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彼岸に渡る


 皆様が命の勉強をしたいと思われているのは、誠にご奇特なことです。しかし本当の命を勉強するのはご奇特くらいのことではだめなのです。人並みはずれた精進をしている皆様方でも、現世に生きているということが、皆様にとっての大変なハンディキャップになるのです。宗教ではない般若心経という命題をご覧になったら分かると思いますが、般若波羅蜜多というのは彼岸へ渡る明智のことです。上智のことです。現世にいる人間の知恵ではないのです。

 般若波羅蜜多ということが、皆様がこの世に生まれてきた目的です。この場合の皆様という言い方は、ユダヤ人以外の一般人を指しているのです。皆様はこの世に生まれてきたのですが、目的を持たずに生まれてきたのです。目的を持たずに生まれてきたのですから、何のために生きているのか分からないのです。

 国は国、民族は民族のしきたりがあるのでして、それぞれ教えということを言ってはいますけれど、民族の教えとかしきたりということが人間のただの情報なのです。本質的に言いますと、人間の情報でしかないのです。

 しかも、この情報は死んでいった人間が造り上げた情報です。死んでいった人間によって考えられた概念です。この概念が情報になっているのです。

 仏教とか、儒教とか、神道とか色々な概念が日本にありますけれど、皆概念にすぎないのです。

 仏教の実体、実質は何であるのかと言いますと、実は分からないのです。般若波羅蜜多という言い方をしますと、実は仏教の実体を否認してしまっているようなことになるのです。

 般若波羅蜜多というのは彼岸へ渡る知恵のことでありまして、この世の知恵ではないのです。波羅蜜多というのは現世のこととは違うのです。現世を後にして彼岸へ渡ることが、般若という知恵、上智です。

 ところが、現世にいる人間が勉強しているのです。これは愚かなことです。現世に生きているままの人間が、勉強していることが間違っているのです。

 もちろん、現世にいる人間が初めに勉強するのは当たり前です。現世にいる人間が彼岸へ渡ろうと考えて、般若心経を勉強することは結構ですが、いくら勉強しても勉強しても、彼岸に渡らずに勉強する。三十年も五十年も勉強して彼岸へ渡らずにしているのが現状です。だから、般若波羅蜜多という言葉が全く分かっていないのです。

 人間は彼岸へ渡る知恵を神から与えられていながら、彼岸へ渡らずに現世で頑張っている。これはなかなか見事なものです。般若心経を勉強し始めてから、三十年も四十年もの間現世で頑張っているというのは、なかなか見事なものです。これはかなりの耐久力があると言わなければならないのです。そうして、写経したりして後生安楽になりたいと考えている。こういう愚かなことを日本人はしているのです。

 こういうことになる原因は何かと言いますと、人間と魂が別だということが分かっていないのです。現在の日本に人間と魂とをはっきり分けて説明できる人は一人もいないでしょう。

 大体、大乗仏教には魂という考えがないのです。一万七千六百巻という膨大な大乗仏典の中に、魂という言葉が一字もないのです。これはおかしいことです。般若波羅蜜多と言いながら、彼岸へ誰が行くのかということが分からないのです。

 向こう岸へ行くのは誰かが分からないのです。分からないままで仏典を勉強しているのです。

 般若心経には観自在菩薩と最初から書いているのです。魂というのは観自在の原形になるのです。または観世音の原形になるのです。

 魂が正確に捉えられたら観自在になるのです。ところが、日本人の頭には、魂という言葉が正確に理解されていないのです。武士の魂とか、大和魂とか農民魂という言葉はありますが、こういう言葉で騙されているのです。

 結局魂が分からないのです。分からないので、観自在すること、観世音することの意味が分からないのです。

 皆様は目で見ていると思っています。目で見ているのではなくて、光線が物に当たって反射して、目の網膜に映っているのです。この状態を魂と言うのです。字を書いている能力、生態の原理、五官の働きの実体が魂です。

 こういうことが分からないままで、いくら般若心経を読んでもだめです。分かるはずがないのです。ところが、日本の仏教では分かったようなことを言っているのです。日本の仏教のお坊さんで、本当の空が分かっている人は一人もいません。もし本当に空が分かっていたら、伽藍仏教は成立するはずがないのです。仏教商売ができるはずがないのです。仏教という営業が成り立つはずがないのです。

 仏教という営業が成り立っていることが、魂が分かっていないことを証明しているのです。

 空というのは宗教ではありません。信心ということが空です。日本の仏教で考えている信心というのでは、観自在が成立しないのです。信じるという心が五蘊です。日本の仏教が五蘊です。キリスト教も五蘊です。聖書も般若心経も本気になって勉強していないのです。

 そこで、私たちがこういうことを言わなければならない余地が出てくるのです。余計なおせっかいと言われるかもしれませんが、こういうことを言わなければならないのです。

 皆様が生きているということが魂です。英語で言いますと、living soulになるのです。これが人間存在の質体になるのです。人間の実質の状態です。質体という言葉は使われていないかもしれませんが、人間の実質、実体です。これが魂です。

 人間というのは市役所の戸籍台帳に登録されているものです。固有名詞、自我意識で生きているものです。やがて死んでいくに決まっているのが人間です。死んでいく人間が肉体という形態を持っているのです。魂は理性と良心という心理機能を持ち、五官を与えられた人間の実質です。この区別がつかなければ、般若波羅蜜多といくら言ってもだめなのです。

 人間は必ず死ぬに決まっているのです。必ず死ぬのです。人間はただの形態です。生あるものは必ず死する。形があるものは必ず壊れるのです。「人間五十年、仮天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」と幸若舞という曲舞「敦盛」の一節があります。

 皆様は夢幻の内に生きているのです。これを自分だと思っているために、皆様の精神状態はいつも夢幻の内にあるのです。

 世界の軍備縮小の話がまとまらないのも、選挙で血眼になって走り回るのも、無理がない話です。現在の人間の心理状態では、核兵器廃絶は絶対にできないのです。

 何らかの形で人間の意識を転換することができなければ、超大国の相互不信は絶対に消えないのです。従って、軍縮とか核兵器廃絶という方がおかしいのです。

 そういうことを話し合うよりも、人間と魂とどちらが実体なのかを考えたらいいのです。人間という場に立っている間は、お互いに騙し合い、警戒し合いながら付き合っているのです。夫婦でも兄弟でも親子でもそうです。

 現世に人間は不信と不安とで生きているのです。実は人間はいないのです。魂が実体です。魂が分からないから、人間を自分だと思い込んでいるのです。

 魂は質体であって、その本質は命です。生きている事がらが魂です。その本質は命です。魂で生きている人の精神状態は平安です。安心です。

 長年般若心経と聖書を勉強している人でも、頭で分かってもハートの状態が本当に魂になり切っているかと言うと、なかなかそうなっていないのです。

 こういうことは一回か二回分かってもだめです。毎日毎日新しく確認して、これを自分自身の魂に言い続ける必要があるのです。この世にいる間は猛烈な戦いを継続していなければいけないのです。人間はいない、魂が実体だと言い続けなければならないのです。

 猛烈な戦いをしていないなら平安はないと思われるかもしれませんが、平安があるから闘えるのです。平安がない人は闘えないのです。

 魂が本体だということが分かっているだけで、非常に大きい平安があるのです。この平安を持ち続けるために、自分が持って生まれた業(ごう)と毎日闘っているのです。

 この闘いは勝つに決まっている闘いです。だからどんなに戦いが激しくてもやる気になればできるのです。

 皆様の本質が魂だと言いましたが、皆様が生きている状態をよくよく見て頂きたいのです。生きているとはどういうことなのか。例えば、お茶を飲めばお茶の味が分かります。味が分かるというのはどういうことでしょうか。これが魂の働きです。皆様はお茶の味を誰かに教えられたことがあるのでしょうか。

 お茶の作り方は習われたでしょう。お湯を沸かしてそれを急須に入れて、そこへお茶の葉を入れるということは習われたでしょう。しかし、味というものについては、習っていないのです。皆様が生まれた時に、既に味覚を持っていたのです。

 例えば、生まれたばかりの赤ん坊は母親の乳に吸い付いて吸うのです。おっぱいの味を知っているからおいしそうに飲むのです。哺乳瓶においしくない飲料を入れて与えてもすぐに吐き出してしまうのです。

 赤ん坊は母親のお乳をおいしそうに飲むのです。これはおっぱいの味を知っているからおいしそうに飲むのです。赤ん坊はおっぱいの味を誰から教えられたのでしょうか。母親が教えた訳でもないのに、おっぱいの味を知っているのです。これを魂というのです。

 皆様は目で花を見ますときれいだと思われます。きれいとはどういうことでしょうか。きれいという意味を皆様は誰かに習ったことがあるのでしょうか。皆様はきれいということの意味を習っていないはずです。ところが、皆様はきれいなものをきれいだと言われるのです。こういう状態を魂というのです。

 皆様の五官の本質が魂です。皆様が生きているということは、魂が生きているのです。人間が生きているのではないのです。食べるとか、見るとか、聞くというのはどういうことか。例えば味というのは目に見えないことを信じているのです。不可視世界のことを信じているのです。

 味というのは不可視世界のものです。また、香りというものも同様です。皆様は目に見えない世界を経験しているのです。これを霊というのです。これが本当の霊です。霊媒の霊とは違います。心霊科学でいう霊は、巫女の口寄せの霊であって、味や香りと全然違うのです。

 霊媒の霊、心霊科学の霊、新興宗教がいう霊は、人間の妄念が生み出した妄想です。今の日本では新興宗教がたくさん流行っています。守護の霊としきりに言うのですけれど、これは皆安物の霊です。

 例え守護の霊があったとしても、命は分からないのです。守護の霊を二十知っていても、三十知っていても、皆様の命の実体は全然分からないのです。守護の霊を信じれば信じるほど、本当の霊が分からなくなるのです。彼岸へ渡れなくなるのです。

 彼岸へ渡れないように仕向けているのが新興宗教です。不可視世界のことが本当の霊でありまして、これは新興宗教の霊とは違うのです。

 この霊が皆様の命の本質です。この命の本質に目が開かれることです。これを観自在菩薩というのです。または観世音菩薩というのです。

 彼岸とはどういう所か。この世ではない向こう岸です。人間が生きている場所ではないのです。人間が生きていない所です。これが向こう岸です。

 人間が生きている状態でいながら向こう岸へ渡ってしまうのです。今日彼岸へ渡っても、今日という日と明日という日とは時が違いますから、今日彼岸へ渡ったら、明日もう一度渡る必要があるのです。あさってまた渡る必要があるのです。この世に生きている間、毎日彼岸へ渡り続けていかなければいけないのです。

 命は毎日新しいのです。毎日新しい命を経験しているのですから、毎日新しい彼岸を経験するのでなかったらいけないのです。これを実行している人は、日本にはいませんし世界にもいないのです。しかし、これはしなければならないことです。

 世界中で誰もする人がいなくても、私たちはそれをしなければならないのです。なぜかと言いますと、皆様がこの世に生まれたのは、彼岸を見つけて彼岸に入るためなのです。

 彼岸を見ない状態、彼岸に入らない状態で、人間として生きていても何もならないのです。

 皆様は四十年、五十年の間、この世に生きていたのですが、皆様の命の本質には何のメリットもなかったのです。ただ生きていただけなのです。ただこの世の常識を学んだだけなのです。何のプラスもなかったのです。

 今まで生きていた自分は、人間として生きていたのです。人間として生きていたのは、魂の上に乗っていただけです。魂の上に乗っていて、ふんぞり返っているのが人間です。これが後天性の人間です。

 後天性の人間というのは、常識と知識で生きているのです。常識、知識は人間の思いです。思いというのは迷いのことです。

 皆様は生きていると思っているでしょう。現世に生まれてきて生きていると思っているのは、ただ思っているだけです。従って、現世で生きていると思っていても、人間の思いは根本的に迷いそのものです。

 魂は思いではありません。魂が生きているというのは生きているという事がらです。これが霊です。これは誰に習わなくても生まれた時から生きているのです。

 生まれてしばらくしますと物心がつきます。物心とは何かと言うと偽りの人格です。物心がつくと人間はばかになるのです。迷い出すのです。迷い出した結果、矛盾の世界に生きるのです。こういうことをご理解頂きたいのです。

 皆様が現在生きているという気持ちを端的に申しましたので、これをまずご承知頂きたのです。この状態で生きていながら、いくら般若心経を読んでも分かるはずがないのです。迷っている状態にあるのですから、本当のことが分かるはずがないのです。

 この状態では神を信じることは絶対にできません。キリスト教の神なら信じられますが、こんなものはキリスト教が造った神です。

 キリスト教の宗教教義が神を造っているのです。今の人間が信じられるように造っているのです。「天にまします我らの父よ」とキリスト教の人々は祈っていますけれど、天とは何かが分からないのです。ましますとはどういう状態なのか。我らの父とは何か。この一つ一つ分かっていないのに、天にまします我らの父よと祈っているのです。これは聖書をばかにしているのです。

 キリスト教も仏教も、現世の人間に分かるように嘘ばかりを造って信じさせているのです。これが宗教教義というものです。これを解脱して魂の方へ移行するのです。これはなかなかできないことですが、これが分かりますと、般若波羅蜜多の意味が分かって来るのです。

 人間は現世に生きていても何もならないのです。九十年生きようが、百年生きようが何にもならないのです。何にもならないどころか、罪を造っているだけです。業を積んでいるのです、嘘を言ったりごまかしたり、焼き餅を焼いたりしているのです。人を憎んだり恨んだりしない日があるのでしょうか。

 この世ではこういうことをしなければ生きていけないのです。こういう世の中です。世の中の大人が悪いのです。

 デカルトは精神と物質は別だと言っていますが、こういう考えが全く間違っているのです。霊が分かれば、精神と物質が一つであることが簡単に分かるのです。

 皆様がこの世に生まれておいでになったのは、この世に生きるためではありません。皆様がこの世に生まれておいでになったのは、人間と魂を見分けることをするためです。命とは何かということを知るために生まれて来たのです。

 このことを日本的に言いますと、観世音というのです。世音というのはこの世の有様です。この世の有様を見ることによって、この世がいんちきなものであることがはっきり分かった人は、いんちきではない状態になったらいいのです。

 皆様がこの世に生まれた時には、霊魂そのものだったのです。ところが物心がついて人間になってしまったのです。これが間違っているのです。

 大人の歪んだ気持ちを放下することはできるのです。これを脱ぎ捨てることはできるのです。そうすると、皆様は元の魂に帰ることができるのです。

 皆様の五官の本質はそのまま魂の本性です。これを情緒というのです。本当の情緒に対して目を開くことができますと、初めて魂ということが分かってくるのです。そうすると、現世にびくびくと生きている必要がなくなるのです。

 今の人間は戦々恐々として生きているのです。ガン、心臓病、脳梗塞、脳卒中、糖尿病、認知症、腎臓病、肝臓病にならないか、地震が起きるのではないか、会社が倒産しないか、不景気にならないか、老後の年金や介護はどうなるのか、いつ死ぬかもしれないとびくびくして生きているのです。安心して生きておれないのです。

 魂がはっきり分かれば、坦々として知るべきことを知り、言うべきことを言える人間になるのです。そういう人間になれるのです。これが観自在です。

 観自在すること、観世音することが人生の目的です。これをするために、私たちは生まれてきたのです。般若波羅蜜多をするために生まれてきたのです。

 般若波羅蜜多が人生の目的です。私たちはこの世に生きるために生まれてきたのではありません。皆様はこの世に生きることに対して熱心でありすぎたのです。だから、この世に生きることが、自分の目的のようにお考えになっているのですが、これは間違いです。

 命さえ分かれば、この世で生きていけるに決まっているのです。本当のことが分かったら、あえて生きていかなくてもいいのです。

 私たちは現世に生きるために生まれたのではないのです。般若波羅蜜多するために生まれたのです。命そのものを知るために生まれてきたのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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