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  • 執筆者の写真管理人 chayamichi

魂というもの


動物の成長過程を考えると、生まれながらの状態で同類の中に置かれ、その同類の生き

方を見習って大きくなる。だから同類の生き方がそのまま子供たちの生き方になって伝承

されることになる。動物の場合、彼らの天性の本能がそうさせるのでもあるのだから、そ

れでいいようなものの、人間の場合となるとそういう自然主義的な成長だけですましてお

けるものではない。

動物や植物はただ生きてさえ居ればいい。生きてさえ居ればそれなりに生きている目的

を果たしていることになるわけなのだから、それで結構なのだが、人間となるとただ生き

てさえ居ればそれで事がすむというわけのものではない。理性と良心という霊妙な心理機

構を「与えられ」て居り、善悪、利害を識別することができるのだから、この世でただ生

をたのしんでおればいいというはずがない。これだけの能力を「与えられ」ていることは、

それに相当する責任をあずけられているものと思うのが当然だろう。

天というか神というか、どちらでもいいが、とにかくそういう絶対的なものの意志によ

って、このような「霊妙」ともいうべき能力的機能が人間に附与されているのだが、それ

にはそのような条件がつけられているはずである。

つまり人間のこのような「霊長機能」には、必然的に「霊長責任」とでもいうべきノルマ

が付随しているに違いないということなのだ。

霊長的機能がそのまま霊長的責任を意味している――と、そのように考えるのが至当で

あるといえるだろう。動植物はいずれもその与えられた性能に従って生存しているのだか

ら、人間の場合も、当然、そうでなければならぬはずなのだが、現代人のやっていること

は、その「霊長機能」を用いて自然を食いあらしていることだけである。地球を住みあら

し、空気も水も陸も減茶苦茶に汚染するわ、資源は何もかもどん欲に食い散らしてしまう

わ‐― という仕末である。

これでは霊長どころか、害虫や悪獣にも劣るほどの害悪をたれ流していることになる。

人間だけがこういう暴虐無残な横道をあえてやっていることになるわけなのだが、そのよ

うに威張り返って生活するために、理性や良心が与えられているのでは決してないのだ。

ただこの世でのうのうと生きている、それだけのためなら、理性や良心などという高級

な心理機能は、さらさら必要ではない。ぜい沢な生活物資をつくり出して魂がふやけてし

まうような歓楽の夢を追うための、そのためだけの心理機能であるならば、精々、知性の

働きだけで十分すぎるくらいである。

理性の「理」はロゴスを意味するものであり、これが人性の中心に植えられているとい

うことは、とりも直さず神の言(ロゴス)を悟るため、信じてそれに同化するための機能

であると思うのが至当だろう。天地の在り方は理に基づいて動いている。これは神の言に

よって宇宙が保たれていることを証明しているのであって、人間の命理の根元も、要する

にこの神の言の光の外にはあり得ない。

天理に物理に命理――宇宙をつらぬくロゴスの性格が人間の心理をつらぬいているとい

う事実がある。これは人間の霊長機能の本性を端的に説明しているのでもあるし、同時に

霊長責任の所在を明白に証明しているのでもあるといえるだろう。

理性や良心を中核にした心理機能。それに生理機能。(生理機能のすばらしさについて

はここで述べることをしないけれど、これ又宇宙物理の不可思議さをそのまま濃縮して移

植したようなものである。)これが魂といわれているものなのだから、人間存在のとうと

さは、全く言語に絶するものといっていい。

仏教に応身(おうじん)という語がある。これは一般の衆生がその目で見ることができ

る仏陀(ぶっだ)の姿のことをいうのであって、化身、現身ともいえるのだが、これは人

間そのものの存在のすばらしさを仏性的に表現したものであるということもできるだろう。

現に自身自仏、即身成仏という語法もあるくらいであって、客観的に存在する人間の尊厳

というものは、実におどろくべきものであるといわねばなるまい。

そういう「人間」が、現在の世の中では、肉欲の奴隷となり、情感のとりことなって生

きているのだが、これは現代人の意識が人間存在の客観的本性から全く脱線してしまって

いることをはっきり証明しているのだ。

現世で生を楽しむというようなぜい沢をゆるされているのは人間だけの特権である。

「特権」のあるところには必然的に特別の任務がある。これは理の当然なのだ。その特権

だけを乱用して特務の方をまるで考えようとしないものは、必ずその責任を追及されるに

きまっている。これは明々白々な天地の道理である。知らぬ存ぜぬでまかり通れるような

ことではない。この責任の追及は死後においてなされることになる。死んでしまえばそれ

までよといったところで、どっこいそうは間屋で卸さない。本人がどう思おうが思うまい

が、人間の命は本然的に天の命理によるものだから、天的な法則によって信賞必罰が正確

に断行されるのである。人間の常識はそういう自分に都合のわるいことは考えまい、考え

まいとするけれど、魂は深層意識でこの天的な法則をよく知っている。そして責任を果た

さずに死んでいくことを、極度にこわがっているのだ。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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