法則的に運動するものです。法則的ではないエネルギーはありません。法則的というのは、精神的ということです。

 法は元来精神的なものを意味するものであって、それが物理的に働く場合のことをエネルギーと言っているのです。

 法の原理は何か、法はどこから来ているのか。これが大乗仏教では説明できないのです。法は一切の根源であるということは大乗仏教で言いますが、その根源がどうして存在するのか、それが分からないのです。

 聖書ではそれをはっきり説明しています。法の根源であるものが、神であると言っているのです。全ての絶対的な根源が、神と称されるものでなければならないのです。

 地球が存在する。人間が存在する。太陽が存在する。その原点が神なのです。神によって法が成立している。全ての本源であるもの、原点であるものは、神と呼ばなければならないものなのです。

 インドでも神と言います。同じ神という言葉を使いましても、聖書の神とは全然違うのです。インドで考える神は、日本の八百万の神という思想とよく似ているのです。森羅万象の事々物々を神としているのです。

 日本の八百万の神は、産土神、氏神と言いますが、本当の神はそういうものではありません。宇宙の根源が存在の原理になります。存在と言うことが神なのです。

 皆様の命は、存在の原理がある神が、肉体的に現れているのです。これが命の本源でありまして、仏教では神と言いません。仏教は無神、無霊魂主義でありまして、神がないから霊魂がないのです。これはあたりまえのことです。

 皆様は現在生きておいでになります。生きているということは、命を経験していることなのです。命を経験していながらその実体が分からない。だから死んでしまうことになるのです。いいことを言っている人はたくさんいますが、命が何であるか分からないのです。

 道元は、生死の内に仏あれば生死なし。涅槃として厭うべきもなく、うれいもなし。その時、生死を離れる分ありと言っていますが、生死を離して一体どうなるのか、その説明ができないのです。般若ハラミタといっていますが、彼岸とは何かが分からないのです。

 死なない命を得るということは、仕事よりも、家庭よりも、もっと重大なことです。人生で一番重大な問題なのに、誰も真剣に考えようとしないのです。

 今、皆様が生きていらっしゃる命は、仮の命です。死ぬに決まっている命です。肉体的な命は、死ぬに決まっているのですから、肉体的な命がある間に、死なない命を見つけるのです。

 皆様の中に、先天性の面と後天性の面と、二つあるのです。生まれた時は、五官の働きが非常にはっきりしていました。五官の働きは先天性の命です。見る力は、生まれてから後にできたものではありません。生まれる前に植えられたものです。聖書に、目を植えたもの、耳を植えたものという言葉がありますが、五官は神に植えられたものなのです。これは生まれる前の働きですから、死ぬはずがないのです。これが先天性の命です。

 ところが、皆様は生まれてから物心がついたのです。その結果、後天性の命にすり替えられてしまったのです。今の皆様は、自分が生きているとお考えになっています。これは死ぬべき命なのです。その命を信じないで、生れる前の命、先天性の命をもう一度見つけて頂きたいのです。

 皆様の五官の働きは、死なない命の働きです。ところが、世間の常識で生きている命は、死ぬに決まっている命です。死ぬに決まっている命から、死なない命へ切り替えればいいのです。

 かつて、南禅寺の管長が、首をつって死にました。この人が悟った空と、釈尊が悟った空とは違うのです。この違いが説明できる坊さんが、日本にはいないのです。

 後天性の命は、人間が肉体を持ったことによって現れた命なのです。これを聖書では、肉の思いと言っています。キリスト教でも肉の思いと言いますが、キリスト教でいう肉の思いと、聖書がいう肉の思いとでは、全然意味が違うのです。

 キリスト教は西欧人の宗教であって、西欧人のキリスト教神学に基いて聖書を見ているのです。キリスト教は教義によって成立しています。教義に基づく説明はしますけど、聖書そのものの説明ができないのです。

 南禅寺の管長は、宗教的にしか空を捉えることができなかった。般若心経をよく知ってはいたでしょうけれど、それは概念的な知り方であって、実体的に分かっていたのではなかったのです。ここに宗教の悲しさがあるのです。

 皆様は現世に生きておいでになりますが、命が分からない状態で生きておいでになります。これは生きているのではなくて、死んでいることになるのです。後天性の命は、人間が造った常識です。人間の常識知識は、死んだ人間が造ったものです。この世の常識知識は、良いものも悪いものも、全て死んだ人が造ったものです。

 本当に死を破ったのは、ナザレのイエスだけです。彼は生きている時に、先天性の命で生きていたのです。神に与えられた命を、そのまま生きこなしたのです。先天性の命を持ったままでこの世を去ったのですから、おまえは死ぬべき者ではないといって、もう一度追い帰されたのです。これがイエスの復活です。

 イエスの復活はライズアゲン(rise again)ではなくて、レザレクション(resurrection)です。ただの甦りではなくて、人間の命を造り出す、根底の命による甦りです。この復活について詳しくお話ししようとしたら、天地創造の根本原理をお話しなければならないことになるのです。

 この世の常識、知識で生きている人は、後天性の命で生きているのです。これは死ぬに決まっている命です。今まで、どんな偉い人も、皆死んでしまいました。釈尊も死んだのです。甦っていないのです。しかし釈尊は復活を見ていたのです。全の人間の命は本物ではないが、やがて本当の命が現れること、本当の地球が現れることを、はっきり見ていたのです。それが明けの明星の原理です。

 釈尊は、今ある地球は消えてしまうものであることが分かったのです。今存在している現象世界はやがて消えてしまうものだ。やがて、消えない本当の世界が現れることを、はっきり見たのです。「明けの明星」という形で発見した。そして驚いたのです。今生きている人間の命は、全く空だということが、はっきり分かったのです。

 人間の常識は間違っています。人間の知識も間違っています。命を知らない人間の常識、知識が間違っていることが、釈尊に分かったのです。そこで一切空とはっきり言い切ったのです。これが大乗仏教の悟りです。

 生死のうちに仏あれば生死なし。皆様の目が見えるのは、死なない命によるのです。皆様は現在死なない命を持っていながら、常識で生きておいでになります。だから死にたくないのに死ななければならないことになるのです。

 常識は後天性です。五官の働きは先天性です。皆様の生理機能、心理機能の本質も先天性です。皆様は五官、理性、良心によって現在生きておいでになるのです。これがなかったら、皆様の生理は成り立ちません。

 ところが、五官、理性、良心の働きを勉強しようとしないで、この世の常識、知識のことばかりを考えている。だから、みすみす死なない命を持っていながら、死んでしまうことになるのです。

 般若心経の言うことをよくお聞きになって、五蘊皆空、色即是空、無眼界乃至無意識界を実行して頂きたいのです。

 人間の常識、知識は、五蘊です。自分が生きていると勝手に思っている。その思いが間違っているのです。自分の命ではないものを、自分の命だと思いこんでいる。これが現代文明の大欠陥です。

 こういう思想を世界に流したのがユダヤ人でありまして、ユダヤ人問題は、今から二千年も前から始まっているのです。最近のユダヤ人の仕業とは違うのです。

 こういうことをはっきり知るためには、宗教ではない聖書を勉強する以外には方法はありません。ところが、宗教ではない聖書を教えてくれる人が日本にはおりません。今までの日本では、本当の命を捕まえる方法がなかったのです。

 現代文明は病理文明です。死ぬに決まっている命を、わざわざ自分の命だと思い込んでいるからです。現代文明を信じている人は、すべて病的な見方しかできないのです。その根源をさぐろうと思えば、ユダヤ人はどういうものであるか、旧約聖書にあるユダヤ人と神との関係はどういうものであったかを勉強するしかないのです。

 人間はこの世で生活するために生れてきたのではありません。命を見つけるために生まれてきたのです。

 ですから、般若心経によって自分の後天的な感覚が間違っていることを悟って頂きたい。これが空を悟ることです。

 しかし、これだけではだめです。南禅寺の管長は空を悟ったけれど、本当のことがどこにあるか、本当の命が分からなかったのです。だから首を吊って死んでしまったのです。彼は、宗教ではない聖書があることを知らなかった。聖書は宗教だと思っていたのでしょう。だから聖書を読む気にはならなかったのです。

 キリスト教ではない聖書が分かりますと、先天性の命が分かるのです。先天性の命はどこからきたのか、目が見えるとはどういうことか、食べるとはどういうことかが分かってくるのです。

 本当の命を知りたいと思って聖書を読みますと、神の霊が皆様を助けることになるのです。宗教の霊はだめです。本当の神の霊が皆様の魂を助けることになりますと、命の光が分かってくるのです。

 南禅寺の管長は、首を吊ったことによって宗教は真実ではないことを、身をもって証明したのです。これは偉大な功績であると言えるでしょう。空を、いくら理論的、概念的に悟っても、それだけでは命が分からないのです。生きている自分の命が説明できなければいけないのです。

 そこで、自分の常識を空じると同時に、神を信じる必要があるのです。実は、空じることがそのまま信じることになるのです。本当に空じることができると、それがそのまま信じることになるのです。

 空じることなしに、信じることはできません。キリスト教がなぜだめかと言いますと、空じることなしに信じているからです。

 自分の常識、知識を思い切って空じてしまうのです。その時、本当の信仰が神から与えられるのです。上からの信仰が与えられるのです。

 一度、自分自身を捨ててしまわなければ、本当のことは分かりません。自分の命を捨てるのではありません。観念を捨てるのです。自分の観念を捨ててしまうと、本当のことがだんだん分かってくるのです。

 仏典で言う阿弥陀如来は、キリストの模型になっているのですが、阿弥陀と言っているところに、仏教の宗教観念があるのです。

 仏教には仏教の欠陥がありますし、キリスト教にはキリスト教の欠陥があるのです。本当のことを知ろうと思えば、宗教を離れて、聖書そのもの、仏典そのものを勉強されたらいいと思います。そうしなければ、本当の命は分からないのです。

 女の人は、現在女の性を持っていながら、女が分からない。旧約聖書の創世記二章、三章に詳しく書いてありますが、男は現世に生まれてくる前に、あばら骨を一本抜かれてしまったのです。あばら骨という霊なるものが抜かれて、肉で塞がれた。だから男のハートは自由に働かないのです。あばら骨は男性のハートの生枠です。精神の一番重要な部分がハートですが、それが抜かれてしまったので、男はブロークンハートを持つ欠陥人間になっているのです。

 男性の最も上等な部分を取り出して女を造った。アダムはその女を見て、これぞ私の骨の骨と驚いたのです。骨の骨とはアダムが求めている最高の最高という意味です。

 アダムはあばら骨を取られた時に、深く眠らされた。そして神が食べてはいけないと厳しく禁じた善悪の木の実を食べて、死んでしまった。その結果、神と一緒にいることができなくなって、現世へ追放されたのです。

 現在の肉体人間は、精神的に死んでいるのです。食物のおいしい味、大自然の美しさ、太陽の光線を見ても、それが永遠の生命の実物だとは思えないのです。毎日、毎日、そういう永遠の生命を経験していながら、それが何の事か分からない。これが人間の精神が死んでいる証拠なのです。このことを知るためには、現代文明の悪さを、よく知って頂きたいのです。

 キリストを排斥すること、キリストをまともに信じないことが、現代文明の旗印です。そのために、ユダヤ人はキリスト教を造ったのです。これがプロテスタントです。ユダヤ人はとんでもないことをしているのです。

 創世紀の二章、三章をよく勉強して頂ければ、生まれる前の皆様の状態、先天性とはどういうものかが分かるのです。

 ところが、創世紀の二章、三章を正確に説明できる人が今の日本にはいないのです。世界にもいないでしょう。もしそういう人がいたなら、文明はこれほど腐らなかったのです。

 神は日本から、聖書の本当の読み方ができる人を起こそうとしているのです。宗教ではないキリストの命、聖書の本当の光、永遠の生命の光を、日本から照らそうとしているのです。

 日本でキリストの実体が明かされて、それがイスラエルへ伝えられるでしょう。

 東から西に、稲妻がひらめくように、キリストの再臨は実現するでしょう。

 その前に、人間文明はめちゃくちやに潰されるでしょう。そして、「ヤコブの悩み」と言われている大患難時代が到来するのです。世界中のユダヤ人に対して、未曾有の迫害が始まるでしょう。ユダヤ人たちが、神とキリストに反対し続けてきたからです。

 世界は聖書の預言のとおりになるでしょう。皆様は現代文明から逃げ出すことをお考えて頂きたい。ルネッサンス以降の文明は人間本位の文明であって、人間ばかりを尊ぶのです。神とキリストを絶対に信じない文明です。本気になって聖書を信じない文明です。こういう文明を信じている人は、文明と共に滅ぼされるでしょう。

 現在のキリスト教は、カトリックもプロテスタントも、まともに聖書を信じていません。その証拠に、ザ・ネーム・オブ・ゴッド(the name of God)神の名(実体)が分かっていませんし、ザ・ネーム・オブ・ジーザス(the name of Jesus)イエスの名(実体)も分かっていないのです。実体が分からない神、実体が分からないイエスを拝んでいるのです。名が分からないから、実質が分からないのです。

 宗教の中で最も悪いのは、ユダヤ教とキリスト教です。ユダヤ教は神の名において神を裏切り、キリスト教はキリストの名においてキリストを裏切っているからです。

 やがて、ユダヤ教とキリスト教は、文明と共に滅ぼされるでしょう。そしてキリストが再臨して、世界が全く新しくなるのです。

 世界に驚くべき平和が訪れるでしょう。地上から犯罪、戦争、ガンやエイズ、伝染病が一切なくなり、地震、洪水、台風、竜巻、旱魃等の自然災害が全くない世界が実現するのです。人々は心から、神とキリストを賛美する日が来るのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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 人間は目で見たものが、そのまま存在していると考えている。これが般若心経がいう五蘊の第一なのです。いわゆる色蘊というものです。色蘊が、五蘊の基本的な間違いになっているのです。

 ところが、人間は目で見た感覚だけで生きているのではないのです。例えば、人間は死にたくないと考えます。誰でも死にたくないと考えますが、この考え方は、目で見たとおりのものがあるという考え方と、正反対になるのです。

 目で見た感覚を、そのまま鵜呑みにしてしまいますと、死にたくないという考え方が成立しなくなるのです。死ぬのがあたりまえということになるのです。生あるものは必ず死する。形あるものは必ず滅することを認めると、人間は死ぬのがあたりまえということになります。

 ところが、死にたくないというのが、万人共通の願いなのです。これは、どちらかの考えが間違っているのです。人間は、精神構造が分裂しているのです。こういうことが幻覚なのです。まじめに考えているつもりでも、実は、矛盾した考えを鵜呑みにしている。これが、般若心経のいわゆる五蘊皆空なのです。

 目で見たとおりのものがあるという考えは、人間が生きている間は通用します。現在生きていることを人間の命だと考えると、目で見たとおりのものがあると考えるのが、正しいことになるのです。

 ところが、死んでしまわなければならないという事実も、また知っているのです。死んでしまわなければならないということを事実として考えますと、目で見たとおりのものがあるという考えは、間違っていることになるのです。

 そのように、人間の考えは、しどろもどろなのです。その時その時の都合によって、言い分を立てようとするのが、人間の迷いというものです。

 人間は考え違いを基礎にして生きているのです。般若心経はそれを言っているのであって、日本人はなぜ般若心経に親近感、親和感を抱くのか。敬遠したくなる気持ちもありながら、一方で何となく引かれるものがある。日本人は伝統的に空が何となく分かっているのです。

 人間の文明が、人間の本質を理解しないままで、生活の利便さ、専門学的な発展性だけを考えている。現代文明が病理構造になっているというのは、この点なのです。人間の本質をわきまえないで、生活様式の発展ばかりに目をつけている。科学の用いられ方が、その面ばかりなのです。

 そのくせ、文明は目的を持っていないのです。人間の生活を完全に保証するかというと、しないのです。一生懸命に人生問題を勉強しようと思うと、つい生活が脅かされるような気持ちがわいてくる。これは現代文明に生きていて発生する必然的な悩みでしょう。

 一体、生命か、生活か、これが分かっていないのです。なぜかと言うと、現代文明には目的がないからです。専門学に目的がないのです。現世に生きている人間の知恵には限界があります。現世に生きているという限界があります。現世に生きているだけで物を考えますと、永遠が考えられないことになります。現世に通用するだけの理屈が、大変重大なことのように思えるのです。

 ところが、人間の理屈は現世に生きている間だけの問題なのであって、人間の存在は死にたくないという気持ちが切実にあるように、人間の霊魂の本性は、現世だけで終わるものではないのです。そこに生活と生命との根本的な食い違いがあるのです。

 どちらが重大なのか、重要なのかということです。現在の学問を尊敬する場に立ちますと、文明主義になるのです。文明主義は目的がない思想になります。何のために人間文明がなければならないのか。現代文明はユダヤ人の世界観によってできていますが、永遠の世界観、価値観であるとは言えないのです。ユダヤ人の場合でも、世界観、価値観が根本から変化する可能性は十分にあるのです。

 現代のユダヤ人の世界観が、現代の文明を造っているのです。これが事実なのです。これは文明ではありますが、歴史ではないのです。これが分からない。文明を鵜呑みにしてしまいますと、トインビーのような歴史観になってしまうのです。トインビーは、文明の本質と歴史の本質の区別がついていなかったようです。

 現在の世の中には、共産主義が立派に存在するのです。ところが、共産主義の思想構造の根本は非常に浅薄なものであって、現在人間が生きているという感覚の世界でも、ほんの一部しか通用しない程度の思想なのです。それが、堂々と世界にふんぞりかえって、世界の多くの人を指導するような馬力を持っている。こういうものが文明なのです。

 文明に対する根本的な考え方を、変えてしまう必要があるのです。人間が本当の命を見つけるためには、本当の神を見つけなければだめです。神とは絶対であって、本当の絶対は、これしかないということなのです。例えば今地球が存在していますが、なぜ地球があるのか。これは神を見つけなければ納得できません。神を信じなければ、地球が存在することの目的を、つかまえることはできないのです。

 人間が存在すること、生きていることは、地球が存在しているからです。地球が存在する根本原理をつかまえようと思えば、神をつかまえるしか方法はありません。これをユダヤ人は全然知らないのです。彼らの宗教観念によって、かってに自分の神を造っているのです。そういう考え方が、自分たちに都合のいい文明を造る結果になっているのです。

 ユダヤ人が普通の民族であるなら、何を考えようと勝手にしてもいいのですが、困ったことに、ユダヤ民族は全世界の指導原理をつかまえている世界の中心民族なのです。

 ユダヤ人が、専門学というアイデアを造ってしまったのです。このアイデアが絶対であるというように、今の文化人は考えているのです。

 ところが神が分かっていない。地球が何のために存在するかという原理が、冷静に捉えられないままの状態で考えていますと、すべてしどろもどろの論理に迷い込んでしまうのです。般若心経の勉強をしても、聖書の勉強をしても、結論がつかないことになってしまうのです。これが文明思想の最大の欠点なのです。文明には目的がないのです。

 歴史には目的があります。しかし文明には目的がないのです。歴史は人間が生きている事実です。これには目的があります。文明は人間が生活している状態なのです。それには目的がないのです。人間は、目的がある方の自分を自分だと思っているのか、目的がない方の自分を自分だと思っているのか、どちらかなのです。五蘊皆空とは、目的がない方の自分を基礎にした考え方なのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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