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死とは何か

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 死とは何か。これについては色々な人が、色々な意見を述べていますが、天地の道理に適っているかが問題なのです。

 キリスト教が良いか悪いかではない。般若心経と聖書を両方並べることが良いか悪いかではない。宇宙の真理に立っているかどうかが問題なのです。

 死をどのように考えるかです。普通は死を生理的な問題と考えるのです。また、物理的な欠陥が人間の肉体に生じることによって、死ぬと思うのです。これが普通の人間の考え方です。

 胃が悪くなって死ぬというのは、その人の生理現象です。生理現象がそのまま死を意味するのかということです。現在の医学では、心臓が止まることが死ではなくて、脳波が止まることが死になっているのです。

 命ということは生理現象ではないのです。生理は命に関係があることは間違いありませんけれど、生理現象がそのまま生命現象になるのではないのです。

 生理というのと生命というのでは、文字も違うし意味も違うのです。従って生理即生命という言い方は、短絡的な考えでありすぎると言えるのです。

 胃や腸が悪いということは、生命現象に非常に大きい障害があると言えるでしょう。しかし、胃が悪いからといって命が悪いということではないのです。胃は胃ですし、命は命です。

 宇宙には天然自然の命というものがあります。花が咲き、四季折々の果物ができ、太陽が輝き、雨が降るのです。これは天然の生命現象を私たちに示しているのです。これは宇宙の生命が地球に現われているのです。

 命はそういう大きいものなのです。そういう大きい地球存在の生命を、私たちの命として経験しています。

 命は命ですし、生理は生理です。命と生理は全く別のことになるのです。生理は即ち命だという考えは、医学的原理に捉われすぎた考えになるのです。

 一体命とは何なのかということです。地球が自転公転していることが命です。この命の根源は何なのかということです。

 地球が生きていることが命です。人間は地球から湧いて出た生物です。地球から湧いて出た生物だから生きているのです。人間に命があるのではありません。ですから、地球の命を勉強しなければいけないのです。地球の命が分からなければ、人間の命が分かるはずがないのです。

 人間固有の命はどこにもありません。花が咲いているのは、地球の命が花として現われているのです。蟻一匹でも蟻固有の命ではありません。地球の命が蟻になって現われているのです。

 太陽光線の輝きは、命がストレートに現われているのです。雨が降るという現象も、生命現象の現われになっているのです。

 太陽が輝くとか雨が降るということを、もっと集約して考えますと、宇宙に命がありますし、その命にはリズムがあるのです。そのリズムに従って地球が回っているのです。

 地球は継続的に回っているのではない。極端な言い方をしますと、停止、進み、停止、進みを繰り返しているのです。アナログの時計の秒針が動くように、瞬間、瞬間動いているのです。

 量子力学はそういう原理でありまして、ピッチャーがボールを投げると、継続的に飛ぶのではなくて、進む、止まる、進む、止まるを繰り返して飛んでいくのです。

 これが命の息づかいのあり方です。皆様は鼻から息を出し入れしています。心臓が動いていることも、脈拍も皆同様の動きをしているのです。

 動いた時には生きているのです。止まった時には死んでいるのです。生きた、死んだ、生きた、死んだを繰り返しているのです。電灯も蛍光灯も、五十サイクルの電気では、一秒間に五十回点滅を繰り返しているのです。ところが人間の目には継続的に点灯しているように見えるのです。

 点滅とは息をしている姿です。生息とは点滅を意味しているのです。

 地球は生きています。地球全体が生き物なのです。皆様は地球の命のある部分を分担しているのです。命を意識することができるのは、人間だけです。

 死とは何かと言いますと、命の原理に反することです。命の原理は生です。命を発現するためには死がいるのです。死が働かなければ、命の本質が発揚されないのです。

 闇がなければ光は現われないのです。これが三次元の世界の本質です。生がなければ死はない。死がなければ生もないのです。

 命を知るということは、死を知ることです。生と死の両面がなければ命とは言えないのです。死が働かなければ生が働かないのです。現在の時間と空間の三次元世界においては、生と死は裏表の関係になって命を形成しているのです。

 従って、死を知ることが命を知ることの根源になるのです。死を知らないで命だけを知るということは、絶対にできません。夜がなければ昼がないのですから、夜と昼の両方を知る必要があるのです。

 将来、現在の地球はなくなってしまうでしょう。物理現象はやがて消えるに決まっているのです。物理現象が消滅してしまいますと、初めて本当の命、死のない命が発現するのです。聖書にはこの時を新天新地と言っています。

 日本人は世界観が非常に小さいのです。物の考え方が狭いのです。私が言うような大きい考え方で命の勉強をしている人は、めったにいないのです。だから命の本質は何かと聞いても、説明できる人はいないでしょう。

 私が説明できるというのは、私自身が説明しているのではなくて、御霊(みたま)によって説明しているのです。御霊によってお話ししているのです。

 この宇宙には妙なものがあるのです。宇宙の指導霊があるのです。人間の霊魂にインスピレーションを与えて、心の目を開くというすばらしい働きをしているのです。この方法によって私は説明しているのです。

 日本の霊というのは荒神さんとか竜神さんとか言いまして、安物の霊です。シャーマニズムの霊です。上等の霊は地球を動かしているのです。これが神の霊です。

 神というのは命を司る原理です。明治初期の国定読本に、「神は天地の主催にして、人は万物の霊長なり」というすばらしい言葉がありました。

 神は天地の主催にして、人は万物の霊長なりというすばらしい言い方は今の学者にはできません。明治初期だから言えたのです。この自覚があったら、日本人は今のような堕落はなかったでしょう。もっとましな日本人になっていたでしょう。

 天地の主催とはどういうことかと言いますと、命の主催という意味です。天地の主催とは命を主催するものです。これが神です。

 皆様の心臓が動いていること、目が見えることが神の投影です。神の力が皆様に働いているのです。

 命の原理が分かれば、指導霊の原理が分かるのです。そうしたら指導霊に従って説明できるのです。皆様も命の勉強をして頂いたら、指導霊のことがお分かり頂けると思うのです。

 命を司るものがあるのです。命は有機性の原理でありまして、地球が自転公転している原理です。そうすると、命の本質は何かと言いますと、理論物理的に言えば波長です。長い波長と短い波長、点というものと流れとがあるのです。素粒子でもあり波長でもあるのです。運動がポイントであり、ポイントが運動になるのです。こういう意味での波長が、地球を生かしているのです。

 波長は宇宙的なものであって、銀河系からアンドロメダ銀河に到るまで、無数の波長が地球に集中しているのです。地球はエネルギーの集中の焦点になっているのです。これが地球の命を形成しているのです。

 宇宙のあらゆるエネルギーが地球に集中しているのです。誰がしているのか。命を主催しているものがしているのです。そこで地球には生命現象があふれているのです。

 命とは一体何か。物なのか心なのか。現在の医学では生理現象が命だと思っているのです。ところがそうではないのです。命は物理的に表現していますけれど、物理的に表現するためには原理がなければならないのです。

 なぜ命が物理的に表現しているのか。命を物理的に表現している本体が心なのです。皆様の目が見えること、心臓が動いていることが、物理的に表現されている命の働きですが、そのように仕向けている原理がなければならないのです。

 そのように仕向けている原理が心です。命の本質は心です。生理的な問題ではなくて心理的な問題です。皆様の精神のあり方の勉強が、皆様にとっての命の勉強になるのです。

 自我意識の自分は悪いものに決まっているのですから、この自分を責めてもしょうがないのです。

 臨済禅に「百尺竿頭進一歩」という言葉があります。百尺の高さと言いますから、約三百メートルの高さの竿の上に立って、一歩進めというのです。進めば落ちるに決まっているのです。

 竿の上ですから前はありません。前へ一歩進めば下に落ちるのです。落ちるに決まっていると思うのは、自分がそう思っているのです。しかし前へ出たら落ちないかもしれないのです。

 昔、京の都に商売人がいました。この人が商売に失敗して財産をすっかりなくしてしまって、どうにもこうにもならなくなってしまった。その結果生きる方法がなくなって、死んでお詫びをするしかないと考えたのです。

 そこで鞍馬山に行き、首を吊る枝を探したのです。探して山の中へ入って行き、谷に突き出している一本の松の木を見つけたのです。その枝に縄をつけていたところ、天狗が現われて「おまえは死ぬ気か」と聞いたのです。

 商人は死ぬと決めたのですから、天狗を見ても全然恐ろしくないのです。「死ぬ気です」と答えたら、「谷に突き出ている枝に掴まって前へ行け」と言うのです。「分かりました」と言って、枝にぶら下がって前へ進んで行ったのです。

 天狗が「もっと前へ行け」と言うので、枝の最先端まで行ったのです。そうしたら天狗が「目をつぶって手を離せ」と言ったのです。左手を話すと「右手も話せ」と言うのです。

 左手を離し、右手を離した途端に、脇の下から羽が出て、空を自由に飛べることになったのです。

 これは臨済禅の非常におもしろい話です。これが百尺竿頭進一歩です。これを実行したら命が分かるのです。

 現世には神の国があるのです。花が咲いているのです。花が咲いているというのは、花が咲いている世界があることを見せているのです。

 花が咲いている世界は自我意識で生きている人間の世界とは違います。花には嘘も偽りも思い煩いも、焼きもちも、ねたみも憎しみもありません。

 花は天然自然に咲いているのです。全く天地の法則に従って咲いているのです。だから死なないのです。花は枯れますが死なないのです。花は天地の命を現わしているのです。これが神の国です。

 花が咲いている世界がある。イエスは野のユリを見よと言っているのです。「野のユリは働きもしないし、紡ぎもしないのに、神はこのように装っていてくださる。栄華を極めた時のソロモンでさえも、この花の一つほどに着飾っていなかった」と驚くべきことを言っているのです(マタイによる福音書6・28~30)。

 一輪の野のユリが咲いている姿は、神の国を現わしているのです。空の鳥が神に養われている姿が、神の国を現わしているのです。

 皆様は花をご覧になったり、空の鳥をご覧になったりしているのです。皆様の目は、天然自然の命、地球の命の姿を見ているのです。

 目が見ているのなら、その世界へ入れるはずです。皆様の目は神の国を見ているのです。天国を知っているのです。

 キリスト教の人々は死んでから天国へ行くと言いますが、これは大嘘です。死んでから天国へ行く、死んでから極楽へ行く。これは全く宗教の大いんちきです。

 神の国や天国は、私たちが目の黒いうちに入るのです。死んだら絶対に入れません。死んだら地獄に行くに決まっているのです。

 現在、皆様は鳥が飛んでいる世界や花が咲いている世界を見ているのですから、目の黒いうちに天国へ入れるに決まっているのです。

 私も御霊によって入ることができましたから、その経験を申し上げているのです。これは本当にすばらしい世界です。喜びと、嬉しさに満ちた世界です。

 花が咲いている世界があるのですから、ここへ入ったらいいのです。人間の欲も悪もないすばらしい世界です。ここに入れるのです。

 イエスやヨハネ、パウロは神の国に入っていましたが、パウロ以降の二千年の間、世界中で神の国を見つけて入った人がいなかったのです。ようやくその光が日本で輝き始めたのです。これはヨハネの黙示録の七章二節に預言されているからです。

 現在の人間社会は、全く迷いの世界です。このカルマの状態から抜け出しさえすれば、本当の命の世界へ入れるのです。

 百尺竿頭進一歩です。右手を離し、左手を離すのです。右手が自我意識です。左手が現象意識です。この両手を離せば、御霊の世界へ入れるのです。御霊の羽が出てくるのです。

 イエスはそれを経験していたのです。イエスと同じ感覚になれば誰でも経験できるのです。

 命は物ではなくて心です。花は咲いているのではなくて、咲かされているのです。花は自分の意志によって咲いているのではない。自然の道理、天候とか気象が花を咲かせているのです。

 気候、天候を支配するものは、天地の理法です。自然法の原理です。天地の主催である神によっても支配されているのです。

 命はエネルギーですが、これを動かすものは人格です。これが精神です。地球にはそれを支配する人格があるのです。それによって花は咲いているのです。

 神が野のユリを装っているとイエスが言うのは、それを言っているのです。これが天地自然の理法です。理法というのは心です。心が天地自然を動かしているのです。

 皆様の体を皆様の意志が用いているのです。意識が命を使っているのです。天地の主催である神が命を動かしているのです。

 百尺竿頭進一歩と言いますが、生死は心一転にあるのです。心を更えて新にするのです。悔い改めて福音書を信じるのです。

 人間がこの世に生まれたということが、カルマの中へ放り込まれたことなのです。この世が業(ごう)です。生まれてきたというのは、業を背負わされたことなのです。

 この世に生きているということは、色々な苦しみや悲しみ、思い計り、心ならずも頭を下げるとか、おべっかを言うということばかりをしなければならないのです。自分が生きていると思っている時には、いつでもその人の心には重荷がのしかかっているのです。

 自分が生きていると思うこと自体が重荷です。人間は自分の命ではないものを、自分の命だと勝手に思い込んでいるのです。そういうことが、その人の重荷になっているのです。

 生きているというのは業を背負っていることなのです。この世に生まれてきたままの人間の生は業です。これをそのまま持っておいでになりますと、必ず死にます。

 死ぬとは、現世を去ることとは違います。現世を去ることは命の状態が変化することです。

 現世において、命の本体を掴まえそこなっていますと、この世を去ったら、その間違いを償わなければならないことになるのです。これを死というのです。

 現世での考え方が間違っていたから、その償いをしなければならないのです。これを霊魂の裁きというのです。これが恐ろしいのです。

 人間は自分の命ではないものを自分の命だと思い込んでいるのです。これが大変な犯罪になるのです。

 いつも申し上げることですが、皆様は自分で生まれたいと思って生まれたのではないのです。従って自分はいないのです。ところが自分がいると、勝手に思い込んでいるのです。

 なぜそのように思い込んだのかと言いますと、親の教育、学校の教育によってそのように思い込まされたのです。兄弟の教育、友人の教育、職場の教育、社会の教育によってそのように思い込まされたのです。これが全部間違っていたのです。

 この世に生まれてきた人間は、人間がいる、社会がある、現象世界があると思い込んでいるのです。この業の中へ放り込まれたのです。だから年が寄るに従ってだんだんと業が堆積していくのです。

 年配の方は、業がだいぶ積もっていますが、心機一転したらいいのです。修行をしなければならないとか、何かの行をしなければならないのとは違うのです。苦しむ必要がないのです。今までの錯覚に気づいて、それを捨てればいいのです。

 この世に生きているということが、間違っていたのです。自分を愛することが間違っていたのです。自分を愛さないで命の本体を愛したらいいのです。

 自分の本体の命とは、自分が生きていると思わない命です。自分が生きていると思っている命は、死んでしまう命です。自分が生きているということをやめても、皆様の心臓は止まりません。

 自分が生きているのではないと思っても、心臓が止まるのでもないし、目が見えなくなるのでもない。自分が生きていないということが分かりますと、せいせいするのです。やれやれと思うのです。

 人間には天然自然の生命力があるのです。地球の生命力と同じ生命力があるのです。これに気づきますと、自分が生きていることを捨ててしまっても、命の本体があることがよく分かるのです。正味正末の命の本体があることが分かるのです。これがとこしえの命です。

 この命を正確に捉えなければいけないのです。いいかげんな、いんちきな捉え方ではだめです。禅宗の悟りぐらいではだめです。

 本当の悟りというのは、地球が存在している原理を知ることです。天地が造られたことの原理です。この命を悟るのです。天地が生きているという命を悟るのです。

 命がなければ地球が生きているはずがありません。命がなければ花は咲きません。花が咲く命があるということは、死なない地球の命が現われているのです。

 皆様は死なない命を目で見ているのです。死なない命があることを目で見ているのです。この中へ入っていけばいいのです。

 そこで自分が生きているという自我意識を捨てるのです。自我意識を捨てるためには、もっともっと勉強される必要がありますが、粗筋を申し上げればこういうことになるのです。

 自分が生きているという気持ちを捨てても、皆様の心臓が動いているという事実に変わりがないのです。皆様の心臓が動いているということは、神の力が皆様の中に宿っているということなのです。

 神の力が皆様の心臓の中に宿っていることに気がつきますと、両脇から羽がはえるのです。そうして自由に空を飛ぶことができるのです。死を突破して、永遠の自由を獲得できるのです。

 自分の命ではない命、天地自然の命が皆様の本当の命です。これが神の命です。自分の命だと思っていた命は神の命だったのです。これに気がつくと、人生が本当に明るくなるのです。

 そうすると、自分の命に自分が責任を持たなくてもよくなるのです。私の魂に私は責任を持っていません。持たなくてもいいのです。神が共にいますから、神が責任を持ってくれるのです。

 神が一緒にいなかったら、皆様の心臓が動くはずがないのです。花を咲かせている命と同じ命が、皆様の中にあるのです。この命の中へ入れるのです。自我意識を捨ててしまえば入れるのです。

 皆様には固有の目方があると思っていますが、そうではないのです。引力に対する抵抗が目方として計測されるのです。

 例えば目の前にコップがあるとします。手でコップを持ち上げるから重量があるのです。置いておくだけなら重量はありません。

 机自身も重量を持っていません。机を置いたままであれば重量はありません。持ち上げると重量があるのです。引力に対して抵抗するからです。

 地球に抵抗するから重量が生じるのです。地球の引力に一致したら無重力になるのです。ロケットに乗って宇宙へ行かなくても、地球内にいて地球の引力に一致してしまえば、自分の重量はなくなってしまうのです。これを理解して頂きたいのです。

 天地の命に一つになれば、死ぬべき自分がなくなってしまうのです。イエス・キリストの復活はこういうことです。自我意識を捨てて、自分が生きているというつまらない考えを捨てて、天地自然の命に帰ってしまえば、皆様の死がなくなるのです。これを歴史的事実として証明したのが、イエス・キリストの復活です。

 イエスが死を破って甦った。これは歴史的事実です。これに対しては天地創造の原理を正しく理解して頂ければ分かるのです。イエスはどうして死を破ったのか。復活したイエスは今、どこにどうしているのか。イエスの命と皆様の命とどういう関係にあるのか。こういうことがだんだん分かってくるのです。

 命は真理そのものです。本当の心が本当の命です。本当の心さえ分かれば、命が分かるのです。自分が生きているという錯覚を捨ててしまえば、死を破ることができるのです。

 現在の人間が信じている常識とか知識は、間違った錯覚です。この世では通用しますが、死んでしまえば通用しません。これが人間の知識、常識です。

 死んでしまえば通用しない理屈ではなくて、もっと大きい考えを持って頂きたいのです。涅槃寂静と言えるような、色即是空、五蘊皆空と言えるような考えを持って頂きたいのです。

 生きているうちに、死んでしまう世界から抜け出して、死なない世界、神の国に入って頂きたいのです。これは目の黒いうちなら、できるに決まっているのです。

 自分が生きているという錯覚を捨てさえすれば、本当の命に目覚めることができるでしょう。

 命の本質は精神です。精神がエネルギーを支配しているのです。このことをご承知頂きたいのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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