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  • 執筆者の写真管理人 chayamichi


日本人が一番よくなじんでいるお経といえば、般若心経の右に出るものはあるまい。し

かしその真意を体得している人は滅多にない。また聖書は世界中で一番多く読まれている

出版物だということになってはいるが、しかし本当の意味での「キリストの言」(ロマ10・17.18)を聞いている人は滅多にない。

とにかく今の人間は無明の暗の底で長夜の眠りをむさぼっている。生活意識そのものが

すべて妄念(もうねん)でかたまっているのだが、その妄念のままで幸福を求めたり、死

後の救いを求めたりする。だからそれにふさわしい観念を造るものができる。いわゆる宗

教という、人間が造った教えがもてはやされることになる。これは人間の俗念に迎合する

ために造ヽられた虚説なのだから、魂をあまやかして迷いにひきこんでいくことになる。

だが、般若はらみたの心は、無明の人間を「空じて」しまうためのものであり、十字架

の言は肉の人間を消滅するためのものである。死神につかれているような、現代の人間の

目を本当にさますためには、妥協のない、きびしい真実が必要なのであることを知っても

らいたい。かくてこそ真の命の光を見ることができるからである。

般若心経の「空」は偉大な諦観であるけれど、現代人の人生はこれだけで片づくほど、

すなおなものではなくなっている。「空」をして真に自分自身の「空」とするためには、

本気になって十字架を負うしかないのだ。

ねはん寂静が宗教ではないように、十字架もまた宗教々義ではないのである。この二つ

は両々相まって本来の面目を顕現することになる。ことに日本人の場合はその感が深い。

人間は「空」であるし、罪人(つみびと)は死んでいる。これはともに人間存在の明白な

事実であることを知らねばならない。

こういう大問題を論じるにしては、本書はあまりに簡単すぎるのだが、しかし大論文を

展開して一般人に読みづらいものにするよりは、とにもかくにも平易に要点を述べて、ま

ずさしあたり、人生観、世界観の基底を提言したいと思う。

本書では般若心経と聖書とを、ならべて考えるという視点に重心を置いたので、聖書の

真理そのものについてはわずかしか述べることができなかった。他日、稿をあらためて、

大いに論じたいと思っている。



(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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  • 執筆者の写真管理人 chayamichi


動物の成長過程を考えると、生まれながらの状態で同類の中に置かれ、その同類の生き

方を見習って大きくなる。だから同類の生き方がそのまま子供たちの生き方になって伝承

されることになる。動物の場合、彼らの天性の本能がそうさせるのでもあるのだから、そ

れでいいようなものの、人間の場合となるとそういう自然主義的な成長だけですましてお

けるものではない。

動物や植物はただ生きてさえ居ればいい。生きてさえ居ればそれなりに生きている目的

を果たしていることになるわけなのだから、それで結構なのだが、人間となるとただ生き

てさえ居ればそれで事がすむというわけのものではない。理性と良心という霊妙な心理機

構を「与えられ」て居り、善悪、利害を識別することができるのだから、この世でただ生

をたのしんでおればいいというはずがない。これだけの能力を「与えられ」ていることは、

それに相当する責任をあずけられているものと思うのが当然だろう。

天というか神というか、どちらでもいいが、とにかくそういう絶対的なものの意志によ

って、このような「霊妙」ともいうべき能力的機能が人間に附与されているのだが、それ

にはそのような条件がつけられているはずである。

つまり人間のこのような「霊長機能」には、必然的に「霊長責任」とでもいうべきノルマ

が付随しているに違いないということなのだ。

霊長的機能がそのまま霊長的責任を意味している――と、そのように考えるのが至当で

あるといえるだろう。動植物はいずれもその与えられた性能に従って生存しているのだか

ら、人間の場合も、当然、そうでなければならぬはずなのだが、現代人のやっていること

は、その「霊長機能」を用いて自然を食いあらしていることだけである。地球を住みあら

し、空気も水も陸も減茶苦茶に汚染するわ、資源は何もかもどん欲に食い散らしてしまう

わ‐― という仕末である。

これでは霊長どころか、害虫や悪獣にも劣るほどの害悪をたれ流していることになる。

人間だけがこういう暴虐無残な横道をあえてやっていることになるわけなのだが、そのよ

うに威張り返って生活するために、理性や良心が与えられているのでは決してないのだ。

ただこの世でのうのうと生きている、それだけのためなら、理性や良心などという高級

な心理機能は、さらさら必要ではない。ぜい沢な生活物資をつくり出して魂がふやけてし

まうような歓楽の夢を追うための、そのためだけの心理機能であるならば、精々、知性の

働きだけで十分すぎるくらいである。

理性の「理」はロゴスを意味するものであり、これが人性の中心に植えられているとい

うことは、とりも直さず神の言(ロゴス)を悟るため、信じてそれに同化するための機能

であると思うのが至当だろう。天地の在り方は理に基づいて動いている。これは神の言に

よって宇宙が保たれていることを証明しているのであって、人間の命理の根元も、要する

にこの神の言の光の外にはあり得ない。

天理に物理に命理――宇宙をつらぬくロゴスの性格が人間の心理をつらぬいているとい

う事実がある。これは人間の霊長機能の本性を端的に説明しているのでもあるし、同時に

霊長責任の所在を明白に証明しているのでもあるといえるだろう。

理性や良心を中核にした心理機能。それに生理機能。(生理機能のすばらしさについて

はここで述べることをしないけれど、これ又宇宙物理の不可思議さをそのまま濃縮して移

植したようなものである。)これが魂といわれているものなのだから、人間存在のとうと

さは、全く言語に絶するものといっていい。

仏教に応身(おうじん)という語がある。これは一般の衆生がその目で見ることができ

る仏陀(ぶっだ)の姿のことをいうのであって、化身、現身ともいえるのだが、これは人

間そのものの存在のすばらしさを仏性的に表現したものであるということもできるだろう。

現に自身自仏、即身成仏という語法もあるくらいであって、客観的に存在する人間の尊厳

というものは、実におどろくべきものであるといわねばなるまい。

そういう「人間」が、現在の世の中では、肉欲の奴隷となり、情感のとりことなって生

きているのだが、これは現代人の意識が人間存在の客観的本性から全く脱線してしまって

いることをはっきり証明しているのだ。

現世で生を楽しむというようなぜい沢をゆるされているのは人間だけの特権である。

「特権」のあるところには必然的に特別の任務がある。これは理の当然なのだ。その特権

だけを乱用して特務の方をまるで考えようとしないものは、必ずその責任を追及されるに

きまっている。これは明々白々な天地の道理である。知らぬ存ぜぬでまかり通れるような

ことではない。この責任の追及は死後においてなされることになる。死んでしまえばそれ

までよといったところで、どっこいそうは間屋で卸さない。本人がどう思おうが思うまい

が、人間の命は本然的に天の命理によるものだから、天的な法則によって信賞必罰が正確

に断行されるのである。人間の常識はそういう自分に都合のわるいことは考えまい、考え

まいとするけれど、魂は深層意識でこの天的な法則をよく知っている。そして責任を果た

さずに死んでいくことを、極度にこわがっているのだ。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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  • 執筆者の写真管理人 chayamichi


人間の心理構造は二つの相反する命題によって成り立っている。常識、知識という顕在

意識的なもの、それに潜在意識。これは深層意識といってもいい。つまり外面的な人間と

内面的な人間。肉体人間と霊魂人間との二面性である。前者は官能的な感覚性に基づくも

のであり、後者は直観的な思索性が原点になっている。現象主義的なものと非現象主義的

なものというように見ることもできる。

また存在構造、あるいは生理構造の角度から見ると、これは「生」という命題と「死」

という命題とによる複合的なものであるということになる。「生きつつある」ことを裏返

していえば「死につつある」ことになる。この世に生まれたその瞬間から、死ぬ日に向っ

てまっすぐに歩いているのだということ―― これは分りきったことなのだが、この分りき

ったことを、すなおに、まともに、心にとめようとしないところに、人間のあわれさ、は

かなさがある。(これは顕在意識と潜在意識との関係につながっていることにもなる。)

顕在的なものと潜在的なもの。「生」的なものと「死」的なもの― ―この四つの命題が

複合的な二律背反のようなかたちになって、立体的に人生というものを構成しているのだ

から、これは全く矛盾そのものであるということになるのだ。

「人間とは何か」などといってみたところで、こういうゴチャゴチャした複合体の、ど

の面を提えて「人間」だとみればいいのやらさっぱり分らない。正体不明の化けもののよ

うなやつなのだから、自分自身ですら、どの「自分」が本当の自分であるのやら、実はは

っきり分らないのが実際なのだ。

西洋哲学で考えているような人間がある。ドイツ観念論のような人間像。イギリスの経

験主義のような人間像。それに唯物論や実存主義の人間像。自由民主主義の人間像― ‐色

色とりまぜて並べられている。東洋でいうとすれば、印度哲学的なもの、儒教的なもの、

日本的なもの。これ又さまざまでありいちいち数えつくすことができないような、沢山の

人間像がひしめいているのだが、これが実のところ、どれもこれもそれぞれの立場や理念

から描き出された観念的な妄念(もうねん)ばかりであるのだから、何ともはや気の毒み

たいな、あきれたみたいな、かなしいみたいな話である。

どうしてそんなことになるのかといえば。

現存在の人間の本質というもの――これを仏教的にいえば「無明」そのものであるし、

聖書的にいえば「つみびと」なのである。四方八方が「死」に囲まれている。いや、まわ

りだけではない、頭の上も足の下も――である。すき間もないほどにびっしり閉じこめら

れている。「死」に閉じこめられているのである。

ゲーテが死ぬ時に「もっと光を――」といったのは有名な話である。これは彼の視力が

衰えたからのことであったのかも知れないけれど、そればかりではなかったとも思われる

のだ。「もっと光を― ―」。もっと光をほしかったのは現世を去っていく彼の魂のかなし

い切願であったのかも― ―。

人間というものはそういうものなのである。原罪の重荷を背負って無明の上に立ってい

る。その足もとに地獄の間がひらかれているという、あわれはかない亡者(もうじゃ)に

ひとしい存在なのだが、それが宗教だの哲学だのと、身のほどを忘れたような大口をたた

いている。世間にはそういう宗教家や哲学者のいい分を真にうけている人々も沢山あるの

だが、これは全くひどい話なのである。

孫子の兵法の有名な一節。「彼を知りおのれを知れば百戦危うからず」ということ。こ

れは戦争の場合だけでなく、人生観的な意味においても十分に適用できる原則である。

「彼を知り」というのを「天を知り」又は「神を知り」とすればいい。仏を知りというので

もいいだろう。生きていることは所詮(しょせん)戦いそのものなのだから、人生探究に

も兵法の原則が通用するのは当然である。この場合「おのれを知る」ことが絶対的な要点

になるのだが、戦争についても人生についてもこれが一番むつかしい。

人間の生態は常識や知識を基礎にして、その上に家庭なり社会なり国家なりを形成して

いる。これが一般の在り方なのだが、この常識や知識というものの本質は何かというと、

これが「原罪」という温床から芽を出したところの、肉の思いそのものなのである。

聖書には「肉の思いは死である」という有名な言葉があるのだが、そのように実質的に

いえば「死」を意味するようなもの、それが常識や知識というものなのである。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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