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神の国と神の義を求める(1)

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 神の国と神の義を求める。これは山上の垂訓(マタイによる福音書五章~七章)の総合的、総括的な結論のようなものであると考えられるのです。

 イエスは神の国と神の義を求めよと言っています。これは何を意味しているのか。現世が今展開されています。現世とは現象世界という意味ですが、有形的な世界があるように感じられますが、このように展開していることの原理は、神の約束に基づいて、神の天地創造の意図に基づいて、世界が展開しているのです。

 例えば、自然科学的な思考方式を突きつめていきますと、物質は存在しない、運動があるだけだとなるのです。物質的な運動がある。それが物質を構成しているのです。

 しかし、運動は運動であって、物質でも物体でもない。この運動が物体のように感じられるのです。これは一体どういうことでしょうか。

 物理という運動が存在することは、科学的な実験によって証明されているのですが、物理的な運動が物体として私たちに認識されるということはどういうことなのか。この証明が科学ではできないのです。

 一応物理としての運動が分子、または要素の原理である。その要素や分子が結合する。そうして物ができるという段階的な証明はできますが、それが現象体として私たちに確認できるのはなぜか。運動として確認できるのではなくて、現象体、固形体の物質として確認できるのはなぜかということです。

 理論的に言うのなら、物質が存在するのではなくて、物理が存在するということは明白な事実ですが、それが物体として人間に感覚できる。物として感覚できる。そこで唯物論という思考方式が成立するのです。

 なるほど、分子または要素が運動によって成立しているということは、理論的また実験的に証明されているのです。論理的には分かるのです。そうすると、私たち自身の認識も、そのような論理に従って認識できるのなら分かります。

 現象体という物質、物体があるのではない。これはいわゆる運動体であって、動体である。流れ動いている物理的な現象が、このように現われていると知覚できるとすれば、それは物質が存在するという原理と、人間の認識の原理が一致するのですが、そうではなくて、物質が固形体として存在するように感覚して生活しています。

 こういう認識の原理は、科学的な究明とは違ったものです。科学的に立証できるのは運動です。認識的に立証できるのは物です。このような感覚の相違がどこからきているのか。

 認識という機能の原理が魂です。生ける神の子としての魂です。これが父なる神ご自身から認識できる感性を植えられている。この魂は、「無から有を呼び出される神」(ローマ人への手紙4・17)と同じ感性を与えられているのです。

 神の言の働きによって物質が構成されている。物理の原理である運動は、神の言の働きを動体的に受け止めたことになるのですが、この神の言の働きが物として私たちに経験できるのです。つまり、物理の運動が物質として経験できるのです。これは言の働きの原理と同じ原理が、人間の魂の本性になっているからです。

 人間の魂の本性の働きは、神の言葉の働きと同じものですから、神の言葉による運動が、そのまま物を造る働きの原理だということが、私たちの魂に感じられるのです。

 人間の魂の本性は神の言ですが、神の言によって造られた万物を、神の言の本性である魂に従って見る。そこで私たち自身の感覚の中に天地創造の原理が、おのずから働いてくるのです。

 私たち自身の感覚によって、神の万物創造の原理がそのまま理解できるのです。そこで私たちは存在するものを、ただ運動として受け止めないで、これを被造物として受け止める感覚が、私たちの中に働いている。これが今現象を見ている私たちの基本的な感性になるのです。

 私たちの認識の基本の感性は魂の働きですが、魂が働いているということの認識が成立する領域が神の国です。

 神の国を求めよ、探し求めよとイエスが言っていますが、これは、人間の霊魂の具体的な実質を尋ね求めよというのと同じ意味になるのです。

 神の義を求めよというのは、神から見た正当性であって、人間から見た正当性ではないのです。

 神の国と神の義を探し求めることによって、人間自身の本性、また人間自身の命の本性が、おのずから究明されることになるのです。これが永遠の生命を私たちが獲得できる方法です。永遠の生命において生きることができるという第一の基礎的な考えです。

 魂は神の国と神の義を求めるために現世に出てきているのです。ところが、現世は現象世界の現世ではなくて、人間が形造っているこの世の現世です。

 人間が造っている世の中の常識に従えば、神の国は全く見えません。この世と神の国とは同じ事がらの両面を正反対の角度から見ていることになるのです。

 現世における人間の常識は、いわゆる肉の思いです。肉の思いの原理は、人間が罪を犯したことによって発生している原罪的な思考方式によるのです。この肉の思いによって現象世界を見ているので、物があるように見えるのです。なぜ物があるように見えるのか。科学的に言えばないはずのものを、あるように受け止めている。これはどういうことかという事の説明ができないのです。

 魂の機能のすばらしさが人間に受け止められていないのです。その説明ができないのです。魂がこの世の人間の常識では全く分からないのです。

 現在の人間の常識は、魂の働きを理解して認識するのではなくて、肉の思いだけで生活している。肉の感性をそのまま受け止めて生きている。これが肉の思いであり、肉の生活です。

 ところが神の国はそうではない。存在するものの実体の究明、それを人間が受け止めていることの原理が、神の国への入口になるのです。

 「あなたの目が正しければ、全身が明るいだろう」とイエスが言っています。目の働きが正しいとは、目の感覚をそのままストレートに受け取るのではなくて、見ている事実をもう一度検討してみるのです。

 目で何を見ているのか。見ているとはどういうことなのか。見ることによって、私たちは何を受け止めているのかということを、じっくり考えてみますと、見ていることの中に神の国があることが、だんだん分かってくるのです。

 表面だけを肉の思いで見れば、そのまま現象がその人の心に焼きついてしまいますが、落ち着いて人間の霊的感性によって見れば、現象の奧にあるものを知ることができるのです。神が現象を通して何を私たちに見せているかを、悟ることができるのです。

 神の国と神の義を求める時に、おのずから現在の宇宙に働いている命の実質が感じられてくるのです。人間の魂はそれを感じるだけの性能を与えられているのです。

 生まれる前にそのような性質を与えられていて、その性能が今働いて生活させられているのです。

 人間の心理機能を冷静に調べてみると、人間の心理機能の性能が何を求めているか、何を現在認識させられているのか、魂が何を経験させられているのかが分かるのです。

 そこで神の国と神の義が分かるのです。神の国と神の義を求める気持ちになりさえすれば、神の国と神の義がおのずから人の心に映ってくるのです。

 これは神の御霊の働きが人間の心に与える影響を意味するのです。人間の魂は神の御霊の働きを受け止める受信器であって、神の御霊の方向にセットすれば、神の御霊の働きを魂が受け止める性能を持っているのです。だから神の国と神の義を求めなさいとイエスが言っているのです。

 ところが、現在の世の中は、肉の思いを中心にして成り立っているのです。キリストの贖いを無視して成り立っているのです。人間の常識で考えますと、神の国と神の義が、全く愚かなもののように思えるのです。そういうものが存在するとは考えられないのです。

 これは反キリストの思索方式、神の経綸を無視するという考え方が、人間の肉の思いの基本にわだかまっているからです。

 現在の世界はイエス紀元の二〇一三年です。この時代の流れ、この時代の印、この時代の意味をよく考えますと、アダムの末はもはや消滅しているのです。肉の人間は存在しないのです。今ここに生きている人間はすべて、イエス・キリストの輩(ともがら)として待遇されているのですが、このことが肉の人間では分からないのです。特にルネッサンス以降の学問のセンスでは、これが全く分からないのです。

 近代学のセンスの基本は、ユダヤ人の物の考え方が中心になっているのです。ユダヤ人の考え方は、イエスを十字架に付けた考え方です。つまり反キリスト的な考え方であって、それが理論構成、概念的構成をして今の学問ができているのです。

 今の学理学説、専門学は徹頭徹尾、神の国と神の義を求めないのです。肉体的に存在する人間のあり方を、第一義に取り上げているのです。

 肉体人間を人間だと考えて、魂を人間だと考えないのです。これはホモという動物を人間だと考えているのです。生物学は人間を人科の人として分類しているのですから、ホモが人間だという明瞭な言い方をしていませんけど、現在の学問が考えている人間像は、明らかにホモを人間として見ているのです。

 ホモというのは肉体人間です。この考え方はアダムの末の肉性、アダムの末の原罪的な発想をそのまま用いた考え方です。現在の世の中は、まだアダムが生きているという概念に基づいて考えているのです。

 近代の専門学は、キリストによって成し遂げられた十字架の贖いを全く認めようとしないのです。反キリスト的な概念に基づく人間本位の王国を形造っている。私たちはこのことを十分に心得えなければならないのです。

 現在の世の中はアダムの子孫の概念、罪人の気持ちが伝承されていることを、よく知る必要があるのです。この世の中に調子を合わせて、この世の流れを認めることになりますと、反キリストの考えになってしまうのです。このことを十分注意して神の国と神の義を求めることが必要です。

 アダムの末か、イエスの末か。これが私たちの一番大きい中心命題になるのです。アダムの末として自分を見るか、イエスの末として自分を見るか、これが私たちの命の本質をおのずから決定するのです。

 私たちは毎日、新しい日を与えられています。また一日の中でも、午前と午後と、夜と昼と、時が流れています。時が流れるということに従って、私たち自身の魂は、瞬間、瞬間、新しくされているのです。

 時が新しくされているように、魂も新しくされているのです。昨日までの自分の感覚、行いが仮に肉体的であったとしても、昨日は昨日、今日は今日です。日々新になるのです。

 悔い改めて福音を信じることを、毎日実行するのです。そのために人生が与えられているのです。

 昨日までのあり方が不完全であっても、その不完全なあり方に自分自身が肯定しなければならないことはないのです。

 昨日という時間は去ってしまっている。今日という時間、今という時間に生かされているという、この現前において生かされているということをはっきり捉えて、今という時に神に向かってどのような姿勢をとるかということを検討したらいいのです。

 仮に自分の行いや自分の思いがどうしても不完全であると思えても、それは自分がそう思っているのです。自分自身の思いや行いが不完全であっても、人間存在の根本が不完全であるということではないのです。

 生活において、うたかたのように現われる人間の思いが不完全であって、その人の魂が不完全であるという意味ではないのです。

 従って、現われては消え、消えては現われるような人間の思い計りというものを、肯定する必要はないのです。

 人間の本質はイエスの御名そのものです。神によって生かされているという事実が魂の本質であって、この原点に立って考えなければいけないのです。神がイエスを遺して私たちに本当のあり方をお召しになった。そのような本質が人間の魂の本性です。だから自分の思いがどうであろうとそれを信じないで、イエスが自分の主体であるという感覚で受け止めることです。

 従って、自分の行いの不完全さ、思いの不完全さに促されないで、ただ一筋にイエスがキリストであるということだけに、目をつけて頂きたい。イエスが神の子としてこの地上に来たりたもうたように、私たち自身もまた、神の子としてこの地上に送られているという事実に目をとめて頂きたいのです。

 この世における人間の感覚、人間の思いを肯定しないで、イエスを誠の光として見るというあり方を訓練すべきです。毎日の生活を通してこのことを訓練すべきです。

 自分の思いに捉われないで、世の中の流れに捉われないで、イエスが主であるという観点に立って見るのです。これが神の国と神の義を求めるということの具体的なやり方です。

 イエスがキリストであることに反する思想が、この世の原理になっています。私たちはこの世に生きていますが、神の国と神の義を求めて生きるということをよく心得て、この原理において生活すべきです。このことを人々に述べ伝えるべきです。

 この世を友としてはいけない。この世にへつらってはいけない。この世に協力しようと考えてはいけないのです。そこは肉の思いだけですし、イエスをキリストとして認めない思想が働いているのです。

 この世的な考えに拘らないように、断固としてこの世の考え方を否定すべきです。どこまでも聖書の考え方に従って生きるということが、私たちの人生の目的でなければならないのです。

 大体、天地が造られたということが、神の約束に従って造られたのです。神の約束が天地創造の基本になっているから、未来という時間が流れているのです。

 時が流れている。未来から現在へ、現在から過去へと、瞬間も滞らず流れているという事実は、神の約束が時として働いていることを如実に示しているのです。

 天地創造の第一原理において、まず約束が立てられた。約束に従って時が流れ始めた。この流れに従って、言(ことば)が働き始めた。

 約束と言の働きとの関係がなければ万物もなく、天地もない、人間もいるはずがないのです。従って、神の約束と、神の言の働きと、人間の魂の存在というこの三つの点を十分に心得て、現世の思想にこだわらないことが一番必要です。

 神の国と神の義を求めよという命令は、当然の命令であって、これに従わなければ人間存在そのものを自ら否定することになるのです。

 この世に妥協しない。この世にへつらわない。この世に協力しないということが必要です。この世に協力しないと言っても、この世に生きているためには当然しなければならないことは当たり前のことですが、肉的な意味での人間の思想に協力しないという意味です。

 そうして、私たちが現世に生きていながら、神の国と神の義を求めるという一点に、自分の気持ちを集約することが必要です。

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(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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