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何のために有形の天地が造られたのか。何のために太陽系宇宙が造られたのか。


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 天は太陽を指し、地は地球を指しています。太陽系宇宙は大宇宙から考えますと、変態的なものです。銀河系宇宙の中でも、太陽系宇宙は別種の宇宙になっているのです。太陽系宇宙のような固形宇宙は他にはありません。物理的に存在する惑星は地球以外にもありますが、ただ太陽系宇宙にだけあるのです。

 太陽系以外の宇宙には、固形的に存在する惑星はないようです。あるようなことをいう人がいますが、実証されていません。もしあったとしても何の意味もないのです。

 太陽系でも、地球以外の惑星で物理的に存在しているものは地球の助けになっているから意味があるのです。もし、太陽と地球がなかったら他の星が固形であっても無意味なのです。

 無意味なものはあってもしかたがない。あるという言葉が使えるのは、意味があることをいうのです。太陽系宇宙は銀河系の中で、あると言える唯一無二の惑星なのです。

 どうして地球ができたかを掘り下げようとする学者はいません。ただ聖書を勉強する時だけに、そういう問いかけが許されているのです。聖書を勉強する以外は、地球が何のために存在するかという質問ができないのです。

 初めに神が天地を造ったのはなぜか。結論的に言えば人間を造るためです。人間を造ることを目的にして神は天と地を造ったのです。

 聖書は次のように述べています。

 「『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものを治めさせよう』。神は自分のかたちに人を創造された。即ち、神のかたちに創造し、男と女に創造された」(創世記1・26、27)。

 これが太陽と地球を造った目的です。皆様を造るために太陽と地球を造ったのです。現在聖書を学んでいない人間が何十億人いても意味がない。ただ地獄へ行くだけです。そんな人間を造るために、神は太陽と地球を造ったのではないのです。

 聖書を学ぶ人のために太陽と地球を造った。贅沢なことです。ごく僅かな人のために、太陽と地球を造ったのです。だから聖書を学んでいる人は絶対に本物にならなければいけない。もし本物にならなければ全くひどい目にあうでしょう。太陽と地球を造った神を無視したからです。

 神が太陽を造った目的、七十億の人間を造ったのは、皆様に聖書を学んでもらうためです。その神の期待に背いて聖書の真意を学ばなかったとすれば、その責任を厳しく追及されるでしょう。

 聖書を本気になって勉強すれば、皆様は生ける神の子になります。本気になって学ばなければ、神の期待を裏切ることになるでしょう。神の子になるか、地獄へ叩き込まれるのか、一か八かになるのです。やりかけた以上はとことんしなければならないのです。

 日本人は金持ちで、豊かで、寿命が長い。政治経済も安定しているのです。民主主義国の中で最も民主主義的な国でしょう。ところが民主的というのは、聖書的に最も悪いのです。精神的に最悪の国に、世界一の聖書の光が与えられようとしている。神は人間的に想像ができないことをするのです。

 全世界で本当の聖書の読み方ができるのは、日本人だけです。

 人間が生きていることの中に、無限の霊の財産が秘められているのです。人間が見ているのは何をしているのか。パウロは次のように述べています。

 「信仰によって、この世界が神の言葉で造られたのであり、従って、見えるものは現われているものから出てきたのではないことを、私たちは悟るのである」(ヘブル人への手紙11・3)。

 世界は英訳では複数になっています。この世界を文語訳では諸々の世界と訳しています。

 諸々の世界とは何か。例えば形の世界があります。色の世界があります。香りの世界があります。花はそれを一度に現わしているのです。

 形と色は世界が違います。色と香りとも世界が違います。これを諸々の世界と言っています。複数の世界が単数の状態で現われている。これを私たちは目で見ているのです。

 これは神の言葉を見ているのです。色の世界は色という神の言葉です。花の形は形という神の言葉です。香りも神の言葉です。神の言葉が色になったり、香りになったり、形になったりしている。

 諸々の世界は森羅万象全体の世界です。これを魂が経験しているのです。

 森羅万象全体を神の国と言います。花を見ているのではありません。料理を食べているのではありません。神の国を経験しているのです。これが分かった人は死なないのです。イエスは神の国と神の義を求めよと言っています。これを求めてその中に入ってしまうのです。そうすると死なないのです。

 神の国と神の義を求めるのです。このとおりにすれば、とこしえの命が自分のものになるのです。食べたり飲んだりしていることは皆、神の国です。神の国を経験しているのはそこに入るためです。

 聖書を自分自身の生活において経験するのです。生活の実感として聖書を勉強するのです。聖書の文章をいくら勉強しても何にもなりません。信仰とは、聖書の言葉を自分の生活として実感すること、そしてその中へ入ってしまうことをいうのです。そうすると死ななくなるのです。神の国へ入れと言っていますから、そのとおりにしたらいいのです。

 人間存在は半分が神で、半分は悪魔です。人間が生きていることは、半分が霊で、半分は肉です。

 パウロは「肉の思いは死であるが、霊の思いは命と平安である」(ローマ人への手紙8・6)と言っています。

 肉の思いは半分です。霊の思いはもう片方の半分です。霊の思いと肉の思いの両方が、人間を造っているのです。聖書の勉強をしていても、していなくても、すべての人がそうなっているのです。七十億の人間がそうなっているのです。

 聖書の勉強をしている人は、肉と霊の両面が分かるのです。聖書の勉強をしていない人は、肉ばかりしか目につきません。霊があっても、ぼーとして見えないのです。

 人間が生きていることの霊なる面は神、肉なる面は悪魔です。肉の思いは死である。霊の思いは命である。肉と霊の両方の面が一人の人の中にあるのです。

 肉と霊の両方があることが悪いのではなくて、それを仕分けようとしないことが悪いのです。

 目の働きも半分は悪魔の作用です。後の半分は神の働きです。悪魔的に用いることができますし、神的に用いることもできるのです。霊的に見ることも、肉的に見ることもできるのです。

 聖書を学んでいる場合は、霊的に見ることができますが、聖書を学んでいない人は霊的に見ることが全くできないのです。聖書を学んでいるかいないかで、ここが違うのです。聖書の学び方がごく浅い人は、少しは霊的に見られますが多くはできないのです。聖書の学び方が深い人は、霊の面がだんだん大きくなって、肉の方を占領していくのです。

 イエスの命が自分の命だと分かると、全部霊になってしまいます。

 皆様が肉体的に生きている場合には、霊と肉があるのが当たり前です。これは現世に生きている人の当然の状態です。

 なるべく御霊を崇めて生活することを訓練するのです。そうすると悪魔的な面がだんだん少なくなっていくのです。人間の精神構造が神の方へ向かおうとしますから、だんだん神的な意識が強くなります。これが信仰生活です。なるべくそうしようとするのです。そうすると肉の方から霊の方へ行けるのです。これは難しいことではありません。当たり前のことです。

 人が霊的に生きている場合、その人は神の国にいるのです。聖書のことを考えて霊的な気持ちで生きている時には、その人自身が神の国にいるのです。その人の気持ちによって、神の国を造っているのです。

 神の国は造れるものです。信仰によって造れるのです。神の国と神の義を求めよとあるように、求めさえすれば神の国を造ることができるのです。

 自分の家庭を神の国にすることができるのです。これは難しいことではありません。聖書を勉強して、いつも聖書の話をすることができれば、神の国になっているのです。自分でそう思わなくても、神から見ればそうなっているのです。

 家庭で神の国の話をしている場合は、家庭に神の国が入り込んでいるのです。自分で意識しなくても、家庭が神の国になっている場合は十分にあるのです。

 信仰を家庭に持ち込めば、その家庭が神の国になるのです。神の国を求めるというのは、そういう家庭を造ることをいうのです。求めるとは捜すという意味ですが、捜すというのは、見つけてそれを大きくするという意味です。どの家庭でも神の国はできるのです。

 聖書に書いてあることは難しくありません。難しいと思われても、分かってみれば何でもないことです。実行できることばかりです。聖書には実行できないことは書いていません。禅宗の悟りの方がよほど難しいのです。

 神の国は誰でも持っていますが、行わなければ、生活しなければ現われないのです。自分自身の生活によって、神の国を外に出すのです。何もしなければ神の国は外に出ません。神の国は夫婦生活の中にもあります。肉の夫婦ではなくて、霊の夫婦になると神の国はできているのです。

 福音が生活の原形になってしまいますと、福音の中で生きることができるのです。そうすると普通の夫婦と違った夫婦になるのです。

 やがて外形的に全世界が神の国になるのです。千年王国が実現すると地球全体が神の国になるのです。それまでは私たちの信仰によって神の国を実現するのです。歴史的必然性もありますが、私たちの努力によって、それを来らせる信仰責任があるのです。

 聖書は難しいものではありません。ただ日本人は信仰の内容が徹底しすぎていて、分からないのです。

 世界全体に神の国が実現するというすばらしい理想があります。これは理想だけでなくて必ず実現するのです。イエス・キリストの復活によって新しい命が現われている。欲しい人は誰でも、もらうことができるのです。

 死なない命があります。イエス・キリストの復活という新しい命がありますから、もらったら死なないのです。

 イエス・キリストの復活を受け取る人が、ある人数になると、神の国が実現します。受け取る人がいないと実現しないのです。定数が何人か分かりません。神がご承知です。

 信仰によって生活することができると、夫婦が普通の夫婦でなくなってしまいます。別の夫婦になってしまいます。

 生きている人間が別の人間になってしまうのです。肉の自分はなくなってしまいます。死なない人になるのです。

 死ぬ命から抜け出して死なない命を掴まえる、即ち神の国に入ってしまうのです。イエスは神の国へ入れとやかましく言っているのです。水と霊によって新しく生まれよというのは、神の国へ入れと言っているのです。

 この世に生まれた人間は、死んでしまって、水と霊によって新しく生まれるのです。そうすると死なないのです。

 日本人は聖書になじみがうすいので難しく思えるのですが、ナムアミダブツの方がよほど難しいのです。

 聖書の中にもぐり込むような姿勢が必要です。生きているとはどういうことかを考えるのです。これを考えないことが悪いのです。食事をするとはどういうことか、家庭を持つとはどういうことかを考えるのです。こういうことを考えないのが、日本人の悪い所です。無駄飯を食べることになるのです。

 自分の命はないのです。この世に生まれたことが、既に自分の命とは違います。自分が生まれたいと思って生まれたのではありませんから、生まれたことが神の事がらです。自分のことではないのです。

 五十年も六十年も自分の力で生活していたと思っている。これが間違っているのです。神の時間を盗んでいたのです。神から貸し与えられた命を独占していたのです。

 命は神のものです。神の命を横領していたのです。これは委託物横領になるのです。神の命を自分のもののように考えて、むちゃくちゃに生きてきたのです。だから、死ぬと委託物横領で地獄へ引っ張られて行かれるのは当然です。

 命は自分のものだという根拠はどこにもありません。日本の法律でさえも命は自分のものだと言っていません。常識でさえも命は自分のものだと言っていないのです。ただ自分勝手にそう思っているのです。責任は一人ひとり取らされるのです。

 命は預かり物です。それを自分のもののように使っている。これは人から預かったお金を使い込んでいるようなもので、警察へ行かなければならない行為をしているのです。女性はそれほどではありませんが、男性は悪いのです。自分の一生は自分のものだから、どのように生きようと自分の勝手だと考えている。自分の命はどこにあるかと言いたいのです。

 命は天のものに決まっています。天の命を預かっているのです。天の使いを、自分のものとして使い込んでいる。だから地獄へ行くのは当たり前です。

 肉体も命も、皆神のものです。それを勝手に自分のものとして使っている。これが恐ろしいのです。

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(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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