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神の国(2)


 天然が自然になって現われています。天然は霊です。それが自然になって形になっている。景色の本質は霊です。聖書はこれを神の国と言っています。

 天然の本質が自然になって現われている。この状態を神の国と言います。人間の命がそうなっていますから、そのように生きればいいのです。無形の天然が有形の自然になっている。これがイエスがいう神の国です。

 イエスは神の国を見せるために生活したのです。それは難しいことではない。天然という無形のものを自然という形で現わした。神の国を現わしたのです。神の国を現わしただけではなくて、彼が生きている姿、彼の命が神の国だったのです。それにイエスは生きたのです。神の国に生きたのです。

 皆様が生きているのも神の国です。鼻から息を出し入れしているのが神の国です。それをそのまま生きればいいのです。

 「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」とはこのことを言っているのです(マルコによる福音書1・15)。この世に生まれた時の命のままで生活しなさいと言っているのです。

 人間はこの世に生まれてから、親の教育、学校の教育、社会の教育によって自我意識をしっかり植えつけられ、物心をしっかり持たされたので、生まれた時の命をすっかり忘れてしまっているのです。

 この世に生まれたままの命で生活するためには、人間の世界観、自分の都合、自分の思想があってはいけないのです。

 人間にはそれぞれ事情境遇がありますが、自分の都合で造っているのです。なるべくそれを造らないようにすることです。これが悔い改めるということです。

 悔い改めて福音を信じるということは、生まれながらの気持ちに生きることです。天然自然に生きるのです。だから信仰は難しくないのです。天然自然に生きると死ななくなるのです。これが大きいのです。

 天然が自然になっている状態を会得して、自分の人生観の基本にするのです。そうすると死なないのです。これは大変なことです。死を乗り越えることができるからです。

 皆様がこの世に生まれてきたことが、天然が自然になったことです。これをそのまま生きればいいのです。仏教はそれをそのまま生きることを教えません。命をそのまま見ることができないからです。釈尊は何とかできましたが、日本の仏教家は皆だめです。人間が造った宗教になっているからです。

 日蓮宗は大宗教になり政党を造っています。政治運動をしていますが、釈尊本来の悟りからひどくはずれています。それをいくら信じてもやはり死んでいくのです。

 私たちは死なない生き方を勉強する必要があるのです。

 キリスト教のような信仰はだめです。自分が熱心に信じているだけです。天然が自然になったことが、信仰にならなかったらいけないのです。神の国と神の義を求めよとは、これを言っているのです。

 人間ができたのは前世ですし、女性が造られたのも前世です。前世で造られた女性を、現世の感覚で見れば地獄へ行きます。死んでしまうのです。前世の女性を前世の感覚で見れば死ななくなるのです。

 「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」とイエスが言っています。

 時は満ちたというのは、人間が自分自身の思想で生きる時は終わったという意味です。人間が自分自身の世界観で生きる時は終わったのです。

 神の国とは何か。雪が降ることが神の国です。花が咲くことが神の国です。雪が降っているというあり方、花が咲いているというあり方、太陽が輝いているというあり方の中へ入るのです。これが神の国へ入るということです。

 人間がこの世に生まれたのは、命のあり方を肉体的に経験して、命のあり方のように生きるためです。仕事をすることが目的ではありません。家庭を造ることが目的ではありません。商売をすることが目的でもないのです。

 生かされている状態をそのまま生きるのです。生かされているというのは前世のことです。それをそのまま現世で生きるのです。

 ところが現世で生きている人間は、現世の感覚で生きている。こういう人は全部地獄へ行くことになるのです。

 人間が生かされてきたのは、この世で生きるためではなくて、神の国に生きるためです。花が咲く。雪が降る。自然現象は命がそのまま現われているのです。これをそのまま見ることが信仰です。

 生きることを卒業しない状態で死んではいけないのです。生きることを卒業しないで死んでいくことは、死ぬのではなくて殺されるのです。死にたくないのに死んでいくのは殺されるということになるのです。

 自由律俳人と言われた山頭火の生き方は、自主独往であって、自分で勝手に生きていたのです。自分で勝手に生きているというのは、神の国に生きていたのではありません。

 神の国に生きるというのは、大自然の命を命として認めて、その命の中へ入って行くことです。その命に同化してしまうことを神の国に入るというのです。

 大自然は神の国です。その中へ入って行くのです。山頭火はいつも孤独でした。孤独でいたらだめです。自然の中へ入って行かなかったらいけないのです。

 イエスは「まず神の国と神の義を求めなさい」と言っています。(マタイによる福音書6・33)。これは何かと言いますと、神は神の国を造っているのです。神の義が雨や雪を降らせているのです。神の義が万物を造っているのです。

 神の義という形で神の国を見るのです。大自然も、女性も、自分の命も、生活的な欲望も神の義から見るのです。そうすると欲が欲でなくなってしまうのです。欲が自然に還元されてしまうのです。

 人間の欲の本質は神の国から来ています。人間が本来あるべき姿は天然現象です。それを人間は欲にしてしまっているのです。食と性は生命に係わる自然現象であって、欲ではありません。これは前世でできたものであって、欲ではないのです。

 人間の命は前世でできたのです。命と同じものが自然現象であって、食と性は欲ではありません。それを欲と考えるのは、現世の常識で見ているからです。

 現世の常識は肉です。肉で見るからいけないのです。神の国に入って見ればいいのです。

 雪が降っている状態で、食や性を見ればいいのです。現世に生まれてきたことをよく考えて、生まれてきたことの本質に合致するような命の見方を探さなければいけないのです。

 人間は生まれてきたことの本性に合致するような命の見方を探さなければいけないのです。命の見方さえ正しければ死なないのです。見方が間違っているから死ぬのです。命を真っ直ぐに見ることさえできれば、死なないのです。死ねないのです。これをとこしえの命というのです。自分の意見さえ捨てたらいいのです。

 聖書を少し深く読んでいきますと、自分が分かっていないことがすぐに分かります。分かっていないということは、常日頃は命のことを考えていないということです。ただ常識的に生きている。ただ生きているだけでは必ず死んでしまいます。

 死なないように生きることを思考するのです。そういう生き方を絶えずするような気持ちを持っていなければならないのです。死なないように生きるという思想がいるのです。

 だいたい人間は死ぬべきものではありません。命は死なないものです。死なないのが命です。死ぬものは命とは言えません。

 大人は死ななければならないと勝手に思っているのです。人間は大人になって死んでいく。それに対して不思議とも何とも思わない。そのくせ死にたくないと言って、皆死んでいく。大人は皆大ばかです。

 死にたいから死んでいくのならしかたがない。ところが死にたくないのに死んでいくのです。なぜこういうおかしなことになっているのか。

 死にたくないと思っているのは一人や二人ではない。万人が死にたくないと思っている。万人が死にたくないと思うのは、死ななくてもよい方法があるに決まっているのです。何かを考えて実行するか、念願するか、思考すれば死ななくてもよい方法が見つかるに決まっています。見つからなければならないはずです。

 命というのは死なないことであって、死ぬのは命とは言わないのです。ところが世間の大人は皆死んでいくと思っているのです。世間の大人は大ばかです。不正直です。

 方法が全くないというのならしかたがない。方法があるに決まっているのです。現に死にたくないと思っているのですから、死ななくてもいいことを本人は知っているはずです。死ななくてもいいということを直感的に知っているから、死にたくないと思うのです。死ななくてもいいと思うことを直感しなければ、死にたくないと思うはずがないのです。

 お寿司が食べたいと思うのは、お寿司が食べられる方法があるから食べたいと思うのです。お寿司を全く食べたことのないアフリカの人は、食べたいと思わないでしょう。かつて空を飛んでみたいという人がいましたが、その可能性があるから飛びたいと考えたのです。現在、飛行機で空を飛ぶことを皆当たり前のことと考えているのです。

 死にたくないという願いが人間にあることは、非常に崇高な願いです。人間は命の本性、本質を直感的に捉えているのです。命は死なないものであるに違いないという本質論を人間は知っているのです。だから死にたくないという願いがあるのです。その願いがある以上、その本体をどうしても掴まえなければならないのです。

 死にたくないという願いがある以上は、死ななくてもよい方法があるに決まっているのです。それを掴まえなければならないのです。掴まえずに死んだら、皆様は自分に対して不正直になるのです。

 まず死にたくないという願いをはっきり持つのです。死にたくないということを、自分ではっきり自覚するのです。そういう自覚を持つことができる以上、死ななくてもよい方法があるに決まっているのです。

 ただ命に対する見方が不完全です。生命に対する見方が不完全です。だから死ななければならないことになるのです。

 自分が生きているという気持ちを捨てたらいいのです。自分自身を見ているから死ぬのです。自分を捨ててしまうのです。自分を捨ててしまって命を見るのです。自分の気持ちで命を見ないで、命の本質で命を見るのです。

 命の本質を掴まえないで、自分が生きているという常識で命を見ているからいけないのです。常識で命を見るというのはばかなことです。常識は現世に生きている間しか通用しません。

 命はこの世を去ってからでも通用するのです。心臓が止まってからでも命はあるのです。

 命の本質が分かっていれば、心臓が止まろうが、脳波の働きが止まろうが命はあるのです。死のうが生きようが関係ないのです。

 ただ生命が肉体という次元で経験させられているだけなのです。肉体という次元で経験していることを、生命本来の次元に変えればいいのです。神の国と神の義を求めよとは、そのことを言っているのです。

 「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらのものは、すべて添えて与えられるであろう」。この日本語訳は正確ではありません。あなたがたはまず神の国と神の義を求めよと訳すべきです。英文にはあなたがたは(ye)という言葉が入っているのです。

 ユダヤ人はまず神の国と神の義を求めよと言っているのです。日本人は現世に生きている人間です。イエスは異邦人のことは全く問題にしていなかったのです。だから、異邦人に向かって神の国と神の義を求めよとは言っていないのです。あなた方はまず神の国と神の義を求めなさい。まずというのは、何をさておいてもということです。ところがユダヤ人はこれを実行していません。実行していないから、私が言わなければならないのです。

 これは宗教ではありません。世界の人類と神との約束事です。神の約束の本物は世界のどこかにあるのです。

 神の約束は皆様の目が見えることです。皆様の耳が聞こえることです。舌で味わえることです。神の約束を学ぶと死にたくないという気持ちの本当の意味が分かってくるのです。なぜ死にたくないかが分かってくるのです。

 自分が生きていると思うことが一番悪いのです。自分が聖書の勉強をしている。これが悪いのです。

 パウロは次のように言っています。

 「というのは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また外見上の肉における割札が割札でもない。かえって、隠れたユダヤ人であり、また文字によらず霊による心の割札こそ割札であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである」(ローマ人への手紙2・28、29)。

 パウロは霊のイスラエルがあるということを説明しています。これは新約時代の特徴です。旧約時代にはこれがなかったのです。

 肉を捨てて霊で見ることができる人は、霊のイスラエルです。霊で見ることがなかなかできないのです。

 霊とは何か。生きているのは肉体人間ではありません。肉体的に生きているその状態を霊というのです。肉体人間ではなく、肉体的に生きているその状態が神の国です。

 肉体人間は固有名詞の人間ですが、生きている状態は神の国です。生きている状態を見ることができた人が霊のイスラエルです。

 瞬間、瞬間、心臓が動いている状態が魂の本質であって、これが自分です。これに気がついた人は自分の命に気がついた人です。霊に気づいた人です。霊の思いは命であり、平安であるというのはこれを指すのです。

 瞬間、瞬間に目を止めることができた人は、肉体的な命を乗り越えているのです。これが信仰です。

 皆様は肉体的に生きているのではありません。生きていることが肉体的に現われているだけであって、肉体が人間の実体ではありません。肉を脱ぎ捨てることは十分にできるのです。

 ユダヤ人は文明によって生活を造ったのです。例えば資本主義制度、社会主義制度、共産主義制度などの政治経済の仕組み、銀行、為替制度、立憲制度、人権主義思想、交通通信手段、コンピューターによる情報管理システム、インターネットといった、人間が現世で生きていくための生活原理を造ったのはユダヤ人です。

 フランス革命、アメリカ独立、国際連盟、国際連合もユダヤ人の仕事です。色々な制度や思想を造って人間を現世に釘付けにして、神の国を求めないようにしているのです。

 イエスは「水と霊とから新に生まれて神の国へ入れ」と言っています(ヨハネによる福音書3・5)。これは難しいようですが入れるのです。長い間聖書の勉強をしている人でも、神の国に入っている人はめったにいません。三十年も四十年も聖書の勉強をしている人でも、神の国に入っていると自覚している人はいないのです。神の国を知らないからです。

 花が咲いているのは神の国です。雪が降っているのも神の国です。そこへ入るのです。

 イエスは非常に易しいことを言っているのです。大工の青年ですから数学的な理屈は一切言いません。イエスは神を目の前に見ていたのです。イエスの前に神がいたのです。イエスの肩を叩き、おまえはこうしなさいと神は言っていたのです。

 神と人との交わりはそういうものです。理屈で割り切れるような難しいものではないのです。皆様は毎日神の国に入っていますが、気がつかないのです。神を崇めていないからです。自分の生活で神を崇めていないことがいけないのです。

 「天にいます我らの父よ、御名が崇められますように」という言葉が実行されていないのです(マタイによる福音書6・9)。そこでセックスが詐欺になってしまうのです。

 味とは何かです。味は誰でも知っているものです。桜の花を見に行くのは桜の美しさを見に行くのです。味の世界、形の世界、美の世界、香りの世界が皆神の国です。人々はなぜおいしいものが食べたいのか。それが神の国だからです。

 女性を現世の性欲という感覚で見ると、詐欺になってしまいます。現世で見る女性の価値は本当の価値ではありません。本当の値打ちではありません。

 女性が造られたのは前世です。現世の女性はすべて姦淫の対象になっています。姦淫の対象ではない女性はいないのです。

 これをパウロは性欲の詐欺と言っています。現世の男は肉欲という詐欺にかかってしまっているのです。肉欲はありもしない詐欺です。地獄の詐欺です。

 地獄が極楽に見えるのです。これが詐欺です。滅亡が快楽に見えるのです。これが詐欺です。恐ろしい滅びが最愛の楽しみに見えるのです。

 女性は現世で造られたものではありません。現世の女性は詐欺にかかっているのです。女性が造られたのは前世です。前世が分からない人は、本当の女性の値打ちを知ることができません。詐欺でないセックスをすることができないのです。

 これが親鸞上人の悩みでした。親鸞は詐欺にかからないと頑張ったのですが、詐欺が好きで好きでたまらなかったのです。だから地獄一定と言っているのです。いかなる行も及び難き身であると言っています。滝に打たれようが、水をかぶろうが、自分はどうしても地獄へ行かなければいけないと言っているのです。こういうとんでもないトリックがあるのです。

 死んでいく人間と死なない人間とは、女を見る目が違います。詐欺にかかった男に見られた女も、皆詐欺にかけられているのです。そういう男に抱かれている女は、皆地獄へ行くのです。

 女性が造られたのは前世です。前世の目で女性を見なければ、女性の神髄を見ることはできません。愛するという形は同じであっても、見方が全然違うのです。前世の見方で愛するのと、現世での見方で愛するのとでは、全く違うのです。

 パウロは言っています。

 「彼が隠れて行っていることは口にするだけでも恥ずかしいことである。しかし光にさらされる時、すべてのものは明らかになる。明らかにされたものは皆、光となるのである。だからこう書いてある。

 『 眠っている者よ起きなさい。

  死人の中から立ち上がりなさい。

  そうすれば、キリストがあなたを照らすであろう』」(エペソ人への手紙5・12~14)。

 死人、罪の中から立ち上がって、詐欺にかかっていない女性に目覚めるのです。性の本質は魂の問題です。肉の問題ではありません。魂が肉体を持っていますが、本来は魂の問題です。創世記第二章の状態に基づいてセックスを見ることが、詐欺ではない見方になるのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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