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神の栄光を受け取れない人間


 日本では般若心経を愛誦している人は、一千万人もいます。従って、五蘊皆空を知っている人は多くいますが、信じている人はいません。

 インマヌエルとは何か。インマヌエルとは神が生きていることを悟ること、神に生きていることを悟ることです。神の中に自分がいることを悟ることです。神と自分が同居していることとは違います。神が半分と自分が半分とが同居していることではない。神だけがあることを、肉体を持っている状態で認識することをいうのです。

 ユダヤ人が支配する世界歴史の中で、私たちのように神に取り扱われて、人間存在の秘密について端的に学んでいるというグループは他にありません。

 釈尊は誰に命じられたのでもないし、責任を持たなければならない必要性もなかったのですが、生老病死を見過ごすことができなかったので、強引に求めていったのです。たった一人で求めていったのです。異邦人の中にこういう人もいるのです。

 釈尊は自分の霊魂に対して責任感を持っていたのです。私も若い時から、人間は何のために生きているのか。子供を産んで死んでいく、子供を産んで死んでいく。なぜこんなばかなことを継続しているのかと思ったのです。

 死ぬのが嫌だと思いながら死んでいく。死ぬのが嫌だと思っていながら、死ななければならないと思っている。こんなばかな人生をなぜ生きているのか。大人はばかばかりではないかと思ったのです。

 パウロは次のように言っています。

 「私はキリストにあって真実を語る。偽りは言わない。私の良心も聖霊によって、私にこう証をしている。

 即ち、私に大きな悲しみがあり、私の心に絶えざる痛みがある。実際、私の兄弟、肉による同族のためなら、私のこの身が呪われてキリストから離されてもいとわない」(ローマ人への手紙9・1~3)。

 イスラエルのためなら、自分が神から捨てられてもかまわない。こういう覚悟がいるのです。ユダヤ人が神に逆らっているために、全人類に神の栄光が現われることができないのです。これがけしからんのです。自分の救いはどうでもいい。とにかくユダヤ人のために祈らなければならないのです。

 自分一人のために聖書の勉強をしているのではありません。神の国の実現のために勉強しているのです。神の国が実現したら、地震がなくなります。台風、津波、洪水、旱魃、噴火、戦争もなくなります。核兵器がなくなるのです。イスラエルがイエスを受け入れたら、これが実現するのです。

 命をあらためるのです。革命するのです。皆様の命を革めると世界の命が革まるのです。私たちは全世界の人の命を救う導火線にならなければいけないのです。

 皆様は人類の命を革める、世界に神の国を実現するための導火線にならなければいけないのです。地震、台風、洪水のない世界を実現するのです。戦争、犯罪のない世界を実現するのです。

 こういう思い切った大業をするのです。イエス・キリストの信仰ならできるのです。未だかつて人間歴史の中でこんな大きな仕事をした人はいません。神は私たちにそれをさせようとしているのです。

 皆様は自分と神、霊と肉の仕分けができないのです。肉体で生きている状態で霊的に責任を持とうとしている。肉体を持っているという感覚に重点を置いて人生を見ている。これが間違っているのです。

 パウロは言っています。

 「即ち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは価なしに神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いによって義とされるのである」(ローマ人への手紙3・23、24)。

 ここには重大なことが書かれているのです。この箇所をキリスト教の牧師は正確には説明できないのです。

 皆様は神の栄光を受けられなくなっているのです。受けられなくなっているという意味は、神の栄光を受け止めることができないような心理状態になっているという意味です。神のとこしえの命という恵みがあるのですが、これを受け止めることができないような心理状態になっているという意味です。

 人間はこれを知らないで神の栄光を受け止めようとしているのです。聖書の言葉を自分が理解できると思っているのです。

 神は固有名詞の人間を認めていないのです。霊魂を認めているのです。ところが人間がそれを受け止めようとしているのです。霊魂として学ばないで、人間として学んでいる。ここに根本的なくい違いがあるのです。

 パウロは「すべての人は罪を犯した」と言っていますが、これはどういう意味なのか。肉体を持った固有名詞の人間がいると考えている。自分がいると考えている。これが罪を犯したことになるのです。

 固有名詞の人間は、十字架によって死んでしまっているのです。新約時代というのは、すべての人間がキリストと共に十字架につけられた時代です。

 十字架によってイエス・キリストの肉が殺された。そして、すべての人間の肉が殺されたのです。キリストが霊にて生かされた。私たちも霊にて生かされているのです。復活したイエス・キリストの命が私たちの命です。これを事実として受け取れるかどうかです。

 イエス・キリストの事実が私たちの事実の実体です。これがイエスが主であるということです。イエスの事実が自分自身の主体性です。

 主体性を確立するということは、固有名詞の自分を主体とするのではない。イエス・キリストという事実が自分の人生の主体になるのです。これを主体性の確立というのです。

 自分が信じていたらいつまでたっても宗教になってしまいます。イエス・キリストの事実を自分の命としないからです。自分が生きているという事実を事実にしているからです。

 イエス・キリストの事実が自分の事実です。自分が生きているという事実は消滅しているのです。

 罪を犯して聖書を勉強しているのが宗教です。固有名詞の人格を持ったままで聖書を勉強するということが、犯罪行為です。

 自分自身を他人だと思わなければ本当の命は分かりません。妻や子供のことに不人情な男は他人と思うでしょう。それだけではいけないのです。自分自身を他人だと思わなければいけないのです。

 自分自身の本体がイエスであると、自分が他人になるのです。自分の家族ももちろん他人です。そうすると、家族をどのように扱ったらいいのか。自分の家族、自分の人生をどのように乗り越えるかです。

 古き人とは罪を犯し続けている人間です。これを自分として認めている間は、神の栄光を受けることはできません。受け止めたいと思っても、受け止めることができないのです。

 古き人は神の栄光を受け止める力を持っていないのです。神は栄光を与えているけれど、それを受け止める力を持っていないのです。

 肉の人間を自分だと考えている人間は、神の霊なる恵みを受け取ることはできません。受け取ろうと思ってはいるが、受け取ることができないのです。

 キリスト教ではキリストを信じたら救われると言いますが、イエス・キリストを受け取ることができないのです。

 私はイエス・キリストの十字架以後、異邦人の間で初めてこの難関を空破する方法を神から教えてもらったのです。これが般若心経の五蘊皆空と色即是空です。

 加藤という固有名詞の人間を自分だと思うことが五蘊です。家庭があると思うことが五蘊です。私は家庭を捨てよと言っているのではありません。家庭はあってもいいのですが、家庭に対する認識が間違っていると言っているのです。

 肉体はあってもいいのです。肉体に対する認識が間違っているのです。認識の間違いは、罪を犯し続けていることになるのです。

 ユダヤ人であるかどうかは霊魂の問題です。約束に対して強い執着を感じていることが、ユダヤ人であることになるのです。だからこの世に生きていることが間違っているのです。

 ユダヤ人は神の国に生きるべきです。神の国に生きているのがユダヤ人です。この世に生きていてもいいのですが、この世に生きているままの状態で、神の約束を顕揚すべきです。

 イスラエルの約束というのは霊に従って生きることです。これが実行できない人は約束を信じていないことになるのです。アブラハムが受けた祝福をまともに受けることができる者が、霊に従って生きることになるのです。

 神の栄光を受け取ることができない心理状態で、いくら聞いてもだめです。いくら勉強しても分かりません。祈っても分からないのです。どうしても分からないのはなぜか。神の栄光を受け取ることができなくなっているからです。

 そこで般若心経が言っている五蘊皆空、色即是空を実行するのです。見ていること、聞いていること、考えていることがすべて間違っているのですから、それを全部空じてしまうのです。そして生まれたままの赤ん坊の状態になってしまうのです。

 そうしたら初めて神の栄光が分かるのです。五官が働いていること、生理機能の働き、心理機能の働きが、すべて神の栄光であることが分かるのです。

 また森羅万象も神の栄光であることが分かるのです。これらはすべて地球が現われる前のできごとです。それが今、目に見える形で現われているのです。つまり神の国が見える形で現われているのです。これを幼子の気持ちになって、素直に受け入れたらいいのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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