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神の国(3)


 神の言葉が宇宙構造の原点です。宇宙構造と言いましても、太陽系を中心に考えて頂きたいのです。SFの思想はユダヤ人のトリックですから、そういうことを考えないで、太陽系宇宙というものを宇宙構造として認識すればいいのです。

 大宇宙とか銀河系と言いますと、散漫な思想になってしまい、本当の真理を掴まえることができなくなります。だからSFの世界を信用しないで頂きたいのです。

 太陽系宇宙の実体を旧、新約聖書は説いています。太陽系宇宙の実体は神の言葉です。

 「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものはこれによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」とあります(ヨハネによる福音書1・1~3)。

 言とはどういうものかと言いますと、皆様が現実に目が見えることが言です。目の働き、耳の働き、五官の働きが言です。

 見るということと、聞くということとはどう違うかを考えると、心が豊かになるのです。見ていることと聞いていることとは違います。違いますが同じです。どのように違うのか、どのように同じなのか。ここに命の不思議さがあるのです。これを霊というのです。

 初めに言があった。その言が命になっているのです。皆様は生きているとお考えになっています。生きているということは、皆様の肉体全体を通して命が働いているということです。命が今、皆様が生きているという状態になって働いているのです。

 生きているというのは不思議なことです。飲んだり食べたりしているのです。見ているのです。聞いているのです。触っているのです。見たり、聞いたり、触ったり、味わったり、こういう不思議なことをしているのです。

 仏典にある観世音は音を見るのです。観音経の世界では見ることと聞くことを一つにしているのですが、これと聖書とどういう関係があるかです。

 観音経の世界は論理の世界です。実体ではありません。論理の世界でも役立つぐらいのことはいうのです。観自在と言っても観世音と言っても同じことです。

 生きているということは、見たり聞いたりしていることです。これが命です。命というのは霊なることです。皆様は無意識に観世音の世界を生活しているのです。観世音の世界を平気で生きているのです。十句観音経に朝念観世音、暮念観世音とありますが、これは当たり前のことを言っているのです。朝から晩まで毎日毎日、観世音の世界で生きているのです。

 仏教の経典を見ているだけでは、自分の命をマスターすることができません。仏教の経典を理解してイエス・キリストを信じると、仏教の経典が自分の命になってしまうのです。キリスト教も仏教もない。ただ一つ命があるだけです。

 言が命になっている。命は見たり聞いたりしていることです。これが光になるのです。この世に生まれてきた自分ではなくて、新しいとこしえの命を持つべき人格として、新しい自分になるのです。これが、言に命があって、命が人の光であるということです。

 目で見ていること、耳で聞いていることがイエスという人格に繋がっていくのです。そうして自分の目の働き、耳の働きがイエスと同じであるということが、だんだん分かってくるのです。

 従って、イエスが主であるということは、当たり前のことになるのです。これを素直に受け取ることができるのです。そうすると、ローマ人への手紙の十章九節から十七節に言われている「彼の名を呼び求める者は必ず救われる」ということを実感することができるのです。

 私が言っていることは宗教ではありません。人間が生かされていることの実体を説いているだけです。宗教から生きている命に移行すればいいのです。

 皆様が現象的に日本の国民として生きていることが宗教です。これを新に生まれた人間として見直すことができれば、神の国に入れるのです。神の国を見て入ることができるのです。

 現世に生きている人間ではない、現世を出てしまった人間として生きるのです。そうすると、死んでいくすべての現世の人間を見ることができるのです。これが、イエスが現世ですべての人を見ていた目と同じ目なのです。イエスがこの世を見ていたのと同じ目で、皆様が世間を見ることができるようになるのです。そうならないといけないのです。

 人間はそのためにこの世に生まれてきたのです。「言に命がある。この命は人の光であった」とあります。皆様が生きていて飲んだり食べたりしていることが、そのまま皆様の光となるのです。

 「目は体の光である」とイエスは言っています(マタイによる福音書6・22)。目の使い方が正しければ、過去、現在、未来の世界がずっと見通すことができると言っているのです。これは本当です。

 現世に生まれた自分を乗り越えて、乗り捨てて、生まれたままの力、生まれたままの目、生まれたままの耳で、観世音の世界、霊の命の世界へ入り込むような命を自分のものにするのです。とにかく皆様は現在生きているというすばらしい世界を経験しているのです。寒いとか暑いを感じる。牛肉を食べたり、魚を食べたり、野菜や果物を食べたりしている。そういう世界は永遠の命の世界です。それを皆様は毎日、毎日経験しておいでになるのです。これが生かされている世界、ザ・リビングの世界です。すばらしい世界です。

 これは固有名詞の人間が造っている世界、死んでいく人間が造っている世界ではありません。死なない世界です。死なない世界を皆様は自分の生活で毎日経験しているのです。これが神の国です。

 人間は毎日神の国を経験していながら分からない。言が命となり、命が人の光となっている。この光を毎日見ているのです。生きているというすばらしい神の光を毎日見ているのです。見ているのですけれど、その有り難さが分からないのです。

 形とは何か。色とは何か。味とは何か。これはすべて霊の世界です。生まれる前の世界です。この霊の世界を毎日見たり聞いたりしていながら、何のことかさっぱり分からない。

 なぜ分からないのか。それは、この世に生まれてきた自分、親から生まれた自分を信じているから分からないのです。親から生まれた自分ではなくて、神に生かされている自分に目を開くのです。天から下ったイエスと同じ自分に目を開くのです。そうすると分かるのです。

 現世で仕事をしながら月給をもらっている自分とは違います。親や兄弟に関係がない自分を見つけるのです。

 これが自覚できない原因は何かと言いますと、自分の雑念があるからです。自分が生きていると思っている。自分の欲望を果たそうという自我意識があるために、せっかく生きていながら本当の命が分からないのです。

 一番分からないのは女性です。これが男性には全然分からないのです。男は女を性欲の奴隷にしてしまっているから分からないのです。

 性欲は嘘です。大嘘です。パウロは「性欲は詐欺だ」と言っています。男は詐欺にかかっているのです。だから女は男の性欲が嫌いです。男の性欲が迷惑でしょうがないのです。

 神は男が女を犯すのを黙って見ています。なぜかと言いますと、男が女を犯すことによって、男自身が神に犯されなければならないからです。ところが男は神に犯されないように頑張っている。これが男の自我意識です。

 自我意識は悪魔が造った意識です。これを捨てると、本当の命の世界、神の国が分かるのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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