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死からの脱出

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 死から解放されるというテーマで、一緒に集って話し合うということは、一般社会ではありえないことです。死から解放されるということは現在の宗教ではとてもできないことです。現在の学問でもできません。

 私たちがこれを実行していることは、古今未曾有のことです。釈尊でも死からの解放ということは考えていませんでした。

 釈尊は、死は空であると考えたのです。生老病死が空であると考えたのですが、空であるということは完全な意味での解放ではないのです。空が仮に涅槃であるとしても、涅槃は一つの心理的なものでありまして、涅槃を究竟しても死に勝ったとは言えないのです。

 時間とは何か。これは人間の心理的作用による面が大きいのでありまして、未だかつて本当に時間が存在するという確証が、人間の側から提出されたということがないのです。どんな学者でも、また覚者でも、時間の正体が分かっていないのです。従ってこれは人間の心理的な産物であると言えないことになるのです。

 時間がそうであるとしますと、空間も同様です。時間と空間とは次元が違いますけれど、存在の形態は一つのものです。時間がなければ空間はありえないのです。空間がなければ、また時間もありえないのです。

 人間が肉体的に生きているということが、時間と空間の産物であって、これが皆様の心理的な産物であることになるのです。

 皆様が肉体的に生きているということが、皆様の妄念の産物です。皆様が生きているという事実はないのです。時間がないからそう言えるのです。空間がないのに、皆様の肉体が存在するということは概念的に成立しないのです。

 皆様は自分の思想に愛想をつかすくらいの勇気を持って頂きたいのです。これができますと、死からの解放があるのです。

 これは大問題です。現在の宗教のレベルではとても到達することができない重大な、崇高な、厳粛な問題です。

 この問題をゆっくり時間をかけて話しあったくらいで、死から解放されると考えたら、話しがうますぎると思われるかもしれません。ところがうますぎるのではないのです。

 死から解放されるということは、皆様が本当に素直になりさえすれば、実現するのです。

 私は死からの解放ということを発言しているために、宗教界の人々から嫌われています。しかし宗教界から嫌われるようでなければ、本当の命、本当の死は分からないのです。皆様も宗教というばかな概念から離脱する勇気を持って頂きたいのです。

 魂がこの世から去ることと、死ぬことは違うのです。皆様は現世に生きていながら死んでいるのです。このことをまず知って頂きたいのです。

 「肉の思いは死である」とパウロが言っています(ローマ人への手紙8・6)。無明煩悩ということは、魂が死んでいるということです。

 皆様は死の本当の意味が分からないのです。死とは何であるか。死ぬというのはどうなることなのか。これがはっきり分かっていないのです。もし分かっている人がいたら、その人は大達人です。

 普通の人間なら、死という言葉は知っていますけれど、死の実体を全く知らないのです。そこに死の恐怖という問題があるのです。

 人間は死という言葉を知っていますが、死の実体について明確な認識を持っていない。そのために死の恐怖があるのです。

 死とは一体何であるのか。その正体が不明です。宗教を勉強している人はますます分からないでしょう。

 宗教は死をごまかしているのです。死んでから天国へ行くとか、死んでから極楽浄土へ行くとばかなことを言うのです。これは死が分かっていない証拠です。

 死んでから天国へ行くということは、新約聖書には全然書いていません。死んでから地獄に行くのでもない。人間は既に地獄にいるのです。だから死の恐怖があるのです。

 現在死んでいることが分かっていないから、死について明確な正確な認識がないのです。正確な認識がないことが、いたずらに恐怖をかりたてているのです。

 頭で理解したことと、心で納得することとは違うのです。私たちは生死について、思想的にある程度理解することはできます。宗教書を読めば端緒くらいのことは分かりますけれど、これは思想的に分かっただけのことであって、魂の実感として了得した、また体得したと言えるものではないのです。

 そのような観念の遊戯を何十年してもだめです。現在の宗教人はそればかりをしているのです。仏教も、キリスト教も、天理教も、日本神道もすべて宗教は、次元の低い問題を考えているのです。こんなものは問題にならないのです。

 皆様は宗教的な低いレベルの概念から、脱出する断固たる決心を持って頂きたいのです。

 私は口を極めて宗教の欺瞞性を攻撃しているのです。宗教で述べている神も仏もないのです。唯識論とか倶舎論も間違っている。理屈ばかり言っているのです。

 仏教大学で教えているのは人間の理屈ばかりです。魂の実体について説明することは、全然していないのです。

 仏教大学でもキリスト教の神学校でも、魂について正確な、正当な説明をする人がいないのです。魂が分からないのですから、魂の救いについて語る人はいないのです。

 水原秋桜子が「滝落ちて 群青世界 とどろけり」と詠んでいます。この句は、作者が鳥羽、南紀、小豆島を旅行した時に、那智の滝を見て作った句です。すばらしい命の感性を詠んでいますが、彼自身は命を意識していないのです。そういうものなのです。

 芭蕉が「名月や ああ名月や 名月や」と自分自身の実感を詠んでいるのです。名月を眺めている者の実感は、西田哲学で言いますと、純粋経験の直下になるのですが、このような心理状態は非常に神に近いのです。だから芭蕉は月の光に心が照らされて、彼の魂は一晩中池を巡っていたのです。

 ところが芭蕉は本当に神が分かっていたのか、本当に永遠の生命が分かっていたのかと言いますと、分かっていなかったのです。だから彼の辞世の句は「旅に病んで 夢は枯れ野を かけ廻る」という非常に悲しいものでした。

 もし芭蕉に永遠の生命が分かっていたら、旅に病んで夢は枯れ野をかけ廻るという悲痛な辞世を残すはずはなかったのです。

 そのように俳句の名人であっても、自分自身で生も死も両方共理解していなかったのです。ただ何となく生きていたのです。何となく俳句を詠んでいたのです。

 芸術的な文化概念と生死の問題とは別のものなのです。

 「滝落ちて 群青世界 とどろけり」と水原秋桜子は詠んでいますが、滝落ちてということの中に、すばらしい命が出ているのです。天地の命が表現されているのです。

 滝を見たのは、おそらく夏の頃と思われます。「群青世界 とどろけり」も非常に力強い命の世界が出ているのです。「群青世界 とどろけり」と明々日々な命の世界を詠んでいるけれど、彼自身には永遠の生命の実感がなかったのです。

 このように思想的に理解するということと、実感的に命を獲得するということとは違うのです。

 思想的な理解は、哲学の世界、芸術の世界あるいは宗教の世界であって、これは文化概念です。文化概念の世界をうろつき回っていたところで、本当に死を理解することはできません。

 私たちは世界の文化人や宗教人が経験しなかった重大な宇宙の真実、全世界の真実に向かって勇ましく踏み込んでいくという勉強をしなければならないのです。

 「滝落ちて 群青世界 とどろけり」この句をお詠みになれば、皆様も命の世界が感じられるはずです。命の響きが感じられるはずです。

 彼は命を詠んでいるのです。命を詠んでいながら、本当の命が彼に分かっていなかったのです。

 なぜそういうことになるのかと言いますと、水原秋桜子は肉の思いで俳句を詠んでいたからです。肉の思いを持ったままで生きていたのです。

 彼は霊の思いを経験したことがなかったのです。滝が落ちているという生命的な実体を、捉えていなかったのです。

 滝が落ちているという景色を見ていたのです。真夏の燃えるような群青世界を見ていたのです。青葉の燃えるような世界を詠んでいたのです。命が満ち満ちている世界を見ていたけれど、霊で感じることができなかったのです。

 皆様は今まで大人の生活を送っていましたが、大人の生活が間違っているのです。

 人間の大人の常識が根本から間違っているのです。特に結婚してからの大人の気持ちが悪いのです。性という本質的な事がらをはっきり弁えていないからです。にもかかわらず、肉の思いでやたらに性行為をしている。これは人間の悪そのものです。これが死の行為になるのです。

 肉の思いが死である。死から解放されたいと思ったら、死を克服しようと思ったら、現在の大人の感覚を解脱するという覚悟を持って頂きたいのです。そういう勇敢な気持ちを持って頂きたいのです。

 私は皆様を宗教の世界へ引っぱり込もうという気持ちは毛頭ありません。むしろ宗教から出ることを勧めているのです。

 肉の思いというのは人間の固定観念です。観念の固定です。今まで自分の記憶、今までの自分の勉強、今までの自分の経験が皆様の心に張りついてしまっている。

 こういう観念の固定から逃れることができない。これが死の状態です。人間が肉体的に死んだら、手も足も動かなくなります。目も鼻も耳も動かなくなります。五官が働かなくなります。

 死は固定を意味するのです。凍結してしまうのです。大人の常識は凍結しているのです。とくに日本人の生活概念は、非常に悪い概念です。

 日本人の大人は現象主義に固まっているのです。国家主義、民族主義に固まっているのです。八百万の精神です。現実主義に固まっている。こういう感覚で日本人の常識はできあがってしまっているのです。これが死んでいる証拠です。

 こういう観念の固定から脱出することを本当に覚悟するなら、死から逃れることができるのです。

 死は肉の思いですから、肉の思いの実体がよく分かりさえすれば、これから逃れることができるのです。観念の固定から脱出することができるなら、死から逃れることができるのです。

 宗教を一切踏み潰してしまうくらいの乱暴な気持ちを持って頂きたい。

 死は暴力です。皆様の首を絞めて殺してしまうのです。皆様は死にたくないでしょう。死にたくないのに死んでいくのです。これは暴力を振るわれているのです。

 死にたいのなら死んでもしかたがないのです。死にたくないのに死なねばならないということは、殺されるのです。

 人間は死ぬのではなくて、殺されるのです。暴力的に殺されるのです。皆様は死にたくないでしょう。ところが死ななければならない。これは強制的に、暴力的に殺されるのです。強制的に死なされるのです。これは殺されることになるのです。

 般若心経には色即是空、五蘊皆空という言葉があります。諸法空想という非常に重大な言葉がありますが、日本人はこの言葉を知らないのです。

 日本人は般若心経を愛していますけれど、般若心経の言葉を愛していないのです。こういうおかしいことになっているのです。

 日本人は宗教が好きです。日本人は無宗教の国民だと言われていますけれど、これは欧米人から見た言い方になるのです。日本人は宗教を理解していないのに、宗教好きなのです。

 日本人は般若心経に惚れています。無茶苦茶に惚れている人もいるのです。ところが五蘊皆空の意味を知らずに惚れているのです。盲滅法に惚れているのです。日本人の般若心経の惚れ方は熱狂的です。病的と言えるかもしれないのです。

 とにかくむやみやたらに写経をするのです。奈良のある有名なお寺は、写経をして千円を添えて送るとご利益があると言って、百万人から写経を送ってもらいました。いわゆる百万写経です。これによって寺は十億円儲かったのですが、現在も続いていて、合計で六百万人の人が写経に千円をつけて送っているのです。寺は六十億円の収入があったことになるのです。

 日本人はこれくらい般若心経が好きですが、五蘊皆空という中心思想を全然理解しようとしていないのです。何をしているのでしょうか。日本人の宗教心はでたらめで、非常に不真面目です。

 般若心経の色即是空というのは、なかなか崇高な思想です。皆様は現象世界が実体だと思っているのです。時間、空間が存在するに違いないという気持ちで生活しているのです。これが五蘊です。

 五蘊が皆空であると言っているのです。時間、空間の世界は空なのです。色即是空というのはこれを言っているのです。

 色は空であるということを、般若心経は繰り返し繰り返し説いているのですけれど、それを日本人は実感しようとしないのです。読んでいながら実感しようとしていないのです。

 毎日毎日、般若心経をあげている人がいるでしょう。あげていながら字句の意味を理解しようとしていない。これが日本人の宗教道楽を示しているのです。宗教道楽をしていたのでは、とても人生の解決はできないのです。

 滝落ちてというのは、堂々たる生命意識にあふれています。次のような歌もあります。

  「鳥も通わぬ山中の

  天地を生きて堂々と

  落ちる滝の雄々しさよ

  瀑布よ瀑布大瀑布」

 山中にある天地を生きている堂々たる滝があるのです。これは何を意味するのでしょうか。

 例えば朝日が上る景色、夕日が落ちる景色も命の表現ですけれど、鳥も通わぬ山中の天地を生きて、堂々と群青世界を動かしている滝は、命そのものの表現形式です。

 では、命とは一体何でしょうか。これは天地創造と大きい関係があるのです。神は命の実体を現わすために、天地を造ったのです。

 「初めに神は天と地とを創造された」とあります(創世記1・1)。神は天と地を造った。何のために造ったのか。これは般若心経ではどうしても分かりません。ましてや、日本の八百万の神では全然分かりません。

 初めとは時間が全然なかった時を指すのです。未だかつて時間がなかった時を初めと言うのです。地球がまだ造られなかった時、時間、空間という概念が全然存在していなかった時が初めです。

 その時に、天と地が確定されたのです。確立されたのです。これが神という事がらです。

 神とは命を命として実証する事がらです。神はすばらしい大事実です。神が天地を造ったという事実が、皆様の五官の働きとして、皆様自身に植えられているのです。これを魂というのです。

 命の働きが肉体現象という形で皆様に感じられるのです。肉体は存在していません。けれども命を感受することはできるのです。

 時間は存在していません。しかし時間を感受することができるのです。人間の感受性というものは、命を知るための非常に尊い機能です。

 命をできるだけスムーズに、正当に、正確に受け取るためには、まず皆様は素直にならなくてはいけないのです。日本人の常識とか、今までの経験とか、色々な理屈が皆様の記憶の中にいっぱい詰まっているのです。この記憶が皆様を殺すのです。

 今までの人生経験が皆様を殺すのです。だから滝が落ちていることの意味が分からないのです。すばらしい景色は分かります。鳥も通わぬ山中の、天地を生きて堂々と落ちる大瀑布のすばらしさは分かります。

 滝を見て無性に感激せざるをえないほど、そのすばらしさは分かるのですけれど、神が滝を落としているという意味が、水原秋桜子に分からなかったのです。

 日の出を拝みに行きます。人々はなぜ日の出を拝むのでしょうか。なぜ拝みたくなるのでしょうか。日の出を通して、神は人間に命の実体を知らせているのです。命の実体を拝ませているのです。

 ところが人間の常識、特に大人の常識は、命の実体を拝むほど心が素直ではないのです。

 命の実体を見極めるために生きているのだという切実なお考えを持って頂きたいのです。

 「成せば成る成さねば成らぬ何事も」という諺があります。「信じるごとく汝に成るべし」とイエスが言っています。

 イエスはどういう気持ちで生きていたのか。イエスは「私は命のパンである」と言っています。「私を食べる者は死なない」と言っているのです。

 イエスを食べたらいいのです。私はイエスを食べていますから、イエスが持っていた命の実質が分かるのです。もちろんイエスほど食べていませんが、私もイエスと同じ気持ちを持つことができるのです。

 イエスという存在を食べて頂きたい。そうしたら命が分かるのです。神はそうしてほしいと思っているのです。これは神の願いです。

 すべての人が救われて真理を信じることを、神が願っているのです。神が願っていますから、これが皆様に成就するに決まっているのです。

 日本人の民族意識、国家意識という小さな根性、いわゆるキリシタンバテレンという考え方を絶対にやめるのです。

 天地の造り主が存在するから天地があるのです。日の出の景色とか、滝が落ちる光景は、皆様に命を啓示しているのです。

 命を啓示されるためには、神からの条件を呑まなければならないのです。

 神が人間に命を啓示しているのです。これを理解するためには、私たちが現在命だと思っているものが、命ではないことを悟る必要があるのです。

 人間は自分が生きていると思っています。ところが、これは生きているのではなくて死んでいるのです。なぜなら皆様は、自分の気持ちを自由に変えることはできません。自分の意識を自由に転換することができないからです。

 五蘊皆空、色即是空と言われても、簡単に承認することができませんし、実感することもできないのです。

 イエスは「悔い改めて福音を信ぜよ」と言っていますが(マルコによる福音書1・15)、キリスト教の人々は悔い改めるとはどうすることかが、分からないのです。

 悔い改めるというのは、精神の霊を新しくすることです。これはエペソ人への手紙の四章二十三節でパウロが述べています。文語訳では心の霊を新にすると訳しています。口語訳では心の深みまで新たにされてと訳しています。

 英文は一番正確に訳しています。And that ye be renewed in the spirit of your mind.となっています。これは原語に近い訳です。

 精神の霊を新にせよと言っています。皆様の精神構造が間違っているのです。精神構造が死んでいるのです。

 人間の精神構造によって、皆様は人間の常識を信じています。常識は、死んでいくに決まっている人間の考え方です。死んでいくに決まっている人間の常識を信じていたら、その人も死ぬに決まっているのです。

 だから命に関する精神構造の根本をひっくり返ってしまうのです。これがキリスト教ではできません。これは精神工学に関することになるのです。

 キリスト教では洗礼を受けても、洗礼の意味が何のことか分からないのです。水で体を洗うとはどういうことなのか。こういうことをはっきり説明できる牧師が、日本に一人もいないのです。

 イエスは「水からと霊から新しく生まれよ」と言っています(ヨハネによる福音書3・3)。水からと霊からと新に生まれて、神の国に入ってしまえと言っているのです。

 神の国に入ってしまうと、初めて日の出がどういうことなのかが分かるのです。宇宙の大生命はどういうものなのか。地球が自転公転していること、皆様の心臓が動いていることがどういう関係になるのかが分かるのです。これが宇宙の命です。

 宇宙の命が皆様と一緒に働いているのです。これを自覚するために、日の出があるのです。皆様は日の出の本当の意味を知る必要があるのです。

 そのために神が日の出を見せているのです。ご来光を拝んでいるのです。滝を落としているのです。滝が落ちているのは、天地創造の時を示しているのです。

 天地創造によって神は何を現わそうとしたのか。現在の人間が生きている命は、人間が考えている命であって、神が考えている命ではないのです。

 皆様には神が考えている本当の命、死なない命、永遠の生命の実物を捉えて頂きたいのです。

 日の出に現われている宇宙の命、天地に響いて落ちている大瀑布の命です。宇宙の大生命が現在皆様に宿っているのです。

 皆様は神の命によって生かされていながら、その実体を正確に捉えることができない。これが精神的に死んでいることを意味しているのです。これを悔い改めなければならないのです。

 神は皆様に本当の命を渡したいのです。ところが、皆様はその命を受け取ろうとしないのです。なぜか、宗教観念を信じているからです。人間の常識を信じているからです。

 江戸中期にいた蜀山人が、「今までは他人が死ぬぞと思うたに、俺が死ぬとは、こいつはたまらん」という狂歌を残しています。

 死ぬということは他人のことだと思ったのに、自分が死ぬとはこれはたまらんというのです。これが正直な人間の本音なのです。

 皆様も死ぬということを真面目に考えてみてください。死ぬことは他人のことだという無責任な気持ちで生きている。これが間違っているのです。

 宗教を経験した方は、私は救われている、死んだら天国へ行けると考えているのです。こんなばかなことはありません。本当に神の国に入った人は死なないのです。死んだらその人は地獄へ行くに決まっているのです。

 神の国は生きている間に入るのです。生きている間に神の国へ入らなければ嘘です。

 皆様が本当にご希望されるのなら、生きているうちに神の国へご案内いたします。私と一緒に神の国へ行きたいと思うのです。

 イエスは、「私は命のパンだ」と言いました(ヨハネによる福音書6・51~56)。イエスを食べるのです。つまりイエスの名(the name of Jesus)が皆様の命であることが分かったらいいのです。

 阿弥陀如来の名号(name)を称名念仏すれば、阿弥陀さんが迎えにきてくれるという他力本願の話がありますが、イエスのネームは阿弥陀如来が迎えにくるくらいとは違います。

 現在、目の黒いうちに神の国に入ることができるのです。これがイエスのネームです。

 皆様が現実に生きている世界に、命が堂々と働いているのです。電気が流れているのです。この電気が命の正体です。

 電気とは何であるか。ヨハネの黙示録の四章五節には電気の正体が書かれているのです。

 皆様が命の正体をはっきり掴まえたいと思われたら、今までの皆様の考え方を捨てて頂きたいのです。それはこの世の考え方であって、死んでいく人間の考えです。そういうものに係わっていると、死んでいくことになるのです。

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(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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