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水と霊によって新しく生まれる


 現在の人間は生きていると思っていますが、これが間違っているのです。一人前の人間であると考えているのですが、これがキリスト教の考えです。これが間違っているのです。

 神は今の人間を全然相手にしていないのです。人間を相手にしているのはキリスト教です。キリスト教は今の人間を相手にしています。

 私は社会人としての皆様を相手にしていません。もし相手にしていたら、聖書の勉強は成り立たないのです。

 イエスも相手にしていなかったのです。「私は上から来たものであるが、おまえたちは下から出たものである」と言っているのです(ヨハネによる福音書8・23)。

 皆様は固有名詞の自分を問題にしないで、幼子である感覚をそのまま見るようにして頂きたいのです。

 水というものは何か。水の原点を言いますと、すべての物質は水から出ているのです。これはペテロの第二の手紙に書いているのです(3・5)。

 すべてのものは水から出て、水によりて成り立ったものであると書いているのです。これは第一原子である水素原子のことを言っているのです。目に見える水ではなくて、目に見えない水のことを言っているのです。霊の水のことをいうのです。

 これは物質の原点を指すのであって、水の中に生きている魚は、肉を住まいにしている獣とは命の素質が違うのです。

 地上の生き物は動物です。肉なる動物です。水中の魚は動物には違いないのですが、次元が違うのです。地上の動物を肉の動物だとしますと、水中の動物は霊の動物になるのです。霊の動物の雛形、譬になるのです。

 肉の動物に対する神の処置と、霊の動物に対する神の処置とは違うのです。地上のものを食べるということは、肉なるものが肉なるものを食べることを意味するのです。

 皆様は新に生まれて神の国に入るということを勉強して頂きたいのです。水からと霊から生まれて神の国に入るとしますと、皆様の霊魂そのものが、水の生物になってしまうのです。

 現世に生きていても、普通の生物と全然違ったものになってしまうのです。これがとこしえの命を持っている人の生き方です。現世に生きていて死ぬべき命を持っている人が、死なない命を現実に経験することができるということが魚の譬です。

 初代教会の時代に魚の絵を描いて、イエス・キリストを信じる者の暗号に使われたという伝説がありますが、魚というのはそのような意味があるのです。魚は永遠の命のシンボルになっているのです。

 現世に生きていても、現世の命に生きていない。現世における神の国の命に生きるのです。

 現世には普通の人間が生きているこの世と、この世ではない神の国と二重になっているのです。イエスが、「時は満ちた。神の国は近づいた」というのは(マルコによる福音書1・15)、これを言っているのです。

 イエス・キリストの復活によって、復活の霊、復活の御霊がこの地球上に下っているのです。「終わりの時には、私の霊をすべての人に注ごう」というヨエルの預言にありますように(使徒行伝2・17)、神の御霊が地上に下っているのです。

 神の御霊が地上に下っているということは、現存する地球上に既に神の国が実現しているということなのです。この実体がキリスト教では全然分かっていないのです。

 キリスト教は神の信じ方ばかりを問題にしているのです。神の信じ方をいくら問題にしても、神を信じるということはできません。信じ方に対して良いか悪いかばかりを問題にしているのです。

 キリスト教は神について勉強しているのです。神に属する勉強をしているのです。これが神学です。内村鑑三氏はこればかりをしていたのです。内村鑑三氏は神について勉強していたのであって、神そのものを知りません。彼はキリスト教の先生でしたが、神の証を全然していないのです。内村鑑三氏の信仰はこういう信仰でした。

 「天にいますわれらの父よ、御名が崇められますように」とありますが(マタイによる福音書6・9)、これが全然分かっていなかったのです。

 イエス・キリストの信仰と内村鑑三氏の信仰とでは、全然違うのです。

 カルマとは何か。仏教大学ではカルマという言葉を常識のように使っているのです。

 これは聖書にある原罪と同じ意味になるのです。

 ノアの洪水の時に、滅ぼされなかったのは魚だけです。地上の生物は全部罰せられたのです。地上の生き物は、鳥類から獣から虫類に到るまで、全部滅ぼされたのです。

 この時に神の刑罰を逃れたのは、水中の生き物だけです。水中の生き物がとこしえの命の雛形になっているのです。

 水中の命というのは地球上に住んでいても、別種の命を持っている生き物を指しているのです。

 日本人はノアの洪水の意味が全然分かっていないのです。これはキリスト教が悪いからです。キリスト教はノアの洪水のことを全然知りませんから、洗礼は受けても受けなくてもいいと、ばかなことを内村鑑三氏が言っているのです。

 水のことを知らない、洗礼のことをはっきり認識していないということは、イエス・キリストそのものをばかにしていることになるのです。神を足蹴にしているのです。こういうばかなことを内村鑑三氏はしているのです。これを現在のキリスト教の人々は知らないのです。

 水と御霊とが一つになって働く状態が、創世記の一章二節に書かれているのです。神の霊が水のおもてを覆っていたとあるのです。英訳ではAnd the Spirit of God moved upon the face of waterとなっています。Moved uponというのは動かしていたという意味です。神の霊が水のおもてを覆い尽くすような形で動かしていたという意味になるのです。

 水があることが神の御霊が動かす対象としてあるのです。水があることが御霊の働きがあることを意味するのです。

 現在の物質が存在するということは、水があることが原点になるのです。物質的存在を自然科学の原理から考えることをやめて、霊的に見て頂きたいのです。

 闇が淵のおもてにあったということを対象にして、神の霊が水のおもてを覆っていたということを考えて頂きたいのです。

 淵と水とは同じものです。水は動いているのです。流れているのです。淵は流れていない、留っているのです。こういう違いがあるのです。

 水のおもてというのは水のあり方です。水のあり方をいつも動かしている。これが水素原子の働きを暗に示唆しているとも考えられるのです。

 水素原子が地球の物質の九十%以上を占めているのです。神の霊が水のおもてを動かしていることが、物質世界の原点になっているという聖書の言い方は、現在の科学から考えても間違っていないのです。

 水ということが物の原点なっているのです。人間が水から生まれるということは、皆様の肉体がもう一度やり直されることを示しているのです。皆様の肉体が現在あることは、今の状態では死ぬためにあるのです。ところが、ノアの洪水をよくよく考えて、これをもう一度自分の肉体がかぶるのです。

 ノアの洪水を自分の肉体が受けることになりますと、皆様は生まれる前に帰ってしまうのです。これを水から生まれるというのです。

 皆様の現在の肉体が消滅しても、別の形で存続するのです。肉体が完全に消えてしまうのではありません。

 マタイによる福音書にありますが、イエスが洗礼を受けて水から上がった時に、神から見たらイエスの肉体が見えなかったのです(3・10、17)。これがイエスが正当に、正式にノアの洪水を受け取ったという証明になるのです。

 父なる神の御心に従って洗礼を受けますと、その人の肉体が消えてしまうのです。神の目からご覧になると、その人自身がいないのです。本人の信仰が神の御心に接着するのです。イエスがノアの洪水を受けたということが神に分かったのです。その結果、神からはイエスの肉体は見えなかったのです。

 イエスはノアの洪水を真正面から受け止めたのです。これを神は非常に喜ばれたのです。

 ノアの洪水を真正面から受け止めるということは、めったにないことです。神がアブラハムに約束を与えた後、二千年の間一人もなかったのです。イエスが初めてこれに成功したのです。

 そこで神が非常に喜んだのです。I am well pleasedと言っているのです。神の喜びの表現が、神の御霊が鳩のように下ったとあるのです。

 水のバプテスマをノアの洪水として真正面から受け取るということは、その人自身の肉体が消えてしまうことになるのです。これが洗礼の本当の意味です。キリスト教ではこれが全然分からないのです。

 キリスト教の牧師で、洗礼について正しく説明できる人は一人もいません。

 イエスは、「誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない」とはっきり言っていますが(ヨハネによる福音書3・5)、この意味がキリスト教の指導者に分かっていないのです。

 これは日本だけではありません。アメリカでもヨーロッパ、南米でも同様です。全世界のキリスト教の人々に分かっていないのです。白人社会が聖書をばかにしているのです。白人社会が聖書を踏みつけにしているのです。これが白人社会の行き詰まりの原因になっているのです。

 やがて、世界に大混乱が起きますけれど、これは白人社会の罪によるのです。日本は白人社会ではないから有難いのです。日本は白人文明と異質の文化を持っている。だから、白人が罰せられる時に、日本は側杖を食らいますけれど、比較的に軽い罰になるだろうと思われるのです。それから、日本には皆様のように真面目に本当の聖書の勉強をしようという方がいるからだとも言えるのです。

 世界の状勢はこれからどんどん悪くなっていきます。白人文明は全然根っこを持っていない文明です。聖書を正しく信じていないのです。神をばかにしているのです。キリストを踏みにじっているのです。

 キリスト教がキリストを踏みにじっているのです。私は公の立場でキリスト教の間違いを発言しています。神がそれを許しているからです。神が言わせているのです。

 水ということがよく分からないということは、神の御霊を踏みつけていることなのです。皆様は水ということを注意して考えて頂きたいのです。

 水から新しく生まれるのです。水のバプテスマということは、非常に重大な問題です。水をかぶらなければ新しく生まれることができないのです。これをはっきり説明できる牧師が日本にはいないのです

 水は地球の物質の原点になっているのです。ノアの洪水は、神が今から五千年も前に、現在の地球を完全に否定しているのです。神が完全に否定しているのです。

 この世界は神に否定されている世界です。ユダヤ人はこれをまともに考えていないのですから、現在の文明は無くもがなの文明が、無くもがなの状態で現われているだけなのです。

 現在の文明を神は根本から認めていないのです。国際連合は人間が勝手に集まって、神を踏みつけているのです。

 国際連合が基本的人権を主張しています。これを日本も主張していますけれど、これは全く笑い話です。もし基本的人権が人間にあるとしたら、基本的神権を認めなければならないことになるのです。神権を踏みつけなければ、人権という考えは成立しないのです。

 神権を考えるための非常に重要な点が水になるのです。地球の原点は水です。これは霊の原理を指していることにもなるのです。水の中に住んでいる動物は、霊の中に住んでいる動物と同じことを意味するのです。

 肉体があると考えている方は、その肉体を脱いでしまわなければ死んでしまいます。

 ヨハネは、「イエス・キリストは、水と血とを通って来られた方である」と言っています(ヨハネの第一の手紙5・6)。イエス・キリストの肉体は水です。イエスは水のバプテスマによって消えてしまったのです。

 皆様の肉体は瞬間、瞬間、絶えず動いています。これを実感されますと、固定的な意味での肉体は消えてしまいます。これを霊なる体というのです。霊なるボディーは水の生物と同じ意味を持つ生態になるのです。

 洗礼を受けるということは、そのような確信を与えられることを意味するのです。停止している状態から動く状態に変わってしまうのです。血液が循環している。血と肉とはいつでも動いているのです。

 血となり肉となると言いますが、皆様の肉体の健康状態はいつも動いているのです。

 動いているものは霊です。肉があると考える考え方が間違っているのです。

 今日の医学の根本原理が間違っているのです。医学は肉体があると考えていますけれど、医学は命を知りません。生理は知っていますけれど、生理を科学的にしか見ていないのです。

 生理は科学ではないのです。肉体存在の原点が生理です。肉体存在の原理が生理であって、生理がボディーになっているのです。肉体という物質があるのではなくて、生理がボディーになって現われているのです。だから、動いているというべきものなのです。

 人間は物質的に存在する肉体があると考えている。これが白人文明、白人哲学の基本的に間違っている点です。白人は神を信じていないのです。神を信じていないために、本当の命が分からないのです。

 死なない体があるのです。医学ではこれが分からないのです。死なないボディーが原則です。死ぬに決まった肉体があるというのは、間違った医学によって考えられた理屈です。

 医学を信じている人は必ず死にます。医学以上のものがあるのです。自分が生きている命を信じなければならないのです。命を信じれば、死なない自分の生態の原点が分かるのです。

 神の霊が水のおもてを覆っているということが本当に分かれば、死なない自分の命が分かるのです。信仰はここまでいかなければ本物とは言えないのです。

 今皆様は生きていることによって、知らず知らずに自分の名前の小説を書いているのです。これは本当の自分ではないのです。世間の人間は、これを本当の自分だと思っているのです。

 小説の私の一生というものと別れてしまうのです。そうすると、本当の自分の命が分かるのです。これをイエスが主であるというのです。これをJesus as Lordと言います。

 Jesus as Lordというのは非常におもしろい言葉です。as Lordというのはどのように訳したらいいのでしょうか。日本語に訳したら、彼は私のシンボルであると訳したらいいかもしれないのです。

 イエスは私のシンボルなのです。日本国の憲法に、天皇は国民統合のシンボルであるという言葉があります。イエスは人間統合のシンボルなのです。イエスはこのことを宣言しているのです。

 Jesus as Lordが分かると、初めて人間文明の本当の秘密が分かってくるのです。イエスが主であるという本当の意味が分かってくるのです。

 皆様は固有名詞の自分があるような気がするでしょう。山田太郎という人がいるとすれば、山田太郎という小説を書いているのです。小説の主人公が自分になっているだけです。

 聖書は人間のことを書と言っているのです。地球の歴史が終わる時に、かつて地球に存在した何百億人の人間が、全部書であったと書いているのです(ヨハネの黙示録20・12)。

 書であった人間は、全部火の池へ放り込まれるのです。医学を信じている人は書を信じているのです。商売に一生懸命になっている人は、書に一生懸命になっているのです。金儲けとか、恋とか、家族のことを考えていることは、皆書なのです。皆様は自分という題名の小説を書いているのです。

 皆様は自分の人生に何の目的があるのでしょうか。ただ死ぬだけです。固有名詞の人生は死ぬだけしか目的はありません。それが嫌なら聖書を勉強するしかないのです。

 死ぬしかないことを皆様はよくご承知です。皆様は皆、自分という題名の長い小説を書いているのです。その結果はどうなるのかと言いますと、死んでいくことになるのです。

 そこでジーザス・アズ・ロード(Jesus as Lord)を考えて頂きたいのです。

 国民統合のシンボルという言葉が、日本の憲法にあるのです。これは人類統合のシンボルがあるということの、非常に有力な証明になるのです。

 日本の憲法が世界全体の人間の霊魂の証明になっているのです。日本の国柄が全世界の人間の象徴の決め手になっているのです。日本の憲法以外にアズ・ロードについて証明しているものはどこにもないのです。

 人間が考えているものは皆嘘です。性欲がある、食欲があると考えている。これが嘘です。恋愛も家庭も、親子も嘘です。本当に聖書を見ていくとこういうことが分かるのです。

 人間は自分で自分の小説を書いていながら、自分のリビングが分かっていないのです。。自分の感情の起伏、利害得失の観念、自分に気に入った理屈、自分の喜怒哀楽の感情とかいうものは、すべて小説の内容になっているのです。

 皆様の生活の実体は何でしょうか。これが分かると救われるのです。自分自身の生活の実体が分からないので、自分の小説を書いているのです。だから、自分の肉の思いが、自分の主観の中心になってしまうのです。これが自分自身のストーリーになってしまうのです。これが自分のヒストリーになるのです。

 皆様の存在の実体は何でしょうか。生活的実体の実存は何でしょうか。かつて、フランスに実存主義の哲学がありました。ところが、実存の実体を掴み損ねていたのです。だから、実存主義の哲学は、訳が分からないうちに消えてしまったのです。

 本当の実存というのは何でしょうか。人間生活の実存とは何でしょうか。皆様はこの世で何十年間も苦労して生きてきましたが、未だに分からないのです。

 人間の生活の主体はリビングです。これが人間に分からないのです。これが水です。生活の主体認識というのは、水における自己認識です。これをイエスは水から生まれるという言い方をしているのです。

 水からと霊からとによって新に生まれると、主体認識がはっきり変わってしまうのです。水からと霊からとによって生まれない者は、主体認識が変わらないのです。

 生活の主体性はリビングです。リビングの主体性は前世、前生です。これがイエスという小説です。人間の本心はイエスという小説を読みたがっているのです。

 聖書はイエスのことをたくさん書いています。これは何かと言いますと、イエスのリビングです。イエスが生まれてくる前のリビング、天にいた時のリビング、そして地上にいた時のイエスのリビングを書いているのです。

 イエスは天から下って、なお天にいたと書いているのです。聖書はそれを書いているのです。四福音書はイエスの伝記を書いているのです。この小説は光っているのです。

 イエスは天から下った。しかしなお天にいたのです。天から下るという形は取ったけれど、実体的にはなお天にいたのです。

 皆様方も同様です。皆様も天から下ったという形を取っていますが、皆様のリビングはなお天にいるのです。

 皆様は自分のリビングがありながらそれが分かっていない。リビングがなければライフは成り立たないのです。リビングというのを日本語で言うと、生きているということ、生き方になるのです。皆様が生きているということを直感してください。実はそれは固有名詞に何の関係もないのです。

 皆様が目で見ていること、耳で聞いていること、手で触っていることが、初めからあった命の言葉です。固有名詞の人間は肉体人間です。

 五官が皆様の主体です。これは初めからあったものです。初めからあったというのは、皆様が生まれる前からあったのです。もっとはっきり言えば、地球ができる前からあったのです。もっと正確に言えば、太陽系宇宙ができる前からあったということです。ビッグバンの前からあったのです。

 大爆発の前からあったのです。約百三十七億年前にビッグバンが発生したと言われますが、その前からあったのです。

 「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。この言に命があった」とあります(ヨハネによる福音書1・1)。地球ができる前、太陽ができる前、ビッグバンの前に言があったのです。

 言が太陽になった。地球になったのです。そして、人間になったのです。私になったのです。

 今私たちは初めからあった言を、森羅万象として見ているのです。これに触っているのです。現世では加藤とか山田とかいう固有名詞を付けていますけれど、これは影の自分、嘘の自分としてあるのです。

 初めに皆様の原形があったのです。その時は加藤さんも山田さんも同じだったのです。一つの命だったのです。一つの命があったのです。

 皆様は今、初めからあった命の言を見ているのです。それを聞いているのです。これが分かったら、今生きている固有名詞の人間には何の価値もないのです。

 皆様には初めからあった力が今宿っているのです。その力によって見たり聞いたりしているのです。これがイエスです。それを考えずに、固有名詞の自分として生きているからいけないのです。

 イエスとして生きるのです。これをジーザス・アズ・ロードと言うのです。そうして、四福音書の中へ入ったらいいのです。ヨハネは皆様に初めからあったことを教えるために、福音書を書いたと言っているのです。

 初めからある命を掴まえたら、この世に生きていても生きていなくても同じことです。これをよくご承知頂きたいのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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