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  • 執筆者の写真管理人 chayamichi

「死」にとじこめられている人間


人間の心理構造は二つの相反する命題によって成り立っている。常識、知識という顕在

意識的なもの、それに潜在意識。これは深層意識といってもいい。つまり外面的な人間と

内面的な人間。肉体人間と霊魂人間との二面性である。前者は官能的な感覚性に基づくも

のであり、後者は直観的な思索性が原点になっている。現象主義的なものと非現象主義的

なものというように見ることもできる。

また存在構造、あるいは生理構造の角度から見ると、これは「生」という命題と「死」

という命題とによる複合的なものであるということになる。「生きつつある」ことを裏返

していえば「死につつある」ことになる。この世に生まれたその瞬間から、死ぬ日に向っ

てまっすぐに歩いているのだということ―― これは分りきったことなのだが、この分りき

ったことを、すなおに、まともに、心にとめようとしないところに、人間のあわれさ、は

かなさがある。(これは顕在意識と潜在意識との関係につながっていることにもなる。)

顕在的なものと潜在的なもの。「生」的なものと「死」的なもの― ―この四つの命題が

複合的な二律背反のようなかたちになって、立体的に人生というものを構成しているのだ

から、これは全く矛盾そのものであるということになるのだ。

「人間とは何か」などといってみたところで、こういうゴチャゴチャした複合体の、ど

の面を提えて「人間」だとみればいいのやらさっぱり分らない。正体不明の化けもののよ

うなやつなのだから、自分自身ですら、どの「自分」が本当の自分であるのやら、実はは

っきり分らないのが実際なのだ。

西洋哲学で考えているような人間がある。ドイツ観念論のような人間像。イギリスの経

験主義のような人間像。それに唯物論や実存主義の人間像。自由民主主義の人間像― ‐色

色とりまぜて並べられている。東洋でいうとすれば、印度哲学的なもの、儒教的なもの、

日本的なもの。これ又さまざまでありいちいち数えつくすことができないような、沢山の

人間像がひしめいているのだが、これが実のところ、どれもこれもそれぞれの立場や理念

から描き出された観念的な妄念(もうねん)ばかりであるのだから、何ともはや気の毒み

たいな、あきれたみたいな、かなしいみたいな話である。

どうしてそんなことになるのかといえば。

現存在の人間の本質というもの――これを仏教的にいえば「無明」そのものであるし、

聖書的にいえば「つみびと」なのである。四方八方が「死」に囲まれている。いや、まわ

りだけではない、頭の上も足の下も――である。すき間もないほどにびっしり閉じこめら

れている。「死」に閉じこめられているのである。

ゲーテが死ぬ時に「もっと光を――」といったのは有名な話である。これは彼の視力が

衰えたからのことであったのかも知れないけれど、そればかりではなかったとも思われる

のだ。「もっと光を― ―」。もっと光をほしかったのは現世を去っていく彼の魂のかなし

い切願であったのかも― ―。

人間というものはそういうものなのである。原罪の重荷を背負って無明の上に立ってい

る。その足もとに地獄の間がひらかれているという、あわれはかない亡者(もうじゃ)に

ひとしい存在なのだが、それが宗教だの哲学だのと、身のほどを忘れたような大口をたた

いている。世間にはそういう宗教家や哲学者のいい分を真にうけている人々も沢山あるの

だが、これは全くひどい話なのである。

孫子の兵法の有名な一節。「彼を知りおのれを知れば百戦危うからず」ということ。こ

れは戦争の場合だけでなく、人生観的な意味においても十分に適用できる原則である。

「彼を知り」というのを「天を知り」又は「神を知り」とすればいい。仏を知りというので

もいいだろう。生きていることは所詮(しょせん)戦いそのものなのだから、人生探究に

も兵法の原則が通用するのは当然である。この場合「おのれを知る」ことが絶対的な要点

になるのだが、戦争についても人生についてもこれが一番むつかしい。

人間の生態は常識や知識を基礎にして、その上に家庭なり社会なり国家なりを形成して

いる。これが一般の在り方なのだが、この常識や知識というものの本質は何かというと、

これが「原罪」という温床から芽を出したところの、肉の思いそのものなのである。

聖書には「肉の思いは死である」という有名な言葉があるのだが、そのように実質的に

いえば「死」を意味するようなもの、それが常識や知識というものなのである。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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