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神の国に入る(9)

今までの自分の考えを持ったままでは、本当のことはとても分かりません。どうしたらいいのかと言いますと、般若心経を本当に信じたらいいのです。

 般若心経の字句を本気になって受け取ったらいいのです。般若心経が今まで本気になって信じられていなかったのです。般若心経を今まで本気になって受け止めた人がいないのです。

 日本のお祖師さんの中で本当に感心できるのは一遍か空也くらいです。一遍は本山を造らなかった。弟子もあまりつくらず、自分の教義を全然説かなかったのです。こういう生き方が釈尊とよく似ているのです。

 この人の生き方は空海や日蓮とは全然違います。空海や最澄は宗教家です。大きな教団や本山を造って威張っていたのです。

 一遍上人の寺は今でも残っていますが、貧弱な寺です。本願寺とは比べものにならないほど貧弱な寺です。しかし、内容は本願寺よりずっといいのです。

 空也上人も似たようなものです。空也上人や一遍上人が私の話を聞いたら喜ぶでしょう。私はそれくらいの話をしているのです。

 仏教学者が色々仏教の本を書いていますが、仏法が全然分かっていないのです。大学教授も書いていますが、分かっていないのです。この世で有名になった人、この世にもてはやされている人はだめです。

 今私が無名だからこういうことをいうのではないのですが、私みたいな三文奴が言うことが本当なのです。

 一遍や空也は三文奴のような人だったでしょう。どこの馬の骨か分からなかったのです。こういう人でなかったら、本当のことが言えないのです。弟子をたくさんつくるとか、大きな寺を建てるということをしていたら、本当の命は分からないのです。

 もちろん一遍上人が本当の命が分かっていたというのではありませんが、一遍の良い所は、仏を念ずれば自分が仏になれると言っていた所です。自分と仏は本質的に同じだということをはっきり言っているのです。これは私が言っていることと同じことなのです。

 一遍はイエスを知らなかったのですが、自分の本体が阿弥陀如来と同じであると言っているのです。これは偉いです。私は皆様が如来だと言っていますが、皆様が如来になることです。

 イエスを信じるというのは、イエス如来になるのです。大体、皆様はキリスト教と仏教と二つあるように思っているでしょう。この考え方をやめて頂きたいのです。

 東洋人とか西洋人がある訳がないのです。東洋人も西洋人も同じ五官を持っているのです。同じ生理機能と心理機能を持っているのです。私は世界一周を二回して、このことをつくづく実感したのです。

 地球は一つしかないのです。地球は一つしかないのだから、東洋人と西洋人が二つある、従って、東洋の宗教と西洋の宗教と二つあるという考え方をやめて頂きたいのです。

 人間が正直であることはいいことですが、頑固であってはいけないのです。正直な人は死んでしまうに決まっている人間を自分だと思い込んでいるのです。死んでしまうに決まっている命を自分の命だと思い込んでいる。こういう考えで生きていることが間違っていると言っているのです。

 死んでしまうに決まっている命を自分の命だと思っている。また自分が救われなければならないと考えている。こういうばかな考えが、宗教を造り出す根源になっているのです。

 大体、皆様が現世に自分が生きていると思っていることが間違っているのです。客観的に皆様が生きているのは、間違っていないのです。ところが、皆様が生きていることに対する考え方が間違っているのです。自分の根性を捨てなさいと言っているのです。

 自分の根性というのは死んでいく人間の根性なのです。これを捨てなさいと言っているのです。死んでいく人間の根性を捨てるのです。条件はただこれだけです。

 生きていることは間違っていないのです。生きていることに対する根性の持ち方が間違っているのです。

 ある美術館で曼陀羅展が開催されていると新聞に載っていました。不動明王の像が一つの曼陀羅になっているのです。曼陀羅というのは、仏、菩薩の悟りの境地を絵にしたものであって、清澄荘厳な宇宙を現わしているのです。

 天台美術は、清澄荘厳な宇宙を曼陀羅として現わしているのです。天台に遡ると人間も宇宙も一つになるのです。

 空海と最澄はいつも行き来していたのです。兄弟みたいな付き合いをしていたのでしょう。日本へ本当の仏教を紹介しようと考えていたのです。日蓮宗とか禅宗とか真言宗とかいうややこしい、ごちゃごちゃしたものではなかったのです。

 天台から法然とか親鸞、栄西という傑物が出ているのです。日本の宗教革命の傑物はほとんど天台から出ているのです。

 天台は比較的理性的です。天台から自力も他力も出ているのです。

 清澄荘厳の宇宙を現わした曼陀羅とはどういうものかということです。阿弥陀如来というのは、経文で現わした曼陀羅です。仏像も彫刻で現わした曼陀羅です。

 般若心経は空観を曼陀羅で現わしているのです。般若心経は一つの詩です。ポエムです。詩を読むような感覚で般若心経を読まないとだめです。旧約聖書の詩篇を読むような感覚で般若心経をじっくり読まないと、般若心経の妙味は分かりません。

 ところが、日本のお坊さんは般若心経を詩として読むような雅量がないのです。そういう文学性を持っていないのです。今の仏教大学がそうです。般若心経を、詩を読むような感覚を持っている教授がいないのです。だから、般若心経がさっぱり分からないのです。分からないのに般若心経をやたらに用いているのです。

 奈良のある寺は百万写経と言って、写経して千円を送るとご利益があるとして、百万人から写経を送ってもらう運動をしたのです。そうしたら、寺は十億円儲かったのです。現在までに七百万人から写経を送ってもらっているから、七十億円儲かったのです。

 寺はそういう商売をしているのです。宗教はそういうものなのです。

 般若心経が全然分かっていないのです。般若心経は文字で書いた曼陀羅です。

 清澄荘厳の宇宙が仏像になったり、絵画になったり、千々万々の仏が書いてあるようなものになったりしているのです。この展覧会が美術館で開催しているのですが、これは何をしているのでしょうか。

 こういう展覧会が開催されているのですが、これを見て何を感じるのでしょうか。見て何が分かるのでしょうか。天台美術が芸術性を持っているということは、それを見た人が理解できることを前提にしているのです。もし見て理解できなかったら、こういう展覧会を開催する必要がないのです。

 日本人は曼陀羅を見て理解できるのです。これはどういうことでしょうか。皆様の中に清澄荘厳の宇宙があるのです。不動明王が皆様の中にあるのです。

 人間はすべて自分の中にあるものを外に見ているのです。自分の中になかったら外に見ないのです。サツキの花を見てきれいだと思うのは、サツキの花を見て喜ぶ心が自分の中にあるからです。サツキを見るとその本質を理解できる心があるのです。

 曼陀羅を見ているというのは、曼陀羅を見るだけのセンス、能力が皆様の中にあるからです。

 宇宙は一つの曼陀羅です。清澄荘厳な曼陀羅です。これが分かれば死なないのです。

 自分の考えはあってもいいのですが、これは死んでしまうに決まっている人間の考えです。その考えを変えてしまうような勇気がいるのです。これは非常に大きい勇気がいります。並々ならない勇気を要します。ちょっと念仏を言うような簡単なものではないのです。ここが難しいのです。

 宗教なら自分の気持ちを持ったままで信じられるのですが、これはだめだと言っているのです。自分の気持ちを持ったままでは絶対に神は信じられません。自分というのが死んでしまう自分ですから、この気持ちを持ったままでは信じられないのです。

 自分の気持ちは死んでいく人間の気持ちですから、これを持ったままでは神は信じられないのです。

 「悔い改めて福音を信じよ」とイエスが言っています。この悔い改めというのは、人間の心を出直すことです。やり直すことです。

 パウロは言っています。 

 「あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ心を新にすることによって、造り変えられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれかつ全きことであるかを、弁え知るべきである」(ローマ人への手紙12・2)。

 心を新にするという所を英訳では、the renewing of your mindになっているのです。レニューイングというのは出直すこと、やり直すことです。

 レニューイングというのは方向転換ではありません。右を向いていたものが左を向くというのではない。体の向きを変えるのではない。心の向きを変えるのであったら、レニューイングという言葉を使わないのです。チェンジ(change)でいいのです。

 レニュードというのは本質をやりかえることです。新しく造り直すことです。方向転換をするのではなくて、本質をやり直すのです。

 皆様がこの世に生まれてきたのは、業(ごう)なのです。生まれてきたことが業です。生まれてきたという業を持ったままの人間は、死なない命を掴まえることはできません。死なない命を掴まえるためには、今までの考えをレニューイングする必要があるのです。心を全部入れ替える必要があるのです。

 皆様は今生きていると思っています。これが間違っているのです。自分が生きているという気持ちを、生かされているという気持ちに変えてしまうのです。

 自分が生きているという気持ちをやめて、生かされているという気持ちに変えてしまうのです。これは難しいことではないのです。誰でもできるのです。これができればその人は死ななくなるのです。そうすると、私が言うことが真っ直ぐに捉えられるのです。ただこれだけをしたらいいのですが、これがなかなかできないのです。

 現世に人間が生きているのではない。生かされているのです。このように考えたらいいのです。これは当たり前のことです。

 人間は自然がなかったら生きていけないのです。太陽がなかったら、空気がなかったら、水がなかったら生きていけません。こんなことは誰でも分かるのです。誰でも分かるのに、それを本当に信じている人はいないのです。

 人間は空気を吸うことはできます。水を飲むことはできます。しかし空気がなければ吸うことはできないのです。水がなければ水を飲むことはできません。

 人間はばか者で自分は空気を吸うことはできる。だから、自分が生きていると考えているのです。空気を吸うことはできるが、空気そのものを造ることはできないのです。こんな簡単なことが分からないのです。

 命とは自分が生きていることではなくて、生かされていることをいうのです。これが分かると命の根本が変わってしまうのです。生きている人間の命と、生かされている人間の命とは、全く違っているのです。

 生かされている命が本当に分かると、診療内科の根本精神ががらっと変わってしまいます。命が分からなければ、本当の医学とは言えません。今の医学は病理学ばかりしているのです。

 死なない命が分かっている医者でなければ、本当の医者とは言えないのです。病気を治すくらいなら按摩や指圧でも治します。

 ユダヤ人が造った医学は病理ばかりです。今の医学界は病理学のことを医学と言っているのです。命のあり方を癒すこと、命の本質を癒すことが医学でなければならないのです。

 私は病理学のことは分かりませんが、皆様の魂を癒すことをしているのです。だからそのつもりになって聞いて頂きたいのです。

 私が言っていることをお聞きになれば、皆様は得するでしょう。私は得しませんけれども、皆様には大いなる得があるのです。

 人間は自然によって生きているのです。だから、生かされているのです。自然というのはお天道さんです。人間はお天道さんによって生かされているのです。

 お天道さんによって生かされているという気持ちになれば、皆様の心とお天道さんの心が一つになるのです。これは一遍が言っていた「念仏すれば心が一つになる」ということです。自分が念仏していることと仏が一つになるのです。これを本当の念仏というのです。

 これは親鸞よりもずっといいのです。親鸞はここまで行っていないのです。ところが、親鸞が言っていることが流行るのです。一遍上人の方が難しくて分からないのです。

 皆様は自然に生かされているのです。太陽という自然、空という自然、地球という自然によって生かされているのです。これになり切ったらいいのです。このことを黙って受け取ったらいいのです。

 教会の牧師はこういう厳しいことを言いません。とてもやさしい言葉で迎えてくれるのです。羊の格好をしてくるのは偽預言者だとイエスが言っているのです。

 皆様は叱られても仕方がないような生き方をしているのです。三十年も四十年もこの世に生きていながら、真理を求めようとしていなかったからです。

 皆様は本当は二十五歳くらいまでに神を求めなければいけないのです。十四、五歳から二十歳くらいまでは神が一番よく分かるのです。色気がついたらもうだめです。

 本当の色気というのは何か。性というのは人性と神性があるだけです。男と女は同性です。ハートとマインドの違いだけです。ハートとマインドの機能的な相違があるだけのことです。生理機能の相違があるのです。

 心理機能の相違がそのまま生理機能の相違になって現われている。これが男と女の相違であって、これを質的にいうと同性です。男と女の愛は同性愛になるのです。

 女はそれが嫌なのです。女はそれが感心しないのです。結婚したら抱かれなければならないというのが、何となく嫌なのです。嫌だと言いながら抱かれて嬉しく思っているのです。

 男女が愛するというのは、本当の愛が分かってからならいいのです。本当の愛が分かるまで抱き合っているのは、全部姦淫ばかりです。

 本当のセックスは人性と神性との交りです。夫婦の方は今からでも遅くないから、本当のセックスになれるような夫婦になって頂きたいのです。

 今までのセックスを続けていたら、全部地獄行きです。愛を間違えているからです。愛は命の本性を明らかにするために、神が人に訴えていること、また、人が神に訴えることです。これが愛です。

 命の本性を明らかにするために、あるものがあるものに訴えることを愛というのです。神が太陽を照らしているのは、命の本性を人間に悟らせるためです。

 花を咲かせているのは命の本性を知らせるためです。これを愛というのです。これが本当のセックスです。ところが、男が女を抱いているセックスはそうではないのです。命の本性を知るためではなくて、欲望の満足のためにセックスしているのです。これは姦淫です。

 私はセックスをしてはいけないと言っているのではないのです。本当の意味を知ってセックスしなさいと言っているのです。神と人との間の本当のセックスが分かったら、皆様は成仏するのです。

 親鸞はセックスのことで悩んで悩んでいたのです。親鸞に本当のセックスを教える人は一人もいなかったのです。今親鸞が私の話を聞いたらとても喜ぶでしょう。手を叩いて喜ぶでしょう。

 命の本性、本質を分からせるために、ある方法を用いる、またある考え方を用いるのです。これを愛というのです。

 花が咲くとか、月が輝いている、雪が降る、雨が降ることが皆そうです。これは命の本性を明らかにすることが目的です。これを雪月花というのです。日本の風流はこれを目的にしているのです。命を新しくすることが風流の目的です。

 皆様は本来の姿に帰ってください。持って生まれた自分の霊魂の値打ちがどれくらいのものであるのか、清澄荘厳の宇宙が皆様の中にあるのです。

 皆様が生まれる前に、神と共に清澄荘厳の宇宙を造っていたのです。神と一緒に天地万物を造っていたのです。だから、皆様の中には天地万物が造られてきた姿、天地万物の原理が入っているのです。だから、人間は花を育てることができる。魚を養殖することができるのです。

 人間は宇宙に対して科学的に、哲学的に、文学的に見ることができるのです。色々な見方が宇宙にできるということは、その原形が人間の中に入っているからです。

 清澄荘厳の宇宙が皆様の中にあるのです。これを皆様は自分の自我意識でめちゃくちゃに汚しているのです。自分の常識でこてんこてんに汚しているのです。

 人間は大自然に生かされているのです。天に生かされているのです。これを何となく感じながら、これに対して一円も払っていない。これを泥棒というのです。人間は天のものを盗んでいるのです。天の命を盗んでいるのです。そうして、自分は一番偉い者だと言って生活しているのです。これに対しては神の裁きが行われるのです。だから、人間は死ぬのが恐いのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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