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観自在菩薩


 仏典に観自在、観世音という菩薩があります。三蔵法師玄奘の訳ですと、観自在となっています。鳩摩羅什の訳ですと、観世音になります。

 これはどちらも同じことであって、観自在とは自在を見るのです。観世音は世音を見るのです。音を見るのです。音は見えないものですが、これを見るのです。

 白隠禅師は人間がもし愛憎煩悩から去ってしまえば、誰でも観世音菩薩になれると言っています。そのようにもし人間が愛憎の念を持って、煩悩を解脱すれば完全と言えるのです。

 世音とは世の音です。人間は現世に生きている以上は、それぞれ自分なりの考えを持っているのです。

 現在の政治をどう思うとか、経済をどう思う、教育をどう思うとか、それぞれの意見を持っています。これは世音を見ているのです。その時、その時に世音を見ているし、また、感じているのです。生活のためにそうしているのです。

 ところが、般若心経になりますと、生活のためにそうするのではなくて、命のために世音を見ることになります。

 人間がこの世に生きているのは、大きな意味があるに決まっています。この世に生まれてきた目的がなければならないに決まっているのです。

 今の日本人はそういう目的を考えないで、生活のために生きている。ほとんど全部の人が、そういう考えをしているのです。政治家ならそれでもいいかもしれませんが、人間として生きている以上、自分の人生について責任を持たねばならないのです。

 人間がこの世に生まれてきたことが、業(ごう)なのです。これがうるさいのです。業が世音になって見えるのです。親から受け継いだ業、社会の業、学校の業、何でも生きていると業がついて回るのです。若い人は若いように、年寄りの人は年寄りのように、業がついて回るのです。

 この業を見極めて、その主体は何であるかを見破って、業を果たしてしまわなければ、死んでしまうことになるのです。

 死ぬのは仕方がない。どうせ人間は死ぬと簡単に言いますけれど、死ということが本当に分からないから、すましておれるのです。

 本当の観世音になりますと、業の正体が分かるのです。死の正体がはっきり分かるのです。そうすると死ななくなるのです。死ななくなるところまで、世音を見破ってしまう。世音を看破してしまうのです。そうすると死なない人間になってしまうのです。これが本当の観音さんなのです。

 自分の世音を見破ってしまいますと、人間の愛憎煩悩が消えてしまうのです。

 そうして、愛憎煩悩の向こうへ出てしまうのです。これが般若波羅蜜多です。般若波羅蜜多になりますと、死ななくなるのです。

 死ぬのは仕方がないと言いながら、死ぬのは嫌に決まっています。嫌なら嫌とはっきり考えるのです。そうすると死ななくてもいい方法が、見つかる可能性が出てくるのです。

 人間は死にたくないのに死ななければならない。死にたくないのに死ななければならないというのは、殺されるということです。日本中の人間、もっと広く言えば、世界中の人間は皆殺されるのです。誰に殺されるのか。人間の業(ごう)に殺されるのです。

 死ぬのは人間の業ですが、これを突破することはできるのです。観世音はこれをしたのです。その方法が般若心経に出ているのです。

 照見五蘊皆空 度一切苦厄とは、一切の苦厄を乗り越えてしまうこと、死を乗り越えてしまうことです。これが観世音菩薩の所行です。

 観世音菩薩は悟りを開いた人の抽象人格です。観世音には誰でもなれるのです。そうすれば、死を乗り越えられるのです。人間は今までの経験に、つい束縛されてしまうような弱点があります。向こう岸へ渡ってしまえば、そういう弱点と関係がなくなるのです。

 向こう岸へ渡るとは、別の人間になってしまうことです。今まで生きていた人間が、本当の空を悟ることになりますと、別の人間になってしまうのです。空とは何もないからっぽとは違います。大きな実があるのです。空の実体は宇宙生命の一大事実なのです。

 言葉を変えて言いますと、これが真の神なのです。空を見るとは、神を見ることです。観世音を見るとは、神を見るのと同じことなのです。

 世音とは人間の業(ごう)であって、自分の業をはっきり見極めますと、自分ではない自分の姿が見えてくるのです。これが観自在です。

 観自在とはどういうことか。自在とは自由自在のことで、何ものにも捉われないことです。現在の地球に生まれてきた人間は、自由自在というわけにはいかないのです。地球以外に住む所がありません。例えば、男として生まれた人は、男でなければならないのです。女は女でなければならない。生年月日を変えることはできないのです。現世に生まれたということは、自在ではないことを意味するのです。

 地球ができた以上、人間は地球でなければ生きられないようにできているのです。本当の自由自在があるとすれば、地球ができる前のことなのです。地球ができる前には、時間もない、空間もない。従って五十才とか六十才とかいう年齢もないのです。男もない、女もない。これが自在です。観自在とは、地球ができる前の人間に帰るというすばらしい意味もあるのです。

 自在の自とは、初めからという意味です。初めとは地球ができる前のことです。今の学者は、四十五億年くらい前、あるいは五十億年前に地球ができたと言っていますが、それ以前には地球はなかったのです。従って、人間もいなかったのです。その時に自在があった。生まれる前の本当の人間の姿が自在です。

 この世に生まれて、この世の業の虜になって、男だ、女だ、得をした、損をしたと言っているのは、自在ではないのです。そういうものに関係がない、生まれる前の状態が自在なのです。

 観自在というのは、生まれる前の自分を見るという雄大な思想なのです。イエスはこれを見せてくれたのです。

 生まれる前の自分が、今ここにいると言ったのです。イエスは、「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生まれる前から私はいる」と言ったので(ヨハネによる福音書8・58)、当時のユダヤ人たちは、イエスは気違いだと思ったのです。アブラハムはイエスよりも二千年前にいた人です。それより前からいるとイエスが言ったので、イエスを気違いだと思ったのです。

 イエス・キリストは観自在を文字通り実行して見せたのです。

 今までの勉強、経験にこだわらないで、幼児時代の気持ちになって、たんたんとして物事を考えるという気楽な人になれば、観自在が十分に分かるのです。

 人間に五十才とか七十才という年齢はありません。あると思う方がどうかしているのです。この世に何十年か生きている自分はどこにも存在していないのです。般若波羅蜜多から見れば、そんな人間はいないのです。

 禅の歌に、「闇の世に鳴かぬカラスの声聞けば、生まれる前の父ぞ恋しき」というのがあります。生まれる前の自分の魂の状態を見極めることが、本当の悟りであると言っています。禅にはこういう歌がありますが、この悟りがありません。

 しかし観自在という人格はなければならない人格です。私たちは観自在にならなければならないのです。そうすると、自分が死ぬという因縁を乗り越えてしまうことができるのです。

 業を果たすことはできるのです。業を果たさなければ必ず死んでしまいます。死んだらしまいと思うのは、大間違いです。死んでからが大変なのです。

 人間は本来、観自在になるために生まれてきたのです。ところが、商売人になったり、会社員になったり、学者になったり、弁護士になっている。

 そんなことのために、私たちは生まれてきたのではありません。商売人や会社員になってもいいのですが、本職は自分の業を果たすことです。生活をするために、ちょっと働いてみようかというだけのことです。

 働きながら観世音の道を歩むのでなかったら、何にもならないのです。お金を儲けて、楽しく生活をしながら、観世音になるのです。これは難しいことではないのです。むしろ働くということは立派な道場なのです。

 寺で座禅をするより働いている方が、よほど悟りやすのです。汗水流して働く方が、よほど功徳があるのです。

 私たちは現世に生きるためではなくて、観自在になるために生まれてきたのです。その意味で、イエスが生きていた生き方は大変参考になるのです。

 釈尊は悟ったが、そのまま死んでしまいました。イエスは死ななかったのです。死を乗り越えたのです。日曜日はイエスが復活した記念日なのです。イエスは歴史的事実において、死を乗り越えたのです。

 本当の観世音をしたのです。イエス観世音と言えるのです。千手観世音とか、十一面観世音がありますから、イエス観世音があってもおかしくはないのです。

 イエス観世音になったらいいのです。これは歴史的事実なのです。イエスが死を破ったことは、歴史において証明されているのです。これは宗教ではありません。

 キリスト教では復活をはっきり説明しません。現在の科学くらいでは、イエスの復活の説明はできないのです。

 とにかく、歴史的事実を勉強すれば、私たちも歴史的に死を破ることができるのです。現世で、人間は好きなものを食べて、好きな服を着ることができます。これはぜいたくなことです。神が肉体を持てば、人間と同じ生活をするでしょう。だから、悟りを持つ責任があるのです。世間の人が考えているのと同じ考えでいると、ひどいことになります。この世に生まれてきたのは、それだけの責任を負っているのです。

 今までの経験を棚上げして、白紙に戻って、愛憎煩悩を去って、観世音菩薩になるという気持ちを持ったらどうでしょうか。

 これをするには仏教だけではだめで、聖書の助けがどうしてもいるのです。

 白隠が言っていた観世音と、現在私たちが考える観世音とは違うのです。白隠は死を破るとは言っていませんが、私は死を破る観世音を言っているのです。白隠禅師よりも大きい観世音を勉強しなければならないのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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