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        eternal life

  永遠の生命を得る為に!

    講師 梶原和義先生

         はじめに

 

まず、今生きている命をどのように受け止めておられるのかということが、問題なのです。自分が生きているという気持ちが間違いなのです。

命は自分で造ったものではありません。人間は生まれたいと思って生まれたのではありませんから、自分の命だと思っているのは、この世に生まれてからの経験なのです。常識や知識は、この世に生まれてからのもので、本当の命についてではありません。本当の命について勉強しなければならないのです。

人が今生きているということが、神なのです。ところが、人間は自分が生きているという気持ちがあります。これが間違っているのです。今生きているその経験のしかたが、正しいかどうかを考えなければならないのです。

イエスは、神の子であるということを実際に経験していたのです。これをどう見るかということです。普通の常識が健全な人であれば、生きていることが神であるくらいのことは、大体分かります。ところが、神とはどういうものかということです。神と魂とは、どういう関係があるのか。これがはっきり分からないままでこの世を去ってしまいますと、大変なことになります。その勉強をしなければならないのです。

今、生きていることが問題です。今、ここに命のルーツがあるのです。問題は、命のルーツを、今つかまえているかどうかです。命のルーツの本物をつかまえているかどうかなのです。

日本人は、生きていることが多分命であって、この命は神の命と同じであろうということは分かるのです。そういう概念を持っている人は、たくさんいるのです。常識と宗教をつきまぜたような理屈を言う人はたくさんいます。これ彗その人がそう思いたいから、思っているだけのことなのです。自分の気持ちに、自分が惚れているだけで、ただの自惚れなのです。

人間は命を自分で造った人はいません。生まれたいと思ったのではありませんから、命は天から授けられたものであるに決まっているのです。天から授けられたものであるとすれば、命は多分神のものであると思うのは当たり前なのです。

しかし、ここまで分かってもだめなのです。私たちはこの世に生まれた以上、天から授けられた命を正しく理解して、例えばイエスが、私は父の中に生きている(I am in the father.)とう心境にならなかったらだめです。これは、命が天から授けられたという、漠然とした常識とは違います。イエスは自分が生きていなかったのです。自分が生きているという格好はあります。しかし、自分とう主我的な意識は、全然なかったのです。

イエスが神の中にある命を経験していたように、私たちも、今生きている命がそのまま神の中にいるということが、常識ではなく、経験でそのことが言えなければならないのです。

命が神の命と同じであるなら、今ここにある命が、神と同じものであることの、具体的な説明ができなければならないのであう。生きていることは、非常に具体的な問題です。例えば、砂糖をなめると甘いと感じます。このように、神と同じ経験をしていることの説明ができなければならないのです。私たちかすべきことは、命の実体を見極めて、神の中へ入ってしまうことです。死なない命の中へ、早く入ってしまうことです。命が全部分かってしまわなければだめなのです。少し分かった位ではだめです。不完全な知り方で死んでしまいますと、必ず裁かれることになります。

命の本質は誰も同じです。イエスも、すべての人も、同じ命を持っています。ある人は分かるが、ある人は分からないというのはないのです。分かろうとしないから、分からないのです。自分の思いで自分の気持ちを束縛しているのです。これが死なのです。宗教観念です。

命は、常識の理屈で割り切れるものではありません。目が見えること、耳が聞こえることが、神の本物が人と一緒にいることなのです。客観的にはそうなっています。これをどのように理解するかということです。自分の命が神から来ているという、漠然とした考えでは、神の中へ入っているとは言えないのです。

地球が存在すること、時間や空間が存在することが、そのまま神の全知全能によって存在していることなのです。目が見えることも、空気を吸うことができるのも、すべて神の全知全能が働いているのです。これを人は経験しています。経験していますが、自分が生きていると考えているから、分からないのです。

自分の命というものはありません。神に命を与えられている。神に生かされている。自分の命は、始めからないのです。これに、まず気がつくことです。

自分が生まれたいと思って、生まれてきたのではありません。生まれたいと思わないのに、勝手に生まれてきた。これは恐ろしいことです。気楽なように思えるけれど、そうではないのです。自分が生まれたいと思わないのに生まれてきたということは、自分の命ではない命を経験させられていることなのです。自分の命ではない命とはどういうものか。これを正確に理解することができないと、大変なことになります。

イエスが父の中にいると言っていたその命と、自分の命が全く同じものだということが、はっきり言える状態になった人だけが、神のもとへ帰ることができるのです。何となく分かったという分かり方ではだめなのです。

真面目に考えると、生きていることは自分ではないということが分かるのです。ちょっと謙遜なひとなら分かるのです。それを見極めて、命が神の命であることを本当に証明する、本当に告白する気持ちになれた人だけが、天に帰ることができるのです。天へ帰ることができない人はお気の毒ですが、地獄の責め苦にあわなければならないのです。

世界全体で58億人いますけれど、天へ帰れる人は非常にすくないでしょう。本当の救いは、めったにつかまえることができないのです。人の命は、神の命をそのまま与えられている。だから、これを明確に、正確に、目の働きの状態、耳の働きの状態を、神の命として捉えられる所まで、自分の命を勉強するのです。そうすると、イエスの命の実体がだんだん分かってくるのです。

​(内容は梶原和義先生の著書からの引用です)

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