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悪魔の反逆の前に人は造られた

 聖書に次のようにあります。

 「これらのことを証する方が仰せになる、『しかり、私はすぐに来る』。アーメン、主イエスよ、来たりませ」(ヨハネの黙示録22・20)。

 私はすぐに来るとあります。この言葉が何を意味するかです。キリスト教の神学では、求める者にキリストが精神的に臨むと言っていますが、これが間違った解釈です。

 この箇所の前から読んだら分かりますが、これは地球の運命に関する預言です。単なる神学思想ではありません。地球の歴史に関することを言っているのです。

 地球の造り主である者、これを証した人がいうとあります。地球を造った人、また造られたことについての責任者が言っているのです。

 地球の終末を証することができる人は、地球を造った者か、地球が造られたその目的の人格か、どちらかです。地球の運命を予告したり預言したりする人はそういう人です。

 私はすぐに来るというのは、第三天でキリストであるイエスが「父よ彼らを許したまえ。彼らはそのなす所を知らぬなり」と祈り続けているからです。この祈りが今日聞かれるか、明日聞かれるかという期待を持ってキリストが祈っているのです。

 「父よ彼らを許たまえ、彼らはそのなす所を知らぬなり」。この祈りをずっと続けているのです。だからこの祈りが今日聞かれるか、明日聞かれるかとキリストが待っているのです。すぐに来るというのは、すぐに来たいというキリストの熱烈な希望の現われです。

 皆様は信仰によってイスラエルの回復を祈っていないからいけないのです。

 自分の祈りが今日聞かれるか、明日聞かれるか、指折り数えて祈っているのです。こういうキリストの熱情、イスラエルを愛する彼の情熱が分からないのです。

 同じ章の十二節には「見よ、私はすぐに来る。報いを携えて来て、それぞれのしわざに応じて報いよう」とあります。

 聖書の言葉を生ける神の言葉として読んでいないからいけないのです。人間が生きていることが、そのまま神の言葉になるのです。

 イエスの十字架上の祈りはそのまま第三天における祈りになっているのです。第三天におけるイエスの祈りが、そのまま私たちのハートに移っているのでなかったら、イスラエルのための慟哭(どうこく)にならないのです。そのために聖書を信じなければならないのです。

 キリストが再臨すれば、地球は一遍に元の地球になります。人間が罪を犯さなかった時の地球になるのです。地球が回復することは、人間全体の罪が許されたという印になるのです。

 自分が生まれる前の状態を認識していないからいけないのです。今の命だけしか知らないからいけないのです。

 イエスは言っています。「父よ、世が造られる前に私がみそばで持っていた栄光で、今、御前に私を輝かせてください」(ヨハネによる福音書17・5)。

 これがイエスの信仰です。世が造られる前にみそばで持っていた栄光を、イエスは知っていた。これがイエスの信仰の基礎になっているのです。

 世が造られる前に、神のみそばで持っていた栄光が分からない者は救われないのです。

 私たちが生まれる前に、神の栄光を持っていなかったら、聖書が信じられるはずがないのです。聖書を信じたいという気持ちがあれば、世が造られる前の栄光が分からなければならないのです。

 救われたらどうなるかが、すぐ分からなければならないのです。私たちが救われるとすれば、生まれる前の栄光に帰るしかない。他に行く所がないのです。私たち自身が生まれる前の栄光とは、世が造られる前の栄光です。

 イエスが今、第三天で祈っているのは、イスラエルが回復されるためです。回復の兆候が見えれば、キリストが祈りの座を立たなければならないのです。

 イエスは祈りの座を立つために祈っているのです。イスラエルの罪が許されること、イスラエルの目が開かれること、悪魔の権威が地に落ちてしまうように祈っているのです。

 これは悪魔の権威が底なき穴に閉じ込められることを意味するのです。悪魔の考え方、悪魔の思想は底なき穴です。

 今、ユダヤ人が悪魔を信じているために、悪魔が足場を持っているのです。悪魔が活躍できるのです。悪魔はイスラエルを自分の足台にして活躍しているのです。

 イスラエルが悔い改め始めたら、地上における悪魔の足場がなくなってしまうのです。そうすると悪魔が底なき穴に閉じ込められるのです。悪魔が底なき穴に閉じ込められたら、地球上の一切の災い、悩み、矛盾、混乱が一応消えてしまうのです。完全になくなるのは新天新地になってからです。

 現世的には地球の災いが一応消えてしまうのです。人間の原罪が無視され消えてしまうからです。

 イスラエルが寸刻も早く救われることを、キリストであるイエスは、熱烈に祈り続けているのです。私たちがイスラエルのために祈っているのは、イエスご自身の祈りなのです。

 この祈りが聞かれさえすれば、イエスはすぐにやって来るのです。この祈りが聞かれたら、地球はすぐに回復するのです。

 ユダヤ人が神に抵抗している。それで地球が呪われているのです。地球に地震、台風、津波、噴火、洪水、旱魃、飢饉、異常気象、伝染病、ガン、エイズ、インフルエンザが多発しているのは、ユダヤ人が神に反抗しているから起こっているのです。

 これはユダヤ人の罪でもあるが、私自身の罪のせいでもあるのです。

 全地が呪われているのが、自分自身の罪であると認識することができる者は、神の一族です。

 イエスは全人類の罪を自分の罪だと考えた。自分自身の存在が罪を滅ぼすための存在であると考えたのです。

 今、人間の原罪はイエス・キリストの十字架によって許されているけれど、ユダヤ人がまだ悔い改めていないことが、地震になったり、台風、洪水、津波、旱魃、飢饉、伝染病、病気になっているのです。

 ユダヤ人の罪を自分の罪のように考えて祈るのです。第三天のキリストの祈りに合わせて祈るのです。

 聖書に次のようにあります。

 「 主が昔そのわざをなし始められる時、

  そのわざの初めとして、私を造られた。

  いにしえ、地のなかった時、

  初めに私は立てられた。

  まだ海もなく、また大いなる水の泉もなかった時、

  私は既に生まれ、

  山もまだ定められず、丘もまだなかった時、

  私は既に生まれた。

  即ち神がまだ地をも野をも、

  地のちりのもとも造られなかった時である。

  彼が天を造り、海のおもてに、大空を張られた時、

  私はそこにあった。

  彼が上に空を堅く立たせ、

  淵の泉を強く定め、

  海にその限界をたて、

  水にその岸を越えないようにし、

  また地の基を定められた時、

  私はそのかたわらにあって、名匠となり、

  日々に喜び、常にその前に楽しみ、

  その地で楽しみ、

  また世の人を喜んだ」(箴言8・22・~31)。

 口語訳と新世界訳とでは原本が違いますので、文面がだいぶ違います。「私は定めのない時から立てられた」とあります。定めのない時というのは、時間的な定めがなかった時、即ち時間が存在しなかった時という意味です。

 その時から皆様は立てられていたのです。もしそうでなかったら聖書を勉強したいと思うはずがないのです。時間ができる前から神の元にいた人なのです。

 定めがない時から私は選ばれていたという感覚です。初めに神が天と地とを創造されたと創世記の一章一節にありますが、その前に造られたのです。

 初めという時があったのです。新世界訳では「定めのない時から立てられていた。初めから地よりも前の時代からである」とあります。

 二十四節は口語訳では「まだ海もなく」とありますが、新世界訳では「水の深みもなく」とあります。海というものが、闇が淵の表にある淵になるのです。

 「また私は生みの苦しみを伴うかのようにして産み出された。それは水のみなぎる泉もなかった時である」とあります。

 大いなる水の泉も、淵と同じことになるのです。海としての淵と水としての淵と二つの形の淵があるのです。

 海と水の淵は同じ淵のあり方でも違うのです。海は生物を産み出す淵です。水の泉は命の淵源としての淵です。

 淵がなかった時に、私は生まれたと言っているのです。淵がなかった時に生まれたということは、悪魔が反逆する前のことです。

 悪魔が背く前に、神は悪魔の反逆を見越したようにして、既に手を打っていた。だから悪魔の反逆が無効になってしまうことを、神は初めから知っていたのです。どういう方法で無効になるか。人を造っていたからです。

 二十二節に「主が昔そのわざをなし始められる時、そのわざの初めとして、私を造られた」とあります。「エホバご自身がその道の初めとして、昔その偉業の初めとして私を産み出された」というのが新世界訳です。

 かつて神は悪魔に神の全権を委ねて、その支配を任せていた。悪魔は輝くものとして、シオンの山で威張っていた時のことです。

 まだエホバ自身が業を全然始めていなかった。悪魔の業はありました。天使長の業はありましたが、エホバの業は全然なかったのです。

 その道の初めとして、昔その偉業の初めとして私を産み出された。この私はどういう人物を指しているかと言いますと、三十節に書いているのです。

 「私はそのかたわらにあって、名匠となり、日々に喜び、常にその前に楽しみ、その地で楽しみ、また世の人を喜んだ」とあります。

 新世界訳では「その時、私は優れた働き手として、神のかたわらにあり、神が日々特別の親愛の情を抱く者となった。私はその前で常に楽しんでいた」となっています。

 こういう方法で人間の脳細胞にインプットされたのです。神が情熱を持って生まれた者を愛したのです。神の情熱が、そのまま神の喜ぶ感覚になって自覚できるようになった。

 神が日々特別の親愛の情を抱くものとなった。親愛の情を抱いて人間に接したのです。「我らの形のごとく、我ら人を造り」とあります(創世記1・26)。神の形のように神が人を造ったのです。これが自分であることが分かった者は救われるのです。

 この世が造られる前に私がみそばで持っていた栄光とは何か。神が情熱を持って人を造ったということです。皆様は神を愛するという情熱はありませんけれど、聖書から離れられないのはなぜか。皆様がこの世に生まれるはるか以前に、神が情熱を持ってあなたがたに接していたからです。これが皆様の脳細胞にインプットされている。神の愛の本物が皆様に注がれているからです。

 だから皆様は何か分からないけれども、神から離れられないのです。自分が神が分からないくせに、なぜ信仰がやめられないのか。脳細胞がそれを知っているからです。顕在意識になっていないけれど、潜在意識が神を知っている。生まれる前に神に愛されていたこと、愛の痕跡が皆様の脳細胞に潜在しているのです。

 神の親愛の情が、脳細胞にインプットされていた。だから何か人生には秘密があるに違いないと思えるのです。

 なぜ聖書に魅力を感じるのか。生まれる前にインプットされていた神の愛情があるからです。

 神が人を選んだのです。人が神を選べるはずがないのです。だから、私たちは人間の思想以上のもので、神に絶対的な魅力を感じているのです。

 そういう霊魂を悪魔が反逆する前に、神が用意していたのです。神は人間となるべき者の素質を産んでいたのです。生みの苦しみを伴うかのようにして産み出された。これが二十四節にある言葉です。

 ただ生まれたのではない。生みたまえる一人子であって、質的に言えば一人ですが、数的に言えば神の子全体です。御子は数的に言えば複数になりますが、質的に言えば一人です。

 生みたまえる一人子の中に、イエスの中に選ばれていた者が全部入っているのです。愛を持ってキリストの内に選ばれていたと言っています。選ばれていた複数の霊魂は人格的、または能力的に言えば一人です。私を産んだと単数のように書いていますが、複数の私でもあるのです。

 アダムという名前は、単数でもあるが複数でもあるのです。人は人々をも意味しているのです。

 とにかく悪魔が淵の表に座る前に、神はこのような処置をしていたのです。悪魔が淵の表に座ることによって、神が産んでいた一人子は、そのまま神の役に立つ訓練を悪魔によってさせられたという意味になるのです。

 悪魔が生まれる前に、神が一人子を産んでいた。そして神の予定どおりに悪魔が反逆した。悪魔の反逆によって、産んでいた一人子は訓練されて、自ら一人子としての自覚を持つに到る。その過程、プロセスが悪魔によって生まれるのです。

 悪魔が反逆する前に、神は一人子を産んでいた。これがマインドです。これが預言書に書いてあります。箴言に書かれています。諺として書いています。ここに興味津々なるものがあるのです。この格言が自分だということが分かれば、その人は格言どおりの人間になっていくのです。

 預言ではないが格言です。これは神自身の正式な言葉ではありませんが、神自身の思惑をそのまま言葉にしたようなものです。これが箴言です。

 神の正式な言葉は、現世における神の摂理、神の経綸として神の口から出されるのです。

 諺は神の口から出た言葉ではありません。神の思いの内容が出ているのです。定めがない時という言葉を使っています。これが皆様の本性を語っていると思える人は幸いです。

 箴言は預言書ではありません。歴史書、律法の書でもない。だからユダヤ人は軽く見ているのです。神の内面的な思想の現われですから、神自身の心覚えみたいなものです。神学的に聖書を勉強している人は重視しないのです。ところが大変なことが書いてあるのです。

 歴史的に現われていない神の内心が出ているのです。イエスはそれを知っていた。ですから、「世が造られる前に、私が神の元で持っていた栄光で、今輝やかせてください」と言っているのです。

 二十七節に「神が天を造り、海のおもてに大空を張られた時、私はそこにあった」とあります。新世界訳は「神が天をそなえられた時、私はそこにいた。神が水の表面に丸を定められた時、私はそこにあった」となっています。

 大空を丸と言っているのは、地球が丸いことを語っているのです。地球が平らなものだったら、大空の上も平らなのです。

 神が水の深みの上に丸を描いた。私はそこにいたのです。大空を張られたのですが、これがちりです。その時に既にちりがあったのです。人をちりに帰らせたとは、その前のできごとです。

 大空を張る前に神はまず人を造り、その人をちりに帰らせた。このちりがマインドです。マインドは物理的な働きをしますが、心理的な働きもするのです。

 その時私は優れた働き手として、神のかたわらにいた。優れた働き手がマインドの機能です。これが霊です。心理でもあり物理でもあるのが霊です。霊なる者としてちりがそこにいたのです。

 ちりの正体は神のウィル(will)を受け止めて、自由に働くものです。神のウィルをそのまま顕現していくのです。これがマインドです。ウィルとマインドの関係はそういうことになるのです。

 神のウィルを聖書で学んだら、神のウィルが皆様のマインドに印されていくはずです。これが信仰です。この過程において初めて神と一つになれるのです。

 しかもこのマインドは奇妙なものです。一方においては心理的なものでもあり、また物理的でもあるのです。物理的ということが肉のマインドになるのです。心理的という面が霊のマインドになるのです。肉の思いの反面と霊の思いの反面とどちらでも働くのです。

 皆様がその気になれば、肉のマインドが霊のマインドに変わるのです。マインドにおける中心点を変えたらいいのです。

 自分で分かろうと思っているのはユダヤ的なやり方で、この場合には信じるという言葉が使えないのです。信じるというのは座標軸の移動です。

 この世に生きていると思っているから、肉の思いを霊の思いにできないのです。肉の思いは死である。霊の思いは命であり平安である。どちらでも自由になるのです。

 肉的にも霊的にもなるというのがマインドです。だから悪魔はマインドに勝てないのです。

 私たちは必ず悪魔に勝てるのです。座標軸を変えたらいいのです。この世に生まれてきた自分の性根を考えたらいい。生まれる前の性根がなかったら、生まれた後の性根がないのです。

 例えば砂糖をなめて甘いと感じます。生まれる前に味覚神経が植えられていなかったら、どうして甘いと感じるのでしょうか。すべての人間の生活の機能は、生まれる前に植えられた神の言葉が、生まれた後に肉体的に感じられるのです。生まれる前に植えられていなければ、生まれた後に肉体的に感じられるはずがないのです。

 生まれた小さな蜘蛛の子が、自分の体の何百倍もの大きさの精巧な巣を造るのです。蜘蛛の子はどうして巣が造れるのでしょうか。

 どんな生物でも生まれる前に植えられた神の言葉が、生まれた後の性向になっているのです。動物の性向は生まれる前に決まっているのです。定向進化というのは、生まれる前の状態に進化していくのです。これが定向進化の原理です。

 人間という妙なマインドを持つ生物がどうしてあるのか。定向進化の原理に従って、生まれる前からあったのです。生まれる前に五官の基礎があったのです。そうでなければ、生まれた後に五官がどうして働くのでしょうか。

 悪魔に勝つために神がそういう処置をしたのです。悪魔が反逆する前に、神は人間を造っておいたのです。

 全知全能の神が悪魔の反逆を許した。神が全能者であるなら、悪魔の反逆を許すはずがないのです。闇が淵の表にあるという状態を認めたのはなぜか。これは悪魔の反逆を許すことによって、神の計画が成就することを神が読んでいたのです。

 悪魔の反逆を認めることによって、神の計画が成就するのです。弁証法的な意味での計画が成就するのです。それを神は読んでいた。どうして読めたのか。悪魔が反逆する前に人間を造っておいたからです。

 その人間をちりに帰らせているのです。悪魔が反逆するや否や、神は丸を造って、そこにぎっしりちりをまいたのです。これが宇宙の秘密です。

 これは水の深みができる前のことです。水の深みがなかった時に、私は生まれたとあるのです。淵がまだなかった時、私は生みの苦しみを伴うかのようにして生まれた。

 なぜ生みの苦しみを伴うかのようにして生まれてきたのか。だいたい自分のウィル以外のものを神が造るためには、神自身が生みの苦しみを味わう経験をしなければならないのです。

 自分の子ではない者を産むのです。人間が猿の子を産むようなものです。普通では生まれないのです。神は神ではない異質のものを産んだ。だから生みの苦しみを味わうような生まれ方をしたのです。ここには興味津々たるものがあるのです。

 神は人を造った。人は肉の思いを持てる精神を持っているのです。肉の思いを持つ、そんな性質のものを産んだのです。生みたまえる一人子とは、そういうものです。

 生みたまえる一人子は肉を持っていた。イエスが肉の思いを持っていた。だから姦淫とは何かを知っていたのです。人間はどういう感覚で嘘を言ったり、人を呪ったりするのかをイエスは知っていたのです。知っていたというのは、それができる性質をイエスが持っていたのです。そういう思いを持つ一人子を神は産んだのですから、苦しみを味わうのは当然です。

 神は悪魔の心理状態を経験して産んだのです。そういうものが人間の本性です。悪魔に立つか、神に立つか自由にさせたのです。そこで悪魔の側に立つか、神の側に立つかを一人ひとりに問うているのです。イエスを信じるか、闇を信じるかどらにするかと神は聞いているのです。

 座標軸を今肉的に生きているという所に立てるか、生まれる前に立てるか、どちらにするか。生まれる前に与えられた神の言葉を信じるか、生まれた後の自分の思いを信じるかです。

 皆様が現在持っている肉の思いでさえも、生まれる前にマインドとして育てられていなかったら、持てるはずがないのです。肉の思いを持てるということが、生まれる前に神に造られていたことが原因です。

 生みの苦しみを通して神がマインドを造っていた。これが百四十億の脳細胞の秘密です。肉の思いが七十億と霊の思いが七十億、両方で完璧無類です。

 七十億の肉の思いと七十億の霊の思いとが皆様にインプットされているのです。これを上手に使えば、世々限りなく王となるのです。下手に使えば、世々限りなく呪われるのです。

 七十億というのは、世々限りなくという数字です。世々限りなくという人間の本質を認めた場合は、阿弥陀如来となるのです。阿弥陀とは無限ということです。

 阿弥陀如来は歴史的事実を踏まえていないだけです。歴史的事実を踏まえていないから、抽象人格になるのです。

 イエスは歴史的に現われた無限人格です。このイエスを主とするのです。イエスをもらってしまえば、イエスと同じ人格になるのです。聖書はこれを説いているのです。

 これはただ単純に幼子のようになればすぐに信じられることです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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