聖書に次のように書いています。
「聖なる者、まことなる者、ダビデのかぎを持つ者、開けば誰にも閉じられることがなく、閉じれば誰にも開かれることのない者が、次のように言われる。私は、あなたのわざを知っている。見よ、私はあなたの前に、誰も閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、私の言葉を守り、私の名を否めなかったからである。見よ、サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称してはいるが、その実、ユダヤ人でなくて偽る者たちにこうしよう。見よ、彼らがあなたの足もとにきて平伏するようにし、そして、私があなたを愛していることを彼らに知らせよう。
忍耐についての私の言葉をあなたが守ったから、私も地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試練の時に、あなたを防ぎ守ろう。
私は、すぐに来る。あなたの冠が誰にも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい。勝利を得る者を、私の神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、私の神の御名と、私の神の都、すなわち、天と私の神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、私の新しい名とを、書きつけよう。耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」(ヨハネの黙示録3・7〜13)。
この箇所は実に意味深長な所でありまして、この箇所を信じる異邦人があるとしますと、異邦人にしては珍しく、ほんの少しの力を持っているのです。神に従っていかねばならないこと、神に従うことが、人間存在の建て前であることが、分かっているのです。
私たちは困ったことに、この世に生まれてきました。この世に生きていて、現在まだこの世に生きていると思っている。この気持ちで神を信じることが、根本的に間違っているのです。
だいたい、人間に神が分かるはずがないのです。神を信じるというのは、私たちが神が分かっていないことを信じるのです。人間が分かったと思うことは、皆間違っているのです。
神を信じるというのは、自分を全く信じないことですが、これができないのです。聖書の言葉はあまりはっきり言い過ぎて分からないのです。
現世の政治、経済の流れは、はっきりサタンの会堂です。サタンの会堂ということが、サタンの教義、教条を意味するのです。サタンの教義は、現代文明の中枢を握っている。これが空中の権です。サタンの会堂が空中の権を意味しているのです。
アメリカの大統領は、ユダヤ人の背景がないとなれないのです。世界の政治、経済、軍事の中心は、ユダヤ人によって押さえられているのです。
聖書の勉強をして、救われたいという気持ちが間違っています。自分が勉強して、イスラエルに伝道をする。これが間違っているのです。これを全部解脱してしまわなかったらだめです。
自分がいるという考え方が、偽りの情欲に惑わされている考えです。自分のために生きているのではない。自分が仕事をするのではない。これをはっきりさせることです。
十字架以後の現世は、全くひどいものです。地の塩が味を失って、人に踏まれている状態です。肥料にもならない。ただ人に踏まれているだけです(マタイによる福音書5・13)。
神の言葉であるイエスが十字架につけられたことによって、神の言葉で造られているものが、全部無になった。肉なるものが全部無意味になったのです。これが色即是空の本体です。これだけでも信じられる人はほとんどいないのです。
般若心経の色即是空という言葉は、十字架のニュアンスを良く現わしているのです。言葉が肉となった。この肉が十字架につけられたのです。十字架を信じるとは、これを信じることです。
言葉が肉となった。これが十字架につけられると、どうなるか。人間存在の実体はどうなるか。森羅万象の実体はどうなるかです。
森羅万象は小羊のものになっている。サタンのものとは違います。千々万々の御使いは、小羊を賛美しているのです(ヨハネの黙示録5・11〜13)。これをよく理解して頂きたいのです。食物の味、花の美しさは肉(現世のこと)ではない。魂が感動を覚えるのです。
イスラエルに神の約束を与えられた。彼らはこれを、現象的な角度からだけしか見れないのです。神が契約を与えると言っていますが、これを現世のこととしてしか考えていない、現世のこととしてしか考えていないということが、サタンの会堂の基本になっているのです。サタンの会堂は全く空なるものです。これを金銀玉桜、大廈高桜のように考えているのです。
国家は政党が権力を握って、右手に経済、左手に法律の剣をかざして、行政組織を造っているのです。これは全くの虚仮おどしです。国を国家にしている。これは全くの御伽噺です。
国と国家は違います。国は実存していますが、国家は空存している。虚存しているのです。政党が変わると、国家も変わってしまいます。もし共産党が日本の政治権力を握ると、自民党の政治と全く違うものになるでしょう。国家そのものが、見事に変わってしまうのです。しかし、国は変わらないでしょう。公明党が権力を握れば、富士山麓に巨大な戒壇を造るでしょう。それも国家であって、国自体ではないのです。
考えなければいけない。考えるとは、まだ分からないこと、知ってほしいこと、未知の世界へどんどん踏み込んでいくことです。百四十億の脳細胞の中で、まだ用いていない部分を用いることを、考えるというのです。
五官が正しく働いていれば、百四十億の脳細胞の中の、半分位は使えるはずです。百四十億全体を、フルに使うくらいのスケールを持っていないとだめです。
キリストには、神の知恵と知識が満ちていますから、キリストが分からなければいけないのです。サタンの会堂に属するものを、おまえたちに預けると書いているのです。神の信頼度合いを考えてみるのです。
六十三億の人類を牛耳っているのが第二の天です。現在の政治活動、経済活動、思想活動、学理学説の全体が、サタンの会堂です。これを預けるというのです。
大胆さと神経の細やかさがいります。神経質な人はあることに目をつけると、徹底的にそれをしないと気がすまない所があるのです。これを神的に用いるといいのです。神にだけ神経を使うのです。そうすると自分が苦労しなくてもいいのです。神がその人の神経質な面を、うまくコントロールしてくれるのです。そうすると、大きく伸びるのです。
パウロは古き人を脱ぎ捨てて、新しき人を着よと言っています。これをすべての人がしなければいけないのです。古き人を脱ぎ捨てなければ、絶対に救われない。人々を救うどころか、自分さえも救われないのです。
サタンの会堂は第二の天であって、現代文明をリードしているもの、リーダーシップを取っているものです。これが空中の権を取っている。空中の権を私たちに与えると、神は言っているのです。これはキリストの空中再臨の前触れです。地上にいる教会が、サタンの会堂の権を与えられる。これがきっかけになって、空中にキリストが再臨するのです。
自分のことには無関心になってもらいたい。現世のことにはどうでもいいという考えを、いつでも頭においてもらいたいのです。現世で何かを知らなければならないという考えを、捨ててしまうのです。
キリストは復活して、昇天してしまった。イエスは、義とは私が父の天にいくことではなくて、おまえたちが私を見なくなることだと言っているのです。人間がいなくなることが義です。義とは神から見た正当性ということです。
イエスは本当の人間です。本当の人間がこの世にいなくなることが、義です。
この地上で、目に見える人間を信じている人は、義が分かっていないのです。人がこの世にいるのは、第三天のキリストを証するためです。固有名詞の人間はいないのです。新約時代は全く奇想天外の時です。神がイスラエルを捨てて、異邦人に福音を与えたことによって、世界が変わってしまった。物理的に心理的に、旧約時代と全く変わってしまったのです。
世界の人々に言わなければならないことは、文明の退廃、文明が間違っていること、文明は命について全く無力だということです。
宗教が間違っている。キリスト教が間違っているのです。教会が歌っている讃美歌が皆間違っているのです。教会の間違いがはっきり分からなければ、あなたがた自身の間違いは分からないでしょう。自分自身の間違いがはっきり分からなければ、ユダヤ人の間違いが分からないのです。
讃美歌は皆間違っています。神でないものを、神として讃美しているからです。今の人間が讃美すると、自分が造った神を讃美するしかないのです。
人間は、肉体的に存在する自分を、有意識的、または無意識的に認めなければ、神を信じることはできないのです。したがって、今の人間が神を讃美すると、肉体的な自分を認めていることになるのです。この原理が間違っている。これがユダヤ人の間違いです。
人間が神を讃美すれば、人間が造った神を讃美するしかないのです。キリスト教の人々が讃美すると、人間が造った神を讃美しているのです。これが皆間違っているのです。
人間が造った学問を信じ、人間が造った政治を信じる。人間が造った国家を信じているのです。
国と国家は違います。人間が生活を営んでいるのは国です。政治経済機構を造っているのは国家です。国民は戦争を放棄したいのですが、国家は放棄したくないのです。「国亡びて山河あり」という言葉がありますが、正確には、国家亡びて山河ありと言うべきなのです。
人間が讃美しているのは、人間が造った神です。讃美している人間と、誠の神とは何の関係もないのです。
人間は神を讃美する資格は、初めからありません。なぜかというと、人間は全部死んでいるからです。神は人間を認めていません。人間の思いが死んでいるからです。神が認めているのは、イエスの御名である人間なのです。生かされていること、インマヌエルという事実しか、認めていないのです。人間が考えている人間を、神は一人も認めていないのです。これがユダヤ人の律法に対する神の考えです。キリスト教の間違いを、はっきり知らなければ、ユダヤ人の間違いが分からないのです。
人間には、固有名詞の人間がいるという考えが、こびりついています。神の約束がそのまま自分であるということが、分かっていないのです。
家庭がある。仕事があると思っている。それはあってもいいのですが、神がその人に一つのコースを与えて、霊を自覚させようとするための方便なのです。
家庭も商売も、ただのコースです。霊を自覚するための、ただのコースなのに、それを自分だと思ってしまっています。事情境遇が自分だと思っているのです。名刺の名前が自分だと思っているのです。
ユダヤ人は掟を行おうとしている。これほどばかばかしい考えはありません。キリスト教が聖書を信じようとしているのと、同じことなのです。
自分が聖書を信じようとしているのは、神に挑戦していることです。神を嘲っているのです。聖書ぐらいは自分でも分かると考えている。これは大変な冒涜です。まず聖書にかなう人間になるべきであって、絶対に聖書を勉強してはいけないのです。
ユダヤ人は人間が造った掟を拝んでいます。イエスは言っています。おまえたちは神の言葉を守らずに、人間の言い伝えを守っている。人間の言い伝えがタルムードになり、ミシュナになっているのです。
パウロから見れば、トーラーでさえも間違っています。トーラーの文句は間違ってませんが、読み方が間違っているから、受けとめ方が間違っているのです。人間のトーラーになっているのです。
自分の気持ちに基づいて聖書を読まずに、聖書に基づいて自分を読むのです。そして、聖書の一字一句が自分の命であると考えるのです。
神は私たちに、完譬を求めているのではありません。原則を受け止めること、原則に従おうとしたはっきりした意識を持てばいいのです。
神は私たちに一〇〇%を求めているのではない。実行しようという意志、実行しつつあるという気持ちを持っていればいいのです。自ら備えをしようという気持ちを持つ者に、助けが与えられるのです。
ことに異邦人の教会には莫大な助けが与えられるのです。神は寛大な姿勢で見ておられますから、神を嘲ってはいけないけれど、神の大まかさを慎んで信じるという態度を取るなら、叱られないでしょう。
神に対しては、どこまでもアバ父という子なる霊を持たなければならないのです。恐れおののくという気持ちではいけないのです。
幼児は恐れおののくという態度をとれません。これがいいのです。大人の意識で神を甘く見ては絶対にいけないのです。幼児の意識でいけば、神の愛が分かります。これはできないことではない。私たちがまず大人であることをやめることが基本条件です。自分の意識、自分の立場、自分の感情を問題にしなければいいのです。
結局、自分自身をどう見ればいいかです。幼児になれとか、素直になれという言い方は、抽象的です。神は霊であるから、拝するものも、霊と誠をもって拝するでいいのです。霊をもって拝するとはどうすることか、誠をもって拝することはどうすることか。これがはっきり分からなければいけないのです。
開けば誰も閉じられないもの、閉じれば誰も開くことができないものがあります。ここで、ダビデのかぎを持つという重大な発言をしています。キリスト教では、ダビデのかぎとは何のことか全然分からないのです。これはダビデの幕屋のかぎのことです。やがて来たるべき千年王国の、真ん中に建てられるものです。これが建てられると、世界平和が本当に実現するのです。
誰も閉じることのない門を開いておいたと言っています。これはすばらしいことです。この門は、キリストが神の右に座することが分からなければ、分からないのです。
一度死んで甦ったものでなければ、ダビデのかぎは持てないのです。この門は、神の国の門です。
イエスは山上の垂訓で、狭い門と言っています(マタイによる福音書7・13)。これが私たちに開かれている。私たちの場合、狭き門が広き門になっているのです。広き門が狭き門になっている。反対になっているのです。
私たちにとって、この世の門が非常に狭い門になっているので、帰ろうとしても帰れないのです。無理に入ろうとしたら入れないこともないが、入る必要もないのです。滅びに到る門は狭く、救いに到る門が大きくなっているのです。これは本当に有難いことです。
彼の上に、イエスの名と、新しき都エルサレムの名を書きつけようとあるのです。フィラデルフィアの教会は十四万四千の救われる人々の基礎になる教会です。天のエルサレムの基礎です。私たちは、天のエルサレム建設のためのベースキャンプにならなければいけないのです。
鼻から命の息を入れたということが、聖書六十六巻の絶対的な命のあり方の基礎になっているのです(創世記2・7)。命の息とはっきり言っています。鼻から命を出し入れしているのです。
神は地のちりに形を与えて、人を造ったのです。地のちりが人間としての形を取るには、長い長い年月があったのです。瞬間的に形を与えられたのとは違います。時間空間を通じて、自然に形を与えられたのです。これに鼻から命の息をふき入れられた。
最初に原人みたいなものがいたが、まだ彼らは生命意識を持っていなかったのです。しかし、原人がはっと気がついた。「ああ、自分は鼻から息を出し入れしている」。これが生きているという意識につながっていったのです。
まず、生命意識が人間の魂に植えられた。これが第一時期です。次に、生命を意識している自分がいると意識したのです。これは自我ではない自分です。人称人格です。生きている自分がいるという意識、自我とは何の関係もない意識です。客観的に自分を意識し始めたのです。
これが神から与えられた第一意識で、これがそのまま信仰の原点になるのです。どうしても見逃すことができない意識で、これをリビング(living)と言います。リビングとは人間が生きていることの事実、実体です。これは人間のあり方のあらゆる意識に優先するのです。
リビングなしに信じることは絶対にできません。これが信仰の原点です。「ああ!生きている」ということが信仰の原点です。
第一意識とは、第一信仰のことです。現代人は、第一意識を見つめるという意識が非常に鈍いのです。これは誰にでも言えることです。年をとっても若くても、生きていると思っている。これが信仰です。見えないことを誠としているのです。
生きていることは見えないことです。見えないけれど信じられるのです。パウロは「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」(ヘブル人への手紙11・1)と言っていますが、まだ見ていないことを確信するとは、信仰のあり方を言っているのです。
魂とは何かと言いますと、信じるという意識の第一になるものです。信じることなしに、魂は発生しません。成立しないのです。信じることが魂です。
太陽が東から出ることを信じる。これが魂です。こういう原点的な観点をしっかりつかまえて、神をつかまえてしまうのです。これをすれば、びくともしないのです。
魂であることが信じる機能であることを意味します。魂以外に信仰の正体はありません。リビング・ゴッド(living God)と、リビング・ソール(living soul)、受動性の神と、能動性の神とがあるのです。受動性の神を神の子と言います。能動性の神を父なる神と言います。可能的演繹性と、可能根拠があるのです。父なる神と子なる神があるのです。これが人間存在の原点、聖書の原点です。絶対に否定することができないのです。
人が生きていると思っていることが、そのままインマヌエルです。これは六千年の間、人間が分からなかったことです。イエスがそれを証明したのです。
言葉は神である。この言葉に命がある。命は人の光である。命とはリビングです。リビングが人の光です。誠の光が人間になって現われた。リビングが人間になって現われたと言っているのです。
誠の光があって、この世に現われた。彼は世にいた。世は彼によってできた。生きているということがなければ、この世はないのです。命という事実がこの世に来た。しかもこの世は命によって成り立っているが、この世は命をまじめに受け取らなかったのです。このことをはっきり自覚するのが、正当なリビング・ソール(生きている魂)と言える資格があるのです。これをはっきり自覚しないものは、リビング・ソールではないのです。
リビング・ソールとは、リビングの本体です。アダムは客観的にリビング・ソールになったのですが、自分自身がリビング・ソールという自覚を持っていなかった。神は何とかして、アダムにリビング・ソールの自覚を与えようとして、あの手この手をうったのですが、分からなかった。アダムはついにリビング・ソールという自覚を持つことができなかったのです。アダムは客観的にはリビング・ソールになったのですが、アダムはそれに適合する自覚を持つことができなかった。これが悲劇の始まりです。
リビングがそのまま神です。ザ・シール・オブ・ザ・リビング・ゴッド(the seal of the living God)とあります。リビング・ゴッドのシールとは何かと言いますと、リビングそのものです。リビングがシールそのものです。
アダムは、「あっ!生きている」と思ったけれど、その生命意識が何であるかが、理解できなかったのです。
マグロの刺身を食べて「旨い」と思っても、旨いとは何かが理解できなかったら、マグロの刺身を食べたことにならないのです。味を理解すると同時に、味の本質を理解するのでなかったら、本当にマグロを食べたことにはならないのです。
地球上には、六十三億のイエスがいるのに、そのことを一人も知りません。だから神が大声疾呼しなければならないことになるのです。おまえたちはバカだと神は言っているのです。死にたくないのに、死んでいかなければならないからです。
六十三億の人間は、リビングという事実によって生かされているのです。カインもそれが分からなかったのです。死ぬかもしれない。殺されるかもしれないと恐れていたのです。
神は「おまえが生かされていることが、私がいることだ」と言ったのです。カインに与えたしるしは、リビングのしるし(印)です。神がしるしを与えれば、リビングに決まっています。これ以外のしるしはないのです。
リビングということが、ザ・シールです。リビング・ゴッドのシールは、リビングに決まっています。リビングがシールだということに気がついた人が、パウロ以後、世界中で一人もいなかったのです。私たちはこのシールを携えて、イスラエルにのぞむのです。極めて平易で、明々白々なことが、神の実体です。愚かだけど迷うことはないとモーセが言ったのは、この事実です。
信仰とは何か、人が生きていることです。救いとは何か、人が生かされていることです。皆様はすでに生かされているのです。
現在、鼻から息を出し入れしていながら、それが何か分からないので、皆死んでしまうのです。それを黙って放っておいてもいいのかと言いたいのです。世界中の人間は、もったいないことをして死んでいくのです。
鼻から息を出し入れしていることがイエスです。これが命であり、救いです。これが分からないのです。一番簡単なことで、一番分かりやすいのです。明白なリビングのシールを与えられていながら、生きていることが何をしているのか分からないのです。
生ける神の印は、絶対的なことです。リビングというシールが、私たちのシールです。生きていることは、絶対に否定できません。これには、反対も抵抗もできません。けんかができないのです。生きていること以外に、救いがあるはずがないのです。
現在、六十三億の人間が生かされていることが、救われていることです。これは明々白々な事実です。だからパウロは、今は恵みの日、救いの時であると言っています。この恵みと救いは誰にでも開かれています。天国の門が大きく開かれているからです。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)