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  • 執筆者の写真管理人 chayamichi

幻の人間


 仏というのは、ほどけてしまうことです。胸の中にあるもやもやが、ほどけてしまうことです。自分は神の子であるという自覚を持つことが仏です。自分の命がない、自分自身がいないということを自覚することが、仏になったことです。自分はいないけれど、生かされているものがあります。これが神の子です。神の子である自覚を持ったことが、仏になったことです。仏になると、人生のもやもやがすべて消えてしまうのです。

 聖書に不思議なことが書いてあります。

 「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手拭いをとって腰に巻き、それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手拭いで拭き始められた。こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、『主よ、あなたが私の足をお洗いになるのですか』と言った。イエスは彼に答えて言われた、『私のしていることは今あなたには分からないが、あとで分かるようになるだろう』。ペテロはイエスに言った、『私の足を決して洗わないで下さい』。イエスは彼に答えられた、『もし私があなたの足を洗わないなら、あなたは私となんの係わりもなくなる』。シモン・ペテロはイエスに言った、『主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も』。イエスは彼に言われた、『すでに体を洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなたがたはきれいなのだ。しかし、みんながそうなのではない』」(ヨハネによる福音書13・4〜10)。

 イエスが弟子たちの足を洗ったのですが、これはどういう意味かです。人間は誰でも、自分という人間がいると思っていますが、聖書を勉強していきますと、自分がいない、自我的な人間が全くいないということが実感的に分かってくるのです。そして自分の実体が魂であって、生かされている魂の状態が、遣わされた状態であることがはっきり分かることが、イエスに足を洗ってもらったことになるのです。死ぬべき現世から、死なない神の国へ移されたことが、イエスに足を洗われたことになるのです。

 イエスは「もし私があなたの足を洗わないなら、あなたは私と何の係わりもなくなる」と言っています。現世に生きていて、この世の人間であるという意識をやめることです。そのためには、イエスに足を洗って頂く以外に方法がないのです。

 そして、自分の本質がイエスであるという自覚を持つことです。イエスであるという自覚を持つというと宗教観念になりやすいのですが、実は誰でも、その実体は生ける魂(living soul)なのです。自分はリビング・ソールであるということを自覚すれば、自ずからイエスになるのです。リビング・ソールという自覚を持たないままでイエスであるという自覚を持とうとすると、宗教観念になりやすいのです。

 生きている間は、人間には歩みがあります。一度イエスに洗ってもらったらいいというのではありません。足はなかなか洗いにくいものです。生活の歩みですから、お互いに洗いあう必要があるのです。

 自分自身の歩みは、自分ではよく分からない部分があるのです。だから、お互いに洗いあいなさいと言っているのです。自分の一人合点にならないように、お互いに足を洗うのです。自分の歩みが清くなればなるほど、神に栄光を帰せられることになりますから、イエス・キリストのために、お互いに足を洗いあうのです。

 初めての人であるアダムは生ける魂となったとあります。これは人間が、海のものとも山のものとも分からない状態で、この世へ出されたことをいうのです。これはまだ生まれていないことを意味するのです。

 アダムは鼻の穴から命を吹き込まれて、生ける魂となったとあります(創世記2・7)。生ける魂となったけれど、神の子になったのではありません。悪魔の子になったのでもない。つまり生きているのでもないし、死んでいるのでもない。まだ生まれていないのです。

 この世に出てきたのはあくまで人間ではなくて、魂なのです。ところが自分は人間だと思う。固有名詞の自分だと思っている。魂は人間ではありません。これをはっきり否定する必要があるのです。

 イエスは自分は人ではなくて虫だと言っています。現世で肉体的に生きている自分を虫だと思っていると、とても楽です。自分が人間であると思うと、自尊心とか自分の立場、自分の感情がすぐに問題になります。ところが虫であると考えると楽です。自分も気楽になるし、人のこともあれこれ言う必要がないのです。人が良く思おうが悪く思おうが、自分は虫なのです。

 人の実体は魂です。魂とは何かと言いますと、言が肉となったということです。肉というのは実在していないものをいうのです。形はあるが実体がないものです。

 神の言(ロゴス)が、形はあるけれども実在していない状態で現われた。目に見える形はあります。加藤さんとか伊藤さんという形はありますけれど、実在はしていないのです。しばらく現われてやがて消えていく霧のような存在なのです。霧は形はありますが、固体的に存在していないのです。やがて消えてしまうのです。実は山も海も、地球全体がそうなのです。すべて言が肉となったのです。

 それを見分けることができるかどうかによって、その人の命運が決まるのです。命運というのは命の運勢です。運命とは違います。運命というのは、この世における人間の定めです。命運というのは、とこしえにおける魂の運勢のことです。肉についての考え方によって、永遠の運命が決まるのです。これが分かると、人間が生きていることが全く霧であることが、はっきり分かるのです。

 人間は言が肉となったことが分からないのです。イエスを信じるとはどうすることか分からないのです。そこで山上の垂訓を勉強する必要があるのです。イエスは言っています。

 「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思い煩い、何を着ようかと自分の体のことで思い煩うな。命は食物にまさり、体は着物にまさるではないか」(マタイによる福音書6・25、26)。

 魂のために何を食べようか、何を飲もうかと思い煩うなと言っているのです。命のためとは言っていないのです。原語では魂のためとなっていますが、命のためと訳しても間違いではないのです。なぜ間違いではないかと言いますと、魂というのは本来、生理機能と心理機能が一つになった状態をいうのです。肉体はありませんが、肉はあります。現在、鼻から息を出し入れしています。目が見えます。これは肉体的な働きです。肉体とは違うのです。

 五官を働かせる必要があるために、神は人間に肉体を与えていますが、これは正確には肉体ではなくて肉です。肉を与えているのです。肉は働きの土台になるものです。肉がなければ鼻も目も働きません。だから鼻の働き、目の働き、手の働き、足の働きを経験するためには、どうしても肉がいるのです。これは肉体ではなくて肉なのです。言が肉体となったという口語訳は、間違っているのです。言は肉となったというのが正しいのです。

 キリスト教を信じている人々は、肉体があると思い込んでいるのです。これが間違っているのです。

 言が肉となった。肉とは場のことであって、実体ではないのです。五官が働く土台が肉です。土台というとしっかりした足場のように思いますがそうではなくて、働きの基礎を意味します。これが肉です。これを人間が持たないことには暑さ寒さが分からないのです。スイカを食べても、香も色も味もなければ、スイカに秘められている神の愛が全然認識できません。味がない桃を食べても全然おいしくありません。天地万物には万物の味わいがありますが、万物を通して神の愛が魂に響いてくるように造られているのです。

 仏教で天下の万法とありますのは物理的法則のことですが、天地はダルマ、ダルマ、ダルマと法だらけです。動物、植物、鉱物、森羅万象というダルマがあるのです。ダルマが何億、何兆に分かれて、万物になって現われているのです。これが神の知恵、知識です。

 万法が万物になっている。法が万になって現われている。法を見たものは如来となる。如来となったものは法に生きるという言葉がありますが、人間は如来になるためにこの世にきたのです。法を見るためには肉になった魂が、この世に生きていなければならないのです。そのために言が肉となってこの世へ来たのです。

 言が肉となったのがイエスです。理性、良心は言です。これが肉になってこの世に生きているのです。理性、良心は神の言ですから、自分で勝手に用いてはいけない。信仰によって用いなければならないのです。喜ぶにしても悲しむにしても、信仰によってしなければいけないのです。それをするために、肉となってこの世に来たのです。

 「見よ、あなたは私の日をつかのまとされました。私の一生はあなたの前では無に等しいのです。まことに、すべての人はその盛んな時でも息にすぎません。まことに人は影のように、さまよいます。まことに彼らは、空しいことのために騒ぎまわるのです」(詩篇39・5、6)。

 この世に生きているというのは影、幻です。人が盛んな時というのは、二十代の時でしょう。その時でさえも、息にすぎないのです。だから現われて消える霧にすぎないのです。

 人は影のようにさまようのです。文語訳では、人の世にあるは影に異ならずと言っています。これははっきりしています。人間がこの世に生きているのは影だと言い切っているのです。これをはっきり実感することが、イエスに足を洗ってもらったことになるのです。言が肉となった方に、足を洗ってもらいますと、その人も言が肉となるのです。イエスと同じになるのです。イエスに足を洗ってもらいますと、イエスと同じ気持ちで生きられるようになるのです。

 現世における人間、言が肉となっていることが、幻です。ナザレのイエスという人でさえも幻だったのです。イエス様ではなくて、幻様だった。この人に足を洗ってもらいますと、幻になるのです。この世から足を洗うのです。ヤクザがヤクザの世界から足を洗うように、私たちも足を洗うのです。肉の思いから足を洗うのです。

 幻の状態、これは死にません。自分が幻であることに気づいた人は、神の国を見つけたのです。神の命、とこしえの命を見つけたのです。

 イエスが幻でした。従って、地球が幻だったのです。ですから、この世で神の信仰によって生活するということだけがあって、損とか得はないのです。

 リビング(living)はこの世に生きているということだけです。リビングが魂です。生きていることがそのまま魂です。魂はこの世で経験しているだけです。いいことも悪いこともない、すべて経験しているだけです。

 つらい経験をした、悲しい経験をしたとしても、それは経験であって実体ではない。心から悔やんだり泣いたりする必要はないのです。現世で、肉体人間の喜び方、悲しみ方をしていますと、イエスに足を洗ってもらったことにはならないのです。イエスと関係のない人間になってしまうのです。

 イエスに足を洗ってもらった人間なら、言が肉体となっただけで、幻の人間です。これを本当に信じるには勇気がいります。旧約聖書にいさましくという言葉がよく出てきますが、神の勇気は悪魔の一切の反逆をものとしない、必ず勝つと確信していることです。勇気がなければ、神の信仰は分かりません。悪魔に勝つには勇気だけです。

 魂は現世で命を経験するために遣わしているのです。魂をこの世に遣わした神は、その人が一生食べる食物を背中に背負わしているのです。

 命は糧に勝る。魂は糧より大事です。魂をこの世へ遣わした神は、一生の糧をつけてこの世に送った。だから何を食べようか何を飲もうかと思い煩う必要はないのです。

 伝教大師が言っている言葉ですが、「衣食に道心なし。道心に衣食あり」。何を着ようか、何を食べようかと思い煩っている者は、魂についての配慮がない。魂のことを心配している者は、衣食を心配する必要はないというのです。

 人間は自分が働いて食べているのではない。空の鳥を見よ、野のユリを見よ、誰が養っているのか、おまえたちはそれよりもましではないかと言っているのです。

 明日のことを思い煩うな。明日の中に、明日の飲み物も食べ物も、一切入っている。だから明日のことを思い煩う必要はない。一日の苦労は一日で足れりなのです。

 人間は毎日何をしているのか。暑い夏はありがたいとは思えないかもしれませんが、暑い夏がなければ、涼しい風のありがたみが分からないのです。風のありがたみを知るためには、どうしても暑い夏が必要です。

 太陽の暖かさを知るためには、冬の寒さがどうしても必要です。人間は現世で神を経験しているのです。梅干しが酸っぱいのも神です。おやじがうるさいのも神です。奥さんが言うことを聞かないことも、人が自分を認めてくれないことも神です。気にいることも気にいらないことも、私たちが現世で経験することはすべて神です。

 人間である自分が経験したことは、皆間違っています。魂が経験したことは神の恵みになるのです。人間はいない。魂が生きている。これに気がついた人は、海の世界から新しく生まれるのです。海は宇宙の子宮です。人は血潮がただよう海の中にいるのです。地球は子宮です。これから生まれるのです。人の世にあるは影に異ならず。これが分かった人は、初めて生まれる資格が与えられたのです。イエスの言葉を正しく学んでいくと、新しく生まれて神の国に入ることができるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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