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自己限定

 今、神は人間と世界の存在の秘密について、私たちに明かそうとしているのです。これを簡潔に言いますと、神の約束の秘密を示そうとしていることになるのです。

 人間と世界の存在の秘密ということは、簡潔に言えば約束そのもです。世界が存在しているのではない。人間が存在しているのではない。約束が形をとって存在しているのです。

 現在世界が存在していること、現象世界が存在していること、人間がこの世に生きているということは、約束によるのです。約束がなければ現象世界は、人間がいても無意味です。

 イエス・キリストの十字架を抜きにすると、人間の歴史があることが無意味になるのです。なぜ森羅万象が存在するのか。人間がなぜ存在するのか、皆目分からないのです。人間が生きているということが、思いもよらない驚くべきことを経験しているのです。ところが皆様はそれについての認識が全くないのです。

 鼻から息を出し入れしているということは、とこしえの命をそのまま経験しているのです。

 人間と世界の秘密については、今まで語られたことがなかったことです。これを神が私たちに教えようとしているのです。私たちは神の国を地球上に実現させるための先兵になるのです。

 肉の思いのしつこさ、悪さは異邦人には分かりません。異邦人は肉の思いがあるために、聖書が分からないのです。

 人間は無意識に今までの自分を信じています。だから新しい感覚で見ることができないのです。人間はこの世に生まれて数時間は生まれる前の命を保っているようです。誰でも生まれた直後は、エターナルライフを経験していたのです。その実感を幼子は持っているのです。

 ペテロは「今生まれた嬰児のように、誠の乳を慕い求めなさい」と言っています(ペテロの第一の手紙2・2)。今生まれた嬰児というのは、肉の人間を指していないのです。今生まれた嬰児はとこしえの命をそのまま経験し、実感している霊的状態を指しているのです。

 まだ現世の命を経験していない魂は、前世の命を持っている魂です。ベビースマイルの神秘さを見てください。その顔にはエターナルライフのすばらしさが見えるのです。

 パウロは「天地が造られる前に、キリストに会って選ばれていた」と言っています(エペソ人への手紙1・4)。天地が造られる前にいた世界は、死なない世界、死がない世界です。

 現世にいる人間は皆死んでいくのです。死とは何かと言いますと、限定された状態を指すのです。時間、空間は限定されたアイデアを指すのです。

 限定されたアイデアというのは、死の下に置かれて、死によってひしがれたロゴス(言)を指すのです。死によってロゴスがひしがれているのです。これが時間、空間です。

 時間、空間の概念は、無限のロゴスとは違います。有限のロゴスです。闇はロゴスを取り込もうとした。そこで神は闇の中からロゴスを引き抜いたのです。

 闇が淵の表に定着しはじめた時に、神はこれはいけないと思って、闇と光を分けたのです。

 それまでは、神と闇がロゴスを共有していたのです。ロゴスは神のものでもあり、また闇のものでもあったのです。ところがロゴスを限定する思想が闇の中にできた。淵の表という限定する思想が闇の中にできたので、神は闇の中からロゴスを抜いてしまったのです。

 それ以後は、ロゴスは神の専属になったのです。ところが、闇はそれを知らないのです。「暗きはそれを悟らなかった」とあるのです(ヨハネによる福音書1・5)。

 人間は時間や空間はなければならないものだと考えている。そのような不自由な概念によって自分自身を縛っているのです。自縄自縛しているのです。これが人間が死んでいる証拠になるのです。

 現象意識は自らを時間、空間に限定してしまう意識です。これが死んでいることを意味するのです。次元が低いというのは、自分で自分の次元を限定しているからです。スケールを限定しているということは、神の言葉を信じていないことになるのです。

 神の言葉は無限に生々発展するものです。時間があると考えることは、神の口から出る言葉を無視しているのであって、神のロゴスが持つ本来の永遠性を認めていないことになるのです。

 皆様は自分の思想が自分自身を限定しているかどうかを点検する必要があるのです。

 誰かに誤解されたとします。すると誤解されたという言葉によっって、自分自身を限定するのです。これが腹を立てるという状態になって現われるのです。

 誤解されると実害があるように勝手に思うのです。だからそれを無視することができないのです。敵ができるというのは、敵という限定を設けたことになるのです。

 腹を立てる。焼きもちをやく、悲しむ、苦しむ、思い煩うというのはすべて自己限定です。皆様の中にあるあらゆる苦しみ、嘆き、悲しみは全部自己限定であって、自分自身の本体が神の言葉であることを知らないから起こっているのです。

 五官の本性は神の言葉です。神の言葉であるロゴスが肉になったのが人間です。

 人間は生まれた後のことしか知りません。自分で自分を限定しているのです。そこで思い悩んだり、苦しんだり、恨んだり自己限定しているのです。臍を曲げたりするのです。自分自身の本性であるロゴスを限定しているのです。ロゴスは命です。自分の命を自分で限定しているのです。

 霊において貧しいとはどういうことかと言いますと、現在の人間のあらゆる思索に対してプアー(poor)であれと言っているのです。現世の人間のことを考えるなと言うのです。

 私たちは現世に生きるために生まれてきたのではなくて、永遠の命を確保するために、永遠の生命から生まれてきたのです。

 現世に生きるために生まれてきたのではない。永遠の命を確認するために生まれてきたのです。三次元の世界で神の栄光を確認するために、前世から現世に生まれてきたのです。

 従って、世間の色々なできごとによって、限定されてはいけないのです。それに限定される人は、闇が淵にあるのと同じ心理状態になるのです。

 この世は淵の表です。これが現象です。闇が淵の表にありとは、闇が現象の表にあるということです(創世記1・2)。

 淵は現象です。闇が現象の表にあった。それと同じ意識が皆様にあるのです。だから自己中心に考えるのです。自分に同情するのです。

 自分に同情することは、すべて悪魔に同情することになるのです。この原理をよく理解して頂きたいのです。

 人間は限定された生命観、時間、空間という限定された意識で生きています。これは生きているのではなくて、死んでいることを意味するのです。

 自ら自分の意識を限定することは、自分の魂を神の言葉として認めないのです。リビング・ソール(living soul)を自覚していないのです。

 リビング・ソールということは、ちりである人間に形を与えたということです。人間をちりで造ったのではありません。ちりである人間に形を与えた。そうして鼻から命の息を吹き込んだのです。そこで人が生ける者となったのです(同2・7)。

 ちりであるものに形を与えただけです。人間は初めからちりです。鼻から命の息を吹き込んだと書いていますから、神が人間を造ったと考えるのですが、そうではないのです。そう考えてはいけないのです。

 人間の肉体は地球のあらゆる要素が集結しているのです。金も鉄もダイヤモンドも入っているのです。なぜそうなるかと言いますと、地球のあらゆる要素はちりで造られているからです。

 人間の肉体に地球のすべての要素が含まれているという点から考えても、人間はちりに形を与えたものになるのです。

 だから人間は絶対に自分自身を限定してはいけないのです。腹を立ててはいけない。悩んだり苦しんだりしてはいけないのです。悩んだり苦しんだりすることは、すべて限定することです。

 神は人間の霊魂に無限の可能性を与えているのです。これが世々限りなく王となるということです。これが神がアブラハムに与えた祝福の目的です。

 人間には無限の希望と恵みが与えられている。神がアブラハムに与えた祝福の目的は何であったのか。キリストと共に神の相続人になることです。これは無限定でなかったらできない仕事です。

 世々限りなく王となるのは、キリストと共に無限定の王になることです。あらゆる可能性は人間のマインドに集約されている。本当のマインドはリビング・ソールの実体を把握したマインドです。

 リビング・ソールによりて本当のマインドができるのです。マインドがソールを押さえつけないで、ソールがマインドを指導するのです。そうすると魂と精神との関係が逆転するのです。

 ロゴスである魂のあり方がマインドに対してリーダーシップを取るようになりますと、ロゴスの原理に従って、マインドがどんどん伸びていくのです。これが皆様の本来の面目です。

 この世に生まれた後に、現世で育った自分を自分だと信じてはいけないのです。この世に生まれた後の自分を信じる時に、自動的に自己限定してしまうのです。私は会社員だとか、私は主婦だ、私は弁護士だ、私は社長だと思ってしまうのです。これが自己限定です。

 言(ことば)が肉となったのが正しい人間観です。言は神のロゴスです。これが肉となった状態が魂です。これが五官です。これが限りなき命の証です。

 限りなき命を持っているという信仰で食べるのです。そうすると味が変わってくるのです。イエスはそういう食べ方をしていたに違いないのです。

 イエスの五官は限定されていない五官でした。「見えるものは現われているものから出てきたのではない」(ヘブル人への手紙11・3)という短い言葉が現わしているのは深遠無双です。これは私たちに与えられた機能が無限界、無窮の神の栄光を持っていることを示しているのです。

 パウロは次のように述べています。

 「あの時には、御声が地を震わした。しかし今は約束して言われた。『私はもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう』。

 この『もう一度』という言葉は、震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している」(同12・26、27)。

 この地球には震われないものがあるのです。もし皆様が命と息と万物を与えられている本当のリビング・ソールという自覚を持つとすれば、震われないのです。しかし現世に生きているあらゆる人間は、全部震われるのです。

 リビング・ソールは肉体を持っている人間を指していないのです。肉体人間は造られたものです。形を与えられたものです。しかしリビング・ソールは鼻から息を吹き込まれたことによって、生ける者となった事がらを指しているのです。

 肉体人間そのものではなくて、肉体人間として生かされている事がらそのものです。これが霊です。神がねたむほどに愛しているという人の霊です。

 人の霊と人間とは違います。人の霊は震われないのです。神自ら鼻から命の息を吹き込んでリビング・ソールを造ったのであって、これは肉の思いで生きている肉体人間を意味していないのです。

 肉体的に存在する自分を意識しないで、生かされている自分を見るのです。生かされているという事がらだけを見るのです。そうすると霊と誠を持って神を拝することができるのです。肉体的に生きている人間は、神が信じられるはずがないのです。

 自分がいないというのは、肉体的に生かされているという条件の自分はいないということです。リビング・ソールとして神に生かされている霊なる自分はいるのです。

 肉体的な自分はいない。従って悩んだり、暗くなったり、臍を曲げたりする人間はいないのです。この世に生かされているという事がらだけがあるのです。利害得失に関係がない人間がいるのです。肉的な喜怒哀楽に関係がない人間がいるのです。

 結局、肉体的に生きている人間を信じている人は、神を信じることはできません。全部宗教観念になるだけです。

 神が新天新地を造るために、造られたものはすべて取り除くのです。肉体があると思って死んだ人は、震われる記憶を持って死んだのですから、地獄で徹底的に震われるのです。

 目に見える現象世界は、造られたものとしてすべて震われるのです。正に第一創造(現在の現象世界)は悪魔を騙すための餌だったのです。

 そこで皆様の中にある現象意識でできた記憶を取り去ってしまわなければいけないのです。そのためには霊の思いで生きるしかないのです。

 肉体人間として生きないで、生かされている自分を見るのです。リビング・ソールとして生きるのです。人間として生きてはいけないのです。

 これを毎日、毎日自分に言い聞かせて生活するのです。そうすると喜怒哀楽の情が、がらっと変わってしまいます。利害得失の観念が変わってしまいます。これが山上の垂訓(マタイによる福音書五章から七章)の原理です。

 新約時代に生かされているということは、キリストを経験しているのです。だから肉の思いで生きてはいけないのです。

 肉体に平伏してはいけない。それは皆刑罰に続いているからです。信仰によって歩む、霊に従って歩むなら、地獄へ行かなくてもよいのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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