top of page
検索
  • 執筆者の写真管理人 chayamichi


人間はこのような「肉の思い」の中にうずもれてしまっている。生きているかたちはあ

るけれど、本質的には死の中にとじこめられていることになるのだ。生きていながら命を

知らない人間――命というものの本質、本体を覚認していないのだから、これはたしかに

生きているとはいえない状態なのだ。

命といえば大自然の命。宇宙の命。それが一つあるきりなのであり、その命によって人

間は生かされているのである。「生かされている」ことは間違いなく生かされているのだ

が、しかしその命を自覚して、はっきり「生きている」といえるような状態で生きてはい 

ないのだ。命という大切なものを与えられて居りながら、それを大切なものらしく生きよ

うとはしていないことになる。

昔は「命有っての物種」という言葉があった。これは何事も命があっての上の事。何と

いっても生命第一主義のいい分である。また「命から二番目」というのもあった。一番目

に大切なものは命なのだという意。いずれにしても生きていることを無上のものとした気

持がはっきり表現されている。命をささげるとか、命をけずるとか、命を拾うとかいうい

い方もすべて命のとうとさを表わしている。

年たけてまた越ゆべしと思いきや

命なりけり さ夜のなかやま

これは新古今集の歌なのだが、この「命なりけり」といういい方は、まことに命があっ

たればこそ―― という、命についての無量の感慨があふれている、見事な力強い生命の賛

歌である。命あってこその人生――有がたいこの命があってこその、といいたげなしみじ

みとした感じで命をたたえている。年たけてすり切れようとしている命。しわ苦茶の紙く

ずのようになった命なのだが、そのしわを丁寧にのばしてつつましい態度で、こよなく生

命を楽しんでいるとでもいえそうな風情がしのばれる歌である。

命をとうとぶという気持には、おのずから生かされていることの有がたさかたじけなさ

といったような気配が、にじみ出ている感じがする。これは神への素ぼくな本質的な「か

しこみ」の芽ばえのしるしでもあるのだが、人間が人権を主張するようになってから、こ

うした本性的な謙虚さとでもいうべきものが、人間自身の性格からかき消されたように失

せている。人権というのは人間が人間として固有する権利のことをさすのであって、これ

は生存上の対人関係、対国家関係などの原則としての概念であったはずなのだが、これが

そのまま、生煮えのままで宗教に対しても適用されていくことになったのだ。「信教の自

由」というのがそれなのである。

宗教というのはもともと無明煩悩(ぼんのう)から出た迷いにすぎないのだ。どれを信

じようが信じまいが、結果的には変りはない。行く先は同じ奈落の果てなのだから、信教

の自由などという概念は、政治する者たちのスタンドプレーであるにすぎないもの。実質

的には何の利点もないが、害悪だけははっきり存在することになる。

霊魂のことなどまともに考えなくてもいいという考え方を、おおっぴらにばらまくこと

になるからである。信教の自由という語は、信奉する宗教は自由だという意味なのであり、

これは元来、宗教戦争のむごい歴史をくり返した白人諸国の発想による政治概念の一つな

のである。日本でも宗教抗争による社会不安がなかったわけではないが、大体が無宗教に 

ちかい感じの人間が多い国柄なのでヽ信教の自由ということをいわれなくてもはじめから 

自由にやっていたのだが、あらためて信教は自由なのだといわれることになると、これは

― 上示教などは信じなくてもいいということなのだろう――と解釈することになる。

さわらぬ神にたたりなし。ほとけほっとけ神かまうな。そういう俗語をいくつも造って、

自昼公然と宗教を軽侮するやからが非常にふえた。いまや世界一、無宗教的色彩のつよい

社会になってしまったというこの事実。これには「信教の自由」というご託宣が、あずか

って大いに力があったのだ。

神といえば造化のあるじ。現実に我々を生かしているこのちから―― 「命と息と万物と

を与えて」いるこのちから――これがまともな神観なのだ。信じるも信じないもないので

ある。神を信じないということは息をしていることを信じない、というにひとしいことな

のである。― ‐それは自然に基づく生理現象だ― という人があるだろう。その通り。自

然の生理現象そのものが造化のあるじのちからなのだというのである。大自然の命。宇宙

の命。神からの命‐――これが人間の命なのであり、この外に命といえるようなものはどこ

にも存在するはずがあるまい。神というのはこういう分り切った大事実なのだ。あまり明

々白々でありすぎて「信じます」というのですら、いささかおもはゆいくらいのものである。

信教の自由という理屈は、こういう重大な事柄でさえ、こんがらがった気持の中に押し

こんではぐらかしてしまおうとしているのだ、ということをよく知るがいい。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

閲覧数:2回0件のコメント
  • 執筆者の写真管理人 chayamichi


「人間」という語を国語辞典で調べて見ると、人、人類、世の中、世間、人間社会――

というようになっている。個としての人間存在であると共に複数の人間存在を意味するも

の。むしろ世間とか社会とかいう意味合いの方がつよいものとみることになる。個として

の人間の場合なら生きているそのことについていつも愛別離苦、怨憎会苦(おんぞうえく)

生老病死といったような、いわゆる人間苦というやつに向き合っていなければならないの

だから、好むと好まないとにかかわらず、無常観の中におかれていることになり、おのず

から自己矛盾を感じもするし、なにがしかの自己反省もあり得ることになるのだが、これ

が複数の人間存在ということになると― ―あいつがやるからおれもやる― ‐ということに

なり、反省もくそもない。無自覚、無責任、無関心でのうのうと押し通れることになるの

だ。現代人というもの。彼らは個々の人間ではなくして社会人という人間なのだ。社会と

いうもの、それが彼らのすみかであり、立場であり城である。テレビ、ラジオ。無責任に

ぶんながされる、そういう世間の気配が、よくもわるくもそのまま彼らの思念となり、人

柄となる。他人がやるからおれもわたしも― ―ということなので、それがいい事なのかわ

るいことなのかはどうでもいい。自分は「社会人」だと思うと、何となく一人前のような

気持になれる。その気持の中へにげこんで居りさえすれば、何とかなるような気がする。

とにかく社会の流れに従っているのだから――社会がなんとかしてくれるじゃないの、

たとえば死後の世界にしても― ‐そんなものは恐らくあるまいけれどもさ― その来世と

いうものも現世のつづきみたいなものなんだろうからさ。来世というからには、その「来

世」の世というのは世間の「世」という字なんだから、やっぱり「社会」ということにな

るのだろうよ。だからその社会が何とか責任をもってくれる― ‐と、そういうことになる

んだろうよ。こういう無責任を絵にかいたような考え方が、現代の「社会人」の間には何

となく定着してしまっているのだが、こんな思考方式こそ全く根も葉もない妄想(もうぞ

う)なのである。ここで我々は般若心経のいうところを注視する必要があるのだ。「五う

ん皆空」と喝破(かっぱ)している、その点についてである。

「五うん」というのは人間が考えている常識や知識の一切をさすもので、それがすべて

根っからの「空」であるということなのだ。無明の底から生まれてきたやつが現存する人

間なのだ。だからそいつが考えること思うことがみな空であり虚であるといわれても、何

とも反論する余地はない。人間の考えていることがまともなことだといわれた方が、むし

ろ不思議な気がするくらいのものだ。

人間は自分自身のたよりなさを知っている。物忘れをしたり勘違いをしたり、いいぞこな

い、聞きぞこないはいつものことだし、それにうぬばれやきもち取越し苦労。何しろ助平

で欲ぶかでけちんぼう、劣等感や被害妄想、片意地で見えばうでひとりよがりな、無明煩

悩の見本のようなやつが自分自身であることをだれでもよく知っている。知っていながら

そのヘドロのような自分の気持に仕えている。自分の感情や欲念を金科玉条にして生きてい

るという― ―人間とはそういう変なものなのである。「基本的人権」という語を憲法の字面(じづら)にまでかつぎ出しているのだが、これはまるで亡者の空成張りのようなものである。自分自身の本質さえもはっきり分らないやつが、自分の「人権」という空言だけをふり回しているのだが、こうして人間はますます念入りな痴愚のどろ沼の中へのめり込んでいくことになる。こういうことについていちいち民主的な理論というものがあることは―分わ

かっているのだが、要するに近代文明の概念全体をひっくるめて「空」なのだ――実質的

には空理空論のから回りばかりをやっているのだ― ‐と般若心経はいっていることになる。

国連憲章の前文にも「基本的人権と人間の尊厳および価値」という字句があるのだが、

この憲章を造ったのは自人の政治家どもである。彼らは人間の中でも最も生ぐさい連中ば

かりであって、人間の本性など知りっこない現実一点ばりのボスたちなのだ。そういうや

からがまるで神様の手先ででもあるかのように、「人間の尊厳および価値」を「確認」し

「維持」することを簡単に宣言してくれるのである。政治家のいうことをだれも本気で信

じてはいない。信じてはいないのだが、こういういい方でおだてあげられると何となくい

い気になる。人間の文明や文明社会というものがたよりになるもののような気持になって

しまうのだが、よく考えてみるとこれはただ政治家どもが自分の政権を持続するために、

大衆のごきげんをうかがい、その肉性をくすぐっているだけのことなのだ。こういう政治

家の無責任なおだてあげのために、現代の人間は自尊心のかたまりのようになっている。

自尊心、人権、人間の尊厳。そういうくだらないうぬばれが、魂を地獄へひきこんでいく。

般若心経の五うん皆空という字句は、現代人のうぬばれや増長慢に冷水をかぶせるよう

な意味をもっているのだ。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

閲覧数:0回0件のコメント
  • 執筆者の写真管理人 chayamichi


般若心経は日本人にとってなじみ深い経典である。仏教関係者であってもなくても般若

心経という経題ぐらいは知っているし、又「色即是空」という辞句になると、これはもう

だれでも知っているといえるくらいのものである。色即是空― ―これは心経を代表するく

らいの名句なのだから、これを知っていることはとりも直さず心経の中心命題を、何とな

く観念的にわきまえている、と思っているようなことになる。

何となく知っているような気がする― それが知っていないよりも一層悪いことになる

のである。知らないと思っていることについては、自然に注意ぶかくなるものだが、知っ

ているように思っている事柄になると注意力が散漫になる。自分の息子や娘のことはよく

知っているつもりでいるのだが、その息子や娘が親の知らぬ間に素行が不良化していたり、

過激な革命運動に走っていたりする。あるいは自分の目の前にいるはずの自分の妻。その

妻の心が― ‐からだまでもが、いつの間にか自分のものではなくなっている、というよう

なことも十分に有り得るのだが、これは人情の死角というものであるのかも知れない。

そういう意味での日本人の人情の死角に、般若心経がはいりこんでしまっているといえ

るのではないか。「色即是空」「空即是色」といえば語呂がいい。語呂がいいのでネコも

シャクシも口にする。口にするので知っている― ―知っているような気がすることになる。

つまり論語よみの論語知らずという、それになってしまっているのだろう。

色不異空、空不異色、色即是空、空即是色(色は空に異ならず、空は色に異ならず、色

はすなわちこれ空、空はすなわちこれ色なり)― ―これについてある大学教授は次のよう

に訳している。

― ‐この世においては物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ物質的

現象であり得るのである。実体がないといってもこれは物質的現象をはなれてはいない。

また物質的現象は実体がないことをはなれて物質的現象であるのではない。 (このよう

にして)およそ物質的現象というものはすべて実体がないことでぁる。およそ実体がない

ということは物質的現象なのである― ‐と。

これはいかにも学者らしい見方である。理論としてはその通りに違いないだろう。しか

しこれはどこまでも理論としての話であって、悟りとしての話ではない。だからこの訳文

をちょっと一回読んでみると、ははァそういうものか― ‐といぅ気がするのだが、何回も

読みかえしてみると段々分らなくなってくる。注意して読めば読むほどいよいよ分らなく

なるのだ。

奇妙な事のようだが、般若心経の字句というのはそういうものなのだ。この字句は理論  

ではない悟りなのだ。悟りは直観であるのだから理論では説明できない。無理に説明すれ

ばゆがんだものになってくる。それに、学者というものは理屈にはつよいけれど悟りには

よわい人間なのである。悟るというのは心情的な実感としてその事柄の実質、実相を体得

することをさすのだが、学者にそれを要請することはとても無理な話だろう。学者は字句

の講義をするだけでいい― ,文学博士の仕事はそれだけでいいということに、世間ではな

っている。「色即是空」という字句の意味する、その実相、実体を明示しなければならない

というほどの責任は、学者にはないのである。

読めば読むほど分らなくなるような講義でも、それはそれでとにもかくにも「講義」し

たことになっている。だからこういう講義をアテにして般若心経の内容をわきまえようと

思うことが、そもそも間違った了見なのだということになる。

では宗教家の講義がアテになるのかといえば、これ又、大いにアテにならないのである。

現今のお寺さんの、しかるべき方々はほとんど大学出なのだから、これはもうはじめから

学者の弟子であった人たちばかりなのだ。つまり学者の「講義」を聞いてお経が分ったつ

もりでいる人たちなのだ。だから彼らは釈尊や観自在の弟子ではなくて、現代学者の弟子

たちなのである。― ―そういうのが宗教家の中のえらい人たちなのだということになるの

だから、その教説はほとんどが学者のうけ売りのような内容のものになる。大体、学問と

いう理念は人間の思考方式に基づいて人為的に組み立てたもの―― 「人間」という人と人

との間に通用する理念である。人間同志には通用するが天地自然にはそのままスムースに

通用するとは限らない。人間は人間の学問――たとえば自然科学などを大自然に押しつけ

ているので、学理が宇宙の真理ででもあるかのごとくうぬばれているのだが、そういう思

い上がりが無明煩悩というやつである。「学問」は実のところ人間の五うんから出た妄念なのである。理念といえるものではなく妄念といわねばならぬものだ。般若心経の哲理はいう

までもなく「はらみた」の哲理である。般若というのは仏の知恵のこと。現世を解脱した

成仏の心性をさすもので、昔から「顕密四重の分別」などとうるさくいわれた「真髄」で

あり、 「心要」である。大日如来の心性であるとすらいわれるほどのものなのだから、学

者の字句の講義くらいのことで、空の哲理が分るわけのものではないのだ。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

閲覧数:1回0件のコメント
1
2
bottom of page