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​(内容は梶原和義先生の著書からの引用です)

            5 この世の人間は皆死んでいる
 
 人間は現世があると思っている。自分が生きていると思っている。これが嘘です。肉の思いの人間がそう思っているだけです。
 旧約聖書の創世記にある記事ですが、神が人祖アダムに、園の中央にある善悪を知る木の実を絶対に食べてはいけないと言ったのに、食べてしまった。その結果、三位一体の神の一人のようになって、善悪を知ることになった。
 この状態でとこしえの命を掴まえると、人間は完全に悪魔になってしまう。これをさせないために、人間をこの世という世界へ送ったのです。
 この世は神の世界ではなくて悪魔の世界になっているのです。悪魔の世界というのは本当の世界ではなくて、嘘の世界です。
 この世に生きている人間は必ず死んでしまいます。死んでしまうと神を信じることができなくなるのです。神とはどういうものかが分からなくなるのです。
 何のために生まれてきたのか。それが分からないままでやがて死んでいく。これは全く何にもならないのです。
 実はこの世に生きているということが、死んでいることなのです。人間は生まれてくる前に、園の中央にある善悪の木の実を絶対に食べてはならないという神の忠告を破って、食べてしまった。だから、人間の霊魂はその時死んでしまったのです。
 霊魂が死んだので箸にも棒にもかからないものになってしまった。そこで、地球に追放したのです。だからいくら勉強しても、人間の勉強は死んでいくに決まっている人間の勉強であって、神をまともに勉強しているのではないのです。私がいくら熱弁をふるって聖書の説明をしても、それを聞いただけでは救われません。
 私たちが聖書を信じるためには、地球が何のためにあるのか、人間が何のためにいるのかという勉強をしなければならないのです。これは難しい勉強です。普通の人が勉強しても分からないことです。分かろうとする燃えるような熱意を持っていないからです。
 何のために地球があるのかということが、聖書の根本原理になっているからです。
 「地は形なく、むなしく、闇が淵のおもてにあった」とあります(創世記1・2)。闇が淵のおもてにあったので、神の霊が水のおもてに働き出した。これが現象世界ですが、これは電子が原子核の回りを回っているということによって成立している現象です。もし闇が淵のおもてになかったら、神の霊は水のおもてに働かないのです。従って、地球もできなかったのです。
 地球がある、この世があると思っていることが嘘です。悪魔がこの世にはびこっているので、あるように思われる世界を神が与えているだけです。電子の運動が物質現象に見えるだけです。
 この世に生きている人間は肉の思いで生きているのですから、神から見れば死んでいるのです。
 この世に生きている自分を捨てようという心理状態にならない人は、地獄へ行くしかないのです。人間がこの世に生まれてきても、何のために生まれてきたのかということが分からないままで死んでしまいますと、命が分からないのです。
 この世に生きている人は、命が分からないままで生きているのです。お金儲けをしようが、子供を育てようが、どれだけ社会に貢献して尊敬されようが、命には関係がないのです。
 命とは何か。本当の神を知ることによってだけ、命が分かるのです。ところが、本当の神が分からない。なぜ分からないかと言いますと、人間が生きているからです。人間が生きていると神は死んでいるのです。
 命とは神のことですが、それを人間は自分が生きていることが命だと思っているのです。ところが、自分が生きていることが命ではなくて、自分が死んでしまうことが命です。自分が死んでしまうことを勉強するために聖書があるのであって、自分が救われるためとか、自分が幸いになるために勉強するのではないのです。
 自分が救われても仕方がない。命を知らない者が天国へ行っても仕方がないのです。
 聖書の勉強をいくらしても命の勉強にはなりません。聖書の理屈を勉強してもだめです。それは命を掴まえるための下拵えにすぎないのです。
 神がこの世を造ったのは、悪魔が強く願ったからです。悪魔が淵のおもてに座り込んで、目に見える現象世界がなければならないと強く願ったので、神がこの世を造ったのです。ところが、現象世界が本当に実存するかというと、実存していない。ただ原子の運動があるだけです。悪魔を騙すために現象世界が造られているのです。これが天地創造の大秘密です。
 この世に生きている人間は、命は自分のためにある、自分が生きていると思っていますが、それが死んでいる証拠です。自分が生きていると思っている人は死んでいるのです。
 イエスのように父なる神の子と思っている人は生きているのです。父なる神とはどういう意味かと言いますと、命が父です。それが肉体的に生きている状態が人の子です。
 イエスのように、自分が生きている命が神だということが分かっている人は、イエスが生きているのではない、命という父なる神が人間の形で現われていたのです。これが生ける神の子です。
 人間が生きているのではないのです。自分は大正に生まれた、昭和に生まれた、平成に生まれたと言っていますが、これが間違っているのです。
 この世に出てきたということは、死んで出てきたのです。命は神ですから、肉体を持って生きていることを客体的に見れば、神の子になるのです。
 自分が十字架によって死んでしまっていることが分からなければ、生きていることが分からないのです。
 十字架によって現在の人間が生きているのではないことが分かると、初めて神の子になるのです。
 この世に生まれてきて、この世で生きていると思っている人は、実は自分の誕生日もないし、葬式もないのです。それがあると思うのはこの世の習慣であって、この世の習慣に従っている人間は死んでいるのです。
 淵のおもてに悪魔が座り込んだので、神がこの世を造った。この世に生きている人間は、悪魔と一緒に生きているのです。悪魔がはびこっているこの世を造ったのですから、この世に生きていると考えている人は、その人の霊魂は死んでいるのです。人間は生きていると思っているけれど、霊魂は死んでいるのです。
 現世でどんなに楽しく生きていても、現世に生きていることがこの世に生きていることですから、死んでいるのです。これを捨ててしまうのです。これを十字架を受け取るというのです。
 十字架を受け取って生きている人は、現世に生きていないのです。神の国に生きているのです。十字架を体験した人は神の国を生きているのであって、人間が生きているのではない。神の子が生きているのです。自分にとっては損も得もないのです。
 神が命であることを勉強するかしないかが、その人の永遠の運命を決めるのです。
 本当に命の勉強をしていればその人は生きていない。生ける神の子として生きている。肉体を持っているからです。肉体を持っている状態で命を持っている。命は父なる神ですから、肉体的に生きているのはその子です。
 現象世界があることは大切なことです。闇が淵のおもてに座り込んだからこの世が造られた。地球が造られたのです。
 従って、客観的に見れば、この世に生きているのはどこまでも自分ではない。命がこのような形で現われているだけであって、それを肉体的に経験していることが有難いことなのです。肉体的に命を経験している状態において、これは自分の命ではない、神の命だと考えて生活することが、イエスという人の人格です。
 聖書の勉強をしていても、自分が聖書の勉強をしていたらだめです。生ける神の子としての勉強にならないとだめです。
 生ける神の子として聖書を勉強するということは、自分から離れてしまうことです。自分から離れて、命とは何かということを勉強するのです。
 例えば、辛いものを食べると辛いと感じる。甘いものを食べると甘いと感じる。花を見ると美しいと思う。なぜ美しいと思うのか。五官は生ける神の子だから美しいと思うのです。
 ところが、美しいとはどういうことかが分からないのです。美しいというのが、人間の霊魂にどういう効果があるのかが分からないのです。命にどういう効果があるかということです。
 美しいものを見ると、嬉しいような楽しいような感じがします。なぜ美しいものを見ると嬉しいのでしょうか。これが分かるように勉強することが霊魂の勉強です。そうすると、霊魂の目が開くのです。
 人間が生きている感覚は生まれながらの感覚です。生まれながらというのは生まれる前からということです。
 花を見れば美しいということは、生まれる前には分かっていたのです。この世に生まれた後にも美しいということは分かります。しかし、思想的には受け取れないのです。感覚と思想は違います。思想的に理解できなければ、人間の霊魂の救いにはならないのです。
 生きているということは、論理的に言えば感覚であって、これを思想的に理解することによって救われるのです。
 そのためには、現世に生きている自分の家族とか、自分の社会的な立場から抜け出してしまわなければいけないのです。
 いつでも現世から抜け出しているような人間になろうということを、いつでも考えていなければいけないのです。これを信仰というのです。
 甘いものを甘いと感じることは感覚であって、こういう感覚は生まれる前、前世からの続きです。男と女の感覚でも前世からの続きです。
 ところが、男と女の感覚は前世で失敗した。前世で失敗した感覚でこの世に生まれたのです。だから、男女の考えは初めから間違っているのです。
 男女があるのではない。霊魂があるのです。女は骨の骨であって、骨の骨である女を知ることが、肉の肉である男の重大な責任です。
 男は肉の肉です。女は骨の骨です。こういうものはありますけれど、現世に生きている人間の男女関係は根本から嘘です。
 感覚は前からあるのです。しかし、人間は現世で思想的に生きています。現世で思想的に生きている精神状態が、前世からの感覚という精神状態に塗り替えられなければ、信仰にはならないのです。
 現世で持っている思想が、前世からの感覚に置き換えられることを信仰というのです。
 結局、現世に生きていても現世に生きていないのです。依然として前世に生きているのです。従って、現世の自分の肉の生活、肉体生活はないのです。イエスはこれを証したのです。
 現世に自分の命があるのではない。イエスは、「私は上から来たのだ。お前たちは下から来たのだ」と言った(ヨハネによる福音書8・23)。上から来た人間には、現世の思想はないのです。前世の感覚が現世の思想になっているのです。これをイエス・キリストの信仰というのです。
 現世に生きている人間が聖書の勉強をしてもだめです。前世の感覚で勉強しないといけないのです。
 前世の感覚が現世の思想になるのです。思想になるというのは意識になるということです。そうすると、その人の生活意識は現世に生きていても、現世に生きていないのです。
 現世には利害得失はない。なぜなら、現世に生きている人間は、皆死んでいる人間ばかりだからです。
 だから、死んでいる状態から抜け出して、自分が生きていることが、そのまま神ご自身であるということが分かるまで勉強して頂きたいのです。
 肉体を持っているということは、神の子として生きていることです。命が神ですから、肉体が生きていて命が与えられていることは、生ける神の子になるのです。イエスはこれを知っていた。これをイエス・キリストの信仰というのです。
 ですから、現世に固有名詞として生きているのではない。できるだけ現世に生きているという気持ちを捨て去って、毎日、毎日、現世ではない、悪魔が支配している現世ではない、神の国に生きているのだという意識を持つのです。この意識を持とう、持とうと考えて生きていれば、御霊が必ず助けてくださるのです。御霊の助けによって、現世に生きている命の状態で神の国に入れるのです。
 この世に大空があり、陸地があり、様々な動植物がいること、太陽があること、山の幸、海の幸、陸の幸を毎日与えられていること、これが実は神の国です。地球を霊的に見ると神の国が現われているのです。
 こういう感覚を現世で持とう持とうとすることが、十字架の勉強です。
 十字架の勉強というのは、自分が救われることを勉強するのではない。自分が生きていないことを勉強するのです。
 人間は救われるも救われないもない。自分という人間はいないのです。生ける神の子がいるのです。生ける神の子として命を勉強することが、聖書の本当の勉強になるのです。
 聖書の勉強は自分がするのではない。死んでいる自分が勉強をしてもだめです。聖書を勉強すればするほど、この世にいることが煩わしくなるのです。だから、神の国に入るのです。
 イエスはユダヤ人に向かって、「神の国と神の義を求めよ」と言ったのです(マタイによる福音書6・33)。この世があると思っているが、実は神の国があるのです。この世という人間の世の中があるのではない。神から見たらこの世は存在していなくて、神の国が存在しているのです。
 自分が生きているか生きていないかではない。生きている自分はいないのです。命は神ですから、生ける神の子が自分という格好で現われているのです。従って、自分が生きているという事実はないのです。
 このことを勉強することによって、生きているのは自分ではない生ける神の子である、イエスの本体が自分の本当の姿なのだということを悟ることができるのです。
 これが分かってしまうと死ななくなるのです。自分はいないからです。死ぬも死なないもない。自分は初めからいないのですから、生ける神の子という人格があるだけです。
 自分という人間はいない。これが分かってくると、この世を去ることは何でもないのです。この世を去るも去らないもない。自分はいないのです。
 自分が生きていることは嘘です。従って、損も得もないのです。
 前世の感覚が現世で思想になる。生活意識は思想です。生活感覚は前世の感覚であって、食物を食べて味が分かる、花を見ていて美しさが分かるということは、前世に生きているのです。現世に生きているのではないのです。
 現世で心臓が止まるのは当たり前のことです。止まるために心臓ができているのです。こういうことが分かってくると、神を信じるということが分かってくるのです。
 人間は肉体的に生きているという形はあるけれど、精神的にはこの世に生きていない。これがイエス・キリストの信仰です。こういう気持ちを持とう持とうとして勉強するのです。
 生活感覚がその人の生活意識になることです。これが望ましいのです。毎日の生活は自分という人間が生きているのではない。霊魂が生きているのです。霊魂は前世からの継続です。前世からの継続が霊魂になって現われている。従って、死ぬということは霊魂に帰ることなのです。
 人間の命は初めからない。生きているということがあるのです。現世の肉体人間として生きていることはないのです。神に生かされていることが、生きている状態として現われているのです。
 イエスが神の国と神の義を求めよと言ったのは、現世の中に隠れているからです。だから求めよと言ったのです。現世は幻ですから、損をしたとか得をしたということがないのです。現世を認めることが間違っているのです。
 どんな立派な人でも、どんな偉い人でも、友人も知人も現世の人です。現世の人と付き合わなければいけないということが業ですが、本当はそういう人はいないのです。そういう人と付き合うことによって、前世の感覚を訓練するのです。これが信仰の基本です。
 毎日、毎日、現世に生きていない自分、肉体的には生きていても、霊的には生きていないという経験をすることが、人生の目的です。
 現世に生きているのは自分が生きているのではない。霊魂が生きているのです。自分という人間がいるのは嘘です。霊魂が自分という格好になっているから、それが生きているのです。現世に固有名詞の人間が生きていると思っている人は、死んでいるのです。こういう人は信仰ができない人です。
 固有名詞の自分を離れてしまうのです。自分の事情境遇を離れて本当の命を経験させられていくのです。前世の命を現世で経験していることを勉強するのです。
 前世の命は神に吹き込まれた神の命です。この命を前世で持っていた。神から吹き込まれた命はなくならないのです。消えてしまわないのです。
 神の御心に従って生きている者は、神から吹き込まれた前世の命に帰ることができるのです。
 前世で人間は善悪を知る木の実を食べてしまった。善悪を知る木の実というのは、自分が生きているという思いのことです。
 自分が生きていると思っている人は、善悪の木の実を食べたのです。そこで死んだのです。死んでしまったから現世に送られたのです。現世にいる人間は生まれた時から死んでいるのです。
 この世に生きているということは、死んでいることです。生まれたのではない。現世は死んだ人間ばかりが送られてきたのです。自分の霊魂が死んでいるということに気が付くために、死んだ状態で送られてきたのです。
 聖書を本当に勉強すると自分が生きていることが嘘だということが分かるのです。生きていたところで死ななければならないのです。こんな人間は初めからいないのです。この人間が持っている命は神から吹き込まれた命ではない。自分が持っている命です。
 自分が持っている命は死んでしまっている命です。これに気が付くことです。だから自分がこの世を去っていくことに、少しも恐れを抱く必要はないのです。
 イエスはこういうことを証するために生まれてきたのです。彼は生ける神の子であることを知っていた。生ける神の子とは何かと言いますと、命の本質が神です。命が肉体を持っていることを人の子というのです。人の子は即ち生ける神の子です。
 人の子は現世に生きようと思いません。現世に生きている自分がいると思っていません。だから、この世を去っていくことが楽しみなのです。
 イエスが肉体を持っていたのは、この世の人間が肉体を持っているのと同じ状態で持っていたのです。肉体を持っている人間は死ななければならないということを、自ら示したのです。
 この世に生きている人間は、神の子であってもそうでなくても、肉体を持っているという事実があるのですから、そういう人間は死ななければならないのです。
 この世に生まれてきたのは、死ぬために生まれてきたのです。イエスでも他の人でも同じです。肉体を脱ぎ捨てて神の国に入るのです。
 イエスは肉体を持っていたけれど、神の国と神の義を求めよと言って生きていたのです。彼は肉体で生きていたけれど、彼の霊魂は肉体で生きている状態ではなかったのです。これを勉強することが、イエス・キリストを勉強することです。
 肉体を持って生きているということは、死んだ人間の肉体を持っているのであって、生きているというのは肉体を持っていることとは違います。肉体を持っているのはこの世の人間であって、霊魂が生きているというのは、肉体を持っていることとは違います。生きているというのは事がらです。生きているという事がらと人間とは違うのです。
 人間として生きている人は、神も命も分からない状態で死んでいかなければならない。神も分からず、命もイエスも分からないというのは、既に死んでいるということになるのです。
 霊魂が肉体的に生きている。なぜこうなったのかというと、霊魂は肉体的に生きていなければ、死ぬということを理解することができないからです。死んでいる、死んでしまうということを理解するためには、霊魂が肉体を持っていなければならないのです。
 肉の世界、即ち現象世界は、人間が善悪を知る木の実を食べたからできたのです。現象世界に生きているということは、善悪を知る木の実を食べたからです。
 善悪を知る木の実を食べたままで生きていると、その人は地獄に行くことになるのです。善悪を知る木の実を食べたことを認めて、この自分から脱出することができるかどうかを、神が見ているのです。
 いずれにしても、自分が救われるということは全くありません。この世に生まれてきたのは、死んでいく人間として生まれてきたのですから、死ぬのは当たり前です。
 ところが、現世に生まれてきた時の感覚、甘いものを甘いと感じる感覚は、前世で罪を犯す前の感覚です。花を見て美しいと感じる気持ちは、罪を犯す前の神の命を受け取ったばかりの思いであって、肉の思いとは違います。
 感覚だけについて言いますと、人間は前世の感覚を持っているのです。ところが、思想は全部現世の思想になっている。現世に生まれてきた人は、現世の思想で生きていますから、死んでいくのは当たり前です。
 五官の感覚、甘いものを食べて甘いと感じる感覚が、霊魂の状態です。甘く感じるのはどういうことか、これが分かると死なない命が分かるのです。
 神を信じて生きるということは、人間の道徳とか常識を信じないで生きることです。人間の精神状態を信じるということは、現世を信じることです。現世を信じている人間は、現世と一緒に死んでしまうのです。やがて、現世そのものが滅びてしまうからです。
 イエスが神の国と神の義を求めよと言ったのは、この世に生きていたら必ず死んでしまうからです。
 太陽があり、月がある。森羅万象があり、食べ物がある。これは何かというと、神の命があるということです。それを霊的に見ることができる。自分が見ているのではなくて、五官の直感によって見ることができる。これは自分が見ているのではなくて、前世に罪を犯す前に見ていた、その五官が見ているのです。
 現世の常識は根本から間違っている。霊魂が肉体になっているけれど、これが死んでいることになるのです。
 自分の命があると思っている人は、神の国が分かりません。神の国が分からずに生きている人は、この世を去るとどうなるのか全く分かっていません。これが闇です。それが果てしなく暗いのです。その暗さはどんなであろうとイエスが言っているのです。
 人間は何のために生きているのか分からずに生きている。これが死んでいる状態です。本当の命が分からない状態で生きている。だから必ず死んでしまうのです。
 肉体的に生きている人間は必ず死ぬに決まっています。死ぬに決まっている状態で生きていることは、死んでいることになるのです。自分がいるのではない、霊が生きていることに気が付けばいいのです。そうしたら死なないのです。
 甘いものを食べて甘いと感じるのは自分ではありません。霊魂です。固有名詞の自分ではありません。
 男と女の関係を今の人間が考えると、死んでいく人間の思想になるのです。女は男の骨の骨です。男の骨の骨は男にはありません。女にあるのです。だから、男の骨の骨を知るためには、女を知るしかないのです。
 女は男の骨の骨です。これは罪人ではありません。男は罪人です。
 この世の人間は現世があると考えています。これがすべて地獄行きの原因になるのです。この世に自分が生きているという思いが、全部地獄行きの原因を造っているのです。
 自分の命があると思っている人は、自分で地獄を造ってそこに入るのです。心臓が止まると自分が造った地獄の中へ入るのです。
 神の国とは何か。この世に生きている人間は神の国へ入れません。生きていることの実体が神の国です。それをこの世だと思っていると、自分の霊魂が滅んでしまいます。霊魂は自分の業のために滅んでしまうのです。自分が生きていると思っているからです。自分の業で自分の地獄を造っているのです。毎日生きていることが、毎日地獄を造っていることになるのです。
 神は天地万物を造ったのであって、自分という人間を造ったのではありません。ところが、人間は万物を造るだけの力がないのに、自分という人格を自分で造っているのです。これが地獄を造っていることになるのです。
 神は天地を造っている。人間は神の真似をして自分で自分の人生を造っているのです。自分の家庭を造るとか、自分の商売を造るとか、自分の健康を造ろうと考えている。
 自分の健康を造ることは悪いことではありませんが、それがその人の信仰に役立てばいいのです。その人の霊魂に役立てばいいのですが、霊魂に役立たなければ地獄を造っていることになるのです。これが恐ろしいのです。
 一生懸命に働いて真面目に商売をしている人は、自分で立派な人生を造っているつもりですが、立派な地獄を造っているのです。愚かなことをしているのです。
 自分が生きていないという気持ちを持っている人は、地獄を造っていないのです。それなら自分が生きていないとどうして思うのか。この説明ができなければだめです。
 現実にご飯を食べている。仕事をしている。これは何をしているのか。この説明ができないのです。世間の人が働いているから自分も働いているのです。自分のため、世間のために働いているが、やがて世間全体が地獄になるのです。結局地獄のために働いていることになるのです。個人的にも、社会的にも、民族的にも、地獄のために働いていることになるのです。
 そして、世界の政治、経済はめちゃくちゃになるでしょう。現世の政治、経済、社会は艱難時代になって潰れてしまうのです。そうなると、現世に生きていることが何のためか、その人自身が分からなくなるのです。
 人間が造っている世界は、政治、経済、教育、宗教という人間自身の思想によって潰してしまうのです。
 人間は神と反対の方へ歩いているのです。これが文明の間違いです。現代文明を信じている人は、文明全体の滅亡という地獄を造っているのです。
 教育はこの世に役に立つ人間を造ります。この世に役に立つ人間ができればできるほど、神の国には役に立たないのです。この世に役に立つ人間になればなるほど、その人は滅んでいくのです。
 この世の文明はこの世に生きている人間の都合しか考えていません。人間の生活のこと、教育のこと、政治経済のことしか考えないのです。だから、この世の政治経済が行き詰まってしまうと、人間はどうしたらいいか分からなくなるのです。これが文明の終末の様相です。
 
6.悪魔の出現
 
 悪魔が神の山で罪を犯した。ルシファーという名称が天使を意味するのです。ルシファーはケルプ(知天使)と共にいたのですが、ケルプと共にいたことが、神に反意を抱く原因になっているのです。もしルシファーがケルプと共にいなかったら反意を抱かなかったでしょう。
 神に反意を抱く原因になったのは、油注がれたケルプと共にいたからです。ルシファーは非常にすばらしい位置を与えられていました。それがルシファーが悪魔になる原因であったのです。
 これはどういうことかと言いますと、人格を持っている者が能力を与えられると、その能力を自分のものだと考えるのです。ところが、人格は自分のものではないのです。
 ルシファーの人格は自分のものではなかったのです。神のペルソナの反映であって、神が何かに対して、位、命を与えようとすると、そのもののあり方が相手に移るのです。
 神が何かに、位、力、仕事を与えようとすると、与えようと考えた相手に移るのです。
 例えば、神が馬を造ろうと思いますと、神の御心が馬になるのです。馬だけを造る訳にはいかないのです。神を切り離して馬を造ることはできないのです。馬を造ろうと思うことが、ストレートに馬になっているのです。
 神が天使長を造ろうと思ったことが、そのまま天使長の人格になっているのです。神のペルソナはそういうものです。
 神が人を造ろうと思った時に、神のペルソナがそのまま人になっているのです。
 人間の人格は神のペルソナの反映です。神のペルソナなしには人間の人格はあり得ないのです。神自身が何かを発意すれば、発意したそのことがそのまま生物になっているのです。ですから、馬の原形は神です。馬という神のイメージが馬というイマジネーションになっているのです。
 天使長を造ろうと考えた時に、神のイメージが天使長になっている。天使長の人格は神のペルソナの反映です。
 人間の場合も同じことです。神の投影、反映が神の創造です。ルシファーが人格を持っていたことが神の投影であること、神を離れて彼の人格があり得ないことを、ルシファーは知るべきだったのです。
 人格の所在の根底が神です。神を離れて人格を用いてはいけないのです。神を頭におかないで、自分の人格を用いることが罪です。ルシファーはこれをしたのです。
 神を離れて人格はあり得ない。人格のあり方が命の基礎になるのです。
 草花に性格があるのです。動物にも性格があります。海の魚、空の鳥、野の獣、地に這うもの、家畜という五つの命があります。五つの命には五つの性格があるのです。
 五つの命の頂点が人間です。五つのものは皆人間と同じように、神の投影です。ですから、人間が神のペルソナの投影であることを悟ること、神のペルソナにおいて生きなければ、その人の人格は死んでいるのです。
 神の内において神と共に生きているのでなかったら、人格の本義を認識することができないし、人格の特長はなくなってしまうのです。
 神から離れて人格が動き出す時に、諸刃の剣になってしまうのです。自分を切るのです。神から離れて人格を用いる時にその人を切ってしまうのです。そこで死んでしまうことになるのです。
 皆様に人格が与えられていることが神の子である証拠です。神を信じるも信じないもない。人格を持っていることが神の子です。だから、神を離れて自分の人格を用いてはいけないのです。自我意識が悪いのです。
 人間は自分の人格を認めていながら、神を認めようとしない。こんなバカなことはないのです。これが人間の人格が悪魔的であることをはっきり証明しているのです。
 悪魔は人格を持っていながら神から離れたのです。神から離れたことが死を意味するのです。そこで、イエスが「彼が稲妻のように地に落ちた」と言っています(ルカによる福音書10・18)。彼が神から離れた途端に、地に落ちたのです。これが稲妻です。
 サタンが稲妻のように天から落ちた。これはものすごい表現ですが、自分の中にそういう思いが起きた時に、稲妻が起きるのです。その反対のことも言えます。ああ悪かったと思えば、良い稲妻が起きるのです。
 反意が起きた時に彼は落ちたのです。人格はそういうものですから、神から離れて自分を自覚することが罪です。
 神から離れて自分を自覚すること、自分が生きていると考えること、自分という人間がいると考えること、自分という人格が神から独立して存在すると考えることが間違っているのです。これが罪です。
 悪魔は天から落ちた。そのことを悪魔自身が知らないのです。イエスは見ているのですが、悪魔はそれを知らないのです。未だに知らないのです。知らないから神の前にのこのこ出てくるのです。自分が天にいるような顔をして神に訴えるのです。これがサタンです。
 サタンという言葉自体が、悪魔が現在ある位置を認識していないことを示しているのです。サタンとは訴える者ですが、訴えるために神の前に出て行くのです。
 天は霊を意味する。地は肉を意味するのです。ルシファーが悪魔になったということが、私たちの最も公的なサンプルになっているのです。
 私たちは天から落ちてしまっている。自分が生きているという考えを基礎にして生まれてきたのです。物心というものが神から離れている心を意味するのです。
 物心を持っていることが、人間が死んでいる証拠です。物心はなくさなければいけないのです。物心があることは、神から離れている、反意を持っていることなのです。
 現在、ルシファーは神から離れた独立した人格を持っています。それを悪魔自身が知らないのです。
 人間はそれが分かるのです。これが悪魔に勝てる原理です。人間は神から離れていると言われると分かるのです。言われなければ分からないのです。
 言われないと分からない所が、悪魔と同じことです。これが天使と同じことです。
 悪魔は天にいる時に罪を犯した。自分がいるということを考えたことによって、地に落ちてしまった。人間も同じことをしているのです。
 人間はどこで罪を犯したのか。天で犯したのです。前世でしたのです。前世は天です。
 地のちりがいたのは天です。神は地のちりを大空にまいた。そして、大空を天と名付けたのです。
 地のちりである人間に、神は命の息を吹き入れたのです。命の息は第一に人格を意味し、第二に生理機能を意味するのです。命の息というのは、人格に命を与えたという意味です。つまり、神そのものを吹き込んだのです。それが天で行われたのです。
 命の息を吹き込んで、アダムを天に置いたのです。エデンは天です。エデンもエデンの東も天です。これは生まれる前に起きたのです。
 キリスト教はこれをこの世のことと考えている。これは大間違いです。エデンがこの世ということはあり得ないのです。命の息を吹き込まれたことは、天で行われたのです。
 その命で今生きているのです。これは悪魔が天で罪を犯したのが、今肉でいるのと同じです。
 人間は天で命の息を吹き込まれていながら、今肉で生きている。悪魔と同じことをしているのです。人間を見たら悪魔の存在がよく分かるのです。
 悪魔は天で罪を犯して地に落ちた。人間も天で罪を犯して現世に放り込まれた。前世は天です。現世は地です。
 神は今、悪魔と人間を同じように見ているのです。私たちはこの状態から復活しなければいけないのです。復活というのは前世の命を現わしたことです。言い換えますと、現世を前世にしてしまったのです。これが復活です。これはとてつもなく大きいことです。
 イエス・キリストの復活によって、人間はもちろんのこと、犬も猫も、木も草も、全部天へ帰してしまった。とんでもない思い切ったことを神がしたのです。
 地球存在はキリスト計画を意味するのです。キリストは地球を意味するのです。キリストが分からずに地球が分かるということはないのです。
 人間が一番注意しなければならないことは、人間自身について誰も驚いていないということです。人間は驚くべき存在です。
 人格を持っていること、理性と良心を持っていること、過去、現在、未来が分かること、物の性質を見ることができること、自分と他人を区別して認識できること、人間が持っている特性は、神の命の息を持っているということです。
 人間存在の性能は、神が神であることをそのまま反映しているのです。
 人間は自分が何をしているのか、どういう能力を持っているのか、人間の本質は何であるかがちょっと見ただけで分かるのです。
 大体、こんな不思議なものがこの世にいるはずがないのです。
 この宇宙に神以外のもので、人格を自覚して自分なりに認識して、その能力を行使することができるという生きものがいることがおかしいのです。神の小型が、この宇宙にあるということがおかしいのです。こんなものがあるべき道理がないのです。
 もしあるとすれば、これは現世が神の山であることを意味するのです。現世を神の山として見れば、かつてルシファーが神の山で働いていた色々な原形があったのと同じだということが分かるのです。それと同じものが地球にあるのです。
 地球とは一体どういうものか。万有があり、森羅万物がある。しかも、神の雛形である人格を持った人間がいる。
 この地球存在を自由に開拓したり、採掘したりする者がいることがおかしいのです。
 地球は神の山であるのか。一体、地球の原形は何から来ているのか。地球を支配している人間は一体何なのか。
 もし人間がいなければ地球を名付けることはできないし、管理することもできないのです。地球がどんなにすばらしいものでも何にもならないのです。
 神の小型である人間、理性と良心を持って商売できる人間、研究、開発ができる人間、推理、判断、考察ができる人間がいるから、地球が価値を持つのです。人間存在は神と同じ認識、同じ能力性、同じ位置を与えられているのです。
 神と違うところは、地球は肉であって霊ではないのです。従って、人間は神ではありません。人間は肉です。肉の地球に肉の人間がいるのです。
 現在人間がこの地球上に生きているあり方は、かつて神の山でルシファーがいたのと同じことです。
 人間が現在肉の思いで生きているのは、悪魔が天で罪を犯して肉になったのと同じです。
 悪魔が肉になったことを、イエスは稲妻のように地に落ちたと言っています。霊なるルシファーが肉になった。それと同じ状態で、今肉の人間がいるのです。地に落ちた悪魔と同じ状態で肉の人間がいるのです。
 ところが、この地球が肉ではないことを、イエスが証をしたのです。手にて造らない、この世界に属していない、大いなる幕屋、完全な幕屋が地球であることをイエスが証明したのです。
 イエスが来て、地球存在、万物存在がこの世界に属していない、神の幕屋であることを証明した。この世が神の幕屋であることを証明した。肉は何もないことを証明したのです。
 イエスがヨハネから洗礼を受けて水から上がられた時、イエスの肉体がなくなっていた(マタイによる福音書3・16、17)。イエスの信仰が分かったと同時に、イエスの肉体がなくなったことが、地球の肉が消えたことを神が見たのです。聖霊が鳩のように下ったので、地球が霊になったのです。従って、この世は神の幕屋です。霊です。
 人間が現在生きている姿を天から見ると、イエスが見ていた見方になるのです。現世に生きているのは、実は天に生きているのであって、霊に生きているのです。肉ではないのです。これが分かるとイエスと同じような生き方ができるのです。イエスのような完全な生き方はできませんが、イエスの真似くらいはできるのです。
 イエスは「私に来なさい。私はあなたがたを休ませてあげよう」と言っています。
 あなたがたを休ませてあげるとは何かと言いますと、あなたがたの霊魂が目を開いて、霊魂に従って生きるようにしてあげようと言っているのです。
 そうすると、人間は休めるのです。人間が休んで霊魂が働き出すのです。これが本当の安息です。霊魂の目で神を見て万物を見るのです。
 イエスがこの世で見ていたのと同じように見られるのです。
 肉の人間は悪魔そっくりです。霊の人間はイエスそっくりです。これほどの違いがあるのです。
 「肉の思いは死である。霊の思いは命である」というのは当たり前のことです(ローマ人への手紙8・6)。霊の思いとは何か。自分自身の肉の思いを否定すればいいのです。自分が今まで何十年間か、肉の思いで生きてきたということを否定するのです。そうすると、この世に生まれてきた自分は消えるのです。
 その結果、神から生まれた、天からやって来た、前世からやって来た者だけになるのです。この世の兄弟とか、姉妹とかいうものはなくなるのです。
 人間存在は不思議なものです。不思議という言葉が聖なる者という意味です。ヤコブがオールリビングのマナーを聖としなさいと言っているのは、自分が生きている一つひとつの事がらに、不思議を感じなさいという意味です。
 今、目が見えること、耳が聞こえることは瞬間、瞬間です。目の働きや耳の働きは、瞬間です。
 山は十年前にあった。二十年前も、三十年前もあったと思えるのです。意識はそういう永遠性が分かるのです。一方、瞬間にしか生きていないことも分かるのです。
 目や耳の瞬間性の命と、意識という永遠性の命と両方が調和して人間の命になっているのです。これが聖なることです。
 瞬間と永遠性は正反対のことです。正反対のことが人間によって統一されているのです。これが私たちの意識によって、新天新地の基礎的な工作ができるという可能性があるのです。
 人間存在は全く聖なるものです。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」、全能者にして主なる神と人間の本性が、神を賛美しているのです(ヨハネの黙示録4・8)。神を賛美することが、人間自身の本性を認識することなのです。
 そうすると、人間の本体が霊なるものになってしまうのです。イエスはこういう感覚で生きていたのであって、人間はその真似ができるのです。四つの生きものの賛美と同じ内容が、人間自身にもできるのです(同4・6~9)。
 人間自身の精神構造は、神の御座の前にいるのです。ですから、神の御座の前で冠(プライド、自尊心)を捨てるのです。自分が生きているという冠を捨てるのです。そうすると、その人の命は永遠の命になってしまうのです。冠をかぶったままではだめです。
 御座の前で冠を捨てると、皆様の命は死なない命に変化してしまうのです。そうして、神の国が見えるのです。
 「新しく生まれると神の国を見ることができる」と、イエスが言っています。こういうイエス自身の実感が私たちの実感になるのです。
 悪魔が天で罪を犯して地に落ちたように、人間も天で陥罪したのです。そして、地に落ちたのです。人間と悪魔はそっくり同じことをしているのです。
 人間を見たら悪魔が分かるのです。ただ違う所は、悪魔は悔い改めができないということです。悪魔は肉体を持っていないからです。
 イエスは、「人間と悪魔が同じことだということを知らせるために、悪魔が稲妻のように天から落ちた」と言っているのです。
 私たちが見ている太陽系宇宙は神の幕屋ですし、神の約束の全体です。神のスケールがそのまま現われているのです。聖書六十六巻は、太陽系宇宙そのものです。
 聖書を物理的に現わせば、太陽系宇宙になるのです。太陽系宇宙を論理的に編集すると、聖書六十六巻になるのです。聖書と太陽系宇宙は同じものです。それを認識することができるのは人間だけです。
 人間が認識すれば、認識したとおりにその人は扱われるのです。自分の信仰のとおりにその人に命が与えられるのです。
 悪魔は悪魔の認識どおりになっているのです。私たちは悪魔の子であったけれど、それをひっくり返して、肉の人間が裏返ったらいいのです。肉が霊に変わってしまうと、神の子になってしまうのです。
 私たちにはすばらしい感度が与えられているのです。イエスが持っていたのと同じ感度です。イエスは肉の世界を霊の世界に変えてみせた。それに対して、聖霊が鳩のように下ったのです。
 私たちもまた、イエスと同じことができるのです。肉の世を霊の世に変えることができるのです。
 東方の天使である私たちに、生ける神の印が与えられたのです(同7・2)。生ける神の印が、新天新地の構成原理にならなければならないのです。
 生ける神の印とは何か。人間が生きているということ、リビングがそのまま救いです。リビングがそのまま救いになっているのです。これ以上の完全な救いはないのです。
 リビングが救いであるという実証を、額に受け取って頂きたい。今生きているリビングが、そのまま永遠の命であるということを、皆様は自分の額で受け止めなければならない責任があるのです。
 全人類に代わって、ユダヤ人に代わって、現世全体を代表する意味で印を受け止めて、その印をユダヤ人に与えるのです。私たちにはその責任があるのです。
 私たちが神を信じるのではない。神が人間にどういう処置を取っているか。アブラハムはどんな約束を与えたのか。なぜ神がユダヤ人を叱責しているのか。ユダヤ人が救われて王国が実現するために、どういう信仰と祈りを持たなければならないのかということを、考えなければならないのです。
 私たちは時間と空間という不思議なものを見ているのです。時間はないのです。時間があることを科学的に証明できないのです。
 それでは、時間がないかというとあるのです。前から流れてくるものがあるのです。
 時間とは何か。未来が時間となっているのです。時間という受け取り方が間違っている。未来として受け取らなければいけないのです。そうすると、時間が霊になるのです。
 私たちが信じても信じなくても、前から流れてくる時間以外に時間はないのです。私たちは信じても信じなくても、神の約束の現実に生きているのです。
 神の約束の他に命はありません。神の約束の他にリビングはありません。生きていることが約束によるのであって、これが永遠の命です。
 私たちは未来から流れてくる、神の約束によって生きているのです。神の約束が永遠の命の実体です。これがキリストの実体です。これに乗っていけばいいのです。
 前から無限に流れてくるのです。無限の神の栄光が流れてくるのです。これが御座の実体です。これが命の実体です。
 そこで、御座の前で冠を投げ出すのです。
 私たちが生きていることが、そのまま約束になっています。これを認識するだけでなくて、それを命にするのです。
 女の人は認識したらそれがすぐ命になるのですが、男は認識しただけでは命にならないのです。冠をかぶっているからです。冠を投げると認識ができるのです。
 平明に綿密に自分を見るのです。太陽系宇宙が人間存在になっている。私たちがそれを認識すれば新天新地になるのです。
 現在の世界では、何が救いか、何が滅びか、ごちゃごちゃになっています。救いと滅びを分けるのです。イエスはこれをしました。私たちもこれをしなければならないのです。これが救いだ、これが滅びだと、人々に言わなければならない。また、万物にそれを示さなければならないのです。これが私たちの責任になるのです。
 
7.悪魔の反逆(1)
 
 神は私たちを、神の名を持ち行く選びの器にしたいと思っています。
 神の名を持ち行く選びの器になるために一番必要なことは、十字架を正しく自覚することです。十字架を正しく受け止めることなしに、神の名を持ち行くということは絶対できないのです。
 十字架を理解せずに伝道すれば、宗教になるに決まっています。日々十字架を負うのです。毎日、事ごとに十字架を負うのです。
 これは自尊心を徹底的に捨て去ることです。今の人々にとって十字架というのは自尊心を捨て去ることだと言えば、一番分かりやすいでしょう。
 明治、大正時代の日本人には生活難がありました。今は生活難はなくなっています。どうしても生活できない状態であれば、生活保護と称して国家が養ってくれるのです。ですから、生活の危険というのは、今の人間にはほとんど感じないでしょう。
 真面目に働く気持ちさえあれば生活できるに決まっているのです。食べていけるに決まっているのです。結局、自尊心を徹底的に捨てなければ、十字架を負うことにはならないのです。
 どのような不合理なことを押し付けられても、それに対して決して反感を持たないことです。反感を持たないどころか、どのような不合理なことに対しても、喜んで同意できることが、十字架を負うことの基本的な姿勢になるのです。
 伝道するということは福音を伝えることですが、これは神の兵卒を務めることであると聖書は言っています。
 兵卒というものは、作戦に関する疑問とか、見解とかいうことについて、いちいち自覚しなくてもいいのです。兵卒はただ闘えばいいのです。どのように不合理に思える命令であっても、それは司令官の方針によって作戦が決定せられ、また命令が下されることになるのです。
 兵卒を務めるということは、ただ命令を実行するだけです。命令の内容に不信な点があっても、不合理に思われることがあっても、そういうことを一切捨ててしまって、ただ命令に従うのです。これができなければ神の伝道者にはなれません。
 私たちはただ十字架を負えばいいのです。十字架によって死んだらいいのです。毎日死んで暮らせばいいのです。
 これは現代人にとっては最も嫌なことです。一切の不合理、不可解、不平、不満を徹底的に捨ててしまうのです。
 不平とか、不満とか不合理を感じることが、人間の業(ごう)です。人間の業をいちいち問題にしていたのでは、とても神の兵卒を務めることはできません。
 これができるかできないかを神は問うているのです。一切合切、自分自身の思惑を捨てるかどうかです。
 イスラエル伝道という事自体が神の思惑です。神の思惑と言うより、神でさえも表面に出しておられない、言うに言われない非常に奥深いものなのです。
 現世において表面から神に逆らって、聖霊降臨という事実を無視して、新約時代であるという事がらをも基本的に無視している。平気で神に逆らって、肉の思い、この世の思いを堂々と表面に押し出しているのがユダヤ人です。
 このユダヤ人に伝道するということは、全く矛盾したことになるのです。不合理そのものです。
 歴史の表面で見ると、神はイスラエルを憎んでおられるのです。ユダヤ人に伝道するということは、神に逆らって行うことになるのです。このこと自体が基本的に不合理です。
 神に逆らっているユダヤ人は、地獄へ行けばいい人間です。神に逆らっているから、地獄行きに定められている人間です。「豚に真珠を与えるな」というイエスの言葉を用いるとすれば、ユダヤ人こそ正に豚そのものになるのです。豚そのものと言わなければならない立場を、ユダヤ人が造ってしまったのです。
 こんな人々に伝道する責任はないというのが、キリスト教の気持ちです。「豚に真珠を与えるな、ユダヤ人にはつばをかけておけばいい」と言うのが、現在の世界の人間の考え方です。
 私たちはそれに逆らって、世界歴史の流れと神の処置に反抗して、イスラエルの救いを祈っているのです。そういう不合理そのものに、私たち自身の運命を突っ込んでいるのです。
 だから、皆様は自分自身の見解の不合理性を考えるとすれば、とてもイスラエル伝道の器ではありません。
 私たちはやってはならないことをしているのです。表面上少なくとも、そういう形になっているのです。歴史の流れから考えても、神の御霊の処置から考えても、ユダヤ人に伝道するということ自体が、神の御霊に逆らっているとさえも言えるのです。
 ですから、皆様が気楽な気持ちでユダヤ人に祈っているとすれば、初めから全然問題にならないのです。
 現世における自分の立場をはっきり捨てるか、自分自身の救いを全部棒に振るか、こういう度胸があるかどうかです。
 私に福音の原理を示されたのは、全く考えられない恵みによるのです。イスラエルの回復のために一生を捧げたため、私の命をそのために棒に振ったために、福音の根本原理を教えられたのです。また現在、さらに深く教えられつつあるのです。
 もしイスラエルの回復を祈ってそれが悪いのなら、神の処置に甘んじて、自分自身が地獄へ落とされてもいいと思っているのです。その代わりにユダヤ人を救ってもらいたいのです。
 これは極端に言いますと、表面上、神に逆らうことになるのです。イスラエル伝道を願うのなら、そういう覚悟がいるのです。どんな不合理なことを与えられても、それを黙って受け取るかどうか、一切自分の立場を捨てるかどうかが、イスラエル伝道への器となる基本的な姿勢です。
 「己が腹を神とするな」と神が言っています。己が腹を神とするということは、自分の意見を立てることです。また、自分の見解の合理性を口に出さなくても、自分の思いに置いていることです。これが己が腹を神とするということです。
 自分自身の合理性を腹の中に置いてさえもいけないのです。それを口に出すのは、もってのほかです。これくらい自分を捨てて、無理に己を捨てて、毎日死のうと心掛けるのでなかったら、とてもイスラエル伝道はできません。
 「イエスは悲しみの人で病を知っていた」と、イザヤは預言しています(イザヤ書53・3)。悲しみの人というのは、神の御心にある場合、逆らわなければならないことを意味するのです。
 そうして、人間の思いにも逆らわなければならないのです。人間の思いにも逆らわなければならないし、表面的には神の御心にも逆らわなければならないという痛烈悲愴な、悲愴という言葉ぐらいでは現わせない、本当に深い悲しみであったのです。
 しかし、このような悲しみをあえて承知するのではなかったら、宇宙の矛盾を撃滅することはできないのです。悪魔を滅ぼすことはできないのです。
 悪魔に勝つためには、一切の合理性を捨ててしまわなければいけないのです。現世的な合理性、霊的な合理性、このどちらも捨ててしまわなければならないのです。
 神からも捨てられ、人からも捨てられ、一切孤独の無限地獄とでも言えるような寂しさに、自分の魂をさらさなけばならないのです。それだけの度胸がいるのです。これが悲しみの人であるという意味です。
 実は、父なる神の中には非常に深い悲しみがあるのです。せっかく造られたこの天地を悪魔に逆用されている。せっかく神の形にかたどりて、神の形に造られた人間が、悪魔に利用されて神に反逆しているのであって、これは造り主である全能者の角度から見ると、たまらないほど辛いことなのです。
 しかも、人間たちの浅はかさ、悪魔の全くけしからんやり方を、全能者が指一本動かせば、人間も宇宙も悪魔も全部潰してしまえるのです。それを神はしないのです。それをしないでじっと見守っていて、自分自身の約束が成就するかしないかについて、神は一切積極的な意見を述べることはしないのです。
 父は黙ってその成り行きを見ておられるのです。何のためか。愛のためです。
 神が指一本動かして、怒りによって神自身の正義を実行すれば、宇宙はいっぺんに吹っ飛んでしまうのです。
 ところが、それをせずにじっと見ておられるのは、まず第一にこの世界を完成すること、またその世界の王者として神に造られた人間を完成すること、そして、被造物を完成してやろうという神の御心があるために、神は忍びがたきを忍んでじっと黙っているのです。
 この神の悲しみをイエスはそのまま呑んだのです。
 しようと思えばいくらでもできることを、神はしないのです。そのような惨憺たる矛盾と不合理性の中に、私たちは置かれているのです。
 私たち自身の生活において、合理性とか人間自身の立場から考えた正義人道とか、自分自身の正義感とかいうものがあってはならないのです。
 私たち自身の存在には正当性は何もないのです。だから、毎日十字架を負いなさい。どんなことでも全部捨てなさいと言いたいのです。死ぬことを覚悟して生活しなさいと言いたいのです。
 どんなに嫌だと思えることでさえも、目をつぶってまず自分自身の考えを捨てることです。それができさえすれば、私たちはかろうじて神のお役に立つことができるのです。
 私たち自身が救われようと考えてはいけないのです。私たちはやるだけのことをして滅んだらいいのです。だからこんなことをしたら救われるだろうかとか、こんなことをしてもいいのかと考えなくてもいいのです。滅ぼされることを覚悟で、どんどんしたらいいのです。
 私たちは神から幸いを受けようとは思いません。ユダヤ人が救われて悪いことは悪い、良いことは良いとなればいいのです。きちっと決まればいいのであって、私たち自身がどうなっても構わないのです。
 かつて、戦国時代、二万五千人の大軍にたった三百人で突っ込んでいったという戦いがありますが、私たちもこの心境でするのです。負けることは分かり切っているのです。しかし、私たちはもっと厳しい戦いをするのです。たった数人で七十三億人と戦うのです。それをするのであって、アメリカのアラモの要塞みたいなものです。私たちはそういう戦争を仕掛けなければならないのです。
 こういうことが神の私たちに対する命令だと思える者だけがしたらいいのです。人数は何人でも構わないのです。ナザレのイエスが呑んだ辛き杯を飲むことができる者だけがすればいいのであって、イエスと同じことをするのが嫌な人はやめたらいいのです。
 こういうことを私は考えているのであって、皆様の合理性は一切認めません。これがユダヤ伝道への基本的な姿勢になるのです。
 こういう決心をするためには、突き詰めた根本的なテーマの理解が必要になるのです。
 大体、天地が存在していること、人間が生きていることがおかしいのです。
 地球という惑星が、このような条件で宇宙空間に浮いていることはあるべきではないのです。その上に、神にかたどられた人間という奇妙な生物がいるのです。これもあるべき姿ではないのです。
 このようなあるべきではないという事態は、端的に言えば宇宙の間違いです。地球とか人間があることが、あるべきではないことがあるのだということに気付いて、一体こういう間違ったものがなぜあるのだろうか、このことを皆様がはっきり理解できていないと、十字架を負うということはできないのです。
 万物があることが間違っているのです。人間がいることが間違っているのです。そこで、まず私たちが到達しなければならない基本的な思想の基礎は何かと言いますと、「初めに神が天と地とを造った」と記されている(創世記1・1)、この初め以前の状態に立つことなのです。
 神が天と地を造る以前の状態は何であったのか。これが宇宙の正常な状態です。宇宙の当たり前の状態です。
 世の初めの前に何があったのか。どういう状態であったのか。この状態に立つことができさえすれば、初めて一切の矛盾を捨てることができるのです。そして、自分自身の存在を捨てられる気持ちになるでしょう。自分の意見を全部捨てる気持ちになるでしょう。
 大体、自分の意見というものは、あるべき道理がないのです。地球があるべき道理がない。従って、自分がこの世に湧いて出るという道理がないのです。現世の自分の生活に合理性があるとかないとかを考えること自体が、間違っているということが分かるでしょう。天地創造以前に立てばそうなるのです。これを空と言うのです。
 この空が分からなければ、絶対にイスラエル伝道はできません。
 人間が現世に生まれてきたということは、そのこと自体があるべからざることです。しかし、このあるべからざることでも、既に現在あるということは、そのあることに従って私たち自身のあり方を考えなければならないのです。
 人間がこの世に生まれてきたということ自体が、不合理なことです。こんなものは生まれる必要がないものです。
 宇宙にもし逆性が発生しなかったら、人間の存在は根本的に不用です。逆性が宇宙に存在することになったので、その逆性に対する順性としての役割を人間が果たさなければならなくなったのです。そこで、人間が生まれたのです。これは逆性が存在することを前提にしているのです。
 逆性が存在しなければ、順性の存在も不必要です。
 闇が淵のおもてに座り込んだので、闇をぬぐい去るために光が必要になったのです。
 光が現われたということは、闇の存在を前提にしていたのです。光があるということが闇から見れば不合理になるのです。
 人間が闇に属している場合は、闇から見れば合理性を持つのです。しかし宇宙存在それ自身から見れば、闇は不合理です。
 そこで、もし人間が順性になろうと思えば、自ら不合理にならなければならないのです。
 光というものは、宇宙が存在することから見れば不合理です。現象は闇です。闇が淵のおもてにあるからです。
 現象それ自体の性格は、逆性です。逆性が生じたから順性の必要が起きた。従って、人間がこの世に生まれたことの目的は、初めから現象的な宇宙に反対するために生まれたのです。これをイエスが証明したのです。
 人間が現象的な存在になったのは間違っているのです。人間存在の本性は霊なるものですから、これが肉となるということがおかしいのです。
 言(ことば)が肉となるとなることがおかしいのです。人間の魂の本性はロゴスです。宇宙的存在から言えば、ロゴスは肉とならないのが建て前です。それが肉となったのです。肉となったということ自体が、人間の本性に反することなのです。
 そこで、私たちがこの世に生まれてきたことが、人間のカルマとなるのです。
 ロゴスが肉となってこの世に生まれてきたことが、業(ごう)です。だから、業を背負って生きている以上、業を果たさなければならないのです。そのためには、徹底的に順性を実行しなければならないのです。順性そのものになり切ってしまわなければ、業が果てないのです。
 理屈をいくら勉強しても順性にはならないのです。理屈というものは、本来現象に属するものです。概念に属するものです。肉に属するものです。聖書の理論であっても、やはり理論は理論です。こんなものをいくら勉強しても逆性です。
 理屈は現象と同じことです。これを実行する時に初めて、人間が順性になるのです。
 人間が順性になるということは、現在の現象世界から見れば逆性になるのです。
 人間は神に対して順性になるということは、現象世界から見ると逆性になるのです。これが人間本来のあり方です。
 肉体を持っているということが、言からみれば逆性になるのです。言が肉となったのだから、言が逆性になったということです。だから、本来の言性を確認することになりますと、肉体を持っていることが甚だ迷惑な逆性になってくるのです。
 例えば、イエスは肉体を持っているために、悲しみの人にして病を知っているというような運命にさらされざるを得なかったのです。
 イエスは言が肉体となったために、自ら自分自身の人としての存在に、背かなければならなかったのです。
 イエスは肉体的に存在する人間の運命に背いた人です。皆様はいかがでしょうか。イエスを信じるなら、肉体的に存在する自分に背いてください。イエスはそれを敢行したのです。
 イエスはこれを、「天国を激しく襲う者たちがそれを奪い取っている」と言っています(マタイによる福音書11・12)。やってはならないことをあえてする人でなかったら、天国を奪うことはできないのです。これは自分自身のことを言っているのです。
 イエスは暴力を振ったのです。人間的がやってはならないことをした。言ってはならないことを言ったのです。これが神の子の証でした。皆様もイエスを信じるならそのとおりの道を歩むべきです。歩めないなら悪魔と共に運命を共にしたらいいのです。
 現象世界に仕えるか、霊に仕えるか、どちらかはっきりしなければならないのです。どちらでも自分の好きな方を選択したらいいのです。
 肉体的に存在する自分を認めるという立場に立てば、イエス・キリストを認めない立場になるのです。
 イエス・キリストを信じる立場に立てば、肉体的存在の自分を認めない立場になるのです。
 肉体的に存在する自分の場に立てば、イエス・キリストを信じられない立場に立つのです。当然そうなるのです。
 イエスという人物は、人間に対する徹底的なアンチテーゼです。人間存在とイエスは、正と反の関係になるのです。従って、正が正であるままの状態で、反を信じることはできないのです。正が自分自身を解脱しなければ、反を入れることはできないのです。
 肉体的に存在する自分というものを捨ててしまわなければ、イエスを信じることは絶対不可能です。このことをパウロは、「イエスを主と口で言い現わせ」と言っています。
 自分は自分ではない。自分という存在は自分の主(あるじ)ではない。自分という人格性は自分の主(あるじ)ではないと言えと言っているのです。これを命令しているのです。強要しているのです。
 現在の人間、現象的に生きている人間は、逆性に生きている人間です。これは死ぬに決まっているのです。
 死から逃れようと思ったら、自分が主であることを捨てなければならないのです。イエスが主であると認めなければならないのです。
 皆様はこういう聖書の基本原理が分かっていない。だから、自分の合理性を並べるのです。自分の意見、自分の立場をすぐに持ち出すのです。これではユダヤ人伝道の器にはなれないのです。
 自分の立場、自分の経験、自分の信念、自分自身の合理性を捨てるかどうかということです。
 皆様の合理性は、皆様にとっては確かな合理性です。それは正しいのです。正しいから捨てるのです。自分の立場において正しいから捨てるのです。
 十字架というのは自分自身を裏切ることです。イエスがすべての人間を裏切ったように自分を裏切るのです。
 イエスは自分を含めてあらゆる人間を裏切ったのです。そして神に味方したのです。そういうことをしたのです。
 すべての人間は罪人ですから、あらゆる罪人を裏切ったのです。そして、罪人を救ったのです。
 罪人に賛成していれば罪人を救うことはできないのです。だから、罪人を裏切って罪人を救ったのです。これが十字架です。
 イエスは、「私は掟と預言を成就するために来た」と言っています。そのくせ山上の垂訓においては、掟を堂々と反駁しているのです。掟に反駁しながら、掟を成就するために来たと言っているのです。
 この逆説的なイエスの信仰、これがはっきり持てなければ、皆様の勉強は無駄なことになるのです。
 全世界のキリスト教は、人間存在の感覚性に対して、何とかして新約聖書を合理化しようとしているのです。
 キリスト教神学は、神の十字架を人間の肉性に合理化させようと考えているのです。危機神学とか贖罪論とか言って理屈を並べているのです。
 新約聖書は肉体的存在の人間を合理化するものではありません。絶対に不合理です。
 イエス・キリストは人間に対するアンチテーゼであって、アンチテーゼ的性格を拭い去ることはできません。非常に厳しい、非常に峻烈と言えるような対立があるのです。
 イエスと人間とは絶対に対立しているのです。だから、イエス・キリストを信じると言えるかどうか、もう一度考えるべきです。
 
 イエスは、「私は平和をもたらすために来たのではない。剣を投ずるために来たのである」とはっきり言っています。
 そして、また言っています。
 「私が来たのは、人をその父と、娘とその母と、嫁とその姑と仲たがいさせるためである。そして家の者が、その人の敵となるであろう」(マタイによる福音書10・34~36)。
 
 イエスによって剣が投じられたのです。それをキリスト教では勾玉か金貨が投げられたように言っているのです。新約聖書の扱いが全然間違っているのです。
 イスラエル伝道をいう以上、新約聖書に対する正しい見解を持っていなければならないのです。
 例え、イスラエル伝道の成果が上がらなくても、イスラエルに伝道したという実績は残るのです。その実績によって神の国は来るのです。
 ユダヤ人におべっかする必要はないのです。悪いことは悪いとはっきり言うべきです。
 その結果、ユダヤ人が一人も救われなくても構わない、伝道したという実績が残るのですから。その時は、私たち自身がユダヤ人になっているでしょう。霊なるユダヤ人が本当のユダヤ人だと聖書にあるからです。
 とにかく、徹底的に福音を信じるのです。私たちがイスラエル伝道をするためには、まず生まれるべきではない者が生まれてきたのだということから考えなければならないのです。
 生まれるべきではなかった者が生まれたということは、元をただせば、私たち自身が空であるべきだということです。
 元々空である者なら、自分の合理性は空なる合理性を述べていることになるのです。自分の立場というものは、空なる立場を認めていることになるのです。
 自分自身が空であると思える者は、自分自身を見つけることができるのです。
 そこで、世の初めの前に隠されたことを語ろうということを学ばなければいけないのです。神は、「世の初めの前から隠されていることを語ろう」と言っているのです(マタイによる福音書13・35)。
 世の初めの前から隠されたこととは何か。これは天地ができる前のことです。神が天と地を造る前のことです。
 天と地を造る前は空です。天もなかった。地もなかった。何もなかったのです。空だけがあったのです。
 私たち自身も本来空であったのです。従って、現在も空であるべきです。本来の自性に立つとすれば、本当の人間の魂に立つとすれば、必然的に空になるのです。自分自身の存在を空じることになるのです。そうすると、初めて空ではない自分が分かるのです。これは奇妙ですが、自分自身を空じることをしますと、空ではない自分が見えてくるのです。
 大体、空というものは何か。天地創造の昔から考えて、天もなかった地もなかった時に何があったのか、空があったのです。からっぽだったのです。
 しかし、からっぽとは何であろうか。実はこれは現象体として現われる何者もなかったという意味の空です。しかし、その空は恐ろしい内容を持っている空です。
 これを仏教では無始無終と言っています。聖書では永遠と言っています。永遠とか無始無終というものは、実は空なのです。
 ところが、これはただの空ではないのです。永遠という内容を持った空です。
 では永遠とは何か。存在論的に言いますと、無尽蔵を意味するのです。無始無終とは無尽蔵そのものです。
 同時にもう一つ言いますと、無尽蔵であり無始無終であることは、無限の可能性を含んでいるのです。これが空です。これが命の本体です。この本性を性(さが)とも言います。
 命であり性(さが)であるものが神です。宇宙の性(さが)、宇宙の命は空です。神を信じるとは空を信じることです。空を信じることは無限の可能性を信じることです。このことを神自身が、「我は全能の神なり」と言っているのです。これが約束の原理です。
 これが約束として現われた。これが天地創造です。この宇宙の性(さが)がメール(male)とフィメール(female)に分かれて、男と女になって現われている。ですから、性は無限の深さを持っているのです。セックスは無限の深さを持っているのです。
 性はすべてを生みだす無限の可能力です。それがセックスに現われているのです。男性の性器は無限の可能性をそのままシンボライズしているのです。無限の可能性のシンボルです。
 それを女性が慕うのです。女性は命を慕っているのです。空が分かると、初めて人間は神を信じなければならないことが分かるのです。
 空の実体は神です。私たちがこの世に生まれる以前は空であった。私たち自身が空であった。空であったということは、神と一つであったということです。
 私たちがこの世に生まれる前は、空だったのです。空であったということが、神と一つであったことです。神という空の中にいた。だから、人も空でした。これが本来の自性です。
 仏教では無一物即無尽蔵と言います。無一物という空と無尽蔵という空は同じです。からっぽという空と、いっぱい詰まっている空とは同じです。どちらも空です。無一物即無尽蔵です。
 天地が造られたということは、からっぽの空のように見えたものが、実は無尽蔵そのものであった。これを神が証をしたのです。
 悪魔は神のからっぽの方だけを見たのです。だから、神のやり方はとにかくのんびりしていて、何もしていないように見えるのです。無益なお方のように見えるのです。
 例えば、火星や金星のあり方を見てください。何のためにあるのでしょうか。砂漠の塊のようなものが空中に浮いているのです。銀河系には二千億か三千億の星があると言います。そうすると、火星や金星のようなものがどれだけあるのでしょうか。数え切れないほどあるかもしれないのです。
 宇宙には恒星や惑星と言われるものが無数にあるのです。何のためにそんなものがあるのでしょうか。これは神の愚かさがそのまま出ているのです。
 それを見て悪魔がバカにしたのです。神がそんなに愚かだから自分が大将になってやろうと考えたのです。
 皆様もそういう考え方をしていないでしょうか。見た所、神はバカにしたくなるようなお方です。皆様がいくら苦労しても、その苦労を神が知っていてくださるのかさっぱり分からないのです。神は見ていない、聞いていないと思うから、人間は文句を言うのです。
 神が見ている、神が聞いているとすると、神なんかあるもんかということは決して言わないのです。言えないのです。
 ところが、神はぽかんとしているのです。まるで火星や金星みたいになっているのです。全く無能の巨人のように思えるのです。これが地は形なく虚しくという状態です。
 地は形なく虚しいから闇が淵のおもてに座り込んだのです。ところが、神は見通しているのです。神の格好があまりに無能に見えるのです。それでついなめてしまうのです。神をバカにしてしまうのです。神を侮るのです。
 神はぽかんとして悪魔に任せていたのです。番頭だから番頭の仕事をしなさいと言って任せていたのです。仕事を任せていたから神はぽかんとしていたのです。
 ところが、悪魔にしてみると、自分は一所懸命に仕事をしているのに、神はぽかんとしているから、いっそのこと自分が大将になった方がいいと考えたのです。
 神は無一物即無尽蔵です。空にして空なる絶対者です。しかも、その空はいっぱい詰まっている空です。ところが、絶対のからっぽです。絶対の空が分かると、いっぱい詰まっている自分が分かるのです。
 自分自身が本当にからっぽであることが分かると、自分のすべての願望や理屈をすべて放棄してしまうと、初めて自分自身に無限の充実感を感じることができるのです。これをして頂きたい。
 自分の意志を捨ててしまうのです。そうすると、無限の充実感を味わえるでしょう。全部捨てるのです。全部捨てると、無限の大盤石、神の平安を味わうことができるのです。
 神の安息とはこういうことです。一切理屈を言わないのです。そうすると、非常な平和と安心とが与えられるのです。これは十字架を信じなければ与えられません。十字架を信じると初めて本当の平安が与えられるのです。
 パウロは、「平安の神が汝らの全霊と全身を守りたもう」と言っています。平安の神自らが、汝らを守りたもうと言っているのです。
 神と仲良くするのです。神と仲良くすることは、空になることです。空と仲良くなりますと、無一物即無尽蔵と仲良くなるのです。無一物になれば無尽蔵になるのです。
 乞食のラザロはこれを心得ていたのです。ラザロの見事な無一物をご覧なさい。彼は富める者の食卓から落ちたもので腹を膨らまそうと考えていたのです。これが空の特長です。
 乞食であること、犬が出てきて顔をなめることを意識的に希望していたのです。なぜかと言いますと、そうなることによって無尽蔵の神が分かるからです。
 神のあり方は単純明快そのものです。直接簡明そのものです。これほど分かりやすいものはありません。
 無一物がそのまま無尽蔵である。こんな分かりやすいことはありません。言語に絶するほど簡単明瞭です。
 神の愚かさは、あらゆる人の知恵の集積より賢いのです。人間のあらゆる知能の集積よりはるかに聡いのです。
 十字架を受け取るというのは、最も聡明な人になりなさいという意味です。乞食のラザロはその道を選んだのです。
 だから、現世では自ら虚しいものでありたいと思ったのです。現世においては全く虚しいものである。あって無きがごときものである。そういう人間になりたいと思ったのです。
 金持ちの食卓から落ちるパンくずで腹を膨らませたいと願ったのです。やむを得ずそうしたのではなかったのです。これがイエスの心境です。
 皆様も現世に生きている自分が本当に空だと思えたら、利益とか損害はなくなるのです。自分がああしたい、こうしたいと思うから苦しみがあるのです。それを捨ててしまったら、現在あるがままの状態は、もったいないくらいに有難たすぎるのです。
 このことが分かれば、一切の理屈を捨てて神に従うべきです。自分の願いのすべてを捨てて神を選ぶのです。空を選ぶと、御子に添えて万物が与えられるのです。
 空を選んだということが、御子それ自身です。御子それ自身の立場で選んだことになるのです。乞食のラザロの立場を選んだことになるのです。
 そうすると、イエス・キリストが現世において生きていたのと同じ心理状態に置かれることになるのです。
 これに同意できる人がイスラエル伝道への器になるのです。これ以下の人ではだめです。どうせ失敗を覚悟して、あらん限りの努力をしなければならないのですから。
 自分の健康も、家庭も、商売もすべてを費やしても何の効果もないかもしれない。それでもあえてするのです。相手は天下のユダヤ人ですから、そんな人を相手に伝道しようとするのは、全く気違い沙汰です。
 ラザロが歩んだ道を、皆様が選ぼうという度胸があれば、皆様はパウロの同志、イエスの同志になれるのです。パウロやイエスから同労者と言われるでしょう。
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