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              1  死とは何か(1)

 

 人間の肉体は細胞の集まりだと言いますが、細胞とは何か。人間の体には六十兆の細胞が集まっていますが、その他に何万とも言えるような機能が複合的に集まっていて、六十兆の細胞と共に人体構造を形成しているのです。
 物理的に言いますと、これが機能しなくなることが死です。ところが、本当の死というのは物理の問題ではなく、心理の問題です。心の問題です。
 実は死というのは自分自身の気持ちの持ち方、心の持ち方によって乗り越えることができるのです。人間が死ぬと考えているその状態を乗り越えることができるのです。
 人間が考えている死というのは、人間の常識で考えている死です。人間の常識は絶対ではありません。正確なものではありません。いわば思いつきのようなものなのです。思いつきというのは、思っている間は通用しますが、現世を去ったら通用しないのです。
 ところが、人間の霊魂は永遠の命を求めているのです。求める意識が強い人、弱い人はあるでしょう。しかし、本質的に自分の霊魂は永遠の命を直感しているのです。
 皆様の常識は私が言うことに反対するでしょう。しかし、私の本質、本心は皆様の魂と同じであって、これは私の言うことに賛成するでしょう。
 人間は二重人格になっています。現世に生きている肉体人間と、陰に隠れている霊魂と、二通りの人格が一人の人間の中に住んでいるのです。
 たとえば、神戸の市民である人間は、常識で考えている人間です。しかし、常識人間の底の底に隠れている、あるかないか分からないような状態で、霊魂の声があるのです。この霊魂の声に聞き従うことが、本当の命を見つける方法なのです。
 現世の常識でお考えになれば、私の言うことはお分かり頂けないでしょう。しかし、常識が通用するのは現世だけのことです。
 肉体は火葬場に行けば灰になりますが、霊魂は灰にならないのです。皆様の理性や良心の本源が霊魂です。皆様はこの世に生きていた記憶をしっかり抱き込んでこの世を去っていくのです。
 骨は墓に入りますが、記憶や霊魂は墓に入りません。
 大体、日本では物事を真面目に考える人はほとんどいません。霊魂とは何かを考える人がいません。寺のお坊さんも知りませんし、キリスト教の牧師さんも知りません。
 大乗仏教には魂という言葉はありません。キリスト教は魂という言葉を使いますが、牧師さんや神父さんは魂の実物を経験していませんから、説明ができないのです。
 魂という言葉の内容を今の日本人は知りません。魂という言葉は知っています。大和魂とか武士の魂と言いますが、これは常識的な考えであって、人間の生命という点から考えて、魂とはどういうものかを正確に答える人がいないのです。
 日本には本当の神に対する考えはありません。神は絶対です。絶対は神です。これが日本にないのです。
 第二次大戦前には天皇が絶対でした。戦争後、天皇は人間になりました。それ以来、絶対なるもの、神聖にして犯すべからずという考えがなくなったのです。
 従って、今の日本は非常にだらしがないのです。霊魂の裁きなんかあるもんかと平気で言っているのです。神なんかあるもんかと言っている。あるかないか、現に皆様の目が見えています。耳が聞こえています。心臓が動いています。これが神です。
 皆様は神の真ん中にいます。知らぬ存ぜぬと言って通らないのです。世間の常識で考えないで、皆様の良心に基づいて勉強して頂きたいと思います。
 
2.死とは何か(2)
 
 現在の日本社会では、本当の女性を教えてくれる人はいません。本当の女性を自覚している女性も珍しいのです。
 聖書にある女性と現世の世間の女性とは違います。聖書にある女性は、「これこそ、ついに私の骨の骨」と言われている女性です(創世記2・3)。これが現在では肉の肉になってしまっているのです。
 現在の女性は性欲の対象にはなりますが、恋愛の対象にはならないのです。本当の意味で恋愛ができる女性は、女性自身が女であることを認識する必要があるのです。
 男性もまた、女性の見方を弁えて、永遠の命、命の本質に基づいて女性を見る。また、そのように女性に見てもらう男性でないと、本当の恋愛は分かりません。永遠の恋愛とはそれです。
 恋愛は永遠そのものです。人間が生きている間の恋愛は、性の交渉であって、本当の恋愛と言えるものではありません。
 小野小町は生きている間の恋愛が、嫌で嫌たまらなかったらしいのです。それで彼女は逃げ回っていたのです。
 原罪ということをよく調べていきますと分かることですが、現世の男性は根本的に神を見失っているのです。男は現世の中心的な人格です。現代文明を今日のように展開してきたのは男です。この世は男中心の社会です。
 この世の王を聖書は悪魔と言っています。この世の王が悪魔だとイエスも言っています。現世で威張っている男は悪魔そっくりです。
 現世にいる人間は死んでいく人間ばかりです。皆様は死んでいく人間のこと、また、死んでいった人間のことはよくご存知ですが、死なない人間のことはご存知ないのです。
 イエスは死なない人間として生きていたのです。この人を勉強しますと、本当の恋愛が分かるのです。本当の男性が分かれば、本当の女性が分かるのです。
 女の人は本当の男性を見たいと思っています。また、本当の男性に見られたいと思っているでしょう。こういう男性はめったにいません。ですから、本当の恋、永遠の世界に通じる恋を経験している人はほとんどいないでしょう。しかし、そういう恋はなければならないのです。
 この世に生きている人の恋愛はセックスのことを言っているのでありまして、本当の恋愛ではありません。死なない命に繋がるような恋愛、イエスが持っていた命の中にある恋愛を掴まえなければいけないのです。
 そのためには、人間観の不完全さをやめなければいけないのです。自分の見方の不完全さを持っているままでは、本当の恋愛は掴まえられません。世間並の恋愛はいくらでもあるでしょう。そんなものではしょうがないのです。
 恋愛をして結婚する。喧嘩して離婚する。そんなものは本当の恋愛ではないのです。人間の考えは皆五蘊ばかりです。肉の思いで生活していますから、肉の思いで恋愛しています。こんなものは恋愛とは言えないのです。
 現在のキリスト教は、エデンの園が全く分かっていません。もし本当に分かっていたら、カトリックという教派が成立しなくなるのです。プロテスタントも同様です。
 皆様の人生観が根本的に矛盾しています。根本的に矛盾したままの状態でエデンの園のことを考えても、命の実体として認識することができないでしょう。
 皆様が現在生きている生活ですが、昨日のことを考えなければ今日の生活は成り立たないのです。昨日のこと、一昨日のことを無意識に知っています。だから、今日の生活が成り立つのです。
 今日の生活をしながら明日のこと、明後日のことを考えるに決まっています。そのように、今日の生活が成立するためには、まず昨日のこと、一年前、十年前を踏まえて考えているのです。
 過去、現在、未来という時間的な配分を認識していなければ、人間生活の根本原理が成立しないのです。これをまず知って頂きたいのです。
 これと同じ原理が、皆様の生活において考えられていない。現世の生活を考える場合に、前世を考えない。これがいけないのです。
 皆様がこの世に生まれてくるためには、生まれてくる原因がなければならないのです。生まれてくるまでの命がなければ、今日の命があるはずがないのです。
 原因がなければ結果はない。現在の命を考える場合に、生まれる前の命を考えたでしょうか。
 宗教では絶対に分かりません。前世という言葉くらいはありますが、正しい意味で使われていないのです。具体的な意味で人間の前世があるとすれば、それはどのようなものであったのか。これがキリスト教では全然分からないのです。
 創世記が分からない。エデンの園が分からないのです。
 
 聖書に次のようにあります。
 「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた」(創世記2・7)。
 「主なる神は言われた『見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木から取って食べ、永久に生きるかもしれない』。そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させた。
 神は人を追い出し、エデンの園の東にケルビムと、回る炎の剣とを置いて、命の木の道を守らせられた」(同3・22~24)。
 
 人間が土で造られたとは書いていません。創世記の二章七節では、土のちりで人を造ったと書いています。造られた土を耕さなければならなくなったのです。これが現世の人間の運命です。
 創世記の一章、二章を見ても、人間が土で造られたとは書いていません。二章の十七節では、土で造った鳥や獣を連れてきたと書いています。人間が土で造られたとは全く書いていません。
 キリスト教が間違っているのは、神学校へ行って勉強して、そして、資格を取るのです。こんな人に聖書が分かるはずがないのです。
 神学校で教えるのはキリスト教の教義であって、聖書の命ではないのです。神学校では神の言葉を正しく取り扱っていないのです。教義を学んだ者が免状をもらって牧師になっている。こんな人が神の命が分かるはずがないのです。
 苦しんで苦しんで、死ぬほど苦しんで御霊と相撲を取って、本当に神の言葉が開かれた人間でなければ、人を教えてはいけないのです。神学校という制度がキリスト教を腐らせているのです。
 ルネッサンス以降の文明には、本当の真理はありません。概念ばかりです。宗教も学問も概念ばかりです。真実は一つもないのです。
 般若波羅蜜多の彼岸は、ルネッサンス以降は一つもありません。聖書は彼岸ばかりを書いています。神の国へ入れとばかりを言っているのです。
 キリスト教では神の国は分かりません。神の国という言葉はありますが、その実体が分からないのです。美しい花を見てとても嬉しい気持ちがします。これは神の国を見ているのです。イエスが「野のユリを見よ、空の鳥を見よ」と言っています。空の鳥が生きている姿の中に神の国があるのです。
 人間は過去、現在、未来を区分して認識する性能を持っています。これを理性と言うのです。過去、現在、未来を認識しなければ、命は分かりません。ところが、現世の人間は、現世に生きていることは分かりますが、前世のことは知りません。エデンの園という前世が全然分かっていないのです。
 人間が善悪の木の実を食べて、我々の一人のようになったと神が言っています。我々というのは三位一体の神をいうのですが、人間が三位一体の神の認識を持つに到ったということです。
 これはどういうことかと言いますと、善悪を考えることができるのは神しかないのです。神以外の者は善悪を考えてはいけないのです。神以外の者が善悪を考えると、必ず自分の都合の良いように考えるのです。そして死んでしまうのです。
 人間は善悪の木の実を食べた結果、善悪を考えるようになったのです。これが死んだということです。神以外の者が神と同じように善悪を考えることが悪いのです。これが宇宙的な非違(ひい)です。非違とは間違ったこと、正当ではないことをいうのです。
 かつて、日本の平安朝の時代に、検非違使がいました。律令制下の令外官の一つで、非違(非法、違法)を検察する天皇の使者でした。
 非違とはしてはならないこと、考えてはならないことです。人間が善悪を考えること自体が非違です。これを犯したのです。
 非違を犯すということは死を意味するのです。どれが良いか、得か損を考えたら、必然的に自我意識が発生するのです。
 善悪の木の実を食べた結果、アダムとエバに自我意識が発生した。そうして、神から離れて独立した人格を認めたのです。
 神とは命そのものです。神から離れたとは命から離れたことです。神以外の者が独立した人格を認めることが、死を意味するのです。
 キリスト教の人々は、自分が天国へ行きたいと思うから教会へ行くのです。自分が救われたいと思うから教会へ行くのです。自分が救われたいと思うから聖書を勉強するのです。
 自分が救われたいと思うことは、自分の人格を自分が認めていることになるのです。これが間違っているのです。カルビンとルーテルが、甚だしいイージーゴーイングなことを考えたのです。義人が信仰によって救われる。これをすり替えて自我意識を持った自分が救われると言い出したのです。
 義人とは自我意識の自分を持っていない人間のことです。ノアは義人でした。なぜならノアは神の意識で生きていたからです。神の命と同じ命で生きていた。ノアは神から離れて生きていたのではないのです。この状態を義人というのです。
 キリスト教の人々は、義人という意味を全然知らないのです。義とせられるとは、神と同じように認められることです。アブラハムは神と同じように認められた。だから、義とされたのです。
 これは山上の垂訓でも言っています。「天の父が完全であるように、あなたがたも完全でありなさい」と言っているのです(マタイによる福音書5・48)。神と同じように完全になることが義とせられるという意味であって、人間が義と認められるとは違うのです。この点をルーテルやカルビンはすり替えたのです。
 キリスト教は見事に真理を宗教にすり替えてしまいました。カトリックもプロテスタントも根本的に間違っているのです。
 皆様の人格性が神の中に入ってしまうことを、義とされるというのです。天の父が完全であるように、あなたがたも完全になれというのは、自分が消えてしまうことになるのです。
 アダムは善悪の木の実を食べて、善悪を考えた時に自我意識が発生した。神から離れた人格を持つようになったのです。これが陥罪です。
 神から離れた人格を持っている人は、全部罪人です。固有名詞の自分がいると考えた人は、もう死んでいるのです。
 神の内で、神の中で自分を見ることを、神の国に入るというのです。神の国に入って自分を見ることがなければだめです。神の国に入らないで神を信じたと言っても、それは宗教観念にすぎないのです。
 前世が分からず、来世も分からない。現世だけを認識して生きている人の生き方は、根本的に不完全です。
 時間を、過去、現在、未来に区分して認識していることが理性の本質ですが、これと同じことが皆様の霊魂にも要望されているのです。
 アダムとエバは善悪を知りました。これによって神から離れて、自分が生きているという認識を持つようになりました。そこで、エデンに住んでいられなくなったのです。
 エデンは前世です。皆様が現世に生まれたというのは、前世から追い出されたからです。
 この世に生まれたのは前世から追い出されたからです。そこで、肉の思いを負わねばならなくなった。自分が生きているという変則的な命を持たねばならなくなったのです。
 現世に生まれた人間は、全部死ななければならないのです。現世だけしか分からない人間は、全部死んでしまうに決まっているのです。
 人間が天国へ行けると考えるのはもっての外です。キリスト教の人々のいうことは全部間違っているのです。死んだら天国へ行けるというのは真っ赤な嘘です。
 現世に生きている間に前世を見つけるのです。来世を掴まえるために、現世でどのように生きたらいいのかを、各自考えて頂きたいのです。
 とにかく、どんな方法でもよろしいから、前世を見つけて頂きたいのです。
 花が美しいというのは皆様が前世で学んできたのです。女性に惚れるというのも、前世で認識していたからです。男女の問題は生まれる前に習っていたのです。
 実は皆様は今、生まれる前のあり方に従って生きているのです。そして前世を今、もう一度意識的に経験しているのです。
 前世では神と命を無意識に経験していたのですが、それを現世でもう一度、有意識的に経験しているのです。これが分かれば誰でも神の国に入れるのです。
 
3.死とは何か(3)
 
 皆様は現在、生きていることを経験しています。目が見えることが生きていることです。耳が聞こえることが生きていることです。生きているということは何かです。
 人間は生きていることを実際に経験しているのです。だから、お腹がすくのです。商売ができるのです。仕事ができるのです。ところが、生きているということを経験していながら、生きていることがどういうことかが分からない。だから、死んでしまうのです。
 生きているということがどういうことかが分かれば、死なないのです。生きているとはどういうことかが分かれば、死ななくなるのです。
 毎日、寝たり起きたり、食べたり飲んだりしていることが、死なない命を勉強しているのです。肉体は死にます。肉体が死ぬという問題と、霊魂が死ぬということは別のことです。
 肉体は実存しているのではありません。仮存しているのです。仮に存在しているのです。仮に存在している肉体は脱ぎ捨てなければならないに決まっています。肉体を脱ぎ捨てることは当然あるべきことです。
 心臓が止まることが死ではありません。人間はそれが死だと思っているのですが、間違いです。人間が肉体的に生きていることだけを命だと思っているから、そういう間違いをしているのです。
 人間は本当の命を知りません。命に対して誤解をしているのです。心臓が止まることが死だと、医学で勝手に考えているのです。これは間違っているのです。こういう間違った概念を捨ててしまえば、死なない命は誰でも分かるのです。
 なぜ聖書を信じないのでしょうか。聖書と医学のどちらを信じるのでしょうか。日本人は万人が万人共、医学を信じるというでしょう。
 霊魂の観点から言いますと、皆様は命が分かっていないのです。生活のことを命だと思っているのです。現世に生きていることは命ではありません。これは生活です。生きているということは、神の国に生きることをいうのです。
 イエスは「神の国に入れ」と言っています。「水と霊とによって新しく生まれて、神の国に入れ」と言っています(ヨハネによる福音書3・5)。これが命です。生きていることです。
 水と霊とによって新しく生まれて神の国に入っている人は、生きていると言えるのです。このことを経験している人はほとんどいないのです。
 日本人はキリスト教を信じていますが、聖書を信じていません。宗教ではない聖書があるとは思っていません。キリスト教の聖書も、宗教ではない聖書も、ほとんど同じものと考えているのです。
 復活したイエスは、現世に生きている人間とは違った命を生きていました。人間とは別の命を生きていたのです。
 イエスは神の国に入っていました。皆様は現世で日本に生きています。ここが違うのです。
 皆様に改めて言います。神の国に入って頂きたい。水と霊とによって新しく生まれて神の国に入ってください。聖書はこれを強く提唱しているのです。現世から出てしまうのです。
 まず水と霊とによって新しく生まれるのです。洗礼を受けることによって、この世から消えてしまうのです。そして御霊を受けるのです。御霊を受けることによって、考え方がすべて御霊の考えに変わってしまうのです。
 本当の洗礼は日本にはありませんし、本当に御霊を受ける、聖霊を受けることも日本にはありません。幸いにして私はこの二つを正しく経験させられたので、お話ししているのです。
 死ぬということは大変なことです。皆様はどうしても避けることができない問題です。この問題を御霊によって考えていかなければならないのです。
 
4.死とは何か(4)
 
 死とは何か。これについては色々な人が色々な意見を述べていますが、天地の道理に適っているかどうかが問題なのです。
 キリスト教が良いか悪いかではない。般若心経と聖書を両方並べることが良いか悪いかではない。宇宙の真理に立っているかどうかが問題なのです。
 死をどのように考えるかです。普通は死を生理的な問題と考えるのです。また、物理的な欠陥が人間の肉体に生じることによって、死ぬというのです。これが普通の人間の考え方です。
 胃が悪くなって死ぬというのは、その人の生理現象です。生理現象がそのまま死を意味するのかということです。現在の医学では心臓が止まることが死ではなくて、脳波が止まることが死になっているのです。
 命ということは生理現象ではないのです。生理は命に関係があることは間違いありませんけれど、生理現象がそのまま生命現象になるのではないのです。
 生理というのと、生命というのとでは、文字も違うし、意味も違うのです。従って、生理即生命という言い方は、短絡的な考え方でありすぎると思われるのです。
 胃や腸が悪いということは、生命現象に非常に大きい障害があると言えるでしょう。しかし、胃が悪いからと言って命が悪いということではないのです。胃は胃ですし、命は命です。
 宇宙には天然自然の命というものがあります。花が咲く、四季折々の果物ができる、太陽が輝き、雨が降るのです。これは天然の生命現象を私たちに示しているのです。これは宇宙の生命が地球に現われているのです。
 命はそういう大きなものなのです。そういう大きい地球存在の生命を、私たちの命として経験しています。
 命は命ですし、生理は生理です。命と生理は全く別のことになるのです。生理は即ち命だという考えは、医学的原理に捉われすぎた考えになるのです。
 一体命とは何なのかということです。地球が自転公転していることが命です。この根源は何なのかということです。
 地球が生きていることが命です。人間は地球から湧いて出た生物です。地球から湧いて出た生命だから生きているのです。人間に命があるのではありません。ですから、地球の命を勉強しなければいけないのです。地球の命が分からなければ、人間の命が分かるはずがないのです。
 人間固有の命はどこにもありません。花が咲いているのは、地球の命が花として現われているのです。蟻一匹でも蟻固有の命ではありません。地球の命が蟻になって現われているのです。
 太陽光線の輝きは、命がストレートに現われているのです。雨が降るという現象も、生命現象の現われになっているのです。
 太陽が輝くとか雨が降るということを、もっと集約して考えますと、宇宙に命がありますし、その命にはリズムがあるのです。そのリズムに従って地球が回っているのです。
 地球は継続的に回っているのではない。極端な言い方をしますと、停止、進行、停止、進行を繰り返しているのです。アナログの時計の秒針が動くように、瞬間、瞬間動いているのです。
 量子力学はそういう原理でありまして、ピッチャーがボールを投げると、継続的に飛ぶのではなくて、進む、止まる、進む、止まるを繰り返して飛んでいくのです。
 これが命の息使いのあり方です。皆様は鼻から息を出しています。心臓が動いていることも、脈拍も皆同様の動きをしているのです。
 動いた時には生きているのです。止まった時には死んでいるのです。生きた、死んだ、生きた、死んだを繰り返しているのです。電灯も蛍光灯も、五十サイクルの電気では、一秒間に五十回点滅を繰り返しているのです。ところが、人間の目には継続して見えるのです。
 点滅とは息をしている姿です。生息とは点滅を意味しているのです。
 地球は生きています。地球全体が生き物なのです。皆様は地球の命のある部分を分担しているのです。
 命を意識できるのは人間だけです。
 死とは何かと言いますと、命の原理に反することです。命の原理は生です。命を発現するためには死があるのです。死が働かなければ命の本質が発揚されないのです。
 闇がなければ光が現われないのです。これが三次元世界の本質です。生がなければ死はない。死がなければ生もないのです。
 命を知るということは、死を知ることです。生と死の両面がなければ命とは言えないのです。死が働かなければ生が働かないのです。現在の時間と空間の三次元世界においては、生と死は裏表の関係になって命を形成しているのです。
 従って、死を知ることが命を知ることの根源になるのです。死を知らないで命だけを知るということは、絶対にできません。夜がなければ昼がないのですから、昼と夜の両方を知る必要があるのです。
 将来、現在の地球はなくなってしまうでしょう。物理現象はやがて消えるに決まっているのです。物理現象が消滅してしまいますと、初めて本当の命、死のない命が発現するのです。完成された永遠不滅の霊なる地球が現われるのです。聖書はこれを新天新地と言っています。
 日本人は世界観が非常に小さいのです。物の考え方が狭いのです。私が言うような大きい考え方で命を勉強している人は、めったにいないのです。だから、命の本質は何かと聞いても、説明できる人がいないのです。
 私が説明できるというのは、私自身が説明しているのではなくて、御霊によってお話ししているのです。
 この宇宙には妙なものがあるのです。宇宙の指導霊があるのです。人間の御霊にインスピレーションを与えて、心の目を開くすばらしい働きをしている霊があるのです。この方によって私は説明しているのです。
 日本の霊というのは荒神さんとか竜神さんとか言いまして、安物の霊です。シャーマニズムの霊です。上等の霊は地球を動かしているのです。これが神の霊です。
 神というのは命を司る原理です。明治初期の国定読本に、「神は天地の主宰にして、人は万物の霊長なり」というすばらしい言葉がありました。
 神は天地の主宰にして、人は万物の霊長なりというすばらしい言い方は、今の学者にはできません。明治初期だから言えたのです。この自覚があったら、日本人に今のような堕落はなかったでしょう。もっとましな日本人になっていたでしょう。
 天地の主宰とはどういうことかと言いますと、命の主宰という意味です。天地の主宰とは命を主宰するものです。これが神です。
 皆様の心臓が動いていること、目が見えることが神の投影です。神の力が皆様に働いているのです。
 命の原理が分かれば指導霊の原理が分かるのです。そうしたら、指導霊に従って説明できるのです。皆様も命の勉強をして頂いたら、指導霊のことがお分かり頂けると思うのです。
 命を司るものがあるのです。命は有機性の原理でありまして、地球が自転公転している原理です。そうすると、命の本質は何かと言いますと、理論物理的に言えば波長です。長い波長と短い波長、点というものと流れとがあるのです。素粒子でもあり、素流でもあるのです。運動がポイントであり、ポイントが運動になるのです。こういう意味での波長が地球を生かしているのです。
 波長は宇宙的なものであって、銀河系からアンドロメダに到るまで、無数のエネルギーが地球に集中しているのです。地球はエネルギーの集中の焦点になっているのです。これが地球の命を形成しているのです。
 宇宙のあらゆるエネルギーが地球に集中しているのです。誰がしているのか。命を主宰するものがしているのです。そこで、地球には生命現象があるのです。
 命とは一体何か。物なのか心なのか。現在の医学では生理現象が命だと思っているのです。ところが、そうではないのです。命は物理的に表現していますけれど、物理的に表現するためには原理がなければならないのです。
 なぜ物理的に表現しているのか。命を物理的に表現している本体が心なのです。皆様の目が見えること、心臓が動いていることが、物理的に表現されている命の働きですが、そのように仕向けている原理がなければならないのです。
 そのように仕向けている原理が心です。命の本質は心です。生理的な問題ではなくて心の問題です。皆様の精神のあり方の勉強が、皆様にとっての命の勉強になるのです。
 自我意識の自分は悪いものに決まっているのですから、この自分を責めてもしょうがないのです。
 臨済禅に、「百尺竿頭進一歩」という言葉があります。百尺の高さと言いますから約三百メートルの高さの竿の上に立って、一歩進めというのです。進めば下に落ちるに決まっているのです。
 竿の上ですから前はありません。前へ一歩進めば下に落ちるのです。落ちるに決まっていると思うのは、自分がそう思っているのです。しかし、前へ出たら落ちないかもしれないのです。
 昔、京の都に商売人がいました。この人が商売に失敗して財産をすっかりなくしてしまって、どうにもこうにもならなくなって、死んでお詫びをするしか仕方がないと考えたのです。
 そこで鞍馬山に行き首を吊る枝を探したのです。探して山の中へ入って行き、谷に突き出している一本の松の木を見つけたのです。その枝に縄を付けていたところ、天狗が現われて、「おまえは死ぬ気か」と聞いたのです。
 商人は死ぬと度胸を決めたので、天狗を見ても全然恐ろしくないのです。「死ぬ気です」と答えたら、「谷に突き出ている枝につかまって前へ行け」というのです。「分かりました」と言って、枝にぶら下がって前へ進んで行ったのです。
 天狗が「もっと前へ行け」というので、枝の最先端まで行ったのです。そうしたら天狗が「目をつぶって手を離せ」と言ったのです。左手を離すと「右手も離せ」というのです。
 左手を離し右手を離した途端に、脇の下から羽が出て、空を自由に飛べることになったのです。
 これは臨済禅の非常におもしろい話です。これが百尺竿頭進一歩です。これを実行したら命が分かるのです。
 現世には神の国があるのです。花が咲いているのです。花が咲いているということは、花が咲いている世界があることを見せているのです。
 花が咲いている世界は、自我意識で生きている人間の世界とは違います。花には嘘も偽りも、思い煩いも焼きもちも、妬みも憎しみもありません。
 花は天然自然に咲いているのです。天地の法則に従って咲いているのです。だから、死なないのです。花は枯れますが死なないのです。花は天地の命を現わしているのです。これが神の国です。
 花が咲いている世界がある。イエスは野のユリを見よと言っているのです。野のユリは働きもしないし、紡ぎもしないのに、神はこのように装ってくださる。「栄華を極めた時のソロモンでさえも、この花の一つほどに着飾っていなかった」と驚くべきことを言っているのです(マタイによる福音書6・28~30)。
 一輪の野のユリが咲いている姿は、神の国を現わしているのです。空の鳥が神に養われている姿が、神の国を現わしているのです。
 皆様は花を見たり、空の鳥を見たりしているのです。皆様の目は、天然自然の命、地球の命の姿を見ているのです。
 目が見ているのならその世界に入れるはずです。皆様の目は神の国を見ているのです。天国を知っているのです。
 キリスト教の人々は死んでから天国へ行くと言いますが、これは大嘘です。死んでから天国へ行く、極楽へ行く。これは全く宗教の大インチキです。
 神の国や天国は、私たちが目の黒いうちに入るのです。死んだら絶対に入れません。死んだら地獄へ行くに決まっているのです。
 現在皆様は鳥が飛んでいる世界や、花が咲いている世界を見ているのですから、目の黒いうちに天国に入れるに決まっているのです。
 私も御霊によって入ることができましたから、その経験を申し上げているのです。これは本当にすばらしい世界です。喜びと嬉しさに満ちた世界です。
 花が咲いている世界があるのですから、ここへ入ったらいいのです。人間の欲も悪もないすばらしい世界です。ここへ入れるのです。
 イエスやヨハネ、パウロは神の国に入っていたのに、パウロ以降の二千年の間、世界中で神の国を見つけた人がいなかったのです。ようやくその光が日本で輝き始めたのです。これはヨハネの黙示録の七章二節に預言されているからです。
 現在の人間社会は全く迷いの世界です。このカルマの状態から抜け出しさえすれば、本当の命の世界へ入れるのです。
 百尺竿頭進一歩です。右手を離し、左手を離すのです。右手が自我意識です。左手が現象意識です。この両手を離せば御霊の世界へ入れるのです。御霊の羽が出てくるのです。
 イエスはそれを経験していたのです。イエスと同じ感覚になれば経験できるのです。
 命は物ではなくて心です。
 花は咲いているのではなくて咲かされているのです。花は自分の意志によって咲いているのではない。自然の道理、天候とか気候が花を咲かせているのです。
 気候、天候を支配するものは、天地の理法です。自然法の原理です。天地の主宰である神によって支配されているのです。
 命はエネルギーですが、これを動かすものは人格です。これが精神です。地球にはそれを動かす人格があるのです。それによって花が咲いているのです。
 神が野のユリを装っているとイエスが言うのは、それを言っているのです。これが天地自然の理法です。理法というのは心です。心が天地自然を動かしているのです。
 皆様の体を皆様の意志が用いているのです。意識が命を使っているのです。天地の主宰である神が命を動かしているのです。
 百尺竿頭進一歩と言いますが、生死は心一転にあるのです。心を更えて新にするのです。心を更えて新しくするのです。悔い改めて福音を信じるのです。
 人間がこの世に生まれたということが、カルマの中へ放り込まれたことなのです。この世が業(ごう)です。生まれてきたというのは、業を背負わされたことなのです。
 この世に生きているということは、色々な苦しみや悲しみ、思い計り、心ならずも頭を下げるとか、おべっかを言うとかということばかりをしなければならないのです。自分が生きていると思っている時には、いつでもその人の心には重荷がのしかかっているのです。
 自分が生きていると思うこと自体が重荷です。人間は自分の命ではないものを、自分の命だと思い込んでいるのです。そういうことがその人自身の重荷になっているのです。
 生きているというのは業を背負っていることなのです。この世に生まれてきたままの人間の生は業です。これをそのまま持っていますと、必ず死にます。
 死ぬとは、現世を去ることとは違います。現世を去ることは命の状態が変化することです。
 現世において命の本体を掴まえそこないますと、この世を去ったらその間違いの償いをしなければならないことになるのです。これを死というのです。
 現世での考え方が間違っていたから、その償いをしなければならないことになるのです。これを霊魂の裁きというのです。これが恐ろしいのです。
 人間は自分の命ではないものを自分の命だと思い込んでいたのです。これが大変な犯罪になるのです。
 いつも申し上げることですが、皆様は自分で生まれたいと思って生まれたのではないのです。従って、自分はいないのです。ところが、自分がいると勝手に思い込んでいるのです。
 なぜそのように思い込んだのかと言いますと、親の教育、学校の教育によってそのように思い込まされたのです。兄弟の教育、友人の教育、職場の教育、社会の教育によってそのように思い込まされたのです。これが全部間違っていたのです。
 この世に生まれてきた人間は、人間がいる、社会がある、現象世界があると皆思い込んでいるのです。この業の中へ放り込まれたのです。だから、年が寄るに従ってだんだんと業が堆積していくのです。
 年配の方はだいぶ業が積もっていますが、心機一転したらいいのです。修行をしなければならないとか、何かの行をしなければならないのとは違うのです。苦しむ必要はないのです。今までの錯覚に気づいて、それを捨てればいいのです。
 この世に生きているということが間違っていたのです。自分を愛することが間違っていたのです。自分を愛さないで命の本体を愛したらいいのです。
 自分の命の本体とは、自分が生きていると思わない命です。自分が生きていると思っている命というのは、死んでしまう命です。自分が生きているということをやめても、皆様の心臓は止まりません。
 自分が生きているのではないと思っても、心臓が止まるのでもないし、目が見えなくなるのでもない。自分が生きていないということが分かりますと、清々するのです。やれやれと思うのです。
 人間には天然自然の生命力があるのです。地球の生命力と同じ生命力が人間にあるのです。これに気付きますと、自分が生きていることを捨ててしまっても、命の本体があることがよく分かるのです。正味生来の命の本体があることが分かるのです。これがとこしえの命です。
 この命を正確に捉えなければいけないのです。いいかげんなインチキな捉え方ではだめです。禅宗の悟りぐらいではだめです。
 本当の悟りというのは、地球が存在している原理を知ることです。天地が造られたことの原理です。この命を悟るのです。天地が生きているという命を悟るのです。
 命がなければ地球は生きているはずがありません。命がなければ花は咲きません。花が咲く命があるということは、死なない地球の命が現われているのです。
 皆様は死なない命を目で見ているのです。死なない命があることを目で見ているのです。この中へ入って行けばいいのです。
 そこで、自分が生きているという自我意識を捨てるのです。自我意識を捨てるということは、もっともっと勉強される必要がありますが、粗筋を申し上げればこういうことになるのです。
 自分が生きているという気持ちを捨てても、皆様の心臓が動いているという事実に変わりがないのです。皆様の心臓が動いているということは、神の力が皆様の中に宿っているということなのです。
 神の力が皆様の心臓の中に宿っていることに気が付きますと、両脇から羽がはえるのです。そうして、自由に空を飛ぶことができるのです。死を突破して永遠の自由を獲得できるのです。
 自分の命ではない命、天地自然の命が皆様の本当の命です。これが神の命です。自分の命だと思っていた命は神の命だったのです。これに気が付くと、人生が本当に明るくなるのです。
 そうすると、自分の命に自分が責任を持たなくてもよくなるのです。私の魂に私は責任を持っていません。持たなくてもいいのです。神が共にいますから、神が責任を持ってくれるのです。
 神が一緒にいなかったら皆様の心臓が動くはずがないのです。花を咲かせている命と同じ命が皆様の中にあるのです。この命の中へ入れるのです。自我意識を捨ててしまえば入れるのです。
 皆様は固有名詞の目方があると思っていますが、そうではないのです。引力に対する抵抗が目方として計測されるのです。
 例えば、目の前にコップがあるとします。手でコップを持ち上げるから重量があるのです。置いておくだけなら重量はありません。
 机自身も重量を持っていません。机を置いたままであれば重量はありません。持ち上げると重量があるのです。引力に対して抵抗するからです。
 地球に抵抗するから重量が生じるのです。地球の引力に一致したら無重力になるのです。ロケットに乗って宇宙に行かなくても、地球内にいて地球の引力に一致してしまえば、自分の重量はなくなってしまうのです。これを理解して頂きたいのです。
 天地の命と一つになれば、死ぬべき自分がなくなってしまうのです。イエス・キリストの復活はこういうことです。自我意識を捨てて、自分が生きているというつまらない考えを捨ててしまって、天地自然の命に帰ってしまえば、皆様の死がなくなるのです。これを歴史的事実として証明したのが、イエス・キリストの復活です。
 イエスが死を破って甦った。これは歴史的事実です。これに対しては、天地創造の原理を正しく理解して頂ければ分かるのです。イエスはどうして死を破ったのか。復活したイエスは今、どこでどうしているのか。イエスの命と皆様の命とはどういう関係にあるのか。こういうことがだんだん分かってくるのです。
 命は真理そのものです。本当の心が本当の命です。本当の心さえ分かれば命が分かるのです。自分が生きているという錯覚を捨ててしまえば、死を破ることができるのです。
 現在の人間が信じている常識とか知識は、間違った錯覚です。この世では通用しますが、死んでしまえば通用しません。これが人間の知識、常識です。
 死んでしまえば通用しない理屈ではなくて、もっと大きい考えを持って頂きたいのです。涅槃寂静と言えるような色即是空、五蘊皆空と言えるような考えを持って頂きたいのです。
 生きているうちに死んでしまう世界から抜け出して、死なない世界、神の国に入って頂きたいのです。目の黒いうちならできるに決まっているのです。
 自分が生きているという錯覚を捨てさえすれば、本当の命に目覚めることができるでしょう。
 命の本質は精神です。精神がエネルギーを支配しているのです。このことをご承知頂きたいのです。

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