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                悪魔の反逆(2)
 
 聖書の一番難しい点は、第一創造(現在の天地創造)の本質が分からないことです。天使長の反逆によって、宇宙に矛盾が発生した。これが具体的にどういうことを意味するのかという問題が、現在の人間に一番分からない点です。
 魂が現世に出てきました。そして、理性と良心を持った人間という奇妙な生き物がいる。黙示録第四章に記されている人格、性能、心理機能が、肉体を持ってこの地上に現われている。これは全く奇妙な現象です。
 人間は現世に生きている状態が、当たり前だと思っている。現世に生きている人間から考えると、人間が現世にいることが当たり前だと思えるのです。
 例えば、商売人が商売をしていることが当たり前だと思っている。これは今日という時点で商売をしているだけであって、一ヶ月先、一年先に、何かの事情で商売をやめなければいけない事情があるかもしれないのです。
 三年先も、五年先も商売人であるとすれば、自分が商売人であることが当たり前と言えるかもしれません。商売人が自分だと思っているでしょう。ところが、商売人であることがその人自身であるのではなくて、その時、その時点において、そのような事情境遇に置かれているだけなのです。
 天使長が反逆したのです。これは大変なことです。現世に生きている人間をそのまま承認している状態では、天使長の反逆がどういうことかさっぱり分からないのです。
 肉体的に生きているのが自分だと思っている。従って、人間が生きていることの不思議さが全く分からないのです。そういう無知蒙昧の状態で生きている。神を知りながら神として崇めていない。また、感謝もしていない。だから、心が暗くなっているとパウロが言っているのです。
 神を知りながら神として崇めていないとはどういうことか。神は宇宙存在の本源そのものであり、すべてのものの上にいますお方で、すべてのものを貫いて、すべてのものの内にいますのが神です。
 現在色々な形において存在と言えるもの、Be動詞的に存在と言えるものが神です。Be動詞というのは、私たちが現世に生きていることの最も平凡な、最もありふれた一般的なことです。
 このありふれた一般的、普遍的な、当たり前のことが神だというのですから、分からないのが当たり前だと言えるでしょう。
 人間の概念から言えば、神という言葉それ自体が、非常に特別な特定の別格の存在に思えるのです。つまり、衣冠束帯の神という考え方、ある超人格、絶対的なものということになるのです。従って、そこらに転がっているようなものだとは思えないのです。
 当たり前のこと、普遍的なこと、最も平凡なことが神だという着想は、人間自身としてはとてもあり得ないことになるのです。
 私たちは何となくこの世に生きています。太陽があるのが当たり前、地球と太陽の微妙な関係が保たれるのは当たり前と考えている。
 そして、自分が生きているというのは当たり前だと考えている。そういうことを当たり前だと考えている感覚では、その当たり前と思える事実が神だとは思えないのです。
 人間は、神というのは超特別の存在でなければならないと思っているのです。神というものは持ち味から言えば、すべての物の上にあり、すべてのものを貫いて、すべてのものの内にあるとなるのですが、これは特別のものと言えるのです。
 また同時に、神においてでなければ万物が存在しないということにもなるのです。
 神においてでなければ万物が存在しないということは、万物存在がそのまま神であると言えるのです。これは概念としては分かるとしても、実感的に、意識的に了得することが大変難しいのです。そこで、人間は神を知りながら、神として崇めないという心理状態になってしまうのです。
 人間はあまりにも神の真ん中にいすぎて、あまりにも神の目の前にいすぎるために、それが神だとは思えないのです。神の内にいすぎるために、神が分からないのです。
 そういう感覚で見ていますから、すべてのものが存在するのが当たり前だと思っている。当たり前だと思っている俗念、常識で考えますと、天使長が反逆したことが分からない。なぜ聖書にそう書いてあるのか分からないのです。
 エゼキエル書などの預言を見ますと、悪魔の正体は天使長であったと記されています。現世の異邦人として神の約束に係わりのない、全く先祖代々神の御霊、神の約束による導きを受けていなかった民族の子孫として考えてみますと、天使長が反逆したことが何のことか全然分からないのです。
 ここの所を深く理解しなければ、神の福音の大原則がなかなか理解できないのです。
 この点を簡単に言いますと、現在このような現象世界が現われているということが、天使長の反逆を証拠だてる唯一無二の絶対的な証明になるのです。
 神は霊なるものです。霊なるものが肉なる形で現われるはずがないのです。現象的な形で現われるはずがないのです。
 現象的な形で現われている原理を言いますと、物理が働いて現象体ができています。物理的な原理が働いてそうなっているということは、そうしなければならない理由があったからです。神がそのように仕向けなければならない理由があったからそうなっているのです。
 神はすべてのものの上にある。上にあるというのは、霊なることを指しているのです。これは人間が考える物理的な意味での上とか下とは違います。霊であり天であるのが上です。
 神は霊なるものでありまして、天そのものです。これが肉として、地として現われなければならないはずがないのです。肉は地です。物は肉であり地です。神は天ですから、地として現われることはないのです。
 天使はいわゆる神の使いです。風となり、炎となすとありますように、風は動くことでもあり、力でもある。また、絶対性を意味することでもあるのです(ヘブル人への手紙1・7)。神の絶対性、動的な形が風として現われているのです。
 炎としての天使は、暖かさとか光として現われています。
 風的な面と、炎的な面の働きが天使です。天使は元来そういうものであって、これが物理として現われなければならないものではないのです。風は風です。炎は炎です。物ではありません。物理的に現われれば物になりますけれど、本来天使は霊なるものです。
 ところが、天使長は反逆によって、固定した感覚によって誇示しようと考えた。有形の世界が現われるべきだし、現われなければならないと考え出した。天使長がそういう思想を持ち出したのです。これがいわゆる天使長の反逆の内容です。
 神はそれをあえて止めようとしなかった。そうしたいのならそうしなさいと考えた。それが正当なのかどうかを見ることにしたのです。
 天使というのは、本来神の御心によらなければ働けないのです。天使が天使自身の心によって働くということは違法行為です。
 ルシファーという輝ける天使長が違法行為を始めた。そこで宇宙に矛盾が発生したのです。物理という霊なることが、肉なることとして現われる機縁が発生した。そのようなチャンスが到来したのです。これが天地創造の原理です。
 霊なる天使長が肉なる思いを持った。そこで、物理が物体となって現われる機縁となったのです。
 神はあえてそれに反対しようとはしなかった。物理が物体となること自体が間違っているのですが、それに神は反対しようとしなかったのです。
 物理は霊なるものですから、どこまでも霊であるべきなのですが、それが肉として現われることになった。もちろん神は全知全能ですから、それを抑えようと考えたら、押さえられたに決まっているのですが、神は押さえようとしなかった。
 天使のなすがままに任せておいて、神は神自らの御心に従って、「光あれ」と言われたのです(創世記1・3)。「光あれ」というのは、物理が物体となることはよろしいと言われたのです。ところが、物理が物体となることの原理が、光でなければならないのです。言(ことば)がなければならないのです。
 光は言です。命です。命である言が物体として現われるのならよろしい。しかし、言という法則によらなければならないと神が言われた。これには天使長も反抗のしようがなかったのです。
 天使の働きは法則によらなければ活動できないのです。闇の力、悪魔の力は、言の働きを用いなければ悪魔が悪魔たり得ないのです。物理が物になり得ないのです。
 物理が物になるためには、言のルールに従って働かなければならない。このことを悪魔は見落としていたのです。
 闇はそれを悟らなかったとあります。英訳では、the darkness apprehended it notとなっています(ヨハネによる福音書1・5)。闇はそれを理解できなかった、予知できなかった。意味を捉えることができなかったのです。
 言が神であることを悪魔は悟ることができなかった。物体は物であればいいと簡単に考えたのです。
 ところが、物理が物であることの根元がどこにあるのかと言いますと、言、命、光が働いて物理が物になるのです。神がこのような条件を付けられたことは当然です。
 宇宙には宇宙自体の大鉄則があります。霊なる大鉄則は神ご自身であって、これを破ることは絶対にできないのです。神は絶対ですから、絶対を破ることは天使長もできないのです。
 天使長は物理が物体となったことで満足していたのです。「わが事はなれり」と考えたのです。ところが、ここから天使長の滅びが始まっていたのです。
 物理が物になること自体が、神の言の働きを持たなければ実現しないのです。ところが、神の言は霊なるものですから、物理が物体となる必要はなかったのですが、神の御心によって悪魔の反逆を一時許して、一時的にそれを容認する形をお取りになった。それは、悪魔の考え方が根本から間違っていることを指摘するためだったのです。
 一時的に霊なるものが肉なるものとして現われることをお許しになったのですが、現われる道程の絶対原則として、言によらなければならないと設定されたのです。これがへブル人への手紙二章二節の「御使いたちをとおして語られた御言」ということです。
 神の言の働きによって物理が物体となった。これを聖書的な言い方をしますと、御使いたちをとおして語られたということになるのです。
 実は神が語っている御言が、現象世界になって現われているのです。しかし、現象体という事がらの持つ意味が肉なのです。
 現象体が生成発展していく原理は、霊です。霊なる原理に基づいて肉なる状態が生じているのです。
 このことを考えますと、御使いたちをとおして語られた第一創造というものは、本来的に神の御心によるものではなくて、天使長の反逆によるのです。それを現在の人間は、そのまま鵜呑みにして、あたかもこれが神の御心によって、現象世界が存在するものであるかのように思い込んでいるのです。
 神の御心によって神の言が働いていますけれど、霊なるものが肉なるものとして現われる根源的な原因は、天使長の反逆によるのです。
 神がこのような有形的な現象世界を、喜んでお造りになったのではないのです。神が万物を通して神の神たること、神性と永遠の力を通して現わしておいでになるのです。
 神の言によって万物が造られたのですから、神ご自身の力が万物を通して現われるのは当然ですが、万物をお造りになったこと自体が、神の喜びの御心から出たものではないのです。天使長の反逆によって、一時的にそのような状態をお許しになったのです。
 これが人間には全く分かっていない。だから、現象世界に生きているということが、あたかも上等なもののような気持ちになるのです。これがすばらしい神の大創造の内にいるように思っているのです。
 確かに現存する万物は、神の創造に決まっています。神が許したまわなければ、こんなものができるはずがないのです。しかし、有形的な現象は、脆弱な諸行無常と言えるような形でなければ存在し得ないものなのです。
 天使長の反逆という矛盾が宇宙に発生したことによって、物体が発生したのですから、物体が今存在している原理は、いわゆる弁証法的に存在しているのです。弁証法でなければ存在し得ないのです。
 宇宙に矛盾が発生して物ができた。従って、物があること自体が矛盾しているのです。矛盾においてでなければ物は存在しないのです。
 弁証法という矛盾性を基礎にしなければ、物が存在しない。矛盾を土台にしなけれ、物は発生し存在し得ないのです。
 物質が創造され、保存され、やがて完成されていくという方式は、そのまま弁証法ですが、弁証法の原理は哲学的に言えば矛盾そのものです。
 弁証法は矛盾そのものだということを考えても、現存する物質が天使長の反逆によってできたことが分かるのです。
 天使長の反逆という矛盾が発生しなければ、物が存在するはずがない。これがなかなか了得できないのです。
 人間が何のためにこの世界に遣わされたのかと言いますと、物質が存在することは悪魔の反逆によるものだということを見極めるためです。
 神は霊であって肉ではないということを確認して、肉的現象世界にありながら、霊に従いて歩むものとなるために、人間の魂が肉体をとってこの地上に遣わされたのです。
 人間が肉体をとってこの地上に遣わされたということはどういうことか。現象的な矛盾というコンディションをそのまま魂が持たされて、この矛盾を克服して矛盾でないもの、いわゆる神の当体に辿り着くことができるかということが、魂に与えられた重大な使命なのです。
 「肉の思いは死である。霊の思いは命と平安である」とパウロが言っています(ローマ人への手紙8・6)。私たちは現世において、霊の思いに追いつかなければならないのです。肉の思いを脱却して、これを脱皮して霊の思いに到りつく。それで自分自身を完成することができるのです。これ以外のどの方法を用いても、魂の完成は不可能です。
 私たちは神から出てきました。この世を去ってまた神に帰るのです。父から出てきた魂が、この世を去ってまた父の元に帰るのです。父の元に帰るには、父がどのようなお方であるかを正しく弁えなければならないのです。
 神が善であって喜ぶべき全きものであることを弁えるために、「心を更えて新にせよ」とパウロが言っているのですが、このことを実行して頂きたいのです。
 現世における肉体生活の矛盾を突き止めて神に帰るのです。現世において霊的に弁えるのです。これをしなければ父の元に帰ることはできません。父の元に帰ることができなければ、永遠に迷うしかないのです。
 父の外に放り出されることが、外の暗きに放り出されることになるのです。人間の魂は父の元に帰らなければ、暗きに行くしかないのです。
 宇宙の大法則は、神の言による大法則、約束に基づく大法則ですが、それを弁えて神の約束、神の言の中にいるのでなかったら、神の言の外に放り出されてしまうのです。神の言の外に放り出されたら、必然的に裁きに繋がっていくのです。神から出てきたものが神を弁えない状態であるために、神に辱められることになるのです。
 人間は父ご自身の機能を与えられている。父に帰らないで、自分自身の中を彷徨っていれば、当然神の外に追い出されることになる。これが外の暗きです。外の暗きに放り出されて、永遠に悲しみ歯がみして、悔しがることになるのです。
 人間は本来神の子であるという十分な恵みを受けていながら、神の子であるという身分を正しく弁えないで、天使長によって生じた現象世界をそのまま鵜呑みにしていますと、天使長の反逆に同意した者と見なされる。そうして神から誅伐(ちゅうばつ)を受けることになるのです。辱めを受けることになる。これが霊魂の裁きです。
 これから逃れようと思えば、好んでも好まなくても、第一創造における矛盾性を自覚して、第二創造への神の処置をそのまま受け取ることをしなければならない。これがキリストの復活を信じるということになるのです。
 第一創造は御使いを通して語られた言によってできています。これでさえも、神の法則、時間、空間の法則を曲げることはできません。
 天使たちを通して語られた神の言でさえも、あらゆる罪とか不従順に対して正当な報いが加えられるのですから、ましてや、イエス・キリストを通して神が語った福音に対して聞き従わない者は、大きい刑罰を受けるのです。
 神は人間の魂をなぜこの世に遣わしたのか。人間という奇妙な生物がなぜこの地上に存在するのかということについて、神が直接示されたのです。
 天地万物は御使いを通して神が語られたのです。これは物質的現象を通して神が語ったという意味です。
 ところが福音はそうではない。福音は神の御子なる一人子が、神の一人子自らがこの世に肉体をとって来たりたもうて、ご自身の口によって語られたのです。「この救いは初め主によって語られたものであって、聞いた人から私たちに証されたものである」とあるとおりです(へブル人への手紙2・3)。
 神は天地創造の原理をアブラハム、モーセに示された。エノクやアベルにも黙示されたのです。そして預言者たちを通して語られたのです。
 イエスは神の預言に従って、この地上においでになったのです。肉体を持っている神として、一人子の栄光を現わされたのです。
 恵みと誠がイエスによって現われた。恵みと誠が神の福音の実体ですが、これは万物を通して、物によって語られたようなものではないのです。
 物によって語られているのは、人間が肉体を持ってこの地上にいるということについて語られているのです。ところが、主イエス・キリストによって語られたことは、人間がこの地上に住んでいることについて語られたことではないのです。人間の魂の本源、本来あるべき状態、神の国または神の計画に従って、新天新地が現われるべきことを語られた。神の国の奥義を語られたのです。
 御使いたちを通して語られたことは、現世の生活における基本を語られたのです。ところがイエス・キリストを通して語られたことは、神ご自身の永遠の経綸、永遠の計画に従って、神の約束の大精神を語られたのです。
 現象世界はやがて消えてしまう。そうして、霊なる神の国が現われる。これをイエス・キリストがお示しになったのです。
 人間の魂が現世において、神の福音、神の約束に着眼して、イエス・キリストによりて語られた事実を人の魂が了得する時に、人間の魂自身が神の計画を受け入れることができるのです。
 イエス・キリストは自らそれを信じておられたし、また、イエス・キリストの信仰が神によりて承認されたのです。そのしるしが復活です。
 イエス・キリストの復活によって、神の勝利が決定した。神が完成されたのです。神が完成されたという事実を聖書によって知り、現実の人間歴史の底を流れている神の約束の成就によって、これを悟ることができるのです。
 今や神の約束は成就しています。これが二○一六年という年号によって現われていますし、日曜聖日を守るというあり方になって現われているのです。
 このような事がらが福音という大原則であって、復活という観点から考えますと、現象世界は一つの物語にすぎないのです。現象世界は実体ではないのです。現象は真実ではないのです。
 現象世界はどうしてできたのか。天使長の反逆によって、神はこのような世界を現わさなければならなかったのです。一時的にこのような世界が現われていますが、神の言の働きによって現われているだけであって、物体が実体的に存在するのではないのです。
 私たちは幻の世界に、幻の命を与えられているのです。幻の世界において神の永遠性、神の神たることが、御子キリストによりて語られたのです。
 主イエス・キリストこそ、救い主であり、命であり、誠であって、イエスは血と水と御霊によって来たのです。血は万物の命の代表であり、水は地球の代表という意味です。
 私たちも血と水と御霊によって生かされているのです。イエス・キリストと同じ過程を生かされているのであって、神の御子の証がそのまま私たち自身の証として与えられるのです。
 現世はどこまでも幻の世界であることを確認しなければならないのです。このことを確認する時に初めて、神の御心に従って父を見ることができる。従って、父の元に帰ることができるのです。これがイエス・キリストによって示されたのです。
 
9.静電状態と受電状態
 
 皆様にお願いしたいことは、宗教観念的な考えから去ってしまって頂きたいということです。
 仏典に帰命無量寿如来という言葉がありますが、帰命というのは非常に良い言葉です。これを考えて頂きたいのです。
 聖書の奥義は帰命することです。元々人間は地のちりであるものが、形を与えられて鼻から命の息を吹き込まれたのです。そして生けるものになったのです。
 人間の霊魂の原形はリビングソール(living soul)でした。リビングソールであったものが死んでしまったのです。善悪を知る木の実を食べたことによって、死んでしまった。
 死んでしまったものが元の所に帰るのです。これが帰命です。ところがキリスト教ではどうして帰ったらいいのか分からないのです。
 現在の人間と神の命との関係が、キリスト教では分からないのです。命を失ったということが分からない。そうして、現在の人間が完全に死んでしまっているということが、キリスト教では絶対に分からないのです。
 キリスト教の人々は、現在の人間が神を信じる力を持っていると思っているのです。これは大間違いです。
 現在の皆様の状態では神を信じる力はありません。御霊の助けによらなければ神を信じることはできないのです。ところがキリスト教の人々は神を信じることができると考えているのです。これは大間違いです。
 御霊の助けとはどういうことなのか、全く分かっていないのです。現在の皆様は神から切り離されているのです。現世に生きているということは、はっきり死んでいるということです。現世に生きている人間が、神を信じにくいとか、信じられないとか、聖書が分からないというのは当たり前のことです。死んでいるのですから、分かるはずがないのです。
 死んでいる人間が、生きている人間のいうことを聞いて分かりにくいというのは当たり前のことです。
 新約聖書の中で、ニコデモがイエスに「先生、私たちはあなたが神から来られた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、誰にもできません」と言っています(ヨハネによる福音書3・2)。ニコデモは自分でそう言いながら、何を言っているのか分からないのです。
 キリスト教の人々はイエス・キリストが主であると言っていますが、イエス・キリストが主であるとはどういうことなのか全く知らないのです。これは困ったことです。ニコデモと同じことをしているからです。
 イエスが「誰でも新しく生まれなければ、神の国を見ることができない」と言ったら、ニコデモは「人は年をとってから生まれることがどうしてできますか。もう一度母の胎内に入って生まれることができましょうか」と答えたのです(ヨハネによる福音書3・3~5)。
 ニコデモの考え方は、今のキリスト教の人々と同じです。とにかく現実の人間は自分の霊的状態が分からないのです。はっきり言いますと、皆様も自分の霊的状態を知らないのです。
 皆様にはこういう勉強会に出ているという意味が分からないのです。皆様は自分が出ていると思っているでしょう。ところが、自分が出ているのではないのです。神の御霊によって出させられているのです。
 皆様は自分で出席していると思っているでしょう。そういう考え方から改めて頂きたいのです。神の御霊によって出させられているのです。こういうことを根本から改めないと、聖書の真理を何回聞いても本当に納得はできないのです。
 皆様の現在の命は死んでいく命です。死ぬに決まっている命です。
 命は口偏に令によってなっているのです。口は人口の口です。令というのは、天と地とによって、目に見える世界と目に見えない世界との区別がされている。霊なる世界と肉なる世界との区別がされているのです。
 「初めに神は天と地とを創造された」と創世記の一章一節にありますが、これが令です。天と地があることを絶対条件にして人間は生きているのです。
 皆様は地上で有意識的な状態で生きていますが、無意識的な状態で罪を犯したから、今度は有意識的な状態で罪を罪と思うかどうかを神が見ているのです。最終的なテストを皆様にしているのです。
 こういう勉強会に皆様が出席しているということは、皆様の力量ではないのです。神が皆様にそのように仕向けているのです。神の御霊に栄光を帰するかどうかによって、皆様の運命が決定するのです。
 皆様は現在生きていますけれど、実は皆様が生きているのではないのです。これは電気で言いますと、静電状態です。荷電状態と言ってもいいかもしれません。
 静電状態はじっとしているのです。皆様の体の中は電気でいっぱいですが、じっとしているのです。ところが、宇宙全体は電気でいっぱいです。この宇宙電気に帰依するかどうか、帰命するかどうかが問題です。
 宇宙の電気に帰命すると、宇宙の電気と皆様の命が一つになってしまうのです。イエスの状態は宇宙の電気の受電状態だったのです。ところが、皆様は受電状態にはありませんから、命の花が咲いていないのです。
 命の花を咲かすためには、御霊の助けが絶対必要です。御霊の媒介なしに受電状態にはならないのです。宇宙の電気の受電状態になりますと、宇宙の電気の中へ入って行けるのです。そうすると、死ななくなるのです。イエスがそれを証明して見せたのです。皆様にもそれをして頂きたいのです。
 宗教を信じている人々は自分がいると思っています。自分が信じたら救われると思っているのです。こういう考えを捨ててしまわなければ絶対にだめです。
 イエスは「私に来なさい」と言っています。私の所に来なさいと言っているのです。これは自分がイエスを信じるのではないのです。イエスの中へ皆様が入ってしまうのです。
 皆様が私に質問されるその気持ちが間違っているのです。自分が生きていると思って質問しているからです。自分が生きているのではない。死んでいるのです。その意識状態を全部棚に上げて、黙って聖書を信じるのです。黙ってイエスが主であることを信じるのです。これをして頂きたいのです。
 男の人はハートが分かっていないのです。ハートで神を信じるということが分かっていないのです。現在の皆様の状態は、マインドで聖書を勉強しているのです。
 
 「自分の心で、神が死人の中からイエスを甦らせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われる」とあるのです(ローマ人への手紙10・9、10)。
 
 心に信じて義とされるというのは、ハートで信じて義とされるという意味です。これは今のキリスト教では絶対にできないのです。心で信じているキリスト教の信者は一人もいないのです。
 ハートで信じるとはどうすることか。これが難しいのです。もっともっと幼児になって頂きたいのです。
 皆様はこの世に生まれた時に死んでいるのです。これは創世記の第三章、二十二、二十三節を読んだら分かるのです。神は人間を捨てたのです。人間を捨てたからエデンから追い出したのです。
 人間は悪魔のようになって善意の木の実を食べた。そして命の木の実を食べているようなことを言っているのです。キリスト教の人々がこれをしているのです。
 善悪利害得失邪正を知った気持ちで、キリストの救いを考えようとするでしょう。だから、エデンから追い出したのです。
 キリスト教の人々は、自分が救われたいと考えて聖書の勉強をしているのです。これが何よりも悪いのです。創世記第三章の大鉄則に反するからです。
 キリスト教の根本的な間違いはここにあるのです。自分が救われたいと考える。これが間違っているのです。「自分が救われたいと思う者は、必ずその霊魂を失う」とイエスは何回も言っているのです(マタイによる福音書16・24~26、同10・34~39、ルカによる福音書9・23~25)。
 まず自分が救われたいと思うことをやめるのです。現在の人間は静電状態です。死んでしまっている状態です。この状態から抜け出して宇宙の大電気の中へ入るのです。入りたいと考えるのです。
 宇宙には命が流れているのです。電気が流れているのです。この状態の中に入るのです。
 「花が咲いている世界へ入れ」というのは、これを言っているのです。花が咲いているということがキリストの言葉です。この中へ入って行くのです。
 そのためにはまず現在生きている自分を捨てることです。自分という意識を持ったままで聖書を勉強することが間違っているのです。
 日本は極東にあります。日本人は東の果ての民族で、世界で一番出来が悪い民族です。国体は世界で一番良いのですが、人柄が一番悪いのです。
 日本人という人柄では、まともに聖書を信じることができないのです。いらいらして金儲けのことだけを考えているのです。
 皆様がこの世に生まれたということが、死んでいるということです。日本人は死ぬために生まれてきたのであって、生きるために生まれてきたのではないのです。「武士道とは死ぬこととみつけたり」と言います。今の日本人は地獄へ行くために生まれてきたのです。これが今の日本人の運命です。救われたいと思うのはもってのほかです。こういうことを冷静に考えることが必要です。そうすると、御霊の助けを受けることができるのです。
 御霊の助けがなければ、静電状態から受電状態になることはできないのです。
 創世記の二章、三章は、五章、六章以下とは全然違う内容です。四章は譬話みたいなものです。カインの物語とレメクの物語は何を意味するかです。
 地球構造とはどういうものか。これが明らかにされたことが今まで全くないのです。欧米社会、キリスト教社会において、創世記の二章以下の意味がほとんど分かっていないのです。虹の契約という意味が全然分かっていないのです。
 創世記の一章から十二章までの状態は、全く白紙のような状態になっているのです。キリスト教の人々はほとんど読んでいないのです。
 創世記の一章は多分、預言者のネヘミヤが書いたのではないかと思われるのです。トーラーと言われるモーセの五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)はモーセが書いたでしょう。そこには、現在の創世記の一章がなかったのです。創世記一章一節から二章四節までを抜きにしたのが、モーセが書いた創世記です。ユダヤ人はそういう見方をしていたのです。
 だから、現在の創世記の一章、二章、三章の全体を通観して考えるということがなかったのです。私たちが初めてしているのです。
 創世記の一章が書かれたのはネヘミヤの時代ですから、ユダヤ教の信仰はモーセのトーラーを基礎にしていますので、創世記の一章を知らない信仰になるのです。
 私たちは世界で初めて創世記一章から三章までを本格的に勉強しているのです。だから、マインドで聞かず、ハートで聞いて頂きたいのです。
 大学や教会で勉強している人は、マインドで勉強しているのです。ハートでは全然勉強していないのです。だから、皆様はハートで見るということができないのです。これをよく考えて頂きたいのです。
 日本の仏教で言いますと、親鸞は相当真面目な人でした。親鸞は人間の救いがなければならないと考えたのでしょう。ところが、親鸞の時代の日本には聖書がなかったのです。だから、抽象的な概念で色々考えたということになるのです。
 自分自身の持ち前の中に、救われなければならないものがあることを直感的に感じたのです。ところが、それがどうしても分からない。分からないから悩んだのです。そうして、彼は宗教から出てしまったのです。自分が興した浄土真宗さえも捨ててしまったのです。だから、彼の晩年は仏教者であったのかなかったのか分からないのです。
 こういう親鸞は尊敬に値する人だとは思います。宗教を捨てた親鸞が本当の親鸞と言えると思います。しかし、宗教を捨てた親鸞に何か分かっていたのか、神が分かっていたのかと言いますと、分かっていなかったのです。御霊の導きのようなものを求めたのでしょうけれど、それは与えられなかったのです。
 御霊の導きを求める縁を、彼は持っていなかったのです。現在の皆様のように、御霊の導きを求める手ずるがなかったのです。だから、御霊の導きを得ることができなかったのです。
 皆様は生きているという事実をもっともっと見つめて頂きたいのです。現世に生きている人間は死なねばならないものだということを、熱烈に考えることです。これをはっきり考えることです。
 今の皆様の命は死ぬに決まっている命ですから、この命を捨てるのです。生きているうちに死ぬに決まっている命を捨ててしまうのです。そうしたら死ななくなるのです。
 今の命を握り込んでいると、そのうちに火の池へ放り込まれることになるのです。この点をよく考えて、できるだけ早く死ぬべき命を捨ててしまうのです。自分を捨てて、十字架を負うということをして頂きたいのです。
 自分をどうしたら捨てることができるのか。自分を理解したくらいでは捨てられないのです。親鸞は罪人である自分を理解したでしょう。だから、自分をいかなる行も及び難き身であると言っているのです。地獄一定の身であると言っているのです。救われようがない自分であるとはっきり言っているのです。
 皆様も親鸞と同じように、救われようがない自分を知って頂きたいのです。この点は親鸞は偉いと思います。自分を地獄一定の身であるとはっきり言っているからです。
 今のキリスト教の人々は、自分自身を地獄一定の身であるとは考えていません。今のキリスト教の一番悪い所は、神学校制度を作ったことです。これを作ったら腐るに決まっているのです。
 神学校を卒業した者が牧師になっているのです。これが非常に悪いのです。神学校は聖書の信仰を教えているのではない。信仰に関する教条を教えているのです。信仰を教えているのではないのです。信仰に関する教義を教えているのが神学校です。
 賀川豊彦氏は日本だけでなく世界的に有名なキリスト教伝道者ですが、彼はキリスト教の神学ばかりを説いていたのです。聖書の福音を全然説いていないのです。
 賀川豊彦氏はキリスト教の教条の伝道者であって、聖書の伝道者ではないのです。この人が本当に聖霊を崇めていたら、もう少し正しいことが分かったのかもしれません。青山学院という神学校が、こういう妙な人間を造ってしまったのです。
 神学校を卒業すると皆そうなってしまうのです。神学校が中心になってキリスト教の集団ができているのです。教条を教えるのが神学校の目的であって、神学校を卒業した人が牧師になるのです。だから、キリスト教は教義を習ったり教えたりする集団になっているのです。
 本当の教会は信仰のグループでなければいけないのです。ところが、今のキリスト教は教条、教義を信じるグループになってしまっている。これがいけないのです。これは根本的に間違っているのです。
 教義と信仰は全然違います。イエスが最も嫌ったのは教義です。今のキリスト教は教義ばかりを説いているのです。
 イエスの奇跡は何であったのか。なぜ水をぶどう酒に変えて見せたのか。イエスの信仰はどういうものだったのか。私たちはイエスと同じ信仰を持てるのか、持てないのか。
 皆様はナザレのイエスと同じ信仰でなかったらだめです。私に来なさいとイエスが言っているのは、イエスの中に住み込んでしまうことを言っているのです。今のキリスト教はイエスが全然分かっていない。イエスの中に住み込むということを全然考えていないのです。だからだめです。
 皆様は自分という人格を持ったままでキリストを掴まえようとしてもだめです。自分の人格を捨ててしまって、空っぽになってしまって、イエスの中へ入ってしまうのです。
 イエスが私に来なさいと言っているのは、イエスにアバイド(abide)してしまいなさいと言っているのです。イエスの中に入ってしまうのです。これが分からなければ、イエスの十字架は働かないのです。
 イエスは、「自分を捨て、自分の十字架を負うて私に従ってきなさい」と言っています(マタイによる福音書16・24)。これは基本的なことです。こういう内容がキリスト教の神学にはありません。
 自分を捨てなさいと言ったら、皆来なくなるからです。死んでしまうに決まっている自分を早く脱ぎ捨てるのです。罪人である自分を持ったままで、イエスを掴まえようとしてもだめです。
 自分を捨てて、自分の十字架を負えと言っているのですから、これを実行して頂きたいのです。
 自分が生きていたらだめです。生きているうちに自分を捨てるのです。そうしたら救われるのです。親鸞は地獄一定の自分をどうして捨てたらいいのか分からなかったのです。皆様は分かります。十字架を負ったらいいのです。何でもないことです。簡単です。
 自分の十字架を負うというのは、罪人である自分が死んでしまうことです。これを実行するのです。そうすると死ぬべき自分がなくなってしまうのです。死ぬべき自分が消えてしまうのです。
 死ぬべき自分が消えてしまっても心臓は動いています。これが死なない命です。
 皆様は自分が生きていると思っていますが、これは考え違いであって、今生きているのは自分ではないのです。生きている真髄はイエスと同じものです。
 皆様という人間が生きているのではない。霊魂が生きているのです。目が見えること、耳が聞こえるのは霊魂です。霊魂が生きているのです。
 五官の働きが生きている。これが霊魂です。自分が生きているのではないのです。霊魂の働きが見ているのです。聞いているのです。霊魂の働きが話をしているのです。
 仕事をしたり、話をしているのは霊魂の働きです。霊魂の働きの実体がナザレのイエスと同じ命です。固有名詞の自分はどこにもいないのです。これをよく考えて頂きたいのです。
 自分の思いを捨てるのです。自分を捨て、自分の十字架を負うて私に従って来なさいとイエスが言っているのです。
 五官の働きが皆様の実物です。五官の働きを掴まえたらいいのです。これが霊魂で、これがイエスなのです。だから、イエスは「私に来なさい」と言っているのです。
 固有名詞と霊魂は別人です。霊魂はイエスと同じです。人の子です。固有名詞の人間は死ぬに決まっているのです。イエスと同じ霊魂は絶対に死なないのです。
 固有名詞の自分は本体ではありません。私の本体はザ・リビングです。これを私と考えているのです。ザ・リビングはイエスと同じものであるのです。だから、私とイエスは同じ人間だということがよく分かってくるのです。
 ここまで分かりますと、死ぬべき自分がなくなってしまうのです。これをイエスを信じるというのです。
 自分を捨て、自分の十字架を負うというのはマインドではできません。ハートならできるのです。
 見ているのは固有名詞の人間ではありません。生まれながらの本性、先天的な本性が見ているのです。先天的というのは生まれる前の自分です。固有名詞がつけられる前の自分です。これが見ているのです。これがイエスです。イエスを信じるとはこれを信じることです。
 皆様は罪人であることをまずよく知ることです。死んでしまっている者であることをよく知ることです。そうすると、現世に生まれた自分が消えてしまうのです。
 現世に生まれた自分が消えてしまわなければ、本当の自分を知ることはできないのです。ここの所をよく考えて頂きたいのです。
 輪廻転生を盛んに宣伝している宗教がありますが、これが最も悪い宗教観念です。輪廻転生を信じますと、真面目に聖書の勉強ができません。経典の勉強でも真面目にできなくなるのです。
 永劫回帰という言葉がありますが、これは聖書全体のすばらしいスケールを現わしているのです。宇宙全体は回帰しながら上っていくのです。回帰しながら永遠に進化発展していくのです。
 これは転生とは全然違います。転生を絶対に信じてはいけないのです。すべてのものは神から出て神に帰る。これが永劫回帰です。これは輪廻転生とは全然違うものです。
 
 聖書に次のようにあります。
 「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまことをもって礼拝すべきである」(ヨハネによる福音書4・24)。
 
 神を誠に礼拝することができたら、その信仰はまともな信仰です。もし皆様が神を誠に礼拝していたら、それでいいのです。
 霊と誠をもって神を拝するということは、キリスト教では全く分からないのです。キリスト教には誠の礼拝がないのです。全世界のキリスト教が分からないのです。
 キリスト教が間違っているというのは、キリスト教には誠の神の霊拝がないからです。霊と誠が分かっていないのです。
 イエスは「霊と誠をもって神を拝せよ」と、何でもないことのように言っていますけれども、これは簡単に分かることではないのです。霊で神を拝するとはどういうことなのか。
 神は霊であるということは何とか分かるでしょう。霊なる神とはどういう神なのか。例えば、今ここに神がおいでになるに決まっていますけれど、どこにどうしておいでになるのか。この説明がキリスト教ではできないのです。
 キリスト教の人々は、神がどこにどうしておいでになるか、さっぱり分からないのです。無礼千万な礼拝をしているのです。
 神がいますことが分からないのです。「ある」ということが神です。モーセが神に、あなたの名前(実体)は何ですかと聞いたら、神は「わたしは有って在る者」と答えたのです(出エジプト記3・14)。これがユダヤ教もキリスト教も分からないのです。
 聖書学者、神学者はヘブライ語の原典を引っ張り出して色々説明をするのです。しかし、霊的に、また、具体的には、有って在る者とはどういうことかの本当の意味が分からないのです。霊的に、魂的に正しく理解している人が全世界的にいないのです。
 私は神によってこれを教えられたのです。神が私の味方であることがはっきり分かるのです。従って、私は神の代理者としての役目を与えられているのです。神が私に神の名前を教えることを許しているのです。
 宗教は間違っている。全世界のキリスト教は間違っていると大それたことを堂々と言っていますが、神がそれを許しているからです。
 「ある」ということが神です。人間の命があること、肉体があること、地球があること、皆様の目が見えること、手が動くこと、万物があること、大自然があることが、神です。
 神というのは電気の本家です。電気の本家である神が、人間を荷電状態にしているのです。それで人間は生きているのです。生きているということは荷電されていることです。
 人間の生活は、考えることから、食べること、仕事をすることまで、肉体的にも心理的にもすべて電気の働きです。これが神です。
 宇宙構造は大きい電気です。人間は小さい電気です。大きい電気と小さい電気があるのです。大きい電気と小さい電気を一つにしてしまうと死ななくなるのです。この状態を、霊と誠をもって神を拝するというのです。
 まず皆様に必要なことは、肉の思いを捨てて霊の思いで見ることです。
 
 パウロは言っています。
 「肉の思いは死であるが、霊の思いは命と平安である」(ローマ人への手紙8・6)。
 
 肉の思いをやめて霊の思いを掴んで頂きたいのです。霊の思いを掴まえることになりますと、固有名詞の自分という人間がいないことがよく分かってくるのです。
 肉の思いとは何か。目に見えている地球はあるのではないということです。目で見ている家とか人間があるのではないのです。
 目で見ているものは実体ではないのです。般若心経で五蘊皆空と言っていますように、目で見ているものは実在ではないのです。これは聖書の肉の思いは死であるということと同じ言い方をしているのです。
 こういう本質的な土台の勉強をして頂きたいのです。神学の勉強をするのではなくて信仰をして頂きたいのです。神学の勉強は何年しても、何十年してもだめです。キリスト教の勉強を何十年してもだめという意味はこういう理由からです。
 神学ではなくて信仰が必要です。そのためには肉の思いを捨てて、霊の思いに立つのです。これをして頂きたいのです。
 霊の思いを持つにはどうしたらいいのかと言いますと、生きているということ、リビングの直感がいるのです。
 花を見てきれいだと思う直感の内容です。これが霊の思いです。人がいると思う直感です。
 これは一日や二日の説明で分かるものではありません。これは肉の思いを捨てて霊の思いに移ろうと考え続けて、御霊の導きを求め求めていれば、御霊が必ず助けてくださるのです。
 地球の働きがあるのではない。御霊の働きが地球の働きのように見えているのです。物理的な地球の働きがあるのではないのです。御霊の働きがあるだけです。
 電気の働きが地球の働きになっている。電気というのは不思議なものです。これが御霊の働きです。マイト(might)という力があります。
 パワー(power)というのは物理的な力を指していますが、マイトというのは霊理的な力です。宇宙には霊理的な力と物理的な力の二つが働いているのです。
 パワーというのは物理的なもので肉なるものです。これは質的にはマイナスの力です。マイトはプラスの力です。宇宙にはプラスの力とマイナスの力があるのですが、これが電気の根源になっているのです。これを人間はエネルギーと言っているのです。こういうことが霊です。
 プラスの力のリーダーシップをとっているのが御霊です。神が霊であるということの中には、絶対的な宇宙構造が入っているのです。
 固有名詞の自分がいる。肉体人間がいると思えるのは、肉の思いで見ているからです。本当は肉の自分はいないのです。これが分かりますと、霊なる思いで神を拝することができるようになるのです。
 霊なる思いで霊なる神を拝するのです。これをして頂きたいのです。「霊の思いは命であり、平安である」とパウロが言っています。霊の思いを持つように勉強して頂きたいのです。
 これはキリスト教ではできません。キリスト教の人々は、自分が救われたいとか、人間が聖書を解釈しようとしていますが、これは根本から間違っているのです。聖書を解釈するのは神の御霊であって、人間が解釈してはいけないのです。
 聖書の言葉は一つひとつ霊解すべきものです。神は霊ですから、これを拝する者も霊と誠をもって拝すべきです。これをきちんと霊解しなければいけないのです。
 キリスト教の人々は聖書の言葉を霊解していません。だからいくら聖書を読んでも言葉の命を捉えることができないのです。
 人間は罪人として生まれてきたのです。生まれた時から罪人なのです。自分が救われたいとか、自分を立てようとすることは、悪魔を立てようとしているのと同じ意味になるのです。
 
 イエスがユダヤ人に向かって言っています。「あなたがたは、自分の父、すなわち悪魔から出てきた者であり、その父の欲望どおりを行おうと思っている」(ヨハネによる福音書8・44)。
 
 自分の意見を述べているのは肉の思いをそのまま述べているのであって、これは嘘という本音を吐いているのです。悪魔の嘘という本音を吐いているのです。
 皆様が意見を述べているのは、実は皆様の意見ではなくて、皆様を動かしているものの意見なのです。イエスはそう見ていたのです。
 皆様の背後には悪魔がついているのです。自分の意見を述べているつもりでも悪魔の意見を述べているのです。悪魔の意見を代弁しているのです。すべての人間は悪魔の子なのです。
 今生きている人間は死ぬに決まっている人間です。死ぬに決まっている人間であることをやめて頂きたいのです。皆様の魂は死なないものです。
 命の息を吹き込まれて魂になったのが人です。だから、皆様の魂は神から吹き込まれた命の息であって、死ぬことができないのです。
 人間である皆様は、八十年か九十年で死んでしまいます。死んでしまうに決まっている人間としての自分と、死ぬことができない魂の自分と、二重人格になっているのです。どちらを自分と見るかということです。これをまず考えて頂きたいのです。
 死ぬのが自分だと考えるのなら、聖書の勉強をする必要はありません。死なないのが自分だと考えるのなら、一緒に聖書の勉強をして下さい。
 自分を捨てよう捨てようとしても、どうしても捨てられない人は、一緒に聖書を勉強したらいいと思います。自分を捨てるために意見を述べている人は、長足の進歩を遂げることができるでしょう。私たちは魂が進歩するための勉強をしたいと思っているのです。
 
10.敗者復活戦
 
 人間は前世で、神が食べてはいけない、食べたら必ず死ぬと言われた善悪を知る木の実を食べて死んでしまった。死んだので、現世に追放されたのです。死んだ者が仮に生きているという状態で生かされているのです。これは敗者復活戦と同じ意味になるのです。
 キリスト教を初めとして、あらゆる宗教はこれが分からないのです。仏教も分からないのです。ただ釈尊だけがこれを知っていたのです。
 釈尊は現世に生きている状態のままで、自分自身が敗者であることを認識したのです。これが釈尊の特色です。これが空です。
 釈尊は自分自身を空じたのです。空じたというのは敗けたことを認識したことを指すのです。ところが、釈尊以外の人間は、例えば天理教の教祖であろうと、PL教団の教祖であろうとマホメットであろうと皆間違えているのです。
 宗教の教祖で間違っていないのは釈尊だけです。釈尊以外の人は全部間違えているのです。
 イエスは天から下ってきたと、初めから言っているのです。私は上から生まれた、おまえたちは下から生まれたのだと言っているのです。私とおまえたちとは出生が違うとはっきり言っているのです。
 イエスの場合は別格です。釈尊のように下から生まれた人間は、一度自分が敗けたことをはっきり認識するのでなかったら、イエスを信じることはできないのです。
 皆様は敗者復活戦に臨んでいるのです。敗者であることを皆様は認めるのでしょうか。認めないでしょう。まずこれが第一です。
 自分を立てようとか、自分自身の言い分を立てようとか、自分自身の自尊心を立てようという人はだめです。人間の言い分は一切だめです。
 皆様は敗者です。敗者復活戦に臨んでいるのであって、敗者であることを認める人だけが、聖書を勉強することを許されるのです。神の前に出ることを許されるのです。
 皆様は敗者復活戦のメンバーです。現世に生まれてくる前に敗けたのです。敗けたので現世に追放されたのです。そして、今勉強しているのです。釈尊はこれがはっきり分かったのです。一見明星というのはこれを意味しているのです。
 釈尊は明けの明星を見た時に、彼自身が敗けていることを発見したのです。これはすばらしい達観でした。明けの明星を見て、新しい世界がやがて現われること、義の太陽が現われることを直感したのです。
 新しい世界が現われるとしたら、古い世界に生まれてきて古い命を持って生きている自分自身は、全く空だということを認識したのです。釈尊は敗けたことをはっきり認めたのです。自分はだめだということをはっきり認識したのです。これが釈尊の哲学です。般若心経はこれを述べているのです。
 釈尊は自分自身が五蘊皆空であることをはっきり認識したのです。観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空とはっきり言っているのです。
 エデンの園におけるアダムとエバは、皆様が生まれる前の純粋な霊の時代のことを示しているのです。皆様は今肉体的に生きています。アダムとエバの時と、今の皆様は同じ状態ではありませんが、生まれる前に皆様は敗けたのです。単一人格の時に敗けたのです。そこで複数人格になって生きているのです。
 大体、複数人格はあり得ないのです。あってもしょうがないのです。こういうことがキリスト教では全然分かっていないのです。人間存在の実体が分かっていないのです。
 これはキリスト教だけの罪ではありません。文明が悪いのです。文明が複数人格があると思っているのです。個々の人間、固有名詞の人間が存在していると考えているのです。これを肉の思いというのです。
 自分がいると考えているのです。自分がいて何になるのでしょうか。ただ死ぬだけのことです。自分が生活していてもただ死ぬだけです。何にも意味がないのです。まずこういうことをよくご承知頂きたいのです。
 釈尊はこれが分かったのです。イエスはこのことを初めから知っていたのです。釈尊とイエスだけが本当のことを知っていたのです。自分はいないのです。こういうことが、長年聖書の勉強をしている人でもなかなか分からないのです。
 まず自分がいないということをしっかり覚えておいて頂きたいのです。人間は敗者です。だから、理屈をがたがたという資格はないのです。私が黙って聞きなさいというのはそういう理由からです。
 イエスは「汝ら悔い改めて福音を信ぜよ」と言っているのです。ところが、キリスト教とユダヤ教は悔い改めないのです。人間として福音を信じようと考えているのです。ユダヤ教が悪い習慣をキリスト教に教えたのです。
 固有名詞の人間がキリスト教を信じようと思っている。固有名詞の人間が神を信じる資格があると思っているのです。これは大間違いです。
 
 イエスは言っています。
 「自分の命を得ている者はそれを失い、私のために自分の命を失っている者は、それを得るであろう」(マタイによる福音書10・39)。
 
 イエスがこれと同じようなことを言っている箇所は他にもありますが、自分の命を得ているとは、自分の命を自分で見つけ出している者という意味です。自分の命があるということを自分で自覚しているという意味です。
 命というものは自分のものではないのです。命は自分のものだというように、勝手に見い出しているのです。エデンにおける陥罪というのはこのことを指しているのです。
 皆様は生まれる前に、総合人格という意味において命を見い出したのです。これはアダムがしたことです。アダムは総合人格であって、皆様と同じものだったのです。
 皆様は総合人格から分離されたものであって、皆様とアダムとは同じ人格なのです。皆様がアダムのことを知らないと言っても通らないのです。
 皆様の理性はアダムと全く同じものなのです。同じものが多くの数になっているだけです。数はいくら多くなっても本質は変わっていません。
 皆様の質的本体とアダム自身の質的本体とは同じものなのです。アダムが犯した罪は皆様自身の罪です。このことをよく承知する必要があるのです。
 日本人にはこれが分からないのです。異邦人は聖書を勉強するという習慣がついていないのです。特に日本人は悪い国民であって、先祖代々、シャーマニズムで生きてきたのです。霊媒主義の考えで、個々の人間が生きていると思い込んでいるのです。こういう日本人の人生観と世界観の悪さが染み込んでいて、個々の人間がいると思い込んでいるのです。これが異邦人の人生観です。
 だから、エデンの園のことは自分は知らない。アダムがいても自分には関係がないと思うのです。アダムはアダム、自分は自分で何の係わりもないと思うのです。だから、日本人は創世記のことが全然分からないのです。
 創世記の記事が自分のものとは思わない人は、絶対に救われないのです。
 もし皆様がアダムと自分が同じだと思えるとしたら、今私たちは敗者復活戦を戦っているのです。ここで敗けたら永遠に敗けるのです。
 私たちはアダムの尻拭いを完全にしなければならないのです。
 アダムは自分の命を見い出したのです。自分の命を見出したことが、隠し所を見い出したことになるのです。
 今の人間は皆隠し所を見い出しています。隠し所を見い出した感覚で生きているのです。こういう人は皆地獄へ行くのです。
 キリスト教の牧師は隠し所の説明をする人はいません。私は堂々と人々に隠し所の説明をしているのです。私は性の問題を分解して説明しているのです。
 パウロは「情欲は詐欺である」とはっきり言っているのです(エペソ人への手紙4・22)。日本語の聖書では情欲の迷いと訳していますが、こういう体裁が良い訳ではだめです。詐欺である情欲に、人間は引っかかってしまっているのです。
 情欲がなぜ詐欺なのか。これを徹底的に分解して考えなければいけないのです。皆様はもっともっと大人になって頂きたい。肉において大人にならないで、知恵において大人になって頂きたいのです。
 霊の知恵において大人になって頂きたい。そうしたら、般若波羅蜜多がよく分かるのです。まだ皆様は知恵においては子供みたいなものです。もっともっと上達して頂きたいのです。
 魂的にもっと大人になって頂きたいのです。そのためには、肉性の大人であることを捨てるのです。肉の常識を捨てるのです。そうすると、霊の大人になれるのです。
 肉の大人でありすぎることが、霊の大人になれない原因です。
 アダムが前世で自分の命を見い出したのです。これが陥罪という事件です。生まれる前に自分の命を見つけたのです。
 アダムは自分の命を見つけたので、隠し所を隠したのです。自分の命ではない命を見つけるのです。自分の命ではない公の命が見つかると、隠し所を隠す必要がなくなってしまうのです。これができないと本当の信仰は分からないのです。
 自分の命を見つけている者、自分の命があると思っている者、自分が生きていると思っている者は、必ずそれを失うのです。
 イエスのために自分の命を失っている者はそれを得るのです。イエスというのは総合人格です。
 日本国憲法に、「国民統合のシンボルは天皇である」とあります。天皇は国民統合のシンボルである。キリストは人間統合のシンボルです。この二つは非常によく似ているのです。日本の天皇位と、イエスがキリストにせられたということは、事がらは違いますけれど、質的には酷似しているのです。
 天皇制というのは、新約聖書の中心思想が非常に分かりやすいという、歴史的な伝統になるのです。だから、日本から新しい聖書の解釈が必ず生まれなければならないのです。
 日本から生まれる新しい聖書の解釈こそは、世界に本当の平和を来たらせるのです。イエス・キリストの再臨というすばらしい事実を日本から始めるのです。日本人の皆様はこういう責任を自覚して頂きたいのです。
 新しい文明の幕を日本が開くのです。
 総合人格としてのイエスのために、自分の個人的な命を見失っている者は、実は本当の命を持っているのです。マタイによる福音書の十章三十九節「自分の命を得ている者はそれを失い、私のために自分の命を失っている者は、それを得るであろう」は、金科玉条とも言えるすばらしい言葉ですから、よくよくご承知頂きたいと思います。
 自分自身を空じただけではだめであって、イエスが主であるという事実の中に入ってしまわなければいけないのです。イエスが主であるという事実の中に帰らないで空じたと言っても、実は本当に空じていないのです。
 禅宗の空というのは、自分自身が空であることを達観するのです。しかし、空じたと考える自分がいるのです。空じたと言いながら、空じたという本人がいるのです。これは本当に空じていないのです。
 空じた空じたと言いながら、空じた本人がお茶を飲んでいるのです。ご飯を食べているのです。これは何かと聞きますと、お茶を飲んでいるのは空だと言うのです。しかし、お茶を飲んでいるという事実があるのです。
 お茶を飲んでいる者は何かと言いますと、そこで行き詰るのです。説明ができなくなるのです。
 般若波羅蜜多というのは、此岸を空じて彼岸へ入ってしまうことを言っているのです。彼岸へ入ってしまわないで、こちら側の岸にいるままの状態で、空じた空じたと言ってもだめです。
 キリスト教の場合でも、キリストを信じると言いながら、自分が生きているのです。だから、キリスト教の信仰はだめなのです。自分が救われると思っているからです。
 欧米のキリスト教はここが間違っているのです。キリストを信じたら、死んでから天国へ行けると考えているのです。これが根本的に間違っているのです。
 
 イエスは言っています。
 「私はもうこの世にはいなくなりますが、彼らはこの世に残っており、私はみもとに参ります。聖なる父よ、私に賜った御名によって彼らを守ってください。それは私たちが一つであるように、彼らも一つになるためであります」(ヨハネによる福音書17・11)。
 
 私たちのグループは御名の勉強をしているのですが、それは一つになるためです。一つの人格になるためです。個々の人格がなくなってキリストという人格の中に入ってしまうのです。これをキリストの教会というのです。
 キリストの教会では、人々はキリストの御名の中に含まれてしまうのであって、キリストが外にいるものとは違うのです。キリスト教はこれがどうしても分からないのです。自分を捨ててしまわなければいけないのです。個々の人間が救われると考えている。この考えを捨ててしまわなければいけないのです。
 個々の人間が救われるのではありません。「皆一つとならんためなり」ということのためです。
 人間は一つになるのです。自分が救われるのではありません。皆様の人格がイエスの中へ入ってしまうのです。イエスが主であると聖書が言っているのはこういう意味です。
 国民統合のシンボルが天皇であるように、一つの人格が国民全体の統合を意味するのです。統合人格というのはあり得るのです。統合人格も総合人格も同じものです。
 イエス・キリストは人間全体の総合人格です。アダムは人間の総合人格です。総合人格が罪を犯したから皆様は罪人です。
 アダムという総合人格が罪を犯した。イエスという総合人格が十字架に付けられた。だから、皆様の古き人は全部死んでしまったのです。肉の皆様は全部なくなっているのです。そこで救われるのです。だから、総合人格を信じたらいいのです。
 個々の人格を信じないようにして頂きたいのです。自分の命を見い出すことをやめて頂きたいのです。
 空ということを観念的にだけ捉えてしまって、空じたと言っていますと、キリストを正確に掴まえることができないのです。禅宗のような感覚で聖書を扱うことになりますと、分かった分かったと頭だけで鵜呑みしてしまうことになるのです。聖霊を受けたことにして喜んでいるのです。こういう人がキリスト教の中には多いのです。
 空というのは実を伴わなければいけないのです。実とは何かと言いますと、霊のことです。実の実体は霊であって、霊というのは全体です。
 個々の人間が個人として生きているという感覚を持ったままで、自分は空じたと考える。これが宗教観念です。
 こういう考えはキリストを再び十字架に付ける、キリストを晒し者にするという恐ろしい考えです。こういう信仰がキリスト教の中にずいぶんあるのです。聖霊を受けたと言っていながら、少しもキリストを信じていないのです。信じていないということは、キリストの中へ入っていないということです。
 キリストの中に入らずに、自分がキリストを信じたつもりでいるのです。これを信仰だと思っているのです。信仰というのは、その人の命の本質がキリストの命に繋がっていることをいうのです。
 イエス・キリストの命と、その人の命が質的に同じものであることを認識することです。また、その状態がはっきり証できるものでなかったら、イエス・キリストを信じているとは言えないのです。
 
 ヨハネは言っています。
 「しかし、彼を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」(ヨハネによる福音書1・12)。
 
 イエスの名というのは、イエスが生きていた時のイエスの魂の実体です。イエスがこの世に生きていた時のイエスの霊魂の実体がイエスの名です。
 「名は体を現わす」と言います。イエスの名の実体がはっきり分かっている者は、イエスと同じような本質を生きることを許されるのです。
 イエスと同じ本質で生きるのです。イエスと一つになるのです。キリスト教ではこれを言わないのです。キリスト教にはこういう信仰はないのです。こういう信仰があり得ることさえも言わないのです。だから、キリスト教の場合は、分かった分かったと言いながら、再びキリストを晒し者にしているのです。
 キリスト教の信仰はキリストを晒し者にする信仰ばかりです。やがて、キリストは再臨します。その時に、キリスト教が片っ端から潰されるのです。
 生きているという状態、皆様の心臓が動いている状態、人格がある状態、見ている時に何を見ているのか、食べている時に何を食べているのか。生きている霊の状態をもっともっと勉強するのです。素朴に、切実に生きている状態、ザ・リビングを勉強するのです。
 皆様が生きているのは、実は皆様が生きているのではなくて、エホバの御霊が、神の霊が皆様の内に働いていることを意味するのです。生きているということの内容を認識すれば分かるのです。
 自分の人生を棒に振ってしまわなければ、聖書は分かるものではないのです。自分の人生を自分で愛していたのではだめです。「自分を捨て、自分の十字架を負うて私に従ってきなさい」とイエスが言っています(マタイによる福音書16・24)。これを実行したら必ず分かるのです。
 この世を人間の立場に立って考えますと、現世があることが絶対です。人間の立場に立って考えますと、二○一六年現在で七十三億の人間が生きているのです。政治問題、経済問題、軍事問題があるのです。人間の立場に立って考えるとこういうものがあるのです。
 人間は人間の常識で見れば厳然としているのです。常識は肉の思いです。ところが、厳密に考えていきますと、人間はいないのです。般若心経は五蘊皆空、色即是空と言って、人間を否定しているのです。
 理論的に考えれば人間はいないのですが、常識的に考えるといるのです。理論物理学の原理から考えますと、原子の運動はありますが、物質、物体はないのです。物理運動はあるが物体はないとしたら、現在の物理世界は存在していないことになるのです。現在の地球も存在していないことになるのです。
 この世は常識の世界です。常識の世界を認めるとしたら、神を信じる必要はないのです。現在の学校教育を絶対として認めたら、聖書を信じる必要はないのです。
 現代文明の文明的精神を信じるか、真理を信じるかどちらかです。
 現代文明は何のためにあるのか。学問は何のためにあるのか。世界があって何になるのかということです。常識的に存在する世界は、いかにもあるように見えるのですけれど、実は存在していないのです。これが般若心経の思想です。
 般若心経は色即是空と言いますけれど、色というのは目に見える物質現象です。これがないと言っているのです。これが般若心経の思想です。
 人間は肉体的な命があるように思えるのですが、呼吸機能の働きに従ってしか人間の命は存在していないのです。鼻から息を出し入れしていることに基づいて自分の命を見るのか。あるいは目で見ている感覚で命を見ようとするのか。
 般若心経に対する姿勢がはっきりしない間は、聖書を真剣に勉強することはできないのです。
 色なのか、空なのか。肉と霊をはっきり捉えるという決心ができない人間は、聖書を信じることはできません。人間の常識を信じるのか、神の知恵、知識を信じるのか。どちらを取るかということです。
 イエスは肉体的に生きていなかったのです。肉体的に生きているように見えただけです。ヨハネは、「イエス・キリストは水と血とをとおってこられた」と言っています(ヨハネの第一の手紙5・6)。イエスの命は血であった。イエスは水と血と御霊によってやってきたと書いています。
 皆様も実は水と血と御霊によって生きているのです。肉体は存在していないのです。色即是空を聖書的に言えば、水と血と御霊になるのです。
 肉の思いによれば常識的な世界はあります。しかし、これは実存している世界ではないのです。これは常識的にだけ存在しているのであって、実は存在していないのです。
 イエスは、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つひとつの言で生きるものである」と言っています(マタイによる福音書4・4)。パンを食べる肉体があるように見えるけれども、実は人間の本体は、神の口から出る一つひとつの言で生きているものです。
 イエスは人間に対する見方が普通の人間とは全然違っていたのです。この点をよく考えて頂きたいのです。
 日曜日はイエスの復活記念日です。もしイエスが復活しなければ日曜日はないのです。復活したとは何か。人間は現世において死ななければならないような命で生きています。この命は本当のものではないということを、イエスが証明したのです。
 本当の命は死ぬべきものではないのです。これをイエスが歴史的に証明したのです。これがイエス・キリストの復活です。
 イエスは総合人格です。世界中の人間を総合した人格をキリストというのです。キリストは総合人格であって、太陽系宇宙が存在すること、地球が存在することをキリストというのです。
 地球存在の事実をキリストというのです。地球存在を象徴しているものがキリストです。人間存在全体を象徴するものがイエスです。
 イエスがキリストであるということは、地球全体と人間存在全体が一つになって、イエス・キリストとして完成したのです。地球にはこういう事実があるのです。
 歴史とは何か。日本人は歴史を知らないのです。歴史を英語で言いますとhistoryになります。これはhis storyからきているようです。これは彼の物語になります。彼の物語とは神の物語という意味です。人間の物語ではありません。
 極東の島国に一億二千五百万人の人間がいる。経済的に繁栄していて、天皇制が存在する。こういう事実を歴史というのです。
 人間は死なない者であるということが、今から二千年位前に、イエスによって証明されたのです。この事実がhistoryです。
 人間は死なない者です。これは歴史的に証明された事実です。人間が死なない者であることが証明されてから、既に二千年にもなるのです。ところが、未だに人間は死ななければならないと思っているのです。人間は歴史的事実を全然知らないのです。
 人間は神の物語を考えるよりも、人間の常識を信じているのです。こういう愚かな者が人間です。
 皆様も彼の物語を信じる気持ちになって頂きたいのです。日本人は世界の歴史を知ろうとしないのです。天皇制がありながら、これを世界歴史の観点から見ようとしないのです。だから、天皇制が全く分からないのです。
 天皇陛下がご病気になられると、なぜ大地に平伏して祈るような気持ちになるのか。これが説明できないのです。国民の統合人格であるから、そういう気持ちになるのです。国民の統合人格だから放っておけない気持ちがするのです。
 この気持ちを広めて歴史的に考えるのです。そうすると、キリストがすぐに分かるのです。神は人間歴史の終わりにおいて、天皇制の実体を明らかにして、日本から本当の聖書の見方を世界に発信させようとしているのです。新しい命の見方、新しい命が与えられているということを発信させようとしているのです。
 常識は死ぬ人間の世界観です。イエスの復活は死なない人間の命です。死なない人間の命を受け取るのです。これが神の国の実現です。
 これは革命運動ではありません。人間の命を全く新しくする運動です。イエスが復活したという事実を、私は説明しているだけなのです。キリスト教はこれが説明できないのです。
 キリスト教の牧師もイエスが復活したということを言いますけれど、復活の内容を具体的に説明していないのです。だから、キリスト教は宗教です。宗教を何年勉強しても本当の命が分からないのです。
 神の言葉は宗教ではありません。神の言葉は命です。神が私を通して、命を皆様に与えようとしているのです。
 聖書は命の文です。命の文とはどういうことかと言いますと、命の原書です。これがキリスト教では分からないのです。命そのものの原物をそのまま説いているのです。これが神の言葉です。
 聖書の言葉の一句一句には、神の命が閃めいているのです。神の命が踊っているのです。「自分の命を見い出している者は、それを失う」という言葉が光っているのです。
 聖書の言葉の一句一句に、命が閃いているのです。命の原書だからそうなるのです。聖書の言葉を本気になって読んだら、命がその人の中に入るのです。
 心を開いてください。そうしたら、命が皆様のハートの中に入るのです。神の御霊がこういうことを私に言わせているのです。
 イエス・キリストが死なない命の復活を現世に現わしてから、既に二千年にもなっている。ところが、未だに人間は死んでいくのです。それほど、人間は神の事実を知らないのです。
 人間は愚かそのものです。自分の精神状態ばかりを信じているのです。命の文、命の原書を信じようとしていないのです。
 キリスト教は宗教を伝えている。欧米の神学を伝えているのです。聖書神学は聖書の入口です。間違っているというより入口です。入口まで行って中へ入ったと思ったら大間違いです。
 ところが、入口で頑張っている者がいる。これが宗教の指導者です。牧師、神学者です。こういう人々が入口にいて、ここでいい、中に入らなくてもよいと言って、神の国へ入ろうとする者を妨害しているのです(マタイによる福音書23・13)。
 入口にいて、ここでいいのだ、これでいいから満足しなさいと言って、神の国の中へ入らせようとしないのです。
 キリスト教は神の入口までは案内しますけれど、中へ決して入らせないのです。だから、命が分からないのです。
 聖書は命の文ですが、命の文であることを日本人は知らないのです。命の文があることさえも知らないのです。
 天皇制は、命の文の雛形が異邦人に国体的な形で仮に現われているのです。
 歴史は不思議なものでして、歴史の中にキリストの雛形が隠れているのです。事物ではありませんが、キリストと瓜二つと言えるような雛形が歴史的に隠れているのです。これが日本の天皇制です。
 人間は総合されるべきものです。罪は一人の人から出てきたのです。義も一人の人から出てきたのです。罪は一人の人から多くの人に出てきたのです。義も同様です。
 人間の人格は総合されるに決まっているのです。国民的存在は統合されるに決まっているのです。統合されるべき人格が天皇です。総合されるべき人格がキリストです。よく似ているのです。
 日本の国体と新約聖書の原理は酷似しているのです。
 「あなたはちりだからちりに帰れ」と言っているのです(創世記3・19)。ちりに帰れと言っていますが、ちりに返されたとは言っていないのです。
 ちりに帰れとは、私たちがかつてちりであったことを考えて、第一態の人間に帰るような気持ちを持てば、現世における自分から離れることが容易になるのです。
 人間が男と女になったのは第二態の人間です。これは第一態の人間とは違います。創世記の一章と二章とでは原点が違います。創世記の一章は、預言者のネヘミヤが書いたのではないかと思われるのです。二章はモーセが書いたのです。
 一章と二章とでは著者も違いますし、原文の意味も目的も違います。一章の文章を二章へ持ち込みますと、矛盾した点があるように思われるのです。
 一章の人間が神にかたどりて造られたとあるのは、人間創造の原点を意味しているのです。人間の人格はちりであった時に、神の天地創造のお手伝いをしていたのです。
 ちりに形を与えられたのが人間です。その過程において、神のペルソナが人間のパーソナリティーになった。これを神にかたどりてと言っているのです。神の形のように人を造ったと言っているのです。これがイエスとして現われたのです。
 人間は何のために現世に生まれたのか。前世で人間は失敗した。根本的に失敗したのです。生まれる前に単一人格において死んでしまったのです。死んでしまった結果、自我意識によって完全に占領されてしまったのです。自我意識によって占領されたために死んだのです。
 自我意識というのは、あるべからざる意識です。皆様は自我意識によって生まれたのでもないし、自我意識によって生きているのでもないのです。自我の力、自我の能力によって生きているのでもないのです。
 自我が命を造り出しているのでもないのです。自然環境はすべて神の処置によってなされているのです。ところが、客観的に生かされているという状態で生きていながら、自分が生きていると勝手に思い込んでいるのです。これは甚だしい不合理な意識です。
 このような不合理な自我意識がどうして人間の中に入り込んだのか。今の神学者、哲学者に分からないのです。
 自我意識とは何かと言いますと、死を意味するのです。「自分の命を得ている者、見い出している者はそれを失う」と聖書にありますが、これは自我意識によって生きている者は、必ず死んでしまうと言っているのです。
 自我意識で生きるというのは、最も不合理な、不条理な生き方になっているのです。
 今からだいぶ前のことですが、京都大学の西谷教授がドイツのハイデッガーを訪問した時に、「自我は大変困ったものだ。自我が人間にあるために、人間は自我に振り回されている。一体自我はどうして発生したのですか」と聞いたのです。
 ハイデッガーは、「自我は本当に困ったものだ。大変悪いものであるが、どうして人間に入り込んだのか、説明ができない」と答えたのです。
 ハイデッガーは西欧哲学界の大御所と言われた人ですが、どうして自我が人間に入ったのか説明できないと言ったのです。
 自我意識が人間全体を掴んでしまっているのです。人間は完全に自我意識の虜になっているのです。自我意識に振り回されているのです。
 どうして自我が人間の中に入り込んだのか。自我意識が人間を殺すのです。自分が生きているという自我意識がその人を殺すのです。
 自分が生きていると思うから、その自分が死んでいくのです。そこで、自分が生きているという思いを捨ててさえしまえば、自分が死ぬことがなくなるのです。
 これは重大な問題です。自分が生きていると思うから死んでしまうのです。「自分の命を得ている者は、これを失う」というイエスの言葉と全く同じです。
 自分が生きていると思う人は、その命を必ず失うのです。ところが、自分が生きているけれどもこれは命ではないということが理解できた人は、死ななくなるのです。死なないのです。
 イエスはこれを実行したのです。そして、証明したのです。イエスは、「私は父の内にいる」と言ったのです。神の中にいる命が自分にある。神の命が自分に働いているのだと考えたのです。イエスは自分の命があると思っていなかったのです。
 皆様も自分が生きているというばかばかしい考えを捨ててしまえば、皆様は死ぬことがなくなるのです。はっきりなくなるのです。
 私も長い間、自分が生きていると思っていたのですが、今は自分が生きているとは思っていないのです。どうしてこういうことができたのかと言いますと、精神構造の転換をしたからです。
 精神構造の転換ということが、少々難しいのです。これができれば「道心に餌食あり」ということが分かってくるのです。
 人間の命は自分のものではないのです。命は自分のものではないのに、自分が生きているというとんでもない考え違いを押し付けられたのです。押し付けられているこの考えを解脱してしまえばいいのです。そうしたら、自分と生きているということとは関係がないことが分かるのです。
 生きているという事がらが、自分という形で現われていますけれど、自分が生きているのではないのです。
 生きているという事がらが、自分という形で現われているだけです。これがイエス・キリストの信仰です。
 自分が生きているという間違った考えをやめて頂きたいのです。皆様が生きているということは、皆様の事実ではなくてイエスの事実です。イエス的事実が皆様に現われているのです。これを御霊を崇めるというのです。
 私が生きているということは、イエスが生きているということと同じなのです。そうして、イエスの復活の命がそのまま私の命になってしまうのです。これをとこしえの命というのです。
 これはそんなに難しいことではありませんから、自分が生きているという間違った考えを捨ててください。
 皆様の中にある自我意識は生まれる前に持たされたのです。アダムという単一人格によって、生まれる前に持たされてしまったのです。持たされてしまったために、個々の人格として生まれなければならないことになったのです。個々の人間としてこの世に生まれた人は、必ず死ぬのです。死なねばならないことになるのです。
 自我意識で生きている人は、神に反抗しているのです。五十年生きていた人は五十年間、神に反抗していたのです。
 神は皆様の命の本質です。命の本質が神です。自我によって生きている人は、自分の命に反抗しているのです。だから、皆様の魂は苦しんでばかりしていたのです。
 特に女性の人は辛辣な状態で苦しんでいたのです。この状態が、死んでから火の池になって現われるのです。これが霊魂の裁きになるのです。
 だから、自分が生きているというこの不合理な考えを捨てて頂きたいのです。自分が現世に生きていると思っていることが間違っているのです。
 自分が生きているという観念を精算してしまわなければ、死から逃れることができないのです。

​内容は梶原和義先生の著書からの引用です。

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